2011年7月30日土曜日

私の還暦過去帳(22)

私もカリフォルニアに35年、南米や終戦で引き上げるまで住んで
いました台湾などを計算に入れると、人生の半分以上は海外での
生活になります。友人が称して「アメリカボケ」 「はんぱーー、
日本人」「お前の脳みそはチーズ」などなどーー、酷いことを
言います。近頃は「あ~!そぉ~!」でお終いですが・・。

成田空港で出発ロビーでの待合をしていたら、ペルーの日系3世が
カタコトの日本語で、「貴方はスペイン語を話しますかーー」
と聞いて来ました。

どうやら日本人でもニッポン人らしい風体に見えた様です。
「シーー、セニョル~!」で答えると、「にっこり」ですーー。
しばらくスペイン語で話していたら、英語が沢山混じっている
そうです、私は気がつかないのですが、おかしなスペイン語だと
言っていました。
でも話が通じましたので、時間潰しにはなりました。

おじいちゃんは熊本県人で、お父さんはニッポン語は少し話すそうで
私は「ちょっぴりーー」と言っていました。
世界も広くなったものです、でも一番今まで驚いたのは、ブラジル
で会った子供でした。

現地ブラジル人そっくりで、褐色の肌とスラリとした肢体でした。
いきなり「お前~、どこから来たんだべ~!」 との日本語でした。
「だべ~!」と言うのは茨城弁です、私の友人が話していたので
「ぎょ~!」でした。

その時私は標準語で話していました、すると子供は
「お前はー、日本人け~!」 と言う事で、もっと驚きました。
「お前のニッポン語はおかしいーー」 これも参りました。
その時父親が出て来て、「この子はブラジルでとれたから、少し
色も付いているよーー、」 と話してくれました。

その時母親が出て来て、紹介してくれましたが、黒人と白人の混血
で綺麗な方でした。

「近所が茨城県出身で、入植したのが同県人でしたのでこの子供まで
茨城弁しか話さないのです――」 「でも日本語学校も行っているの
で少しは日本語を維持しています」 たいしたものです。

御国訛りの言葉で、話を聞くのも日本を思い出して懐かしいものです。
私も正確な日本語を話しているつもりですが、
日本に行って買い物などで「え~!」と聞きなおされるのは、
ショックですーー、それだけ「ボケ」たのかも知れません、
しらない間に英語で話していた様です。

お恥ずかし・・、歳は取りたくないものです。

2011年7月29日金曜日

私の還暦過去帳(21)

アメリカは移民の国、また近年は難民の移住も凄いので、
多民族国家の名にふさわしい感じです。

私がこの重国籍問題を感じたのは、40年もの前に
農業技術者として移民船で南米に行くとき、日本に里帰りし
ていた、ブラジル移民の一番始めの、笠戸丸の移民者と乗り
合わせた事です、その当時かなりの高齢で

中には身体の不自由な人も居ましたが、長い船旅の間に、
色々な話しを聞く事が出来ました。

でも、一番思い出に残っているのは、横浜を出航してかなりの
時間が経つてから、夕方近くになり、黒潮のうねりも出てきて、
夕暮れの波間に犬吠岬の灯台の輝きが、波間に見え隠れして
いた時、夫婦が甲板で両手を合わして、

「これで日本も見納めだ!--両親の墓参りもした、
兄弟、親戚にも会った、美味しい物も沢山食べた。
これで何も思い残す事はない、安心して子供の居る、
ブラジルの土になれるーー、」と話して

居たのを聞いて、ジーンと来て目頭が熱くなったのを覚えています、
長いブラジル生活でも日本国籍は持たれて、二重国籍など、
日本人として恥ずかしいと話していました。
子供は全部日本大使館で、出生届を出していると話していまし
たので、子供達には、そうなるかも知れないと話していました。

