2012年10月31日水曜日

第3話、伝説の黄金物語、(24)


 モレーノの保証人となる、

富蔵も直ぐに生まれてくる子供の為に、サンパウロに居る事が多くなった。
事業が上手く動き出して、もう止めることなど出来ない勢いであったが、それ
ぞれの事業に適任者が付いて何も問題なく進んでいた。

砂金採取事業はパブロが取り仕切り、アマンダ兄弟はリオ・ベールデの町で
勢力を広げて行った。倉庫と運送業、貸し金庫と隣に銀行が開店し、益々、
旧勢力の地主達が没落したので繁盛していた。

銀行の開店で人が集まるようになり、人が人を呼ぶ事になり町が賑やかに
なって来た。
しかし、没落した地主が相続税で土地を手放し始めた。
一番先はダイナマイト爆破を起こした地主の土地であった。

家族が牧場など諦めて、都会に出て行ったからであった。
爆破事件で4名も死んだ場所などは誰も手を出さなかったが、富蔵は人を介
して話しをすると格安に手に入れた。町まで直ぐで、地形の良い場所で近くに
は河も流れていた。
半壊した母屋もそのまま放置されていたので、土地の譲渡契約が済むと、全
て残骸を焼き払った。

アマンダ兄弟達がそこに家畜を入れ、運送に使うラバなどを繁殖させ、牛など
も合わせて放牧させたが、富蔵には考えがあった、ローカルの小さな飛行場
を作る事であった。
サムの飛行士に相談すると上空から眺めて即決で適地だと勧めてくれた。

サムは複葉機を牧場の草原に着地させて、周りの風向きなど図面に書いて
教えてくれた。5本程度の背の高い木を切り倒して、牧草地も少し土を均せば
小型機では何も問題は無く離着陸出来ると話してくれたので、工事に掛かる
事にした。

富蔵の護衛で付いて来ていたモレーノが飛行機に非常に熱心に興味を示した
ので、頼んで僅かな時間、上空を旋回して周りの地形調査を兼ねて飛んでも
らった。
モレーノは飛行機から降りてくると、興奮と感動に身体が震えているのが富蔵
にも分かった。
撫で回す様に機体を見ていたモレーノが、飛行士のサムにサンパウロの飛行
学校は幾ら卒業まで掛かるか聞いていた。

サムと何か話していたモレーノは肩を落とし、がっくりとして富蔵の所に来た。
そして馬を引いてくると町に帰る支度をしていた。
全ての話が終り後はサンパウロで図面設計をしてくれるという事で、サムは飛
行機で飛び立って行った。

富蔵は町で用事があるので事務所に戻る時に、事件は起きた。
先頭にモレーノと犬が歩き後を富蔵が馬で付いて歩いていた。突然に犬が吼
えながら草むらに突進したと同時に銃声がした。

銃弾が富蔵をかすめて飛んだ、同時にモレーノの手に拳銃が握られ、瞬時に
撃ち返していた。
草むらにモレーノの馬が突進して行くのが見えた。
パンパンと連続して拳銃の発射音がすると後は静かになった。

モレーノが急いで戻ってくると怪我は無いか、様子を聞いて来た。幸いにかす
り傷も無しで助かったが、襲撃した相手はその場でモレーノの反撃で死んで
いた。
胸を撃ち抜かれて、手にボルトアクションのライフルを持って倒れていたが、
止めに頭に1発撃ち込まれていた。

富蔵はモレーノをプロのガンマンと感じた。冷静に瞬時に身を動かして馬上か
ら拳銃で敵を倒す腕に富蔵は驚いていた。

モレーノは富蔵を町の事務所まで送り届けると、警官を連れて現場に戻って
行った。その夜遅く、モレーノはアマンダ兄弟達と事務所に居る富蔵の所に戻
って来た。
飛行場の造成計画の話をして全てをまとめていた所で、彼は今日の事件は
『全て済んだ・・』と言うと座り込んだ。

富蔵はウイスキーをグラスに注ぎ、皆の前で今日の事件の礼をモレーノに言
うと、グラスを合せて乾杯した。
そして、モレーノにサムの飛行操縦学校の保証人になることを伝えた。
彼は飛び上がる様に喜び、ウイスキーを飲み干すと、いきなり踊り出した。
よほど嬉しかったのか、しばらく皆と床が抜ける様に騒いでいた。

興奮が収まり、モレーノが富蔵の手を握り感謝の言葉を述べて居たが、絵美
の出産を控えて、危ない命を助けられた事のお返しとしては安いお礼と感じて
いた。
モレーノが犯人は地主に雇われていた殺し屋だったと教えてくれたが、指名
手配されていた男で、警察は手配ポスターを壁から破り捨てて、直ぐに帰宅を
許してくれたと教えてくれた。

その翌日、リオ・ベールデ駅に富蔵に連れ添って、手にカバン一つ持ったモレ
ーノがいた。
汽車が来ると家族と別れを惜しんでいたが、サンパウロに初めて旅立って行
った。汽車が動き出して、富蔵はモレーノと昨日の襲撃の話していた。

富蔵の問いに彼は『私の犬は訓練しているので、かなり離れた所に潜む人間
でも嗅ぎ出す事が出来る』と教えてくれた。特に銃器を持つ人間は、銃の手入
れにガン・オイルを使うのでその臭いを覚えていて、かなり遠くからでも嗅ぎ付
けると話していた。

富蔵は昨日の現場の様子を思い出していた。襲撃者が持っていたライフルは
ガン・オイルで磨き上げられ、銃床の木は染み込んだオイルで光っていた。

富蔵はサンパウロに落ち着いたら自分の犬を連れてきたら良いと話していた。
富蔵は内心、あの時、犬が藪に突進して吼えなければ襲撃者は慎重に狙い、
自分を撃っていたと感じていた。
突然の犬の吼え声と襲い掛かる犬の気配で、動揺して引き金を引いたと思っ
た。自分も犬を飼おうと決めた。
モレーノが子犬が居るから自分の犬を連れて来る時に、ついでに持ってくる
と話していた。
汽車がサンパウロの到着してタクシーで自宅に帰って来た。
昔、パブロが寝ていた屋上の部屋に、これからの生活の場とする様に教え、
食事は下の食堂で食べるようにした。 夕食の後、モレーノを連れて近所のあ
ちこちを道案内して教えていた。
ある家の前に来たら、門柱に鎖でオートバイが括られて、それには『売ります』
と書いてあった。
まだ新品のオートバイで直ぐにモレーノが興味を示して、羨ましそうに見ていた。
幾らか聞いてみようとしていたら、イタリア系のでっぷりと太った女性が出て来
た、『欲しいのかー!』と聞いて来た。

『息子が事故を起こして、アワヤ死ぬ所であった』と話して、『幾らでも良いか
ら持っていけ・・』と言うと奥から鎖のカギを持って来た。

『こんな危険なオートバイは我が家にはいらない・・』と言うと、さっさと『幾らで
も良いから・・』と言って鎖をオートバイから外すと、目の前で、オートバイのカ
ギをヒラヒラさせていた。
富蔵は財布を取り出して、大体の値段を考えてかなりの紙幣を取り出すと目
の前に差し出した。
こちらが拍子抜けするほど簡単に『チョイと待って、車検証と売買成立の証書
を出すから・・』と家の奥に戻った。

婦人が書類を持って家から出て来ると、そのあとを車椅子に乗った若い男が
泣きながら付いて来た。
『やめてくれー!お願いだから・・』と叫んでいたが、母親が書類を富蔵に押し
付けるとカギを手渡し、『さっさと持っていけ!』と車椅子を必死に捉まえて怒
鳴った。

モレーノがオートバイに飛び乗ると、エンジンをキックしてスタートさせた。
『ドド・・・』と軽いエンジン音が響き、『早く後ろに乗って・・!』と叫ぶモレー
ノの興奮した声がした。

富蔵が後ろ座席に飛び乗ると、タイヤを軋ませて急発進させていた。
後ろで悲痛な泣き声がして、『オートバイを返してくれ・・!』と怒鳴る声がして
いた。
家に帰る途中、ガソリンを満タンに入れて帰宅したが、オートバイをガレージ
に入れてモレーノが笑顔で『明日から飛行学校の通学に使って良いか・・』と
聞いて来た。

富蔵も大笑いでうなずいていた。

2012年10月29日月曜日

私の還暦過去帳(317)


『もと百姓が見たインド』

BuddhaGayaに近ずくと沢山のバスとすれ違いました。
駐車場に並ぶバスも半端では在りません、仏教徒が押し寄せる聖地と感
じました。道路脇にチベット難民救済センターらしき建物も見ました。
ここまで運転手付きの車でしたので、2時間程度で来る事が出来ました。

先ずは今夜のホテルにチェックインして荷物を降ろしましたが、日本寺の
直ぐ近くのSujataホテルでした。今朝は朝早くから歩きましたのでお昼
近い時間で、お腹が空いていましたが、先ずは洗濯物を洗ってくれると
言う事で、クリニングにシャツやパジャマなどをまとめて出しました。

受け取りに来た係りが、靴下や下着まで出しなさいと勧めてくれました
ので、ありがたく全部まとめて出しました。
夕方までに仕上がると言う事で『ダイジョウブ・・』と請け負ってくれ
ましたが、夕方、外の聖地見物からホテルの部屋に帰ると、
『トントン・・』と来ました。

洗濯が終わった衣類を、アイロンを済ませて袋に入れて持ってきたので
す。お値段は、これがまた驚きの値段で2ドル、ちょいの値段でした。
次男が話してくれた『インドでは自分で洗濯するより、して貰えば仕事
も増える・・』と言う考えでした。

95ルピーでしたので1ドルが38ルピーでしたので、2ドル、ちょいと
言う値段でしたが、これに約束の時間に仕上げて配達してくれたので、
チップも弾みました。
それにしても日本やアメリカの生活基準からしたら格安です。
おかげでこちらは大助かりでした。汗臭いパジャマは気持ち良い物ではあ
りません、洗濯係りもチップを沢山貰い、ニコニコの笑顔で、『また出し
て下さい』と言う事でした。

その日のランチはホテルのバフェースタイルのインド食でしたが、それが
珍しいインド式中華料理、チベット餃子のMOMOと言う、日本人の口にも合
う食べ物などが並んで満足でした。それにしてもランチを日本人の団体さ
んが食べに来ると言う事で、それらしき献立となっていると思います。

焼きソバが中々美味しい味付けで、白御飯も在り、私は御飯にインドカレ
ーを掛けて頂きましたが、焼き立てのナンを持ってきたのでそれも少し頂
きました。スープはチキンヌードルスープでしたが、どう考えても味は日
本人向けでした。

ホテルの日本語が達者な者が『今夜は日本人の団体客が泊まるので、
『銭湯を沸かします』と言うので聞き直したら、日本式の大浴場の事でした。
10名以上の日本人団体客が泊まると、沸かすと言う事でしたが、それを聞
いたとたんに嬉しくなりました。こんなインドのBuddhaGayaまで来てのんび
りとお風呂でも、日本式大浴場に入れるとは・・・、考えただけで
『ワァー!』と驚きました。

ランチの後は少し休んで、ホテルから歩いて2分ぐらいの日本寺に見学に行
きました。午後5時から夕方の法要が有るという事で、それまで隣のブータ
ン寺に見学に行きました。原色鮮やかな色彩が彩られたお寺は、沢山のブー
タンからの参拝者が溢れていました。

同じ顔立ちの我々の姿と変わらず、混雑の中でふと安らぎを感じました。
隣の日本寺から夕方の法要が始まる鐘の音が聞こえてきて、私も本堂に急ぎ
ました。入り口に居るインド人の係りが私達の顔を見ると、中の座敷まで案
内してくれ、前の席に座る事が出来ました。

若い僧侶が張りのある通る声で読経を始めると、本堂はシーンと静まりかえ
り、その声が広い本堂の中でまるで音楽の様に響いていました。
中には若い白人が座禅を組んで、お経に唱和しているのには、驚くと言うよ
り、心打たれる感じでした。

2012年10月28日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(23)


 地主達の反撃、

私も南米各地を歩いて、当時3人ほどのガンマンと言う人を見ました。
若い人は居ませんでしたが、年配でかかなりの年齢でした。

彼等が活躍した時代には、まだ南米奥地では司法の力が及ばなかった場
所が沢山あったと思います。
22口径のライフルでウズラを撃ち落としていたのを見ました。
普通は散弾銃で狩猟するのですが、彼は小口径ライフルで撃ち落してい
ました。
飛んでいる鳥をライフルで撃つのですからかなりの熟練が要る射撃と思い
ます。結構な年齢でしたが、その運動反射神経は抜群と思います。

また他所で、かなりの年齢の老人でしたが、旧式な拳銃でワインのコルク
栓を瓶に立てて、それを吹き飛ばして見せてくれましたが、6発全弾を命中
させていました。
大型の銃身が長い、百年も前の拳銃です、ここではこんな物が必要になる
時があると話していましたが、実に簡単に撃ちますが、それが全部命中し
てコルクが吹き飛ぶ様をみて、びっくりして驚いていました。

あと一人は腰に差した38口径の拳銃でオレンジやリンゴを空中で当てる
曲撃ちでしたが、100発100中でした。
オレンジの実が空中で吹き飛ぶ様は見事でした。
後ろ向きで声を掛けてオレンジを空中に投げ上げると、くるりと向き直って
同時にホルスターから抜き撃ちに撃って命中させていました。

私が見た当時のガンマン達は今では誰も生きてはいないと思います。
彼等が活躍した年代は1900年の前後か、その時代の初期と思います。
48年前にはそんな老ガンマン達が生きていたのです。

富蔵達が活躍した当時のブラジルでも賞金稼ぎと言う職業があったのです
から、犯人追跡と銃に命を掛けた男達が居た事も不思議ではなかった世の
中と思います。
富蔵もサンパウロと行き来するうちに、アマンダ兄弟の事務所近くで売り家
を見つけて、そこに砂金採掘場の事務所として、町に仲間が出てきた時に
は泊まれる様にもしていた。

ある日、富蔵が朝早く馬で砂金採掘現場に出かけて行ったその日に、誰か
がダイナマイトを玄関に仕掛けて爆破させた。
朝早く出かけていなければ確実に死傷していたと感じていた。

アマンダ兄弟の事務所も少し被害が出た。しかしその犯人を銀行の玄関で
警備していた賞金稼ぎだった父親の方が目撃していた。
銀行の前で日差しを避けて木陰でベンチに座りひっそりと座って外を見てい
た時に仕掛けを持って来た男を目撃して覚えていた。

