2011年8月26日金曜日

私の還暦過去帳(38)

祖国の山河は遠くにあり、夢の山河は涙あり・・、

今日は昔、私が出会った人の生き様を書き残して置きます。約47年近
く前の話ですが、私が書き残さなければ、誰もこの話をする事も無いと
思い、皆様にお話します。

私がアルゼンチンのパラグワイとの国境に有ります、ミッショネス州を
旅していた時の話です。其の州の中ほどにハルディーン.アメリカと言
う町に来た時です。小さな町で車で3分も有れば通過してしまうような
所でした。

町まで来て、そこから山に入った所で、お茶を栽培している日本人を訪
ようと思い道を尋ねると、あそこの雑貨店は主人が日本人だと教えてく
れました。

お店に入るとそこには70歳過ぎの日本人の男性が、店番をしていまし
たので、「こんにちわーー。」と挨拶すると、びっくりして、「どこか
ら来たーー。」「誰か訪ねて来たのか?ーー」と尋ねて来ましたので、
山に入った所でお茶を栽培している日本人を訪ねて来たと言うと、「今
日は無理だ、明日になれば誰か山から降りて来るから、その時車に乗せ
てもらって行きなさい」と教えてくれました。

「どこかホテルは有りますか―ー」と尋ねると「そんなものは無い」と
話してくれましたので、困って居ると、「一晩泊まりなさいーー。心配
しなくてもいいよ。」と声を掛けてくれましたので、その夜はお店の裏
の小屋に泊まらせてもらう事になりました。

鈴木さん(仮名)と言って、一世の人でしたが、若い頃はあちこちと仕
事をして歩いたそうです。歳をとリ働けなくなり、ここにお店を開いて
生活する様になったと言っていました。

独身かと思っていたら、白人の若い20代の女性を紹介してくれました
ので、「娘さんですかーー。」と聞くと、「とんでもない、ワイフだよ
ーー。」と言うので、びっくりしていると、笑いながら話してくれまし
た。

このワイフは、14歳で子供を産み、コブ付きで誰も貰ってくれいので、
親がホトホト困っていたので、身体も弱り心臓も障害が出て最後の遺産
残しと、その親を尋ねて子供ずれで娘をくれないかと話すと二つ返事で
了承したそうです。その代わり全部の遺産を娘に残すと約束を交わして
連れて来たそうですが、母親と子供が年齢の差が余り無いので、姉妹の
様でした。

鈴木さんはその夜、お米のご飯を炊いてくれ、イワシ缶詰を開けて自家
製のラッキョの漬物でご馳走してくれました。
70歳過ぎで元気な人でしたが食事の後、お茶を飲みながら話してくれ
ましたが、「だいぶ頑張ったがーー子供は作れなかったョ!」と笑って
いました。

「日本にも帰りたいのだが、戦災で実家も兄弟も亡なり、50年も帰っ
ていないので、浦島太郎だよーー。」と懐かしむ様子でした。
一度日本の温泉にゆっくり入りたいと話していましたが、お風呂は無く
小屋の裏で、水浴びするだけでした。

翌朝、朝早くに通過するバスの客が来て、早くからお店は開けていまし
たので白人の奥さんは、子供を学校に出すとコーヒーを片手にお店を手
伝っていました。
かなりのグラマーで、ポーランド系の美人でしたが、私が荷物をかたず
けて出発の準備をしていると、コーヒーを入れてくれ、
「8時頃には、誰か山から降りて来るから、外で待っていなさい」と教
えてくれました。

鈴木さんも「去年、心臓発作が有ったから、又来ても生きているか分か
らないよ!」と笑って送り出してくれました。

それから友達を訪ねて、ブエノス.アイレスに戻って暫らくして、当時
の亜国日報を見ていたら、その方の死亡記事が乗っていました。
その記事を読んだ夜、夜空を見上げて合掌して、冥福を祈りました。

「日本の温泉にゆっくり入りたいネ~。」と言う言葉を今でも思い出す
事が有ります。その方はお店の有った、

その町はずれの墓地に永眠されています。

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