昔の古い移住地を訪ねて、家の中に入ると、天皇陛下の写真と
日本の日の丸の旗が飾って有り、日本に住んで居る人以上に、
日本人の心を持った方々に沢山お会いしました。

そろそろ、46年近く経ちますので、皆さんがブラジルの土にな
られたと思います、国を思う時、異国で日本の郷愁に家族を思い
浮かべる時、今では簡単に電話で話す事も出来ますが、
昔の時代ではそれも出来ず、老齢になり、移住して初めて里帰
りする思いは如何な気持かーー、

現在の私達の便利な世の中での思いとは、比べられないほど、
感激の多い旅ではなかったかと、今でも思っています。アメリカ、
カナダそのほかブラジル、アルゼンチン、ペルーなど沢山の日本人
の先駆者達の努力の上、現在海外の日本人の基礎が有る事を
感謝して、今日のお話を終ります。

2011年7月26日火曜日

私の還暦過去帳(20)

貴方は意地悪された事が有りますかーー、
弱気だったりで、いびられる事はその様な心の隙間から入って
来るのではないかと思います。

カリフォルニアに住んでいて、私のやり方をお話し致します。
簡単に言えば、人種差別と言う偏見の対応の仕方です。
アジアンの日本人や、中国人、韓国人、ベトナム人等
全部顔つきはそっくりです、アメリカ人達は見分ける事が難しく
私が一番多いのは、韓国人に間違えられる事です。

不動産管理の仕事で預かって、管理していた家でした。
NYからカリフォルニアへ戻って来るので
改築して長い間、レントハウスにしていた家を綺麗にしていました。
NYに居るオーナーから携帯に連絡が有りまして、仕事が始まり
挨拶に行きましたが、そこの工務店のオーナーが中々酷い
南部訛りの英語で話していました。

私が「Hello~!」と声を掛けても、「ジロリーー」です、
何か「カチ―ン」と来ました。
何か見下げて感じで、返事もしません、それから相手は長々と
携帯で話し始めて、無視ですーー、
「そうかい~!」その気なら、こっちも筋金入りのヘソ曲がりです、
ド~ンと来いです、その日はそれで帰りました。

しばらくして工事の進みの様子を見に、時々見回りに寄ります、
窓の工事、配線の工事全てがミスして居ますので、オーナーに電話
して、クレームを掛けます、配線工事は市の改築許可も取って居ず
工事中止です、相手もおたおたーーしています。

オーナーは大喜びで、私の仕事ぶりをほめてくれます。
有る時、相手もどうしても聞かないと分らない事が有り声を
掛けて来ました。
それまで一度も「Hello!」も言いませんでした。
私が何と返事したか分りますか??
 
「アナタノ、英語全然ワカラナイーー!」
 「ナニモシラナイ―ー」

相手は、ほとほと困っていますが、私の関係ない事です。
自分でやれーーです、誰が助けてやるものかーーです。
契約で庭に放り出しているものは、捨てる物として許可なく
かたずけて良いとなっています、これも「しめた~!」です、
ドンドン捨ててやりました。

捨てられて悲鳴を上げています、大工の助士はカンカンで
怒鳴って来ましたが、「ジロリーー」です、「もんくあっか~!」
契約書を見せます、「ここに書いてあるーー、サインを見ろ!」
「チャンとお前のボスがサインしている、警察でも裁判所でも
どこでも行くぞーー、」大工の助士はーー、
 「――――~!」
 
「お前は英語を上手に話すではないか!」
 「お前の英語は分かるが、ボスの英語は分らない」

散々意地悪しましたので相手もだいぶ、さとって来た様です。
あのジジイはただものではないーー、こっちは法律はキチンと
守っていますので、「ぐ~!」も言えません。
「ザマミヤガレーー」です、工事もあらかた終り近くなって
態度がガラリですーー、相手もこれ以上ジジイのヘソを曲げたら
何をされるかと、心配してきた様です。

「へらへらーー」笑いかけて来ます、
軽くあごで挨拶するくらいです、「無視です」

相手は何かしょんぼりしています、少し後悔している感じを受け
ますが、相手は見上げるような大男です、それも何人も仕事
しています、しかし気迫だけはこちらが上です。
いっも細い目を細めてーー、「ぎろり~!」です。

しっかりと相手の目を見て話します、反らす事は有りません。
ニタリともしないで話しますので、緊張感が有ります。
おそらく相手は一度も日本人と仕事などした事が無かったと
思います、最後はまったく人が変った様になり、
 
「日本人はお前の様にサムライが多いのか」と聞きました。

ま~!、私に言わせるとサムライではなくへそ曲がりが正解でしょう。

2011年7月24日日曜日

私の還暦過去帳(19)

今日のお話は、1966年の南アフリカのケープタウンでのお話です。
題して、「アパルトヘイトは怖くない」。

私が南米から日本に帰国する時で、ケープタウン経由で船便で帰って
くる時でした。
南アフリカで停泊していた時、場所はケープタウンの町でした。
まだ疎の当時はアパルトヘイトが施行されていましたので、黒人と白人
の分離政策がなされていて、夜になると黒人は黒人居住区に帰ってしま
い街は静かなものでした。

船はオランダ船籍で高級船員は皆オランダ人でした。下級船員は
全部中国人で、広東系の人で殆ど香港で雇われていた様です。
船長以下高級船員の家族は南アフリカに住んでいましたので、

停泊が永かったのです。船は日本と南米を結ぶ、当時の南米行き、
アフリカ経由の定期航路でしたので、家族は殆どケープタウンに住ん
でいた様です。おかげでだいぶ永く停泊してくれましたので、あちこ
ち見物する事が出来ました。

日本語の分かる中国人が皮肉に「高級船員の生理休暇だ!」と
笑っていたのが印象に残っています。南アフリカはオランダ人が開拓し
た所も多くて英語もオランダ語が混ざった独特の英語です。それだけに
オランダ人の勢力が強かったのだと思います、当時の私は若かったので

人種差別など、「クソ食らえ――!」と、それと南米は余り差別は感じ
させませんので、特にブラジルでは楽しい思い出が沢山有りましたので、
疎の落差が大きいのには驚きました。

黒人が白人と対して、「サー」「マスター」などと返事に必ず使ってい
ます、我々の感覚からすると卑屈な感じです、港で働く労働者は特に
白人に注意している様でした。

船から下りて街に遊びに行く時、税関のゲートを通る時、生意気な若い
白人の税関使が居たのです。その言葉使いが先ず「カチーン」です、
そこを通過して、疎の時友達4人で「ナメルンジャ~ネーー!」と
日本語でやり返しました。

相手は我々を中国人と思っていたのです、オランダ船は殆ど下級船員
は中国人でしたので、ろくにパスポートを見もしないで脇に居た若い
税関使が「カチーン」と来る言葉で歓迎してくれたので、ますます印象
が悪くなりまして、あまり良い気分では有りませんでした。

港の近くの酒場でまず冷たいビールを飲もうと出かけましたが、
我々4人が入ると一瞬「シーン~ーー!」です、中は全部白人です、
勿論全部カウンターの中の人間も白人でした。

4人でカウンターで、ビールを注文しました。
無言でしたが、注文したビールが出てきましたので内心「ホット」して
飲み始めましたら、近くで飲んで居た船員らしき白人が「日本人か?」
と話しかけて来ましたので、少し気分が楽になりまして飲んでいました。

日本にも行った事が有るそうで、南アフリカでの注意も教えてくれまし
たので、だいぶ役に立ちました。
レンタ.カーを借りて内陸部にドライブした時、黒人居住区の貧しい
住宅地を過ぎた時にケープタウンの町との格差に驚いたものです。
それと公園などで、準白人待遇の東洋人も締め出す、
「ヨーロッパ人専用」と書かれた標識が有るのには驚きました。

当時まだ世界でも有数の黒人分離政策をしていましたので、白人優位の
政策が浸透していたと思います、毎日の様に通過していた税関のゲート
で例の若い白人の役人とだんだん剣悪な様子になって来ました。

英語の上手い友達が、からかったのです、それもキングス.イングリ
シュで、売り言葉に買い言葉でーー、それと疎の役人が近くの倉庫で
荷役労働者の黒人を何か怒鳴りながら、こずき回しているのを見てし
まいました。

これで仲の良い友達4人が切れてしまいました。
「頭にキターー!」のです、出航の日、計画は実行されました。
若い白人の役人が乗って来ている、自家用車をイタズラする事でした。
ピカピカに磨かれて、事務所の近くに置いて有ります。出航10分前の
ドラがなる前に、さーっと降りて、風の様に、時間にしたら20秒ぐら
いです。

「ぎぎーー、がりがり、ぶちゅう~、ガッンーー、キーーー」
そんな感じで4人ですので、タラップが上がる時には船室でTVでも
見ていました。

血の気の溢れた若い日本人の無謀なイタズラです、船は出ていく煙は残
るさぞかし若い白人の役人も、腰をぬかしていたと思います、誰かが言
いました。
「口は災いのもと」「人種差別の用語も災いのもと」、

今から思えば、馬鹿な事をしたものです、皆様は真似してはいけません
このジジイも昔は若い時も有ったのです、友達もそれぞれ現在は良い
親爺になって、孫も居ます、そして現在は、南アフリカは黒人政権が
誕生して、人種差別のアパルトヘイトも無くなっています。
今日はこの辺で、又お話致します。

2011年7月23日土曜日

私の還暦過去帳(18)

人は様々な生き方の人生を歩み、走り、疾走して終着点まで到着します。
早い人、遅い人それぞれです。私が会った方で、探検家として冒険家
として有名な植村直己氏です。私が彼を知ったのは1962年ぐらいの頃
と思います。大学に居た当時、明大の山岳部には凄いタフな男がいる
と聞いた事があります。その人が植村氏でした。
 
彼は1964年明大を卒業して、5月にアメリカに旅立つたが、私は8月
に南米のパラグワイに単身移住をして、横浜を出航して行きました。
そのあとは彼の消息を知ったのは、アルゼンチンのブエノス、アイレス
で丁度、彼が南米最高峰アコンカグワに単独登頂して戻って来た頃で
仲間の友人と安宿に滞在していました。彼はアマゾン河の筏降りを
 
計画していた頃と思います、彼は冒険家として常日頃、ニユースで
消息が載っていましたが、私は彼が冒険家としての職業を選ぶとすれば
いつの日か彼は危険な局面に出会い、命の危険もあると感じていました。
彼は単独登頂と言う登山、人が試みない冒険など、話題が絶えない
人でした。私は土に情熱を掛けて人生の道行きを試して居た頃で、
 
南米のジャングルでの開拓に人生の面白さを見出して、熱中していた
頃でした。それぞれ人は一つの物語を残すと言いますが私は平凡な
百姓の農業の道でした。一度日本に帰国して1976年にアメリカ
のカリフォルニアに家族を連れて移住して来て、3人の子供達と
平凡な家庭生活を楽しく営み、子育てに親の生き甲斐も見出していた
 
頃でしたが、確か1984年頃で、アラスカのマッキンレー冬季登山
をして、登頂に成功して下山途中に行方不明となり、帰らぬ人となり
ましたが、そのニユースを聞いた時は悲しくなり、同じ歳の人間として
その冥福を祈っていました。私は彼の生き方が何か、つきものに取りつ
かれた様に人生を走り抜けて行った人だと、今でも感じます。
 
人はそれぞれで、人生は一度しか有りません、しかしその命短い人生
をどの様に使うか、その人の人生ですーー!貴方はどの様に計画して
実行していきますかーー!、一つだけの貴方の人生です。
植村直己氏は確か43歳でアラスカの冬山に消えて行かれました。