足が悪いのでベンチに座って、イスの裏にはレミントン散弾銃に鹿弾を入れ
て立て掛けてあった。
爆破騒ぎが起きてからは砂金採掘現場に泊まって居たが、富蔵の耳にも
パブロにも直ぐに貴重な情報が入ってきていた。

ボート転覆で生き残った地主達が集まって、新勢力のアマンダ兄弟や富蔵
達のグループを追い出し、抹殺を図って居るようであった。
危険な事であるが、先ず情報を集め下準備をしてその彼等の陰謀を打ち砕
く事を考えていた。

アマンダ兄弟の親戚女性が地主の家にメイドとして働きに出ていた。
地主の家族達の話を立ち聞きして情報を知らせてくれた。
『近日中に多量のダイナマイトが送られてくると言う』ホットな話であった。

日時は分からないが、必ずリオ・ベールデ駅に鉄道貨物として到着すると予
測していた。直ぐに駅の貨物取り扱い用務員の身内に話がつき、送られてく
る荷物を看視していた。サンパウロから大きな木枠梱包で2箱、取り扱い注意
の張り紙をした荷物が到着した。
推定で40kgは中身があると感じた。
荷物を取りに来た男の馬車を何処に運ぶか追跡させた。

銀行が祝日の休みなので、賞金稼ぎの男が追跡を引き受けてくれた。
馬で身軽にジャングルの中や茂みを抜けて、町からさほど遠くは無い牧場ま
で荷物が届けられた事を確認して来た。

後の対応はそれほど難しくはなかった。
暇な若い賞金稼ぎに話を付けて、その家を見張らせていたが、
必ず次の地主達の犯行があると感じていたので、先手を打って対応する事に
していた。
先ず牧場主の小屋に狙いを付けて、そこに収納されているダイナマイトを爆破
か使用不能にすることが一番と考えていた。

地主達が資金を集めて対抗を本格的に計画していると感じて、用心に越した
事はないとアマンダ兄弟達とも協議していた。先ず牧場主の番犬を誘い出して
殺す事から始めた。
2匹の犬達は毒殺されてしまった、それは簡単に済んでしまった。

偵察に出たアマンダの仲間がダイナマイトを確認して、次の爆破の用意がす
でに出来あがっている感じであった。
危険な事である、次に何処を襲われるか心配であり、町で地主達との対立が
本格的になって来て、アマンダの運送業を邪魔して来た。

ダイナマイトを牧場に隠している地主が主導していた。

アマンダ兄弟は親戚のブラジル陸軍で工兵隊に徴兵で居た男を連れて来た。
爆破などの専門知識を持っている親戚で、爆薬やダイナマイトなども簡単に扱
え、今ではアマンダ兄弟達と運輸の仕事を手伝っていた。

このままでは、やっと本格的に動き出した運送業が中止される危険性まで出
てきた。アマンダ兄弟達はやられる前に行動を起こすと決めた。
ある夜、工兵隊出身の男が小屋に、賞金稼ぎの若い男の護衛で忍び込んだ、

ダイナマイトを収納してある頑丈な物入れに100グラムのダイナマイトを触発
雷管を付けて仕掛けて来た。
誰も知られることなく済んでしまったが、その結果は直ぐに町まで響く大爆発
で結果が判明した。
大音響のあと、黒煙と炎が立ち上るのが目撃された。

仲間の知らせが直ぐにアマンダの事務所に届けられたが、劇的な様を見てい
るような感じであったと報告が来ていた。それは小屋がまるで綺麗に吹き飛ば
した様に消えて無くなり、近くの母屋も半壊していた。

そこには無残に千切れた遺体が4体あったということで、全員地主達の遺体
で、小屋の焼け跡から、同じ目覚まし時計が10個も出て来て、中には起爆
装置に使われて居た時計も出てきたので、前回の爆破事件と同じ目覚まし
時計で犯人が警察の調べで判明した。

翌日の新聞では地主達がダイナマイトを使って対抗する業者の建物や施設
を破壊しようとダイナマイトに起爆装置を付けている時に誤って爆破したと報
じられていた。
新聞には前回の爆破も地主達の計画であった証拠が出て来たと報じていた。

あまりの爆破の大きさで、彼等が不必要な量のダイナマイトを多量に隠匿し
ていたと警察のコメントが出されていた。
地主社会ではこの事件ですっかり鳴りを潜めて、4名の仲間地主達が死に、
犯罪と言う事が表に出て来て、家族達も何も対抗することは無かった。

砂金採掘も多くの地主達の死に、すっかり塗り変えられた勢力地図に誰も文
句を言う者は居なかった。古い地主社会が自分達が掘った墓穴に埋もれてし
まった感じであった。
しかし、しばらくは賞金稼ぎの親子の勧めで、仲間の若い賞金稼ぎが富蔵の
護衛に付いていた。オラシオの友人で拳銃の曲撃ちが出来る腕を持っていた。

驚くほどの反射神経と、機敏な運動神経を持っていた。
名前はモレーノと言った。
モレーノが富蔵の勧めでサムの飛行学校でパイロットになる訓練を始める事
はその後直ぐであった。

2012年10月26日金曜日

私の還暦過去帳(316)


『もと百姓が見たインド』

1月8日の朝は6時に起床でした。
朝日が窓から差し込んでいましたので、カーテンを開けると広い庭の芝生が
朝露に濡れて輝いていました。
朝食は昨夜頼んだ、お粥が出て来て、ホレンソウのおひたし、ひじきの煮物、
日本式の玉子焼き、焼き海苔、お味噌汁などを堪能して満足の朝食でした。

それにしても、こんなインドの片田舎で食堂のボーイに給仕されて食べた
日本食など、これが最初で最後と感じました。

7時半には迎えが来たと連絡があり、玄関に行くとすでに車が来ていました。
今朝は先ず近くの仏陀が沐浴された池を見に行きました。
綺麗に掃除された公園でした。VENU VAN (Bambu Garden)と言う名前でし
たが、早朝で私達二人だけで見学する事が出来ました。

近くにお堂が在り、仏陀をお祭りした所が在りましたが、タイの信者が寄進
したという事でした。これからあちこちに、その様な寄進されたお堂やお寺
が在りましたが、入り口の前は屋台のチャイ屋が在り、原色のみやげ物品が
並んでいました。そこから仏陀に関連する施設を見て歩きましたが、これが
2千年近くも前に建設された物とは思えませんでした。

Rajgir、Patna、Nalandaと歩きましたが最後はBuddha Gayaまで見学しなが
ら車で歩きました。途中の街道筋で、農家の庭先と思われる所で、家族全員
が稲を乾し挙げた束を脱穀していました。驚いた事に、50年前の日本の田
舎と同じやり方でした。2本の大きな竹筒を並べて、そこに稲藁を叩きつけ
て、脱穀していたからでした。

それと、手回しの扇風機の大型で、籾を風力選別していたからでした。
その他、足踏みのドラムを廻して二人並んで、これも・・、のどかに稲束を
こさぐ様にして籾を収穫していました。
私の耳には単調な、ギーコン、ギーコンと言う足で踏む音が、子供の頃に見
た田舎の脱穀風景を思い出していました。日本と違う事は田のあぜ道に植え
てある椰子の木と水牛がのんびりと溜まり水に寝そべっている事でした。

街道ですれ違う大型バスを何台も見ました。中には旗を立てて、吹流しをし
て、遠くネパールやブータンからの参拝者達がバスの屋根に荷物を積み上げ
て中には寝具なども見られ、彼等の仏教遺跡巡礼の長旅を感じさせてくれま
した。
途中のNalandaでは多くのネパールからの参拝者と遇いまして、驚きました。
ここには壮大な仏教大学が在った所です、モスラムが侵略した12世紀時期
に破壊されたと言う事でしたが、施設を燃やすのに6ヶ月も掛かったという、
その巨大な設備の素晴らしさを感じさせられました。

ここまでシルクロードを通り、訪ねて来て学び、仏典を持ち帰った僧侶に敬
服致します。信仰の情熱とその行動力には、人々を駆り多々させる何かが有
ると感じます。
日本の和服の様な感じのゆったりとした袖で、中には杖を付いて、両側から
支えられる様にして来ていた年寄りも居ました。手には大きな数珠を持ち、
何か手でクルクル廻して経文を唱えている人も居ました。

昔の古の世界で壮大なレンガ建ての建物の中で、多くの学生や僧侶達が
歩いていたと、それを思うと・・・、小高い建物の上から見渡して遠く、昔
の歴史を焼け焦げたレンガの肌で感じました。

参道の帰り道で、歩き疲れて、カンナの花が綺麗に咲いた花壇が在りました
が、脇道に在るトイレに寄ったら、私の顔を見ると、係りが有料トイレの
カギを開けてくれました。観光客用のトイレと思いましたが、水洗で一応は
全部揃って居ました。しかし、余計なものは馬鹿でかい「蚊」が歓迎してく
れたのには参りました。

用を足して外に出ると手洗いの水と、あそこを洗う水が用意されていました。
小さな紙タオルを差し出してくれ、サービスは満点でした。
お代は10ルピーをおいて来ました。

2012年10月25日木曜日

第3話、伝説の黄金物語、(22)


危険地帯の用心棒、

富蔵がリオ・ベールデの町に戻り、銀行の開店祝賀に参加する為に
滞在していた時に、足を負傷して助けられた賞金稼ぎの親子がお礼に訪ね
て来た。富蔵になめし皮で作った帽子を持って来ていた。

父親の足は良くなったが、まだ足を引きずって歩いていたが、すっかり元気
になり、事故で足を切り落とす事も無く歩けるようになったのは富蔵のお蔭と、
何度も感謝の言葉を述べていた。

富蔵はふと、先ほどアマンダ兄弟と話していた銀行の警備員の事で父親に
仕事が欲しくないか聞いた。
すぐさま『仕事が欲しいが、世話をして貰えるのか・・?』と聞いて来た。

開店する銀行の警備員として、2名必要としていると話すと、すぐさま
『お願いできるのですか・・』と聞いて来た。
富蔵は二人を連れてアマンダ兄弟の事務所に出向いた。

直ぐにその場で採用が決まり、契約書にサインして警備内容などを教えて
いた。新品のコルト拳銃に、警備員のバッジとレミントンの散弾銃が用意され
ていたので、親子に渡した。

これで銀行が開店する前に全てが揃った。警備の一人は事務所内で、外の
入り口前にもう一人警備すると決まった。
就職祝いに近くのバーに二人を連れて歩いて行ったが、銃器は事務所に置
いてきた。

テーブルに座りパブロも同席して冷たいビールを開けた。
乾杯のグラスが鳴り、親子の門出を祝った。
その時、バーに地主の息子達が2名入って来た。富蔵達をジロリと見るとや
っかみ半分で富蔵達をカラカイ始めた。

無視してビールを飲んでいたが、酒に酔った若い地主の息子がテーブルに
近寄り、富蔵に絡んで来た。
富蔵達が席を立ち、出口に歩き出した途端に、『ナーボ(大根野郎ー!)』と
言う声と同時に立ち塞がった。

日本人が大根を沢山作り、沢庵や切干大根などを作るので、ブラジル人が
軽蔑の言葉に使う様であった。
若い酔っ払いが富蔵の胸倉を掴むと同時に激しく床に叩きつけられていた。

柔道の足払いが決まったようだ。したたかに床に叩きつけられていた。
男はフラフラとした足取りで富蔵達を追い掛けて来た。

アマンダの事務所に入ろうとした時、先ほどの地主の若い酔っ払いの息子
の手に拳銃を握っているのが見えた。いきなり1発拳銃を撃って来た。

瞬時に賞金稼ぎの父親が上着の下から拳銃を取り出すと、相手が2発目
を撃つと同時に撃ち返していた。

たった1発の反撃で相手は胸を押さえて立木に寄りかかると、崩れるよう
に倒れて行った。多くの人が見ていたが、直ぐに廻りは人だかりの山とな
り、地主の若い仲間達が撃たれた男を抱えて病院に連れて行く様を見て
いた。
しかし若い酔っ払いの男は即死状態であった。
富蔵は話しに聞いていたが、賞金稼ぎの父親は凄腕射撃の名手と言う話
のごとく、射撃の腕の良さを改めて知らされた。

それとその様な射撃の上手な男が銀行警備で働いていると知れると銀行
も良い宣伝となった様だ。
今回、地主の息子が起こした騒動は酔っていたとは言え、哀れであった。
早く言えば無駄死にであった。

巡回法廷が町で開かれ、地主の息子が酔って、富蔵達がアマンダの事務
所に入る所を外の道から拳銃で最初に2発狙撃したのを誰でも見ていた
ので、自衛の反撃と言う事で不起訴になった。

この事が後で地主達の遺恨を買ったのかもしれない

2012年10月23日火曜日

私の還暦過去帳(315)


『もと百姓が見たインド』

1月7日の夜遅くにインド法華ホテルに到着いたしました。
時間は10時20分ぐらいだったと思います、ホテルの入り口ゲートは閉めて
あり、高い鉄の門がそびえていました。
運転が携帯電話で連絡していたので、車の警笛を鳴らすと、警備の門番が
慌ててゲートを開いてくれました。玄関には3名ほどのホテル従業員が待っ
ていました。
飛行機が4時間ほど遅れて到着したので、準備して待っていてくれたようで
した。
直ぐに5分程度で全ての手続きが済み、ボーイが部屋に荷物を運び込ん
でくれました。今日は団体客が居ないので静かだと従業員が話していました
が、広々としたホテルの庭は、虫の鳴く声も聞こえました。広い構内に綺麗
なレンガ建ての感じで、今までインドで滞在した中で、一番落ち着いた感じ
で、中も綺麗な部屋で、飾られた大きなフルーツの飾盆が見事でした。

荷物を置いて食堂に行くと、そこには10時半は過ぎていましたが、係りの
人とコックが待っていて『お腹がすいたでしょう・・』と、何を食べたいか注文
を聞いてくれました。ありがたいことで、お腹もかなり空いていましたので、
感謝して遅い夕食を食べる事にいたしました。

親子どんぶりと日本ソバの暖かい物でした。野菜を余り食べていませんで
したので、野菜炒めも作って貰いました。広い食堂で私達二人だけの食事
でシーンとした部屋に、柱時計の音が聞こえて来る様でした。
二人で分けて食べましたが、ソバのだし汁が美味しいのに驚いて聞いたら、
日本から全部取り寄せて居ると話していましたが、コックの調理人が、前に

このホテルに働いていた日本人の板前に全部教えて貰い、修行したと教え
てくれましたが、翌日の朝の食事も日本食をだすと言う事で、楽しみにして
いましたが、これが本格的な日本の旅館などで出す、食器も全部そろいの
物には驚きでしたが、それにマッチする味も大したものでした。

