2011年8月28日日曜日

私の還暦過去帳(39)

祖国の山河は遠くあり、夢の山河には涙あり

私が元気な時に皆様に昔の移住者の、遠い異国での物語を語っておきた
いと思っていますが、中々はかどりませんこの歳になりますと一世と呼
ばれた方々が殆ど居なくなって、私らの年齢がそれを語りついで行かな
ければと思っています。

現在ではインターネットでのメールなどは瞬時です。47年も昔では南
米の奥地に日本からの郵便は40日も掛かって来ていました。これは航
空便でしたが、船便ですと三ヶ月も掛かって来ていましたので、昔のこ
とを思うと夢の様です。
今日の話しはアルゼンチンでの悲しい物語です。

1964年のブエノス、アイレスで、その方から直接聞いたものです。
その方は世界恐慌の時に日本を出てアルゼンチンにやって来たそうで、
暫らくはお金持ちの家に住み込みで仕事しながら言葉を覚え、お金も貯
めて奥さんを日本から呼び寄せて、パラグワイの国境との州でミショネ
スと呼ばれる亜熱帯の肥沃な土地に当時マテ茶の栽培に入植したそうで
す。

入植した当時には男の子供も生れて、家も建てジャングルを切り開いた
土地には沢山のゼルバ、マテの木を植えて親子三人で幸せな生活を初め
ていたそうですが、ある日の夕方、夕食のかたずけをするのに直ぐ側の
小川に下りて洗い物をカゴに入れてさあー!と思って洗いかけた時に、

草むらに隠れて居た毒蛇に足のくるぶし部を噛まれて、直ぐに悲鳴を上
げて助けを求めて、家に戻ると直ぐに噛まれた所を切開して、毒を吸い
出したそうですがその時はすでに遅く、足の血管を噛んでいたので毒の
廻るのが早くて、直ぐに痙攣と口から泡を吹いて倒れたそうです。近く
には人家も無く近所も離れていますのでどうする事も出来ず、必死で足

のふと腿部分を硬く縛って、毒の廻るのを遅らして居たそうですが、奥
さんは薄れ行く意識の僅かな時間に子供を側に抱き寄せて、そのままご
主人に抱かれて亡くなったそうですが、乳のみ子を抱えて、暫らくは怒
泣して呆然として居たそうです。
子供の泣き声で気がついて、それから子供を抱えて近所の日本人、入植
者に救いを求めて行ったそうです。それから2~3日はよく覚えてはい
ないと、言っていました。

それだけ混乱して、気も動転して嘆き悲しんで居たようです。
それから暫らくして、ブエノス、アイレスで住み込みで仕事をしていた
お金持ちの主人と奥さんから、電報が入り子供を連れてブエノスの街に
戻る様に書いてあったそうです。それと言うのも、その乳のみ子の洗礼
の立会い人で、名付け親で、ガット、マザーとファーザーで有ったので

とりあえず帰って来る様にと連絡が有り、他にどうする事も出来ずに子
供を抱えてイタリア系で、金持ちの前の主人の屋敷に戻ったそうですが、
直ぐに生活の世話をして呉れて、実の母親の様に子供にも世話をしてく
れ、普通の生活も出来る様になっていったそうです。敬けんなカトリッ
クの奥さんは神に誓った、もし何か不測の事態になり産みの親が亡くな

った時は、自分が子供の世話をしなくてはと、誓った以上、神様から天
罰を受けると言って、その子供が大学を出て成人するまで面倒みて呉れ
たそうで、第二次大戦に入り日本にも帰国することが出来ず、再婚もせ
ず、そのまま金持ちの夫婦が亡くなるまで仕事をして居たそうで、その
後、日系の植木屋さんで管理の仕事を住み込みでしていました。

その方は植木屋の近くの、倉庫の片隅で住んでいましたが、その頃70
歳近い歳でした、訪ねて行くとワインを出してくれて、よく昔話をして
呉れアルゼンチンの初期、日本人開拓者の話しを教えてくれました。

その頃の方々は全て亡くなられて、誰も話す事も有りません。
私の同級生もアマゾンでの生活で同じく夕方に近くの小川に足を洗いに
行って、毒蛇に噛まれて、でも直ぐに車を飛ばして近所で血清を注射し
て一命を取りとめたと話していました。その友達も今年の始めに癌で亡
くなり、ブラジルの大地に永眠して寂しい限りです。

これからも時間の許す限りお話致します。

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム