2021年9月15日水曜日

私の還暦過去帳 (765)

 私の運転経歴、

私が運転を始めたのは、勤労学生の大学生で住み込みの書生として画監督の屋敷に住んでいた60年ほど昔の時でした。その時からしたら南米や日本での運転経歴とアメリカ在住46年間も入れると軽く、150万Km以上は運転経歴があります。

夏休みも帰郷せず、東京の居たので、近くの二子玉川自動車教習所に練習費用を出してもらい、通い始めました。
その時はヒルマンと言う外国のデザインの車で、ギア・シャフトの車で、オートマなどは教習所には無かった時代でした。
グループで10名ほどの年齢は18歳から50歳ほどの年齢も居ましたが、教習課程を落とすと余計に経費が掛かるので、必死に練習していました。
住み込みの屋敷には運転手付き自家用車で、当時の最高級トヨタ・クラウンのオートマの車があり、運転手にテクニックを学び、教習所のグループの中では2番目で卒業して免許を貰いました。1番は18歳の自分の家に自家用車がある運動神経抜群の学生でした。

農大の農場実習に行き、トラックターやブルドーザーも学び、当時ブルドーザーの始動はガソリンエンジンをまず動かせて、デコンポンプ開きエンジンを始動させる旧式な、排土板もワイヤーで上下させるものでした。
夏休みには立川駅近くにあった、ヤンマージーゼル教習所で、農耕トラックターエンジンの修理や分解組み立てなどを習い、夜は座学のエンジンの関する講義でした。
缶詰講習の短い時間で、3人一組で、ジーゼルエンジンを分解、組み立てを朝と午後に2回もやらされ、この実地の勉強は生涯身体に染み込み、今でも忘れません。
南米に移住して周りには修理工場も何も無い環境では、最高に習った事が生きていました。

今まで修理した事は、パンク修理、大型タイヤも含む、ブレーキ交換、ブレーキピストン交換、車軸の折れ交換、ラジエータが詰まりその掃除、ラジエータ・ホース交換、ウォーターポンプ交換、スターター交換、内部のベアリング交換修理、発電機(オートネーター)修理とベアリング交換、キャブレーター交換修理、ガソリン・ポンプ修理、クラッチ板交換、エンジン交換、オイル交換やギアボックス・オイル交換など沢山で覚えが無いぐらい行いました。
ボリビア国境の農場から1658kmもブエノスのアバスト市場まで12トンもの農産物を積載して走りましたが、55年昔のアルゼンチン奥地で未舗装の土道が沢山有ったので、良く大型トラックが故障しました。
3日間ばかりブエノスに行くまで掛かりましたが、二人で運転して行き、一度などサンチャーゴエステーロの砂漠地帯で、現地人の部落の側でタイヤ交換をしましたが、ランプの光を貸してくれ、暖かいトウモロコシの皮で巻いたチマキのような物をご馳走になり、お返しに積んでいたトマトを沢山あげると、喜んでくれました。
アメリカに来て家族5人で、7台ぐらい購入しましたが、それぞれの車に思い出があります。
私はトラックばかりで、最後に購入したトラックは初めてオートマで、歳を取るとギアの操作は出来なくなりました。
トヨタのタコマですが、3年でまだ3200マイルです。昔でしたら1ヶ月の走行だと思います。事故も1件だけで、自分でカスッた事故だけで、他人からぶっけられた事故は5回ほどあります。
80歳になり、余りスピードを出して走りませんが、今まで最高のスピードで走った事は、アフリカの南アフリカで、ヨハネスブルグに行く途中で、なだらかな丘陵地帯のスロープの頂上から、レンタカー新車のオペールでアクセルを最後まで踏み込んで、同乗していた友人が、なんまいだー!助けてくれ!止めてクレー!と絶叫していたのを覚えています。
スピード違反は1回あり、カリフォルニアの5号線をダッチ、チャレンジャーのV8エンジンで時速160km以上も走っていたら、なんと飛行機のハイウエー・パトロールに捕まりました。
今ではワイフの運転手で、時々、高速道路に行き、二人で130kmぐらいで短く走り、楽しんでいます。
アメリカに住んでいると自分で運転できなくなると、即ー!手足をもがれた様になり、そこで生活も激変しますので、目が黒い内は、健康でボケない内は安全運転を考えています。