私も世界をあちこちと歩きましたが、今までで一番現地人が調理する日本
食で美味しいと感じた朝食でした。味付け海苔、梅干、沢庵まで付いて、熱
い味噌汁を食べるのは感激でしたが、インド人のコックが『朝はお粥がいい
か?それとも普通の白ご飯・・・?』と聞いてくれたのには、これも驚いて感
謝いたしました。

私が前日の夜に、注文していたのはお粥でした、インド長粒米を煮込んで
トロトロにした白粥でしたが、微かにご飯粒も残り、味は中国レストランで食
べるお粥に似ていました。異国の田舎を旅していると日本食の美味しい物
を口に出来ると何か幸せな感じが致します。

こんな田舎のホテルまで、遠い日本から運ばれて来た食材を使う日本食
は贅沢な食事と感じました。食事が終わって美味しい日本茶も出て、丁度、
食堂に顔を出した調理人に声を掛けて、『朝から日本食が美味しかった・・』
と言うと喜んでくれ、『これも日本人板前の先生が厳しく教えてくれたから・・』
と話していました。
朝食が終わり、部屋に戻る時に、私の口の中には梅干の種がまだ入れた
ままでした。あのショッパイ梅干の種が何か、子供の頃に戻った気分で、口
の中で舌で転がして部屋まで帰りました。

2012年10月21日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(21)

旅の出会い、

私は6月12日から3週間ほどアメリカ各地の旅をしていました。

私が伝説の黄金物語の題材を話してくれた人も私が45年前に旅をしてい
た時に出会い、一夜の宿を提供してくれたその日の夜に聞いた話でした。

私も南米各地を歩いて、戦前の1920年から1935年当時の南米奥地に
住み着いた人達に会いましたが、1908年ブラジル最初の移民船笠戸丸
以前に南米ペルーの砂糖キビ農園に、ハワイから転住して来た人とアル
ゼンチンのサルタ州で出会いました。

アンデス山脈を徒歩で越えてきたと聞きましたが、アルゼンチン国境警備
兵が引く荷駄のラバにつかまり、雪が残る山道を歩いて越して来たと聞き
ました。

アメリカでもアリゾナ州の銀鉱山があるトゥームストーンで、1879年頃に
起きたワイアット・アープの兄弟とクラントン兄弟をはじめとするカウボーイ
達と撃ち合った『OK牧場の決闘』を物陰から目撃した日本人が居た事を
33年前にアメリカに来た当時に聞いた事が有ります。

彼は最初、金や銀の採掘を考えていた様ですが、彼が掘り当てたものは
良質の水でした。それを飲料水として、砂漠地帯の鉱山採掘現場にタル
に入れて馬車で配達していたようでしたが、それがビジネスとして成り立ち、
当時トゥームストーンで起きた『OK牧場の決闘』を目撃した日本人として
唯一の人物だったようです。
事実は奇なりという事ですが、富蔵の運命も同じ様に奇遇な道をたどり、
そしてまた過去に消えていったと思います。

今回、車の旅でネバダ州の広大な死の谷の横を通過いたしましたが、こ
の谷に迷い込んだ幌馬車隊が悲惨な運命をたどった事を思いながら車を
走らせていました。

ネバダ砂漠の荒れ果てた大地に今でも僅かに残る当時の建物を目にす
ると、富蔵が活躍した時代を思い出します。

話はブラジルのリオベールデに戻りますが、アマンダ兄弟の成功は町の
勢力地図も塗り替えてしまった。
地主や金持ち達の雇用者として、一介の労務者であった者が土地を持
ち、建物を構え、トラックを持ち、会社を開いて旧支配階級を倒して、権力
の代わりに自分らの集団力を町に定着させた事は大きな時代の前進で
あった。

街中の雰囲気も変化して来た。今までは彼等、地主達が主張する土地
と地域では一切、砂金の採掘が出来なかった。
それが公有地では僅かな契約金と税金を払えば採掘が出来る様になり、
多くの人達が集まり、町に活気と発展の波が押し寄せて来た。

アマンダ兄弟の倉庫と貸し金庫の横に田舎の銀行が支店を開きたいと
話を持って来たのをアマンダが富蔵に相談に来た。
富蔵は兄弟と話をして銀行と設計相談すると、『建物を自分達で建設し
て、それを銀行に5年契約で貸す』という話でまとめた。

その資金は富蔵が出資すると決まり、銀行も厳重な貸し金庫の隣で、
建物の建設資金も必要なく開店出来る話に、直ぐに5年の契約のサイン
をした。

話がまとまるとアマンダの親戚や友人達の建築の腕がある人間が直ぐ
に集まり、工事が始まった。
大きな看板が工事現場に掲げられ、その名前が『サンパウロ銀行支店
工事現場、開店まで2ヶ月』と書かれていた。

アマンダ兄弟の事業に大きな箔が付き、事業は転がり出したら止める
事は出来なかった。
砂金の採掘現場も増えた富蔵達も、邪魔が入る事も無く順調に事業が
進んでいた。砂金は定期的に、サムの飛行機でサンパウロに運び出し
ていた。

ある日、賞金稼ぎの男が足を負傷して採掘現場の小屋に助けを求め
て来た。親子の様で、足を酷く切り裂いていた。
息子が父親の足を介抱していたが、富蔵が見た瞬間、医者の診察を感
じていた。

折り良くサムの水上飛行機が到着して資材を降ろし、砂金の袋を積み
込んだ時に、富蔵がサムに声を掛けて、賞金稼ぎの男をサンパウロの
病院に運ぶ様に頼んだ。

サムも驚いて男を飛行機に抱え込むと息子も同乗して飛び立った。
富蔵はサムに車の手配と病院までの世話を頼んでいた。
後で聞いたが、緊急に病院に運んだのが良くて、足を切り取る事は無
かった様だ。

富蔵がサンパウロに戻り、その病院を訪ねると父親が感謝して息子と
二人で何度もお礼の言葉を述べていた。
退院してしばらは食堂の空き部屋に親子を泊めていたが、歩けるよう
になってリオ・ベールデに戻るトラックで戻って行った。

その親子の世話で富蔵がそれから何度も、その親子に命の危険から
助けられた。
土地の古い地主や金持ち達が妬みと反感を抱いていたからであった。

2012年10月20日土曜日

私の還暦過去帳(314)

『もと百姓が見たインド』

Patnaに到着してから 6時30分頃、喧騒の人がごった返す出口を出てか
らRajgirまで4時間とか、運転手が話して市内を走り出して、直ぐに感じ
たのは飛行機の中で降りる前に出された、スナックの食事を食べていて
良かったと言う事でした。

半日も時間的に遅れて搭乗していましたので、それで十分でした。
運転手は飛行機が遅れることが放送されて、腹ごしらえは十分に済んでいる
様でした。市内を抜けるまでの混雑はヒデー!と思うぐらいに細い街道に大型
車がひしめいていました。大型トラックが凄い黒煙を上げてジーゼルエンジン
を響かせて、隊列で5台も並んだらお手上げです。

ノロノロ運転で一度停止すると、トラックの大型車は動き出すのに、またノロ
ノロと、それに行列しているトラック隊列が、金魚のウンコの様にゾロゾロ連
なり、動き出すには、かなりの時間が必要でした。

これだけの混雑の街道が、対向二車線しか在りません、これには驚きました
が、町外れに来て、混雑の切れ目に、その国道の街道沿いに並んだバラッ
ク小屋で、多くの人が夕食の炊飯をしている様でした。
電気は無くてランプの光の様でしたが、街道にお尻を向けて、それも側にカン
に入った水を置いて在ることを見れば、まさに用便中と思いましたが、それが

何かのどかで、騒音も排気ガスも、人の視線も、我関せずの『考える人』です。
これもまさにインドと言う事を実感として感じましたが、すれ違う大型バスに
満載された人間が、時にはバスの屋根に積み上げられた荷物の上まで乗車
している様が、もっと迫力あるインドの光景でした。

良く見ると、何か鍋の様な物を抱えて、食事中の有様・・、時々鍋の中に手が
突き込まれ、バスの屋根の上で、渋滞の混雑を尻目に食事をしているインド人
には、さすがの私も口をあんぐりとして眺めていました。

何を食べているかは分かりませんが、すれ違いの僅かな時間に眺めたら、
かなり多いのがサトウキビをかじっている様な人もいまして、道端の露天の屋
台から湯気が立ち上り、周りに労働者風の男達が何か食べている様な感じの
所も有りました。
皿を片手に、手で食物を口に入れている所を見ればインドカレーと感じました。
この渋滞でインドの田舎道で見た夕暮れの世相が、まさに肌に直に感じたと
思いました。
私達が乗車した車はその渋滞を抜けると、外灯も無い国道を疾走して行きま
したが暗闇にヘッドライトの明りの範囲しか見えませんが、暗闇の中に地面に
寝そべる牛や他の家畜の目が光るのを見ました。運転手が話してくれました
が、電気も無く日が暮れると、夜はテレビも無い生活で、寝る他は無いと話し
てくれました。

粗末な小屋の前でカマドに薪を燃す明かりが、チラチラと揺れて、そこに大き
な鍋が載せられて、周りに家族が座っている姿が見え、乳飲み子が母親に
抱かれて哺乳をしている姿も見ました。いくら電気が引かれていない田舎で
も人々の生活は営まれていると感じました。

途中一度、休憩で明るく電燈が輝くガソリンスタンドに停車して、トイレを借り
ました。裏に廻ると、ジーゼル発電機がトントンと動いており、屋根の在るトイ
レも水洗でした。しかし丸い穴が在るだけの田舎風の素朴な物ですが、水道
とホースが用意され、終わったらご自由にお使い下さいという感じでした。
田舎で見たトイレとしては綺麗な水洗トイレでした。

一休みして、ボトルの水など飲んで、あと僅かになったRajgirの法華ホテ
ルまで直行すると運転手が話していました。10時近い夜にガソリンスタンド
の水銀灯の輝く明かりに、昆虫が渦を巻いて飛んでいたのには驚きでした。
車が街道に出る時に、大型トラックが数台連なり走りすぎて行きましたが、
どこでも見られるTATAの大型トラックが、今のインドの経済を支えていると
思いました。

2012年10月19日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(20)


 目には目を・・、歯には歯を、

アマンダの兄弟と家族の一族達が今回の自分達の事業に対する地主達の
勢力を阻止することを考えている様であった。

事を直ぐに解決しなければ、リオ・ベールデ駅前に新規事業で建設している
工事も全てが水泡に帰すことになる。
富蔵が居る砂金採掘現場にアマンダが夜訪ねて来た。親戚の若者が一人
付いて来ていたが、おとなしそうな青年で地主の家で河の運搬船の手伝い
をしていると話していた。
パブロと4人でピンガの酒を飲みながら話を聞いた。意外な計画であった。

話の筋は・・・、
『明日の土曜日の夕方、地主仲間の誕生日が開かれて、盛大なシュラスコ
の焼肉が岸辺の牧場で昼に開かれ、それが済んで、夕方頃から定例の地
主達の魚釣り大会が開かれると言う事であった』

『アマンダの計画は親戚の若者が船頭をする釣り船に、今回は近所の4名
の地主だけでは無く家族や親戚まで乗船するという事であったので、今時
期の釣りは支流の合流地点の流れの速い、魚が集まる所で釣りをするの
で、そこに上流から流れて来た、巨大な流木に船を故意に衝突させ沈没さ
せると言う筋であった』

流木は先日から流れ着いて、増水した水面下に隠れているという絶好の
機会と言う話であった。
アマンダが小声で下を向きながら話した事は重大な意味が含まれていた。
早く言えば地主連中を家族親戚を含めて皆殺しにする計画であった。

増水した河の流れに逆らって泳ぐ事など、とても慣れた者でも無理で支流
が合流する地点は流れが渦を巻いて河に引き込まれるという様であった。
まして酒を飲み、酔って一杯きげんで服を着たまま河に落ちたら、先ず浮
き輪を持つか救命ジャケットを持たなければ助からないと話していた。

その救命用浮き輪も船の両側に取り付けられていたのが、地主の子供の
イタズラで河に流してしまい、今は何も浮き輪も取り付けられていない状態
で船を出すという事であった。
アマンダがピンガのグラスをグイと飲み干すと、『この親戚の若者の妹が
地主の家族に連れ去られ、船上で強姦されて河に投げ捨てられた』と言う
事で、事件もうやむやに消され、遺体も戻らなかったと話してくれた。

この様な話は沢山在るけれど、証拠と、証人が居なくて全て闇に消された
とアマンダが話していた。
富蔵は黙ってピンガの酒をグラスに注ぎ足すと、言葉短く『成功を祈る!』
と言った。
その翌日、リオ・ベールデの町に出ると町中が大騒ぎであった。

地方紙の新聞号外が街中に張り出され、黒山の人がそれを見ていた。

『昨夜、リオ・ベールデ地方の地主達の親睦会で地主家族と誕生日の焼
肉シュラスコを祝い、夕方から釣り大会に総勢9名で船で出て、支流の合
流地点釣り場に行く途中、乗船していた7歳の子供が釣り船の舵を船頭
の助けで握っていたら、水面下に隠れた流木に激突させて船は横転して、
全員が河に投げ出されたが、その子供は船頭が燃料缶に流れの速い河
中から子供を拾い上げ、缶に子供を掴まらせて救助して船頭と乗客の内、
子供一人だけが燃料缶につかまり生き残った様子だと報じていた』

新聞は大きな河川事故と報道されていた。

富蔵はアマンダの家を訪ねたが、誰も居なかった。
大きな事件でこれからの対応をどうするか・・、情報分析を富蔵がパブロ
としていた。ボート転覆犠牲者の中にはリオ・ベールデの建築認可権限
を持つ役人も含まれていた。

一驚に値する大きなこの事件で、この地域とリオ・ベールデの社会が激
変した。
役場では建築再開の再審査の申請をしたら、即日許可が出た。
永く町の役場を支配していた地主達と町の役人が死亡したからであった。
役場では若い有能な係官が書類を審査してくれ、許可も直ぐ出してくれた。

地主の家族で、その跡取りの息子も同時に事故で遭難した家族も居た。
全てが一瞬のもとに、長く旧態前とした勢力が消えて行った。
その後、一週間しても遺体は河に流されて発見が出来なかったが、誰か
が『ピラニアに喰わてしまっただろう・・』と話していた。

