2011年8月13日土曜日

私の還暦過去帳(29)

2004年のことでした。
37年もの長い間政府の支援する外務省の補助金事業「海外日系人
訪日団受入事業」が今年限りで、37年間の幕を下ろしますが、
これは50年以上日本に帰国していない中南米に日本から移住した
「移住先駆者」と言う方々を日本に招待するプログラムでした。

1968年にスタートして、往複旅費と滞在費を支援するものであ
りました。高齢化と対象者が少なくなり廃止される事になりました
が、これまで791名、中南米七カ国から里帰りしています。
今日の話しは、その制度がまだ無かった時代です。

46年もの昔で、その当時まだ日本人の一世が生きていた頃です、
ボリビア国境のエンバルカシオンの町からトラックターの部品を
買いにサルタ州の州都に出かけて行きました。

夜行便のバスで行き、昼頃には着いて用事を済ませて、その夜は
泊まり、翌朝の一番のバスで帰っていました。
話に聞いていた、日本人の床屋に散髪に行きました。

黙ってドアを開けて入り、新聞を読んでいた老人に
「こんにちわーー!」と挨拶するとびっくりして、
「どこから来たーー、どこの県人かーー、」と聞いてきました。
「福岡ですーー、エンバルカシオンから部品を買いに来ました」
と言うと、「そうですかーー、佐藤さんはお元気ですか―」
そんな会話をして散髪を始めました。

ブラジルの最初の移民船、笠戸丸より昔の人でした。
その方はハワイの砂糖きび農場での仕事を抜け出して、船で
ペールーに仲間と来て、砂糖きび農園で仕事をしていたそうですが、
当時、アマゾンでのゴム景気の話を聞いて、一人アンデスの山を
歩いて超えて来たと話してくれました。

途中、アルゼンチン国境警備兵の荷駄のラバにつかまって、山越え
したと話していましたが、荷物は毛布に包んだだけでそれを肩に
担ぎ、腰に山刀を差して当時の砂糖きび労働者の姿で歩いていた
と言っていました。

山越えして、お金が無いのでアルゼンチンの砂糖きび工場で
仕事を見つけて、そこで仕事をしていたそうですが、
真面目に仕事をして、器用な性格で機械の操作と修理が出来た
ので給料が良く、腰を落ち付けて住みついてしまったと話してくれま
したが、その当時75歳ぐらいでした。

散髪が済んで、マテ茶を出してくれて、死ぬ前に一度でいいから
祖国日本に帰りたいと話していましたが、

「金も無くーー、この歳ではーー、」と言って笑っていました。
しばらく話して、外に出る時ドアまで送ってくれて、
「元気でー!、こちらに来たら又、寄って下さいーー」と話して
握手して別れましたが、それが最後でしたーー。
  
  故郷は遠きに有りて思うものーー、
  懐かしきものーー、
  思いは懐かしく思うものーー、
  家族や友の思い出を心浮かべーー、
  東の空に無事を祈るべきものーー、
  
 沢山の異国の土になられた方々に、深く哀悼の意を捧げます。

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