私の還暦過去帳(40)
かれこれ、だいぶ昔になります、私がアルゼンチンで農業をしていた
頃で、46年ほど前で、その頃はブエノス.アイレスの郊外で野菜を
共同で作っていた時です。ブエノスの中心に有りましたアバスト市場
に出かけた時です、近くのカフェーでコーヒーでも飲みながら世間話
しをしていた時ですが、今では詳しくはお名前を思い出せませんが、
その方が、ふと話してくれました事が有ります。その方は郊外で同じ
野菜を栽培していた方でした。その方が近所の白人から聞いたと言っ
ていました。その話しは確証はありません。それと言うのもその方は
日本人とは一切、交際や連絡も無いと話していました。日露戦争で
日本軍の将校として参戦して、激戦の戦場で負傷して意識の無いまま
ロシア軍に収容され、ロシアの後方都市に護送されて、そこで治療し
回復したが、英語もフランス語もかなり語学が出来た人の様で、その
まま終戦になっても日本には帰国する事無く、フランスにしばらく
滞在してから、国の成長と経済の豊かなアルゼンチンに移住して来た
様でした。しかし当時の明治のアルゼンチンはまだ日本人などは指で
数えるほどしか滞在していなかった時代、白人社会で埋没していた
と感じられます、奥さんも白人で、名前も奥さんの姓を名乗っていて
日本人とは、ほとんど知られてはいなかった様でした。
私が当時感じました事は、かなりの歳の人の様でしたが、明治のサム
ライと感じました。私の推測ですが当時捕虜となって行方知れずとな
り、戦死の公報も出ていたのかも知れません、きっと当時の欧州に
留学していて、当時のフランスの情勢も詳しく、生活力と経済力が
かなり有った人と思います。一度訪ねて行こうと思っていましたが
残念ながらそのチャンスは有りませんでした。
現在ではアバスト青果市場も飛行場の近くの郊外に移転して、昔の
数倍の大きさに拡張されています、その後はショッピングセンター
になって、様変わりしていました。この様な方が日本の裏側の国で
人知れず草葉の蔭でアルゼンチンの土と成って永眠されていると思う
と、人の運命などは小説より奇成りと感じます。
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