その事は遺体も無い場合は行方不明者となり、1年経過して、それから
でないと裁判所で死亡宣告が出され無いという事態になった。
この事で、全ての地主社会が凍結され身動き出来ぬ有様になり、彼等
の地主社会は相続も遺産の処分も出来ずに、死んだ様に静かになった。

アマンダの兄弟達が親戚、一族を集めて町の選挙で新しい役員に立候
補して、地主の代わりに役員当選を果たした。役員の補欠選挙で勝利し
たのである。

その後の新聞では警察の見解として、釣り船の舵を握っていた7歳の
地主の子供の不注意で流木に激突転覆して大事故になったと報告され
ていた。
地主の子供が警察に『自分が船の舵を握っていた・・・』と話した事で決
定的になった。
船頭の若者は子供を燃料缶につかまらせて一人だけでも救助したので、
何も問題にもされなかった。

1ヶ月もするとこの事故の話は誰も口にする事も無くなった。
それより新たに採掘された金鉱で巨額な砂金を産出したから、その話
が全ての話題をさらい大きな採掘ブームに火が付いた。

地主不在の勢力地図が激変したリオ・ベールデには、下から這い上が
ってきた地元の住民が力を付け、勢力を増した。

それは富蔵達にも絶好のチヤンスとなった。

アマンダの兄弟達は一族がまとまり、親戚達が富蔵にドン(首領)と言葉
を掛ける様になった。彼等のシンボルの看板が掲げられた倉庫と事務
所の前で、町の楽隊を呼んで盛大に落成式を開いた。
その前から貸し金庫の噂を聞いていた人達が、金庫の中の様子を見て
借りたいと言う人が何人も出て来た。

富蔵達が驚くほどの申し込みであった。それは散弾銃を持ち、腰には
拳銃を差したガードがお客の求めに応じて二重の鉄格子を開かないと
中には入れない様子は、誰でもが安心の印と感じていた様だ。
保管箱には二重の鍵を掛け、1個はお客に、他の1個は事務所が保管
した。
5時に金庫の扉を閉めて、自動タイマーをセットすると、絶対に翌朝8時
まではどんな事をしても開く事は出来ない事も安心を求める人達の信
頼を得たと感じた。
金鉱など採掘者が多い、また危険なこの地域では絶対必要な施設で
あった。

アマンダの兄弟が富蔵とパブロを食事に招待して、家族して感謝の言
葉を掛けてくれた。
富蔵もアマンダ兄弟の後ろ盾を得た事を肌で感じていた。

2012年10月18日木曜日

私の還暦過去帳(313)


『もと百姓が見たインド』 

インド訪問で、2度目の仏教巡礼の旅には、ワイフと二人で旅に出ました。
次男が首都デリーの現地旅行社に仏教聖地の旅を設定してもらい、私の注文
も入れて無理の無い旅で歩く事に致しました。

1月7日の朝は次男も仕事が始まっているので、私達二人で飛行場に行きま
した。朝は軽く、コーヒーと果物ぐらいでアパートを出ました。

通勤で混雑する上り車線を反対に見ながら郊外の飛行場まで余り混雑する事
無く到着いたしました。前回訪問した時からしたら、高速道路もだいぶ出来
上がり、酷い渋滞に巻き込まれる事は在りませんでしたが、飛行場では

発着便がデリー周辺で冬場に発生する濃い霧のために、ずらりと軒並みに発
着が遅れていました。隣のベンチに座って居るインド人に聞いたら、もう3
時間も待っていると言う事でした。私等も仕方が無く、朝は簡単でしたので
何か腹に入れておかないとランチ時間がズレると考えて、構内レストランの
中に在りました、メキシコ料理のタコスに似た軽食を食べる事に致しました。

待合室は発着が遅れて、ベンチに座れない様に沢山の待合客が溢れていま
した。隣に座っているインド人が、冬場、デリーの飛行場では珍しい事では無
いと言って、チャイのカップを持って、新聞をのんびりと読んでいました。
飛行機は11時発でしたが、遅れて午後1時30分に搭乗いたしましたが、

管制の離陸の指示が無くて、機長がアナウンスして乗客に謝っていました。
『視界が悪くて真にご迷惑お掛けいたします・・!』と再度放送していまし
た。その内に、乗客が『ランチはまだか?』と言う事で、離陸もしないで、
滑走路に止まったままで、機内食が配られました。

私の予測が当たりまして、空腹では在りませんでしたが、他の乗客は機内
食を当てにしていた人は、やっと2時半になり配られた機内食に有り付いて
食べていました。すると・・、機長が『なるべく早く食べて下さい・・!』
と放送して、乗務員が慌てて食べ終わった人から、ドンドンとお膳を下げて
行きます、
一転して何か緊張が走り、乗務員達がサリーのすそをひるがえして行き来し
て、配膳を片っ端からコンテナーに収納して廻っていました。
食後のお茶や飲み物も無しです・・、あたふたと乗務員が座席のテーブルを
たたんで廻り、その頃には機外でジェットエンジンがキーン!と唸りを上げ
る音もしてきました。

しかし、乗務員達もすばやいもので、あれよあれよと言う間に配膳を両手に
抱えてダッシュー!していました。私も、やるなー!と感心して見ていまし
た。その時はすでに飛行機は滑走路を走り始めていた様でした。
外では全開したジェットエンジンがグワー!と吼虎するように鳴っていまし
た。
私も先ほどまで目の色変えて走り回っていた乗務員達がどうしているか周囲
を見渡しましたが、シーン!として座席の上に人の頭が見えるだけです。
何と・・、私の時計を見たら、2時45分です、これには驚きました。

15分の早業です、どちらかと言うとスローの印象が在るインドですが、見
直しました。しばらく飛んで、シートベルト解除のサインが出たら、直ぐに
乗務員が『チャイー!如何ですか?、コーヒーは如何ですか・・?』と来ま
した。先ほどまでの騒ぎはどことやら・・!笑顔でコーヒーを勧めてくれま
す。
ホッとしてコーヒーなど飲んでいたら先ほどまでの緊張開放で少し眠くなり
ウトウトしていたら、Patnaに到着すると放送が有りました。すると希
望者のみにスナックの箱が出され、チャイも配られていました。
時計を見たら4時間ぐらい飛んでいたのでした。

6時30分頃、まだ夕暮れの明るさが残る飛行場に着陸して喧騒の人がごっ
た返す出口に出ると、私の名前を書いたサインを掲げて迎えが来ていました。
やれやれ・・!と荷物を渡して、迎えの車に乗り込むとRajgirまで4
時間とか運転手が話して、街道を疾走始めました。渋滞の市街を抜けるまで、
いやと言うほどの排気ガスを吸わされ、またもや、これインドと再認識させ
られました。

2012年10月17日水曜日

第3話、伝説の黄金物語、(19)


 事業の拡大と妬み、

パブロとアマンダがトラックでリオ・ベールデに向けて出発してからしばらくの
間は、富蔵はサンパウロの家で食堂を見ながら、生まれて来る子供の用意
などを新しい隣の家でしていた。絵美と子供用品やベッドなどを買い、部屋を
飾りたてていた。

そして実家の上原家を訪ねて、目立つ絵美のお腹を見せに行った。
夫妻は大変喜んでくれ、長男の正雄もマリアも祝福してくれた。
マリアはすっかりワイフとしての貫禄があり、忙しい農場の経営に参加してい
た。
夕食のテーブルで、近くに出来た日本人の入植地、イタケーラ植民地の土地
の購入の話が出て、サンパウロからも近く、サントスと丁度中間ぐらいの距離
にあり、上原氏の今の農場からも近かったので、これから家族も増えて農場
を拡張するのにも都合が良かった。

話が進むに連れ、家族で投資する事にして、富蔵がその資金を持つことにし
た。砂金採掘事業で少し資金が入ったと言って安心させていた。

マリアの亡くなった主人が掘った砂金も富蔵が探して手にしたので、惜しみな
く資金を出していた。
上原氏夫妻もすっかり安心して家族の一員として扱ってくれ、これからの家族
の発展を願ってくれた。

食事が終わりになり、コーヒーが出る頃に、長男の正雄が『マリアを籍に入れ
た』と話してくれたが、式は後で盛大にする計画と言う事であった。

コーヒーカップで乾杯して、マリアが子供のアナを連れて来て、デザートのケ
ーキにナイフを入れた。ケーキの上にはマリアとアナに正雄の名前があり、
結婚おめでとう!と書いてあった。

その夜、サンパウロの自宅に沢山のお土産の野菜果物を積み込んで車で帰
宅した。家に戻るとパブロがリオ・ベールデから帰っていた。

話によると新しい採掘現場も順調に進み全ての用意が出来て試験採掘が始
まったと教えてくれた。

貸し金庫の建設もあらかた終り、窓も何も無い巨大な土蔵みたいな建物が駅
前に出来た様だ。倉庫も併せて出来上がり、表には『リオ・ベールデ運輸倉庫
会社』と出ている様であった。
富蔵も完成間近い建物を見にパブロと資材を積んだトラックで出かけて行った。
現場に来てパブロがしみじみと『資金力の差がこの建物を見れば直ぐに分か
るー!』と話してくれた。

富蔵は一切今まで現場には顔を出さなかったが、全てパブロが表で取り仕切
っていた。彼が手足の様に動いてくれ、何も問題は無かった。

アマンダの兄弟が喜んで迎えてくれた。夕方暗くなるまで現場を詳しく見て周
り、皆で概略図を画いた様に作られていた事を確認した。

貸し金庫となる場所は、縦15mX横10mの広さで、前は10畳ぐらいの部屋
で頑丈な格子で2重に仕切られていた。大金庫の扉を開ける時は、その前を
頑丈な鉄格子で締め切り、中に居る係員がセフティボックスを金庫の中から
持って来て、鉄格子の隙間から渡す様に作られていた。

大金庫が開いていても、その前に鉄格子が2重にあるので先ずは絶対に破ら
れる恐れがないと感じていた。
しかし、その様な建物を作る富蔵達に妬みを持って見て、やっかみ半分嫌味
を言う人間達が出て来た。土地に長く住む地主達や、砂金事業で小金を持っ
た金持ち達であった。

アマンダの兄弟達は、親戚や知人まで集めて対抗していた。

今ではトラックが2台、大型の牛車が7台、馬を多数所持して、荷物運びのラ
バの群れを持っていた。 彼等の危険な事は役人と結託して事業を邪魔する
ことであった。
その最悪な事が起きて来た、金を握らされた役人が工事に注文を付けて邪
魔をして来て、工事中止の命令を出して来た。
後わずかな工事で完成するのに、パブロもアマンダ兄弟も激怒していた。
地主のボスが新たな勢力として出て来たアマンダ兄弟と家族達を嫌ったか
らであった。

流血の火種が出来た。長く地主達に搾取され、圧迫された底辺のブラジル人
達が這い登るチヤンスを閉ざされるという事は、彼等の言いなりになるという
ことであった。
地主に逆らうと彼等の土地を横切る事も出来なくなる事であった。

富蔵はブラジル人の地主勢力の巨大さが、政治力を持って立ち塞がる感じ
を受けた。ある日、河岸の砂金採掘所で仲間が話す事を聞いた、それは・・、

『有力地主達が4人程度で毎週魚釣りで、ボートを出している』と言う事を聞
き込んで来た。
彼等が居る限りこの地域が閉鎖され、彼等の小作か使用人の地位しか、幾
ら働いても望めなかった。
アマンダにその話をすると、『彼等が生きている限り我々底辺の人間が苦し
み、絶望の生活をしなくてはならない』とつぶやいていた。

富蔵は彼が何か危険な計画を持っていると直感で感じていた。

その危険な企みが何か直ぐに判明し、それは重大なこの地域の勢力を覆す
出来事であった。

2012年10月15日月曜日

私の還暦過去帳(312)


『もと百姓が見たインド』 

デリー市内でも下町の活気は飛び抜けて、その凄まじさが直に肌で感じます、
何しろその人出が多いこと、商店の数の多いこと、行商や屋台風の数も凄い
物です。
早く言えば、良くぞこんな店でと感じる窓口で商売をしていました。衣服類は
原色の色彩で、まさに目を奪われる感じです。

市場から帰って来て、私は今までの旅行の整理とノートなどの書き込みの用
事も有りましたので、次男のアパートでコーヒーでも入れてゆっくりしていまし
た。ワイフと次男の彼女は髪洗いと買い物に出て行きました。
静かな部屋で、外の騒音が響いて来ますが、物売りの通る声が何か時々聞
こえます。
外のベランダに出ると、それはリヤカーを引いた廃品回収業者でした。
新聞やダンボールなど沢山積み上げていました。夫婦で商売している様で、
紙類が高いインドでは良いビジネスと感じました。
午後遅くなり髪洗と買い物を済ませてワイフ達が帰りましたが、お土産にす
るベッド・カバーを買って来た様でした。

その日のランチは持ってきた日本そばで、ワイフが軽い食事と、暖かいソバ
汁でソバを食べましたが、ツルリと喉を通るソバが美味しく感じました。
その夜は次男の希望で日本料理のレストラン田村に行き、夕食を食べまし
たが何でも在るメニューには有り難い感じでした。

日頃からインド食ばかりですから、好きな物を注文しなさいの声で、目を輝
かせてメニューを見入る次男の姿に、やはり日本食で育てたと感じました。
次男の彼女も揚げ出し豆腐と巻き寿司を注文していました。
天ぷらも大きなエビが付いており、それとウナギどんぶりで食べる次男の
姿を見て高校生時代に、親が驚くほど食べていた事を思い出しながら見て
いました。

レストランのお客にロシア人が多いので次男に聞いたら、近くにロシア大使
館が在り、かなり名前が知られているからと話していました。
隣の畳席もロシア人でしたが、ビジネスでインドに来る外国人の中では、
今ではロシア人が目立つと話していました。

飛行場でも、近くで何組かのロシア人のグループを見ましたが、何か押し
の在る態度が印象的でした。一度など平気で並んでいる人並みを無視して、
飛行機に乗り遅れると言いながら、係りに何か掴ませて5~6人のロシア人
が最短で通過していったのには驚きました。

その夜は次男のアパートに帰って来るまで、タクシーの窓から眺めるデリー
の町並みの変化の激しさには驚き入っていました。道路をのんびりと歩いて
いた御牛達が見られなくなり、横断歩道の陸橋が出来て夜間の走行スピー
ドもかなりの速さでした。

帰宅して熱い日本茶を入れて新聞でも見ていました。
明日の1月7日は、いよいよワイフと二人でブッタ・ガヤーの訪問巡礼に出
る日です。次男も年末休暇が終わりオフイスの仕事に戻り、次男の彼女も
研究の仕事で整理しなくてはならない資料を抱えて居るようでした。

