2017年7月21日金曜日

私の還暦過去帳(593)

私の免許証、
カリフォルニア州は全米でも免許証の法規は少し厳しい様です。
しかし、不法入国者にも免許証が貰える様になっています。
私は2014年に免許証の更新を致しましたが、70歳以上は
法規のテストがあります。全てパスしましたので、2020年
まで有効の免許を頂きました。
係りが簡単に、ぽつりと・・、『歳の割には全てがOKだ、それ
2020年まで維持する様に・・』と言いました。
これはパソコンの前に座り、O・Xのテストですが、その場で
合格か再テストかが分かりますが、それにパスすると視力テスト
になり、パスすればその場で写真と指紋確認で、後に免許証が送
られて来ます。
講習会など一切ありません、簡単で全てが自己責任となります。
運転免許申請には自動車保険に加入しているか、確認があります。
公的な賠償強制保険はありません、自動車保険も運転が危なく成
たら契約保障金額を増やす様に保険屋から勧告されます。
先週の保険の切り替えも、無事故無違反の優良ドライバーで、保
険金は変化が無く据え置きでした。
全て自己責任で、車検と言っても2年に1回だけ、スモッグテス
トだけです。
ブレーキも、タイヤも、エンジン整備も足回りや、ライトボール
の点灯なども全て自己責任で整備しなくてはなりません。
近所の女性は89歳まで、ギアのシャフトの車でしたが、ご主人
が老人ホームで亡くなるまで、毎日そこまで通うのに使っていま
した。ご主人が亡くなると、家も車も家財も全て売り払い娘の住ん
でいる東部に引っ越して行きました。
私も76歳ですがまだ足腰が使える間は、ワイフの運転手兼、生
活の重要道具としてハンドルにしがみついても運転をしなくては
ならないと覚悟しています。
毎日必ず、1日1回は運転して感とタイミングやスピード感を維持
しています。高速道路は平均が130kmで走りますが、それ以下
ですと周りのスピードと合わなくなり追突される危険性があります
ので、心して飛ばして運転しています。
まだ孫の幼稚園の送迎任務も、ワイフの運転手の役目も、私の好き
な大工センターや、植木園芸屋に行くトラック運転もありますので、
これからも運転できる間は年齢に関係なく運転する考えです。
夜間ドライブだけ、夜間専用の眼鏡を作り、乗用車と私のトラック
に入れてあります。

2017年7月20日木曜日

私の還暦過去帳(592)

孫は来て良し、帰って良しとかも言いますが、今では4人の孫が居ます。

我が家の子供達も晩婚でしたので、孫は覚悟の70歳頃と推定してそれ
まで体力維持と訓練をして基礎体力を養っていました。
これも計画的に計算して孫の世話を出来るように考えての行動でした。

今ではワイフはオムツ交換では大きくなった子供に体力がなく、私が
ルプしています。
車のベビーシートに座らせて、ベルト絞めなども全部私の仕事です。
テーブルのイスに座らせるのも私が抱え上げて座らせていますが、
これも訓練と体力維持で、毎日の運動が基礎体力維持に大きな力を持っ
ていると感じます。
60歳でも基礎体力がない人が、ぎっくり腰や、腰を痛めてイスにも
座れなくなり、自分の生活もできない人を見ると、訓練と健康でやる
気と根気は正比例すると感じます。
幸いに76歳ですが、大工仕事や、毎日の家庭菜園での裏庭百姓も
何も苦労が無く出来る事は幸せに感じます。
ワイフは足を痛めてから私が洗濯、食事のテーブルの用意をして毎
朝の畑の手入れに出ますがそれが何も苦痛でなく、気軽に出来る事も
基礎体力の維持管理が出来ているからだと感じます。

