2011年8月16日火曜日

私の還暦過去帳(30)

         
皆様お元気ですか、今日の話しは是非聞いてもらいたい
私の思いでの話です、戦争の悲惨さ、それで難民として
流浪の旅に出た人々が思い出として語ってくれた物語です。

昔、ボリビア国境近くからブエノス、アイレスの首都に出てきた
時は、「奥地から出てきた」と言っていました。

街中にあった日本人会館の宿泊所に泊まっていました。
1階は食堂や事務所、大きなホールも有りました。
日本食も食べる事が出来まして、何かと便利で色々な情報も沢山
入って来ますので、便利な場所でした。

食事は近くにイタリア人が経営する、美味しくて、安くて、魚料理
が沢山有るレストランに通っていましたが、直ぐにそこのウエイター
と仲良くなり、鯛のから揚げにオリーブ油のピリカラソースを
掛けた物を発見して、ブエノスに滞在している時は毎日飽きもせず
食べていました。

30cmも有る大きな鯛です、皿からはみ出しています、
アルゼンチンでは小骨の沢山有る、鯛は余り歓迎されない魚ですから
レストランで安く食べる事が出来ました。

揚げ物専門でカウンターの近くで仕事をしている、アントニオと言う
若者とも仲良くなり、インジオの叔母さんが自家製で作る葉巻を
沢山お土産に持って来ていましたので、三本ほどプレゼントして、
明日のお昼も来るから、必ず俺の分は残しておいてと、念を押して
帰りました。

自家製の葉巻は特製で、タバコの葉をラム酒と砂糖で醗酵させて
そこに叔母さんの秘密の何かを混ぜて作ります、
その香りの良い事、20mも離れた所からでも分かります。

おかげでお昼にレストランに入り、カウンターの中に入る
アントニオに手を上げて挨拶すると、「あいよ~!」と言う感じで、
テーブルに座ってスープが来て飲み始めると直ぐに鯛のから揚げが
出てきます、隣りに座っているおやじが「じろ~ッ」と見ています、

いっも会っているおやじです、「又、あの日本人は魚を食べている」
そんな感じです、それと余りに早く注文が出てきますので
驚いています、白ワインを頼んで飲んでいますが、ボトルを全部
ポンと置いて行きます、食事が終って勘定の時に瓶の残りを見て
その瓶の飲んだ分だけ払って勘定する、おおらかな物でした。

私はこのレストランが気に入って、昼と夜の2回も食事に通って
いましたが、いっも同じ所に座っていましたのですが、私の
隣りに同じ様に座っていたユダヤ人の老人がいました。
私が魚を良く食べるので、目立っていたのか、彼らも宗教の何かの
日にはお肉は食べ無い事を知りました。

そんなわけで食後のコーヒーの時に、コニヤックの酒をおごって
くれまして、話をする様になりました。
昼時は混雑しますので食後は外で話していました。
ポーランド系のユダヤ人で、戦後兄を頼って移民して来たと
話していましたが、家族は全部死んでしまったと言っていました。

私も戦後台湾から引き上げて来る時、リュックサックのみで
着たきりスズメの、お腹を空かして、悲しい思いをした事を
下手なスペイン語で話すと、彼も余り上手ではなかったスペイン語
で、慰めてくれました。

一人暮しで、時々兄の貴金属加工の手伝いをすると話していま
したが細い指先は、繊細な仕事をこなすプロの感じでした。
どこに住んで居るかは聞きませんでしたが、歩いて直ぐのアパート
に住んで居ると言っていました。

ある時、何気なく「お前はこんなものを見たことが有るかーー!」
と言って腕の袖をまくり、数字の刺青を見せてくれました。
私は「ガ~ン!」と心に衝撃が走りました。

話には聞いていた事です、本でも読んだ事が有りましたが、
現実に見せられたショックは大きかったのを覚えています、
アウシュビッツの死の収容所で付けられたと言っていましたが、
それとポーランドで彼が住んで居た町で生き残ったユダヤ人は

数えるほどしか居なかったそうです、彼が特殊な金属加工と研磨
の技術を持っていたから、軍需工場での強制労働、通称奴隷労働
での仕事をしていたから、終戦まで生き長らえたと話していました。

だんだんと色々な話を聞くに連れて、衝撃と悲しみと、悲惨さが
滲み出す話に私は涙が止まらなかったのを覚えています。

 この話しは次回に続きます、衝撃と悲惨さと、悲しみの話です。

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