その夜は早目に床に入りましたが、次男が遅くまで起きて、パソコンを叩く
音がしていました。

2012年10月14日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(18)


 動き出した砂金採掘、

翌朝、アマンダの兄弟に見送られて河縁の砂金採掘現場に戻った。
アマンダが馬で送ってくれ、富蔵とパブロが乗って来た馬二頭は、アマンダが
引いて帰って行った。
別れ際にアマンダが『兄弟でトラックなど持てることなど、考えもしなかった。
これで運が少しは我々の方にも廻って来た』と言うと戻って行った。

水上飛行機が迎えに来るまで、皆と採掘した砂金を対等に分けた。
仲間は誰も不平を言う者は居なかった。公平で仲間の平等を皆が知ってい
たからと感じ仲間割れで、殺し合いなどが起きた現場も沢山在ったので、作業
、食事、住居などで、皆が満足していると感じていた。
近所の労務者達が仕事を求めて来るようになっていた。

ランチが終わり、少し昼寝をして起きたら爆音がして水上飛行機が旋回して
着水した。ボートが直ぐに出され、エンジンが回転して待機している飛行機に
乗り込んだ。
飛行士のサムが笑顔で迎えてくれ、直ぐに飛び上がりサンパウロに向けて
飛んだ。

途中の飛行機の中でずっしりと腹に巻いた砂金を感じていた。
これは死んだマリアの夫が採掘した砂金であったので、何か複雑な気分で
あった。
しかし、この秘密は誰にも明かす事は考えて居なかった。この砂金を有効に
使う事を考えていた。
まだ明るい内にサムの飛行場に着いて、車に乗り換えて帰途に付いた。
パブロも全て無事に済んだ今回の出来事にホッとしていた。

絵美が飛び出してきて迎えてくれ、車を車庫に入れて部屋に戻り、寝室の
秘密の金庫に砂金を入れて隠した。
ゆっくりと絵美とコーヒーを入れて飲んでいたが、食堂は心配ないと言うぐら
いで、絵美は何も砂金の仕事の事は聞かなかった。そして口も出さなかった。

その後にシャワーを浴びて、絵美を抱いた。
子供が出来たということで、激しくは抱かなかったが、お互いに満足して抱
き合っていた。
富蔵が不在の間はミゲールに調理が任され、オナーの奥さんが手助けして、
何事も無く営業していたようだが、ご主人が再起不能と言う事で富蔵が不在
の間に譲渡の話が出ていた。
奥さんが料理の腕を活かして賄い付きの下宿屋を開く良い不動産を見つけ
たので絵美に食堂の権利と不動産をまとめて買ってくれと言う話しであった。

下宿屋を開けばこれから身体の不自由なご主人を抱えても、食べるのに困る
事がないと感じての話であった。今の富蔵の資金力からしたら僅かな金であ
ったので、その夜の内にオナーの長男で、絵美の姉のご主人に電話を入た。

感謝の言葉で身内同士の話が決まり、翌日書類が作られ、内々に全てが終
ってしまった。
ミゲールも富蔵が食堂の持ち主になり、自分の主人となったのでそれを良く
理解して働いてくれた。
ミゲールもワイフと仕事が出来る事に感謝して、弟にもこの日本食調理を覚
えさせたいと言って来たので、助手として雇う事を決めた。

これから忙しくなり食堂の仕事も余り出来ないと感じていたので、丁度良い
機会と思った。食堂も豊かな資金で改修工事をして便利で使いやすい建物
に変えた。

平穏ながら忙しい日々が過ぎた、パブロはリオ・ベールデと行き来しながら
砂金採掘事業を見ていた。そこも順調に採掘量が増え、新しい採掘現場も
準備が終った。

アマンダがトラックを運転してサンパウロに出て来て、資材を積み込みに来
ていた。積荷の在るトラックを駐車するのに富蔵を訪ねて来たので、裏の車
庫に入れさせた。

その夜、アマンダが『今日街中を走っていたら、ビルの取り壊しで、金庫の
ドアだけを無料で譲ると言う看板を見た』と話していた。

アマンダの計画ではリオ・ベールデに運送業の倉庫と保管金庫を作りたい
という構想であった。
夜中ながら早速に近くの現場を見て即決した。タダで貰うという考えであった。

しかし、入り口の金庫のドアだけで2トンもあると書いてあった。自分でクレ
ーンを雇い、トラックに積んで運び出すという事であった。
広告には一切の責任は持たないということであったが、完全に使える金庫の
ドアであった。
手回しのハンドルを裏で20回廻すと最高48時間の自動開閉も出来る様に
設計されている物であるが一度、時間にセットするとその時間にならないと
絶対に手動では開かないという金庫ドアであった。
翌日、目が覚めるとアマンダとパブロを連れて工事現場に出向いた。

現場の責任者は簡単に了解してくれ、タイプを叩いて用紙にサインをすると、
『金庫のドアはお前達の物だ、さっさと持って行けー!』と言ってくれた。

その足で工事現場に来ていたクレーン車のボスに話をすると、かなりの金
額を要求したが、現金で領収書も要らないと言うと、笑いながらいきなり半
額にしてくれた。
家に急いで帰り、フォードのトラックを持って工事現場にとって返した。

その時はクレーンの用意が出来て、釣り上げるばかりであった2トンの金庫
のドアは簡単に釣り上げられ、トラックの荷台の横たえられた。ボスが現金
をポケットに入れて、金庫のドアをロープでしっかりと固定してくれると、アッ
と言う間に家に持ち帰った。

アマンダが町一番の大きな貸し金庫を作る事が出来ると張り切っていた。
簡単な設計図を皆で書いてそれで建設する事が決まった。パブロが建設
資金を腹に巻いて金庫のドアを載せたトラックを運転して、アマンダと2台
でリオ・ベールデに出発して行った。
そのことが、後でどれだけの利益になったか、その時は予測も付かなかった。

2012年10月12日金曜日

私の還暦過去帳(311)


『もと百姓が見たインド』

首都のデリーに戻って来て、次男のアパートで休養としていました。
それは7日からまた北のブッダガヤの地域に、今度はワイフと二人で旅に
出る予定でした。

6日の朝は持参していた赤飯のパックを暖めて、味噌汁と沢庵で朝食と致
しました。ゴマ塩も持って来ていましたので、パラパラと降り掛けて頂き
ましたが、沢庵が久しぶりに美味しくて、ポリポリと食べていました。

しばらくインド食ばかりですからお腹が大歓迎です・・、しばらく調子が
悪かったお腹もこれで正常に戻ると思いました。食後に次男は仕事にオフ
イスに出かけて行き、ワイフは次男の彼女と買い物と美容院で髪洗に出か
けるという事でした。

その前に今日の生鮮食料品を近くの市場に買い物に出る事になり、私は次
男の彼女と連れ立って行きましたが、歩いて10分程度でかなりの規模の
青果市場が在り、周りは小売りの屋台が並んでいました。
雑多な屋台の売り場と思いましたが、場所は決まっていて、売る品目によ
り屋台の種類も違っていました。

先ずはバナナとオレンジを買う事にして、品定めを3軒ほどして買う事に
いたしましたが、秤は天秤棒で皿に載せて計る旧式な物でした。
彼女がチョ横を向いたら、秤の皿にサッと何か乗せました。

私が横で見ていたのでしたが、彼女は気が付かない様でした。
ターバンを巻いた鼻ひげも長く伸ばしたオヤジでしたが、その早業はびっ
くりでした。上にはオレンジを載せていますので下は何かは分かりません
が、ハハーン!と、ピンと来ました。ごまかしたな・・、と感じましたが、

そこはそれ、私もオレンジを入れた袋を貰う時に、オレンジを1個余計に
取り、黙って袋に入れました。オヤジはびっくり顔でしたが、秤の皿の横
にボロ布で隠した石をポンと指でつまんで捨てましたら、知らん顔で、
シャー、シャーとした態度で『サンキュー!』で終わりでした。
どっちも、どっちで・・、私もニタリー!としてこれでお互いに、お相子
さまと言う事でした。

インドでは時々やられる時があります、釣り銭の不足、秤のごまかしなど、
ガイジンと見ると平気でやられる時が有りますので、都会の市場周りの商
店は次男が注意するように言っていましたが、その意味が分かりました。
それにしても沢山の屋台の商店があります、これで商売が成り立つかと、
こちらが心配するほどでした。

中には風船を10個ばかり竹の枝に差して売り歩いている人も居ます、道
端にはヒンズー教の商売の神様を奉り、何か派手に飾り立てた所も有りまし
た。日本ではさしずめ、お稲荷さんの祠の様な物と感じましたが、庶民が買
い物して、生活必需品を売る店ばかりです、それは賑やかで、騒々しく、
まさに、これインドと言う感じでした。

荷物を持って次男の彼女と歩いていたら、後ろからビビ・・!と警笛が鳴り、
そこどけと言う、車の割り込みでした。
ここはインドと思い直して、お車のお通りと、わき道に避けました。

2012年10月11日木曜日

第3話、伝説の黄金物語、(17)


  隠し埋蔵砂金の発見、

富蔵はカラカラになった喉でグッとつばを飲み込んだ。
震えていた手が収まり、ビンを手に大体の重さを量っていたが、小ビンの重さ
は1kgはあると検討を付けた。

6本ではかなりの金額になると直ぐに感じていたが、小ビンは酒ビンらしくポケ
ットサイズの小さな物であった。2本が僅かに地中から先が覗いていたが、他
の4本も直ぐに側に僅かな浅さで並んでいた。

掘り出す手間が省けて、富蔵は腹に巻いた帯状の布筒に移し替えた。
簡単に6本の小さな酒ビンが空になったので、そのビンをまた地中に埋めてし
まった。
砂金の6kgは、さすがにずっしりと腹に感じていたが、シャツの下に巻いた布
筒は外には目立たなかった。

計画した様に全てが誰にも知られなく上手く済んでしまった。
パブロも富蔵が用便を済ませた様子で戻ると、自分も用便に行きたいと言っ
て、どこかシャベルを持って藪の中に消えた。
富蔵は水筒の水を飲み干すと、自分の腹に巻かれた砂金の重さを感じてい
た。

しばらくジャングルの木陰で昼休みをしていたが、皆がそろい、馬達も青草を
食べて元気に戻っていた。馬のタズナを手に、歩きながら3人で地形を見て
廻った。パブロが、ここは有望と感じるので試し掘りをしたいと話していた。

近くに水も有り、水路も近かった、それより奪った地図に丸く印を付けてあっ
たのが一番心に感じていた所であった。今の採掘現場からも近く、水路で機
材を運んでくる手間も簡単に済んでしまうと思った。
富蔵達が動力付きのボートを持っている事が強みであった。

現場を見て直ぐに結論が出たので早目にキャンプの小屋に帰る事にした。
犬達が勇んで帰途に付いたが、馬も帰り道の速度が早い様であった。

小屋に帰り着くと誰か居る様であったが、犬が5匹ほどおとなしく木に繋がれ
て居るのを見て、直ぐに賞金稼ぎ達と感じた。

彼らは木陰で銃の手入れをしていた。首領らしい男が近寄ると全部終ったと
言って、バナナの葉を広げて見せた。中には人間の鼻を削いだ肉片が3個
あった。

富蔵は一瞬、ドキリとしたが、平静を装い、パブロにピンガの酒を持ってこさ
せ、コップに注いで渡した。グラスを合わせてグッと飲み干し、砂金の皮袋を
小屋から持ってこさせると、小さな酒のグラスに砂金を入れて相手に渡した。

グラスの一杯の砂金はこの地方の相場で、10時間ほどで強盗を追い詰め
てケリを付けて来た彼等の腕にプロの仕事を感じた。

賞金稼ぎの首領は『強盗の3人は間違いなく倒して証拠に鼻先を持って来
た。でも中の一人は我々の犬が見つけた時はすでに負傷して、1発撃って
来たので、その場で射殺して河に流した』と話していた。
富蔵達が聞いた2発の微かな銃声はその音と感じていた。

首領はライフル2丁と拳銃3丁を買わないかと誘ってきた。富蔵は他に銃器
が流れるのを防ぐ為に即座に買取を了解した。
その代価にグラスにもう一杯の砂金が渡され、全てが終った。

首領はバナナの葉に包んだ鼻先を繋がれた犬に投げ与えたが、一瞬で犬
が肉片を飲み込んでしまった。
賞金稼ぎ達は小屋の裏の木陰に繋いでいた自分達の馬を引いて来ると、
アマンダに町まで一緒に帰るか聞いていた。富蔵はアマンダに車の運転を
教えるので自分も付いて行くと言うと、パブロも町に行くと言うので、そのま
ま3頭の馬で賞金稼ぎ達の後を付いて町に出た。

今日の予定が全て済んでしまったが、富蔵は埋蔵砂金を手にして、賞金稼
ぎ達は余禄の砂金を手に入れ、アマンダも富蔵が今日のお礼にと、今朝渡
したコルトの拳銃を持ち帰って良いと許可すると、アマンダが喜んで犬達と
先頭に町まで戻って行ったが、賞金稼ぎ達は先ほど強盗を3人も殺して処
分した様な感じは一切無かった。

町の酒場に到着して、皆で冷たいビールで喉を潤すと、握手して別れた。

富蔵はアマンダの家に行くと一部屋が与えられ、少し寛いでから、トラック
の運転練習を開始したが、兄弟達が見守る中、アマンダは機用にトラックを
運転して僅かな時間で重要な運転操作を学んでしまった。

薄暗くなるまで裏の草原で練習して、夕食を食べる頃にはトラックを自由に
乗り回していたのには驚かされた。

兄達もそれを見て驚いていたが、確かに抜群の運動神経と感じた。
遅い夕食を食べながら荷車屋の兄弟3人と話して、これからはトラックの時
代が来るからトラックを持てと勧めた。とりあえず自分のトラックを使って良い
と許可を与え、パブロに簡単な契約書を書かせて兄弟3人のサインを取った。

五分五分の配分でトラックの保管と整備は兄弟が責任を持った。
アマンダが『俺がトラックの運転手になる・・、』と飛び上がって喜んでいた。

このリオ・ベールデの町でしばらくは砂金採掘の仕事をするので、駅前に長
くこの地方に住む兄弟を仲間に入れる事は、これからの事業に大きな意味
があると感じていた。
倉庫とガレージを作る様にと、必要な資金を富蔵は豊かな懐の金で惜しみ
なく出す事を決めた。

その夜は兄弟の家で泊まったが、翌朝早くアマンダに起こされた。
トラックの運転練習がしたいという事で、起きたらすでにコーヒーやパン、
果物などがテーブルに並べられ、朝食をさせられると、トラックで街中や街道
を走る練習を付きあわされた。

