2011年8月22日月曜日

私の還暦過去帳(34)

今日のお話は、昔の移住者の移住前の日本での生活と、移住後の開拓地
の生活を両方を見ましたので、この様な調査は現在の日本人としての記
録が余りないと思いますので書いて見ます。

その当時、日本では戦後の経済の苦しい時代で特に田舎では外地からの
引揚者の対応に、南米に移住した時代が有りました。

政府の渡航貸付け金が出て、家族で、独身での移民が多数移住して行き
ましたが、1959年の時代に高知の山奥で、平家の落ち武者と言われ
る所でしたが、四国高知の街からバスで半日もの時間揺られて行きまし
た。

バスは舗装もない所をガタガタと僅かな乗客を乗せて、終点の山奥に着
いて、そこで夜は泊まり朝に、又おり返して運転していくバスでした。
冬は3時には日が暮れてしまう谷間の僅かな耕地を耕して、段段畑の造

成された農地は少なくて、殆ど山林労働者としての兼業農家でした。
僅かな陸稲での米と、あとはソバとヒエの栽培での食料生産では家族が
食べるだけで、とても出荷出来るものでは有りませんでした。

冬は阪神地方に出稼ぎに行く人が多くて、瀬戸内の松山まで山越しに歩
いても5時間で行けると言う山奥でした。
朝はそば粉を囲炉裏で沸かしたお湯で練って、そばがきですーー。それ
を昨夜の大根などの煮しめの、たれにつけて食べると言う時代で戦後紙

が不足した時、和紙透きでの生産で少し潤ったそうですが、それも直ぐ
にお終いになり、それから沢山の人が外地からの引き上げ者も含めて、
南米に移住して行ったと聞きました。
私が訪ねて行った時は冬の寒い時期で、早々と薄暗くなった山肌で、段
段畑を造成する、石を砕く音が聞こえていました。

それから5年して同じ家族を南米のパラグワイの移住地を訪ねた時、訪
問しましたが、先ず一番先に見せてくれたのは、広々とした一枚が1町
歩も有ります田圃でした、それを二枚、2町歩も有りました。

それに、たわわに実ったお米が頭を垂れていましたが、その時の感激は
昔、高知で見た貧しい農地と比較して豊かさと、その開拓の努力に驚き
ましたが、その他野菜を植えた畑も有りまして、毎年コーヒーも植えつ
けていると話していました。

昔、私の先生が、「百姓は砂を黄金に変える」と話していたのを思い出
しました。

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