孫が生まれてくる予想を考えて人生時間を逆算しながらの、これまで
生活ですが、成功したと感じます。
それまでは行動的に動きました。68歳の時にはワイフとバスで南米
周遊46日のバックパッカー旅行も致しました。これが大きな目標で
したので、孫が生まれる前に実行してしまいました。春夏の各、2週
間のメキシコとハワイは恒例で、イースターバケーションは学校が1
週間は休みですから、今では娘の子供達もメキシコには来ます。
バケーションと言っても砂遊び、プール、散歩などの孫の子守です。
孫が帰ると二人で仲良く新婚時代に戻り、ベランダでマルガリータで
も二人で飲みながら、べったりの生活をしていますが、最初にメキシ
コに孫が来たときは、感激でした。
17年昔に、コンドの部屋を買ったのも、いつか家族でメキシコで
バケーションに来て孫を膝に太平洋の夕暮れを見るのが夢であったの
です。
カボの飛行場の出口から孫が、出迎えたワイフの顔を見て『バーバー!』
と駆け寄った時の事や、レンタカーでコンドに行く時に歌ってくれた事
など、孫とプールで遊んでプールサイドで孫と好きなハンバーグを食べ
た事、夕日を孫が膝の上で二人で赤く染まった海原を見ていた時に、
孫の心臓の鼓動がわが胸に感じた時は、少しジーンをした気分になりま
した。
孫を抱く望みも叶い、ベランダで昼間のスイミングの疲れで膝に眠る
孫の姿を見ながら冷えたマルガリータの杯を口に運ぶ我が胸の感激は、
人生の総大成と感じたことがあります。

2017年7月7日金曜日

私の還暦過去帳(591)

何日君再來

この日本語の歌詞を聞いていると、遠き昔の過ぎし日の思いが心に
湧いてきます。

忘れられない あのおもかげよ
ともしび揺れる この霧のなか
ふたりならんで よりそいながら
ささやきも ほほえみも
たのしくとけ合い 過ごしたあの日
ああ いとし君 いつまたかえる
何日君再來

忘れられない 思い出ばかり
わかれていまは この並木みち
胸にうかぶは 君のおもかげ
おもいでを だきしめて
ひたすら待つ身の わびしいこの日
ああ いとし君 いつまたかえる
何日君再來

私の戦前の昔と、台湾からの引き上げでの思いが、心に交差してこの歳
となり郷愁の思いと重なり、引揚船のタラップを登るときに、足を滑ら
して危ない思いをしたこと、船中の出されたご飯が赤かったので赤飯か
と考えましたが、一度も食べたことが無い、高粱飯でした。
多くの人がお腹を壊していたと聞いています。
神戸に上陸して引揚列車に乗車して家族で郷里の大牟田市に向かう時に、
長く停車していた広島駅のプラットホームからの焼け野原の光景を思い
出します。父が原爆で焼け野原になったことを説明してくれました。

我が家族には幸いに大牟田には戦災から逃れた祖父の家があり、そこに
落ち着いて戦後の生活を始めましたが、夏の間は終戦後の食糧難での空
腹を満たすのに、川でシジミや竹かご罠でウナギやフナやドジョウなど
を採り、川原では竹の根を掘り起こして開墾して、里芋や薩摩芋、ジャ
ガイモも作りました。
掘り出した竹の根は乾燥させて、風呂の燃料にした覚えがあります。
父と鶏も飼い、卵は家族で食べる以上は沢山あり、近所の雑貨店に買っ
て貰い、こずかいの足しになりました。
随分と長い間、私の仕事でしたがそれも大人になって良い経験だったと
感じています。
秋には近所のおばさん達に習い、近所の友人達と落穂拾いに行き、1升
ぐらいは直ぐに拾って来ていましたが、溜まると近所の精米屋に持ち込
んで白米と糠に交換してもらい、母に喜ばれた思い出があります。
糠は鶏のエサになりました。
この様な体験は私の生きる、生き残る忍耐の鍛錬にもなり、中学生時代
に海外移住を決意して高校生時代、週末は一人で裏山の小袋山に登り、
途中の谷川で米を飯盒で洗い、頂上の祠のある広場で泊まり、飯盒で炊
飯して夕食に半分食べ、翌朝の朝食に半分残してそれを食べると、玉名
駅まで歩いて降りて、そこから大牟田市まで汽車で帰って来ていま
した。その様な経験と人生での体験が私の心と身体が壮健で強く育った
と感じます。
2年前にワイフと台湾訪問をしたときに、台北駅近くの商店街の細い路
地を歩いていた時に、心に響くメロデーを聞いて父が良く好きで李香蘭
の歌を少し酔うと歌っていた事を思い出し、心がキユー!とする感じが
致しました。今は父母も亡くなり、全ての思い出も忘却の彼方に消え去
り、『何日君再來』の歌詞の様に人も思い出も全てが、夢幻の再来の
様に感じます。