昨日から練習したとは思えない運転技量で、富蔵もパブロも驚いていたが、
アマンダに運転を教えてトラック運送を共同で開いたことは、これからの砂金
採掘での運送需要にも心配が無いと感じていた。

その午後に町の役場で運転の試験を受けたが、役場の周りを一ブロック周
遊するだけで終わり、手書きの免許証が発行された。
アマンダに、それが終ると無理やり酒場に連れて行かれ、
『俺の人生で、今まで一番嬉しい日だ・・』と言って乾杯させられた。

富蔵はこの地で大きく砂金採掘事業が動き出したと感じていた。

2012年10月10日水曜日

私の還暦過去帳(310)


『もと百姓が見たインド』

1月5日の朝は晴れて、爽やかな日でした。
南インドのデカン高原を吹き渡る風も、朝7時の時刻では寒いと窓を開けて感
じました。
今日はデリーに戻る日です、朝食前に荷作りをしてから、レストランに家族で
行きました。テーブルには3組ぐらいの客がすでに朝食のテーブルに座って食
事をしていました。
次男達と先ず、インドチャイをアッサム茶産で作ってもらいました。
チャイが出て来るまで、窓の外に見える街道からの朝の騒音を聞きながら、眺
めていました。すでに車に荷物を詰め込んだ観光客がホテルの従業員に見
送られて車の窓から手を振りながら、雑踏に消えて行きました。

私の注文は今朝も『オカユー?』と聞きますので、雑炊風にして貰い、それを
注文して、次男達はトーストとオムレツにフルーツでした。
今朝はゆっくりとインドチャイを楽しんで、散歩がてらにホテルの裏の庭に出
てもう一度、エローラの石窟群の岩壁を眺めていました。

もう二度と訪れる事のない風景と思い、手前に見えるバナナ畑の緑の葉を通
り過ぎるそよ風を感じながら、感慨に耽っていました。
次男達が荷物を車に積み込む間に、ホテルのチックアウトを済ませて、朝の
雑踏に車は走り出しました。

飛行場の在るアラウンガーバ-ドまで、まだ朝もやが残るデカン高原をひた
走りに飛ばして、お昼前には町中に入りました。町中の車がパーキング出来
るレストランに止めてランチを家族で食べましたが、南インドの典型的なレスト
ランでした。
次男が注文したデザートは私が今まで見たことも無い様な物でしたが、クレ
ープの様に薄く焼いた米の粉で作ったケーキでした。
食べる前に写真を一枚記念に写しておきました。

食後は次男がメールを見る為に、インターネットを使う必要で近所の高級ホ
テルに車で行き、次男がメールを見ている間、私達は芝の緑が綺麗なテラス
でチャイを注文して飲んでいました。世界中どこでも瞬時に繋がるインターネ
ットには有り難く感じます。
私達が午後のお茶を楽しんで居る内に、次男も仕事が済んでテーブルに来
ました。
隣のアメリカ人の婦人と話をすると、一人旅だそうで、インド各地を歩いてい
ると話してくれました。かなりの年配の方でしたが、日本人の同じ年配の方で
したら先ずは無理と感じました。
我々が飛行場に到着してチックインして、待合室のベンチに座っていたら同
じ方が隣にまた座り、話の続きが出来ました。ムンバイまで今日は行くと話し
ていましたが、我々家族は、ムンバイ経由でデリまで飛ぶ事にしていましたの
で、出発時間まで楽しい待ち時間でした。

ムンバイまで40分の飛行はあっと言う間で、そこからデリーまでは、約4時間
の飛行でした。デリーに着いたのは夕方遅くなり、機内で夕食を食べてデリー
に到着しました。タクシーで次男のアパートに戻り、荷物をかたずけ、熱いコー
ヒーを入れてアパート外の雑踏の音を聞きながら、のんびりと今日一日の日記
を書いていました。

デリーに帰宅したら、騒音と喧騒の街中の排気ガスに酔う感じで、爽やかな
デカン高原の空と空気を思い出しながら眠りにつきました。

2012年10月9日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(16)

  
埋められていた砂金、

アマンダが先頭で馬が3頭歩き出したら、木陰から犬が2匹飛び出して来た。
アマンダが紹介してくれたが、自分の家で飼っている5匹の犬達のその内の
2匹だと説明してくれた。
5匹も飼っている犬とは驚いたが、雑種だが利口そうな犬であった。

歩いて5分もしない内に河岸の草原に出たら、飛行機のエンジンの音が聞こ
えて来た。
単発の複葉機がスピードも落とさずに、低空で赤い吹流を付けた通信筒を
小屋の近くに投下して去っていった。

アマンダが馬を走らせて見に行ったが、直ぐに馬で戻って来た。
パイロットのサムからの通信であった。急な用事で予定を変更したので、迎
えは1日半ほど遅れると手短に書いてあった。

明後日の夕方4時と書いてあったので、富蔵は時間がゆっくりと取れたので
安心していた。埋められた砂金を探すのに時間が掛かっても、これで安心だ
と思った。
犬達が先を歩いて、その後ろを馬3頭が並んで歩き出した。

アマンダとパブロも機用に乗馬をこなして居たが、富蔵は慣れなくて鞍に掴
まっていたが、馬の方が利巧に、なれない人間を乗せているようであった。

途中休憩で下馬して水を飲み、木陰でしばらく腰を下ろしていた。
犬達も木陰で水を貰い、のんびりと寝そべっていたが、急に耳を立て鼻を
クンクンとして何か探していた。

直ぐにアマンダが気が付き、鞍の横に差してある散弾銃を取って木陰に隠れ
た。富蔵とパブロも隠れて、袋に入れて来た肩当の台尻を外したトンプソン・
マシンガンにドラムマガジンを装着していた。

台尻を外しているので銃身と機関部だけで、手頃な重さとサイズで袋に収ま
っていた。ドラムマガジンには装弾して2個を袋に入れて来ていた。
犬が藪の中に向けて走り出して、動きながら激しく吼えていた。

誰か隠れて居る様だと感じた。その時、パンー!と銃声がして1匹の犬の直
ぐ側で土が跳ねた。アマンダが罵声を上げて、散弾銃を2発連続して藪に撃
ち込んでいた。
富蔵も木陰から藪に向けてトンプソンを短く撃ち込んでいた。

犬が居なかったら待ち伏せを受けて今日の予定どころか、命にも関わる事
になっていたと感じた。富蔵のトンプソン・マシンガンの威力は凄く、45口径
の弾が藪の中の小枝を吹き飛ばしながら撃ち込まれた後は、シーンとして周
りが静まり返っていた。

利巧な犬達は身を隠して今度は藪の中から激しく吼えていたが、しばらくす
ると隠れている富蔵達の木陰に戻って来た。
アマンダが散弾銃を構えると、犬を連れて偵察に隠れるようにして見に行っ
た。しばらくして離れた藪から、犬とひよっこりとか顔を出した来た。

手まねきをするので、馬を連れて現場に行くと、藪の木陰に血溜まりがある
のを見せてくれた。
アマンダが、『襲った犯人は犬に知られて反撃され、負傷して逃げたようだ』
と話していたが、首をかしげて『この出血を見れば、逃げ切れるのは無理か
もしれない』と言っていた。点々と血痕が河の方角に続いていた。

富蔵は襲った犯人が強盗団の仲間と感じ、逃亡用の馬が欲しかったと感じた。
賞金稼ぎに追われて、必死に追い詰められている様子が分かった。
しばらく馬で歩いていると、どこか遠くで微かな銃声が2発した。
立ち止まって聞いたがその後は何事も無くジャングルは静まり返っていた。

富蔵は頭の中に叩き込んでいる地図と比較しながら、地形を見て、段々と現
場が近くなって来た事を感じた。日も高く登り暑い日差しがジャングルから差
し込んでいた。
富蔵が地図で覚えていた河岸の岩から、椰子の木の目標などが見えて来た。
確かあの椰子の木が3本ある下の岩から、真北に2m離れた場所に埋めら
れていると地図には書いてあった。

長年の執念が叶うと感じていたが、誰にも知られたくなかった。
富蔵はここでランチを食べて休憩したら、少し周りを見て採掘の条件に合う
土地か調べて見ることにしたと、連れに話した。
了承されて、木陰に馬を繋ぎランチの包みが開かれた。

ゆっくりと持って来たランチを食べて休憩していたが、アマンダが馬達にも水
を飲ませて青草を食べさせたいと言って、馬を連れて近くの河岸に銃を手に
出かけて行った。
富蔵はチャンスが来たと感じた。犬達もアマンダに付いて行った。

パブロに『用便を済ませてくる・・・』と言って、荷物と銃を持たせ見張りをさせ
て、富蔵は腰に拳銃と手に小型スコップを持って椰子の木の下まで歩いて行
った。

椰子の木が3本、下には一抱えもある岩が間違いなく地図に書いてあった
通りに並んでいた。
富蔵は一瞬間息が詰まる思いがした。
雨で土砂が流され、微かにビンの先が2本見えていたからだ、富蔵の手が
ブルブルと震えて、緊張で口がカラカラに渇いていた。

一本の小さなビンを地中から抜くと中を見た。
中身は間違いなく砂金であった。ずっしりと重い砂金を手に感じていた。

2012年10月8日月曜日

私の還暦過去帳(309)


『もと百姓が見たインド』

エローラの日が暮れるのも早いものでした。
夕方の時刻となると、どこからか人が沢山行き交い、ホテルの前の通り
も賑やかでした。
多くのレストランからも調理するインド料理の香りが流れていました。

ベンチに座り込み車座でビールの瓶を数本立てて話込んでいる人、手で
機用にお盆の上に盛られた料理を食べている人、それぞれに夕食の時間
にはまだ早いのですが、これからバスでどこかに旅をする人がつかの間
の時間を使い、お腹を満たしていると感じました。

バスが止まり、屋根に積み上げられた荷物が降ろされ、また積み上げら
れ、そのバスの回りに物売りが、からみ付く様にして窓に向けて果物や
菓子、飲み物などを売り歩いていました。
まさに田舎街道の典型的な風景です、私も見とれていました。
そこにクワを肩にして、牛を追う農夫が通過して行きました。何も違和
感がない景色です。

夕方のひんやりとした風が吹き抜けて行き、それと同時に景色が夕日に
染まり、暮れて行きました。
その夜の食事はホテルの食堂で、インド式中華を食べる事に致しました。
メニューを見ていたらチャイニーズ・フードが1ページにも在ったから
です、無難な焼きそばを注文いたしましたが、家で作る様なソース焼き
そばでした。

それと、朝食で食べたお粥も再度注文して、それに雑炊の様に野菜類も
入れてもらいました。 これに、インド料理も少し注文して、次男達も
喜んで食べていました。

フルーツは今朝食べたパパイヤを、もう一度注文して甘い熟れたパパイ
ヤの実を賞味していましたが、忘れられない美味しさでした。

食後のお茶は部屋のベランダのテラスでインドチャイを注文して飲んで
いましたが、見上げると澄んだ夜空に輝く星が綺麗でした。エローラの
遺跡も何世紀に渡り、この星空の下で歴史を刻んで来たと思いながら、
黒々とした岩壁を、遠くに帯状に月明かりに見ていました。

その夜は念の為に薬を飲んで、明日の早起きの為に早目に眠りに付きま
した。

2012年10月7日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(15)


  河水面の戦い、

丸木舟の人影が近くに見えてきた。
仲間の人質はパンツ一つで、丸木舟の舳先に首に縄を付けられ、手も縛ら
れて座っていた。それ以外は何処にも怪我は無いようだった。

富蔵は皆に合図してオラシオがレミントンのライフルに付けたスコープを見
ながら狙いを付けているのを待っていた。
オラシオの射撃で皆が一斉の攻撃開始としていた。

仲間の船は軽いエンジンの音を響かせて河の真中にゆっくりと進んでいた。
突然、『ポーン!』と水面に鈍い銃声が響いた。

丸木舟が一瞬揺れた様に見えた。人質の仲間が船べりを持って銃声と同
時に横に倒れ、先頭の丸木舟が仲間の人質に簡単に転覆させられていた。
櫂を持っていた男2名は見事に水面に投げ出されてもがいていた。

同時に後ろから付いて来ていた丸木舟も、慌てて水面に飛び込んだ男3人
のショックで簡単に横転してしまった。
河の真中に投げ出され、かなり早い流れにもまれて微かに頭が見え隠れし
ていた。たった1発の銃声で勝負が決まった。

対岸のジャングルの2ヶ所からライフルの発射音がして弾が飛んでくるのが
分かった。富蔵は狙って対岸の岸辺をトンプソン・マシンガンで掃射した。
軽く3、4回に分けてマガジンが空になるまで撃ったが、それで全部の片が
付いた。対岸はそれでシーンと静まり返ってしまった。

仲間の船が人質を河から引き上げて来た。寝泳ぎをしていたので水も飲ん
ではいなかった様だ、安全に怪我も無く、人質の仲間を取り返したので皆が
歓声を上げて喜んでいた。目の前で一瞬で決まった勝負に無駄弾を撃つ者
は居なかった。

見張りを残して皆が小屋に集まり、パブロが胸に付けた十字架にキスをす
ると、人質になっていた男の頭に載せ祈った。皆がパブロの祈りの言葉を
聞いていた。

それが終るとピンガの酒が注ぎ回され、皆で人質の無事の帰還に乾杯した。
仲間の誰でもが、富蔵が一人の仲間の命を助け様として、全力を注ぎ込む
事に満足していた。
見張りが『河の中頃を流されて居た男達が皆、河に飲み込まれてしまって、
一人も対岸には泳ぎ着く者は居なかった』と報告して来た。
『後ろから来ていた丸木舟の3人は、中の一人が泳げなくて他の男に抱き
 ついて3人ともアッと言う間に河の流れに沈んでしまった様だ』と話していた。

1発の銃声で、舟でパニックになった強盗団が哀れにも全滅してしまった。
富蔵も驚いていたが、早速に町の酒場に居る賞金稼ぎの男達に話が付け
られ、生き残って対岸のジャングルに隠れた強盗団の残りを追跡させた。
彼等はライフルを持っているし、強盗仲間の復讐に来る危険があった。

彼等、賞金稼ぎは普段は砂金採掘現場から逃げた労務者や、砂金を持ち
逃げした男を追跡するのを職業としていた。
僅かな金額の金や砂金で働いて居たが、警察の力が及ばないジャングル
の法を守る為には必要な男達であった。

