2017年7月7日金曜日

私の還暦過去帳(591)

何日君再來

この日本語の歌詞を聞いていると、遠き昔の過ぎし日の思いが心に
湧いてきます。

忘れられない あのおもかげよ
ともしび揺れる この霧のなか
ふたりならんで よりそいながら
ささやきも ほほえみも
たのしくとけ合い 過ごしたあの日
ああ いとし君 いつまたかえる
何日君再來

忘れられない 思い出ばかり
わかれていまは この並木みち
胸にうかぶは 君のおもかげ
おもいでを だきしめて
ひたすら待つ身の わびしいこの日
ああ いとし君 いつまたかえる
何日君再來

私の戦前の昔と、台湾からの引き上げでの思いが、心に交差してこの歳
となり郷愁の思いと重なり、引揚船のタラップを登るときに、足を滑ら
して危ない思いをしたこと、船中の出されたご飯が赤かったので赤飯か
と考えましたが、一度も食べたことが無い、高粱飯でした。
多くの人がお腹を壊していたと聞いています。
神戸に上陸して引揚列車に乗車して家族で郷里の大牟田市に向かう時に、
長く停車していた広島駅のプラットホームからの焼け野原の光景を思い
出します。父が原爆で焼け野原になったことを説明してくれました。

我が家族には幸いに大牟田には戦災から逃れた祖父の家があり、そこに
落ち着いて戦後の生活を始めましたが、夏の間は終戦後の食糧難での空
腹を満たすのに、川でシジミや竹かご罠でウナギやフナやドジョウなど
を採り、川原では竹の根を掘り起こして開墾して、里芋や薩摩芋、ジャ
ガイモも作りました。
掘り出した竹の根は乾燥させて、風呂の燃料にした覚えがあります。
父と鶏も飼い、卵は家族で食べる以上は沢山あり、近所の雑貨店に買っ
て貰い、こずかいの足しになりました。
随分と長い間、私の仕事でしたがそれも大人になって良い経験だったと
感じています。
秋には近所のおばさん達に習い、近所の友人達と落穂拾いに行き、1升
ぐらいは直ぐに拾って来ていましたが、溜まると近所の精米屋に持ち込
んで白米と糠に交換してもらい、母に喜ばれた思い出があります。
糠は鶏のエサになりました。
この様な体験は私の生きる、生き残る忍耐の鍛錬にもなり、中学生時代
に海外移住を決意して高校生時代、週末は一人で裏山の小袋山に登り、
途中の谷川で米を飯盒で洗い、頂上の祠のある広場で泊まり、飯盒で炊
飯して夕食に半分食べ、翌朝の朝食に半分残してそれを食べると、玉名
駅まで歩いて降りて、そこから大牟田市まで汽車で帰って来ていま
した。その様な経験と人生での体験が私の心と身体が壮健で強く育った
と感じます。
2年前にワイフと台湾訪問をしたときに、台北駅近くの商店街の細い路
地を歩いていた時に、心に響くメロデーを聞いて父が良く好きで李香蘭
の歌を少し酔うと歌っていた事を思い出し、心がキユー!とする感じが
致しました。今は父母も亡くなり、全ての思い出も忘却の彼方に消え去
り、『何日君再來』の歌詞の様に人も思い出も全てが、夢幻の再来の
様に感じます。

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