犬が5頭ばかりと男3名を対岸に船で連れて行ったが、本職の追跡人達は
直ぐにジャングルに消えていった。

富蔵はサムが飛行機で迎えに来るのを待っていたが、その間にパブロを連
れて埋められた砂金のビン6本を探しに行った。
何度も、繰り返して見て覚えた地図の様子は、白紙の上に同じ地図を百回
も同じく画ける正確さであった。

リオ・ベールデ駅近くの荷車屋の次男に今度も手伝いを頼んだ、この地域
を知り尽くして危険な場所も、人の動きも知り、馬の扱いも慣れたこの若者
が、素直で運動神経の抜群さを富蔵は気に入っていた。名前はアマンダと
言っていた。

探し物の仕事が済んだら、トララックの運転を教えると約束したので、張り
切って案内してくれた。
馬が3頭用意され、砂金採掘現場から朝早く涼しい内にアマンダの案内で
出発した。
彼にもコルトの拳銃と弾が渡され、散弾銃が鞍に付けられていた。
昼のランチと水を用意していたが、夕方までここに戻る予定で居た。

いよいよ念願のマリアの夫が聖書に書き残していた砂金を掘り出しに行く
チャンスが来た。その事は誰にも話してはいなかった。
ただ次の採掘現場を探して下見をすると告げていた。

馬が朝の涼しい冷気を突き抜けてジャングルの中を進んでいった。

2012年10月6日土曜日

私の還暦過去帳(308)


  『もと百姓が見たインド』

エローラ訪問の感激を持ってホテルに帰りました。
太陽も輝きを増して、南インドのデカン高原の日差しを強めています。
ゆっくりとして、ホテルのレストランに家族と座り朝食を食べることに致しました。
ボーイが『オカユ・・・タベル?』と聞きますので、何事かと聞き直すと、『お粥』
の事でした。早速にそれを注文いたしました。

昨日の夜に食後のフルーツとして食べたグワバが良くなかったのか、少しお
腹の調子がいつもと違うからでした。私だけが調子が悪いのです、他の家族
は何もトラブルが在りませんが、私だけお粥をいただく事にしたのです。
ボーイの給仕が言う事には、日本人で沢山ここまで来ると体調を崩す人が多
い様でお粥の注文があると話していました。

少し大きめのお鉢に注いで来たのは、長いインディカ米の中国粥の様な感じ
で、とろとろに炊き込んで有りました。軽く塩をパラパラと振りかけてスプーン
で頂きましたが、空腹と重なり美味しいものでした、それに野菜スープが付い
てきて、まるでお味噌が入っていたら日本の田舎の朝食です。

食後のフルーツはパパイヤの甘く熟れた物でした。これは久しぶりに食べた
美味しいパパイヤでした。外の日差しが強くなり、ホテルの前の通りも賑やか
で、行き交う車が激しくなりました。バンガロー風の建物が点在する静かな中
とは対照的でした。
食後は裏の庭から遠望できるエローラの洞窟群を見ながらゆっくりとしてい
ました。

遠望する景色の中に沢山の人が行列して参拝する姿が見えましたが、人の
波を避けてから、午後にまた見学する予定でした。
私は用心して持参した薬を飲んで少し、昼寝をする事にしました。気温も上
がり1月とは言え南インドのデカン高原の気温はぐんぐんと上がりました。

ランチにワイフが誘いに来ましたが、お粥を沢山食べましたので、そのまま
寝ていましたが、次男達とワイフは隣の部屋で、ベランダに持ってきて貰った
地元のインド料理を食べていたようでした。昼下がりに、緩くクラーを掛けた
部屋でのんびりと昼寝をする事が出来ましたので、体調も戻り安心致しまし
た。
次男達は午後遅くなり見学の人波が切れた3時ごろから、良く寝ていた私を
置いてまた次男の彼女の説明で、詳しく内部の彫刻などを見てきた様でした。
私は目を覚ましてからホテルの前の通りに出て散歩いたしましたが、賑やか
で外国人のバックパッカー達も沢山見る事が出来ました。彼らはローカルの
バスで来ていたようでしたが、屋台でインド・チャイを飲みながら何か食べて
いました。

私もそれを見て昔、放浪して歩いていた時に同じ様な格好だったと思い出し
ていました。二度と時間は戻りませんが、私は若い人生で、40年も前にそ
れが出来た事に感謝していました。
旅は自分を見詰め直し、考え、時には人生を反省する時間を与えてくれる
と思います。

2012年10月5日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(14)

人質交換、

富蔵はパブロから説明を聞いた。 仲間の一人が砂金採掘現場近くで、朝
早く寝る前に仕掛けていた魚カゴを揚げに行ったら、待ち伏せされ、その男
が誘拐されてしまった。

人質と交換の要求は砂金を要求してきた。何処で調べたか、貯めてあった
砂金のあらかた全部の量で、1200グラムの量を交換の条件として来た。

かなりの砂金が出る採掘場で、6人で2組に分かれて掘っても短い期間に
良く採取出来たと感じていた。良い機械を持ち、使いこなしているので、手
掘りの僅かなスコップとツルハシだけとは格段の差がある様だ。

富蔵は隣の家の銃器庫から、レミントン狩猟ライフルのスコープ付きをケ
ースに持って、明日のリオ・ベールデ行きを考えていた。

翌日の朝、まだ薄く暗く、空には星が瞬いている時間で、微かに夜が開け
始めていた。
富蔵とパブロが車で飛行場に到着した時は、飛行機のエンジンがアイドリ
ングして暖められていた。

二人が乗り込むと同時に、飛行士のサムが水上飛行機のエンジンを吹か
して離陸する為に水面を滑るように滑走し始めた。

アッ言う間に飛び立ち、今日は荷物も無く、速度も速い感じであった。
1時間も掛からず目的地の川岸に到着した。

採掘現場を旋回すると、直ぐにボートが漕ぎ出され、着水と同時にボート
を横に付け富蔵とパブロを陸に上げてくれた。
操縦士のサムが、2日後の午後3時頃に、近くに医者と医療品を載せて
飛ぶので、ここにまた、立ち寄っても良いというので、礼を言って頼んでお
いた。

富蔵達が岸に上がると直ぐに仲間全員が小屋に集まり、誘拐の対応を協
議していた。警察には連絡しない事が先ず決まり。仲間の数人が全額の
砂金を出す事には反対して居たが、払わないと間違いなく、仲間の男が
殺されるという事は違いはなかったので、強盗の要求どうりに払う事が決
まった。

決まると後は簡単であった。人質交渉の為に、荷車引きの男に手紙を持
たせて砂金受け渡しの場所を決める事になった。

サンパウロからトラックで来ると、ジャングル内は道が悪くて荷物は牛2頭
で引く、牛車に荷物を載せ代えて、現場まで運び込んでいた。

リオ・ベールデ駅の近くにある荷車引きの家に、いつもはトラックを預けて
いたので、丁度交渉には、この周りを全て知り尽くした男が良いと考えて
頼んでいた。

荷車屋は若い三人の兄弟で開いていた。その内一番下の男に手紙を持
たせた。馬に乗ると早足で走らせて消えていった。

条件は人質は危害を加えないで、砂金と人質を交換にすること。河の真
ん中でボート上で、何処からでも見える所で人質交換すると書いていた。

2時間もせずに使者が戻って来た。人質交換条件が了承され、夕方、日
が暮れる前に河の真ん中でお互いにボートを出して、人質と砂金を交換
する事が決まった。

まだゆっくりと時間が有るので、皆と安全に仲間を取り返したら必ず復讐
する事が決まり準備が始まった。皆が見ている前で狩猟用スコープ装着
ライフルをケースから出して見せたが、皆が手を叩いて、これがあれば川
の真ん中で相手を倒せると喜んでいた。

インジオの血を引く男で、先日も夜間偵察に出て男を捕まえて来たオラ
シオが、兵役時代にはライフル中隊の狙撃手として訓練され、レミントン
製の狙撃銃を使用した経験があるからと言って、銃にさわる許可を求め
て来た。

富蔵はライフルに弾を5発装填すると、オラシオに渡した。彼は射撃の許
可を求めたのでそれも許可を与えた。

彼はスコープのカバーを外すと、しばらくライフルの全体を見て、感触を
見ていたが、伏せ撃ちの姿勢で銃身は材木の上に載せ、かなり離れた
パパイヤの木にぶら下る実を標的に狙って撃った。

轟音がして、パパイヤの実が炸裂する様に吹き飛んだ、2発目も同じ様
に吹き飛んだ。
彼が一言、『これは軍隊で使ったレミントンのライフルより精度が良い』と
驚いていた。
人質を安全に取り戻したら、反撃をする事にしてその具体的な計画を立
てた。
河の真ん中で受け渡しをするので、寸前に相手の武器を持っている男を
狙撃して倒し、ボートの中に居る他の男達は、トンプソン・マシンガンで制
圧してチヤンスがあれば、先制攻撃で人質を取り戻すと決まった。

川岸で狙撃ライフルと、トンプソン・マシンガンで待ち構え、ボートの中に
も他のトンプソン・マシンガンを隠して持ち、瞬時で3方向から十字砲火の
様に撃ちまくり、制圧すると手順が決まった。

ボートには三人乗船して、一人は船の中に横になり身を隠して、二人が
身をさらして相手の船に向かうと決まった。こちらの船は船外機を付け、
船足が比較にならないほど速いので、それを生かして勝負を決めると決
心した。

仲間からその要員の希望者を募った、直ぐに泳ぎが上手で、船の船外
機操縦も上手に出来る男が手を上げた。
他の男2名は陸軍に徴兵されて銃の経験がある男が乗船を決めた。
陸で狙う者はオラシオが狙撃ライフルで、富蔵がトンプソンを持ち、受け
持つ事にした。
他の者は自分のライフルで各自狙う事に決まった。
人質を取って砂金を要求する強盗団は、これからの為にも壊滅を図る
ことが、富蔵達の仲間が生き残る最善の方法であった。

これで負ければ今後の砂金掘りは無理と皆が感じていた。
警察などの力が及ばないジャングルの辺地では、この方法しか生存の
道は無いと感じていた。

弾の封印が切られ、缶から出された弾が、50発入りのドラムマガジンに
装填され、予備のマガジンにも装填された。各自が身軽ないでたちで準
備すると、腰に付けた拳銃や各自の銃器を手入れしていた。

これからの戦いの前に、フェジョン豆と肉の煮込みが、米の上に掛けら
れた皿が配られ、コーヒーが注がれて皆が腹ごしらえをしていた。

それが終ると皆がそれぞれの銃器を用意して配置に付いた。
岸の上では双眼鏡で対岸を看視していた仲間が船が見えたと合図して
来た。相手は2隻の丸木船だと言った。
小さな船なので乗っている人数は一隻、三人しか居なかった。

2隻に6人乗船している中で、一人は人質の仲間である事は間違いな
かったので、実質は5人で対決する事になるので、当然の比率でこちら
が優勢で勝ち目が多いと感じた。
富蔵は勝負は一瞬で決まると思っていた。トンプソン・マシンガンの銃
口を木の枝に縛ったが、それは試射した程度であったが、連射で銃口
の跳ね上がりがキツイと感じていたからだ・・、

強盗団と生き残りを掛けての戦いが始まった。
仲間のボートが微かにエンジンの音を響かせて動き出した。

仲間の人質が手を縄で縛られ、首に縄を付けられて船首に犬の様に
座って、丸木舟をライフルを横に置いて漕いでいる男二人が見えて来た。

2012年10月3日水曜日

私の還暦過去帳(307)


エローラの洞窟群を見学で、朝は5時半には起きました。
ホテルでは紅茶を飲んで直ぐに歩いて5分も掛からない所に有る入場口
まで行きました。
理由は混雑する時間を避けて、誰も居ない場内を見ることを考えていま
した。9時頃からですと各地から押し寄せる見学者達が行列となり、ゆ
っくりと見ることも出来なくなるからです。

薄暗い中をまだ回りのレストランや商店も閉めた店が多かった様でした
が、バス停の前の店ではインド式チャイを売る店がすでに店を開いて何
か揚げパンの様な物を作っていました。お客も何か食べながらバスを待
っているようでした。

我々が入場口に着いた時はまだ窓口は開いてなく、6時半に開く様でし
た。事務所の中に電灯の明りが見え、窓が開き、薄暗い光の中でチケッ
トを購入して、近くのゲートの鉄格子が開けられ、通過して行きました。
我々が今日、最初の入場者でした。

すると歩き出して直ぐに、頭上の木の茂みが激しく揺れ、グワー!と
サル達が威嚇するような声を出しながら移動して行きました。
突然で、一瞬ドキーンとしましたが、まさか木の上でサル達が寝ていた
とは知りませんでした。周りは物売りも居なくて静かな場内です。

次男の彼女は今朝は起きてこれなくて、次男が案内してくれました。
しかし、何よりも驚いたのは一枚の岩盤をくり貫いて巨大な寺院を掘り
抜いた遺跡でした。
インドには27の世界遺産がありますが、エローラにある最も大きい石窟
寺院のカイラーサ寺院が一番の迫力があると言われています。
タージマハルはイスラムの王様が妻の后に作ったお墓ですがこの寺院は

現代の仏教徒やヒンズー教徒などインド国内、世界の多くの人がが今で
も崇拝する神殿です。建設された年月と、そのスケールに格段の差が有
ります。神殿を実際に自分の目で見て見学したら、さすがの私も度肝を
抜かれた感じでした。よくも昔の重機なども無かった時代にこれだけの

岩盤を砕いて建設したかと心から感じましたが、神殿は、玄関、前殿、
拝殿、本堂からなり全体的なバランスと刻まれた彫刻の素晴らしさは見
る者に感銘を与えます。
両脇に向かって左が勝利の塔が有り、右が知恵の塔が並んでいます。
この堂を囲むように岩山を上から掘り剥いた2階建ての窟院が有ります
が、本堂を支えるために巨大な象がそれを支えるように掘られています。

建設がスタートしたのは紀元757年頃で、その建設は220年も引き
継がれ何代もの人の手を経て、979年に完成したと伝えられています。
建設技術の高さ、精巧さ、彫刻の美術品的な見事さは、今の世でも世界
遺産としての価値を十分に感じさせて、見る者の心を圧倒致します。

一枚の岩盤を掘り抜いたサイズは、本堂の高さ36m、幅33m、奥行50m
と巨大で、その建設された権力と資金力と人々の信仰心と永年の根気を
掛けた建設の執念を感じさせるものです。

先ず私達は正面を見てからその巨大な寺院の全体を見る為に、寺院の裏
山に登りました。そこから見る迫力は周りの岩山から周りを全体的に見
る事が出来ますので、いかに人間の力が凄いか改めて感じ入ったしだい
です。
子供の頃に写真で見た時とは、まったく違った感激があり、ここまで来
た甲斐が有った感じでした。その頃になると多くの参拝者と見学者が入
場して来て、静かだった境内が賑やかになりました。
ふとよく見ると、1匹の野良犬がどこからか奥の寺窟の辺りからスタス
タと歩いて来たのを見て、これから朝の食事でもありつく為にバス停の
方に歩いて行くのだと見ていました。

周りの石窟も見学して、ヒンズー教の神々の妖艶な姿に感心していまし
た。すでにこの頃になると、押しかけてきた見学者が列を作り、ゾロゾ
ロと歩いて来て居ました。
私のお腹も紅茶一杯でしたので、グー!と空腹のサインを出していました。
今日中は何度も入場出来ますので、一度、直ぐ近いホテルですので帰り、
朝食を食べる事に致しました。

その時は駐車場は車が並び、観光バスも着て居ました。
先ほどすれ違った野良犬がバス停近くに居るのを見ながらホテルに帰り
ました。

2012年10月2日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(13)

 
  運命のサイコロ、

サイコロが投げられて転がるように動き出し、砂金採掘事業は進んで行った。
パブロは忙しくなり、ミゲールのワイフが下働きに来る様になった。

富蔵はミゲールに和食の根本から教えて行った。そのおかげで、調理の腕は
ドンドンと上がり、普通の献立は無理なく調理する事が出来た。
そして暇な時はミゲールにキッチンを任せて仕事をさせていた。

ある日、隣の市場で永い間、仲買の仕事をして、引退したイタリア人夫婦が
住んでいた家がご主人が亡くなって売りに出された。

その話を絵美が知らせてくれたので、隣なので昼休みに見に行ったが、子
供が居なかったので、奥さんは故郷のイタリアで余生を送るという事であっ
た。
訪ねて行くと、丁度弁護士も来て財産整理の話をしていた。
話を中止して屋敷の中を全て案内してくれたが、富蔵は身体が震えるほど
その家が欲しくなった。

まさか隣がこんなに自分が気に入るような家であったとは、まったく気が付
かなかった。
仲買をしていた時代からの、ゆったりととした天井の高い倉庫、そこにはト
ラックが荷物を積んで楽に入る事が出来る門口、奥は車が5台は駐車でき
るスペース、3階建ての家は地下室も付いて部屋数も使用人が住んでいた
ので12部屋もあり、前はオフイスの事務所が通りに面して開いていた。

家具もイタリア製の上品な物が沢山あった。奥さんは部屋を案内する時に、
名残惜しそうにして家具類を説明していた。
表から見たらまったく思いもしない家であったが、中は富蔵を驚かすのには
十分の家であった。

奥さんは富蔵と絵美を弁護士に紹介して、『隣で日本食のレストランを開い
ている』と話していた。コーヒーが出され、弁護士が『どうですか・・、気に入
りましたか?』と聞いてきた。
富蔵は隠してあるカバンの札束を思い出していた。

冷静を装いながら、値段はどのくらいか聞いた。弁護士は家の権利書を示
して、家財のリストを見せながら、『この家を家財込みで一括買い上げする
のであれば格安にする』と前置きをして、
『一括して売れなければ、新聞広告を出して人を集めて競売をする』と話し
た。
『この地域は野菜市場で、家がよほど程度が良くても、高級住宅街の値段
とは比較にならない』と言って、最近売れた近所の価格を3軒ほど示してく
れた。
誰も即金で一括買取出来る人間は少ない様であった。

富蔵はコーヒーのカップを前に、弁護士の目を見ながら『ずばりの値段を
言って下さいと』言葉短く話した。絵美が富蔵の手を強く握り締めた。

『もし・・、ドルか英国ポンドでの即金支払いであればもっと値を引く事が出
来る』と話して来た。
富蔵が『ズバリ!ドルでは幾らか?』と聞いた。
富蔵の気迫のある言葉に弁護士の顔色が変った。弁護士は奥さんと別室
に移動してドアを閉めて何か話していた。

しばらく富蔵と絵美はコーヒーを前にテーブルに座っていた。
絵美が『こんな家があれば何にでも使えて、子供を育てるのにも良いのだ
が・・』とつぶやいていた。

ガタンと音がしてドアが開き、先ず奥さんが出て来た。その後に弁護士が
書類を手に出て来た。奥さんがおもむろに口を開いて『弁護士と良く相談
したが、現金のドルで全額一括して即金で払うのであれば、家屋と家具全
部全て込みで、私の財産を1万2千ドルで売りましょう・・・!』と静かに富蔵
と絵美に告げた。

しかし、修理もしなくて、痛んだ個所は現状のままでと言う事であった。
当時の金額としたらかなりの値段であった。富蔵がアメリカの二ユーヨー
クで働いて居た時代は1日の日当が1ドル程度であった事を考えると、ブラ
ジルのサンパウロの市場の近くで、限られた人達が青果市場を訪ねてくる
ことを考えたら、投資などはまったく不向きな場所であった。

富蔵は冷えたコーヒーをグッと飲み干すと、『そろそろ昼寝の時間ですから、
それが終って返事を致します』と答えた。内心はドキドキするくらい興奮し
ていた。

心の中で『絶対この家を買うー!買ってやる』と叫んでいた。

丁重に奥さんと弁護士に礼を言うと、握手して『2時間して午後4時に、こ
こで!』と約束した。

富蔵は食堂に帰ると、部屋の中で絵美と向かい合い、『俺はあの隣の家
を買う・・!これからの二人の将来の為にも、絶対に買う・・!』と告げた。

絵美は薄々、富蔵が多額の現金を持っている事を知っていた様だ、夫婦
と同じ様に生活して、同じベッドに寝ている仲であることを考えると肌で感
じていた様だ。

富蔵は物置の奥にあるロッカーを開けて、中の金庫から札束で1万2千
ドル両手で持って来た。絵美の前に置き、『この金の事は何も聞かないで
くれ、この金で自分の将来を買う』と言った。

絵美はうなずくと、富蔵を固く抱きしめて『富蔵さん、隣の家を買うとすれ
ば、このお腹の子供の家にも成るのですね・・!』と言った。

富蔵は飛び上がって驚き、唇を重ねて無言で抱きしめていた。

午後4時少し前に隣の玄関のドアを叩いた。
ドアが開かれて富蔵と絵美が招き入れられ、応接間のソフアーを勧めら
れた。

弁護士に頼んで家の権利書と家財道具のリスト表を見せてもらったが、
全てまとめられ簡素に列記してあった。絵美がポルトガル語のリストを見
て説明してくれた。
富蔵が驚いたのは、銃器保管庫があり、狩猟の散弾銃やライフル、拳銃
なども列記してあった。生前、ご主人が使用したものであった様だ。

富蔵はおもむろに口を開き、『値段は即金でドルの現金で出すから少し
値引きをしてもらいたい・・』と言って、封をしたドルを6千ドル絵美のハン
ドバックから出して見せた。

奥さんと弁護士の顔色が変った。

富蔵がまた口を開いて『家もあちこちと手入れをしなくてはならないので、
物要りとなるので少しは現金を手元に残したい』と言った。

僅かな会話が弁護士と奥さんの間に交わされると、黙って手を差し伸べ
て『値引き1000ドルで手を打ちますか・・』と握手して来た。

富蔵は立ち上がると先ず奥さんと握手して、弁護士とも握手した。
絵美の背中を押して絵美にも握手させた。

奥さんが奥からシャンぺンとグラスを持って来ると、弁護士がボトルの
栓を気前良く開けた。
『ポーン!』と景気良く音がしてグラスにシャンペンが充たされ、乾杯した。

それが終ると、『前金で6千ドル、権利書の書き換えが済んだら残りの5
千ドル』と言う事で奥さんと弁護士のサインが入った受け取りと現金が
交換され、それと家財道具のリストも富蔵に手渡された。

全て済んで玄関を出る時に、『こんなに早く決まる事は予想もしなかっ
た、増して即金で決済など思いも寄らなかった』と弁護士が話すと、
5日間で権利証の書き換えが済みますので残金を間違いなくお願い致
します』と言った。

それを絵美が聞くと黙ってハンドバックを開き中を見せた。
弁護士が唸って、『マダム、大変失礼致しました』と言うと、うやうやしく
ドアを開けてくれた。

これで全部済んでしまった。心にずしんと何か重いものが入った様だ
った。

その夕方、ウキウキしながら食堂の仕事を終わらせていた。
ミゲール夫婦も帰り、絵美と二人で遅い食事が済むとコーヒーを前に、
もう一度丹念に家財リストを見直した。すると車2台という一行が書い
てあった。

裏庭を見た時は車などは無かったが、家の競売を考えて車を整備に
出してある様だった。

フォード4トントラック1台、フォードの乗用車1台と絵美が電話で確認
した。
それは明日の午後には修理工が裏の駐車場に完全整備して持って
くるという事であった。
富蔵はその話を聞いた途端、この売買契約が大きなチヤンスと幸運
さを掴んだと感じた。
正確に5日目の朝に弁護士から電話があり、朝9時と連絡してきた。
9時に隣の家の玄関を訪れると、奥さんと弁護士が二人で笑顔で出
迎えてくれた。
先ず裏庭の車2台を点検して、始動して動く事を確認した。

応接間に戻ったが、並べられた家の鍵が名前を付けて、盆の上に置
かれていた。
富蔵は札束を横に5千ドル並べた。それを鍵と交換すると、サインし
た受け取りと家の権利書が手渡された。
権利書には富蔵の身分証明と同じく、上原トミー富蔵と上原エミー
絵美と書いてあった。

奥さんが富蔵と握手して抱擁すると、そのあと絵美を抱きしめて『有
難う・・、これでイタリアの生まれ故郷で安心して余生が送れる』と言う
とハンカチを出して涙を拭いていた。

今度は富蔵と絵美が玄関口で弁護士と二人を送り出し、道の前に
駐車していた車に見送った。
弁護士が別れに固く握手すると、『こんな簡素で問題なく済んだ契約
は初めてだ!』と礼を言った。車が動き出して見えなくなった。

玄関ドアを閉めると二人で固く抱き合い、喜びを分かち合った。
しばらく家の中を家財リストの表を見ながら室内を見て廻った。
寝室の横にある書棚を奥さんに教えられた様に押すと、裏に隠ドア
があり、開けると狩猟用銃器の保管場所と、書類キャビネットがあり、
中には備え付けの金庫もあった。

その日の夕方、上原家の家族全員が集まり、食堂を休んでパーテイ
を開いた。
長男の正雄もマリアと非常に喜んでくれ、倉庫を見て羨ましがってい
た。長女の美恵ちゃんもご主人と驚きの表情で、自分達が買いたか
ったと羨ましそうに見て廻って居た。
上原氏夫妻も富蔵と絵美が食堂を支えて隣の家まで購入した事に
満足していた。
最後に富蔵が絵美が妊娠した事を併せて報告すると大騒ぎになり、
乾杯が何度も続いた。
皆が帰って直ぐに、リオ・ベールデからパブロがトラックで慌てた様子
で帰って来た。

仲間の一人が誘拐され、砂金を要求されていると報告した。
パブロに食事を与え、落ち着かせて話を聞いたが、直ぐに行動を
開始した。
飛行士のサムに電話を入れ、早朝の飛行を頼んだが、直ぐに了解
され、夜明けと同時に飛ぶ事が決まった。
トラックを隣の駐車場に入れ、明日早朝、サムの飛行場まで、フォ
ードの乗用車を用意した。
それが済んで部屋を見せたが、パブロが隣の家中を見て驚いていた。

2012年10月1日月曜日

私の還暦過去帳(306)


『もと百姓が見たインド』

メガネ事件も解決して、これからの旅を安心して歩く事が出来ますのでホッと
していました。ワイフと次男の彼女はインド式全身マッサージを受けに近所の
ホテルに出かけ、次男はそこのホテルのインターネットを使用して仕事をして
居ました。私はホテルに残り、今日の見学コースの記録とその整理をしていま
した。
明日は早朝、エローラに向け出発致しますので、私には貴重な時間です、有
効に使い、その夜は近所のレストランで南インド料理を家族で食べに出まし
た。
カリフラワーのカレー煮込みが美味しくて、また、ほうれん草とジャガイモの
煮込みも珍しく、ナンの良く焼けたパンをお代わりして食べていました。

翌朝、早くホテルを出て、先ずはミニ・タージマハルを目指して、アウランガ
ーバードに行きました。次男の彼女が専門とする研究で、彼女の説明で歩き、
古代ペルシャ文字も読める彼女の専門的な説明に満足でした。

多くの学生達が来ていて、ビービ・カ・マクバラーと言う廟を彼等と廻りまし
たが、その廟の一角に有るトイレを使用したのですが、古代からのトイレも大
理石と石で建造された堅固な作りで、高窓の明りで用を足しましたが、これま
での永い年代にも、そのままの姿で残されていると感じました。

水道の水が出る様にして有りましたが、古式な風格を感じさせるトイレでした。
水は手で桶に汲んで流す様にしてあり、その桶の水であそこを洗う様でした。
私はトイレ用の紙を持っていましたので、ご厄介になる事は在りませんでした
が経験としては十分でした。あちこちと歩き回って驚いた事に、夜間警備用に
飼って有るガチョウを見ました。いざと言う時は、鳴き叫んで危険を知らせる
と言う事でその鳴き声は1キロ先まで聞こえると言う事でした。

しかし、この廟はムガール帝国の没落を感じさせる建物でした。大理石は使
わず漆喰の壁で塗り固めてあり、それがインド、デカン高原に有る乾燥地帯
の気候で今なお、その姿を完全に残していました。

そこを訊ねてから、エローラに行く途中にあるダウラターバードの城壁に囲ま
れた砦跡を見学に寄り、かなりの時間を掛けてその頂上付近まで登りました。
そこから見渡すデカン高原の夕日は有名で、幻想的な輝きの太陽が地平線
に消えて行くシーンをワイフと時を忘れて見ていました。
見学に来ていた大学院の学生達と夕日が降りるのを待つ間、彼等と討論す
る機会が有り、これからのインドを支える彼等の誠実な態度に感心致しまし
た。

地平線に消えた夕日の輝きで砦の坂道を降りてきましたが、次男達は待た
せた車に薄暗くなって戻って来ました。それから今夜泊まるエローラのホテル
まで薄暗くなった街道を飛ばして行きました。
かなり遅くなり、ホテルのロビー横のレストランから漂うインド料理の香りを
感じながらチエックインしました。明日はエローラの洞窟群を見学です。