2011年7月21日木曜日

私の還暦過去帳(17)

 ジジイで月末で事務処理が忙しくて中々暇が取れません。自営ですの
 で全部自分でやっています。三ヵ年前に会社も引退の為に閉めまして、
 自分で出来る仕事だけを残して、気楽にやっています。
 不動産管理の仕事です。気楽ですが少し技術が無くてはなりません。
 あらゆる事に対して、直ぐにやる事が出来ないと、えらい事になりま
 す。今日のお話はレントハウスでの、だいぶ昔のお話ですーー。

 ある時、中国人のオーナーから電話が有りまして、新しいテナントが
 入居したと連絡が有りました。
 それそれーーと出かけて行き、見に行きましたが、えらいこっちゃで
 す、どでかい犬が居ます。そのレントハウスでは初めてです。だから
 塀の点検を頼んで来たのです。

 近寄ると、「ぐわ~!」です、気の強いジジイもおたおたーーです。
 ハンマーと釘をトラックから持って来て、トントンと修理始めました
 が犬は、その板塀の隅を「ガリーーガリーー、」です。歯も磨いてい
 ませんので臭い息がして来ます。

 よだれもだらだらーーで、板をはさんで10センチも離れていません。
 邪魔なバラの枝を切って除け様とすると、それをガブリです。馬鹿な
 犬です。口が血だらけになり、凄い形相になりました。
 犬もトサカに来て「食い殺してやる~!」の形相ですがーー、
 ままーー、専門家ですので慌てもしません。

 トラックに戻り、催涙スプレーを取って来ました。
 動物用の胡椒のエキスがたっぷりと入っています。15分から20分
 はヒックリ返ってしまうほどの凄さです。
 塀の内側も釘を打たなくてはなりません。

 ま~そう言う事でーー、少しちょっかいを出して、からかって、犬が
 ドダマに来て、「ぐぁ~!」と大口を開けて塀の側に来た所を
 「ぶちゅ~!」とスプレーしました。

 なれたもので跳ね返りを避けて目をつぶり、横を向いていましたので
 少し時間がたってから犬を見ると、なんとーー、前足で両目を覆って、
 ひっくり返っています。口は開けたままです。
 よだれがーーだらり、少し口から泡も吹いています。

 塀の中に入りまして、まず用心して犬の尻尾を蹴ります。すると股間
 の間にジジイがうらやむほどの大きな物がぶらりでしたが、それをく
 るりと尻尾で丸めて隠してしまいました。
 どうやら降参のシンボルです。それそれーーと仕事をしてしまいまし
 たがまだ起きません、だいぶショックだった様です。

 テナントも留守の様でメモを書いて来週も見回りに来ると残してきま
 した。
 次の週です。私のトラックが止まると、犬がパット駆けて来ましたが、
 私と顔が会うと、「いけね~!あのジジイだーー」と直ぐに隠れてし
 まいました。
 中々近寄って来ません。そのつもりで犬用のビスケットを持って来ま
 したので、「ぽ~い!」と投げてやりました。

 これも前のレントハウスからの残り物です。そこでは沢山貰って食べ
 ずに残していますので、せいぜいカラスが食べに来るくらいです。私
 がかたずけて、少し貰って来ました。
 犬は用心深く近寄って食べ始めます。先週の様に馬鹿に吼えもしませ
 んので楽です。それからは毎週もらい物ですが、ビスケットや干し肉
 を少しずつやりまして、仲良くなりました。

 塀の中に入っても後を付いて来ます。日中は誰も居ませんので犬も寂
 しいのだと思います。ボールを投げて遊んでやりますと嬉しそうに何
 度もくわえて来ます。暑い日は冷たい水もバケツに沢山入れていっで
 も飲める様にしておきました。

 暑い日に私も木陰で休んでいますと、側で座って見ています。犬小屋
 の壁に下げて有るブラシで毛をブラシーングしてやると気持ち良く寝
 ています。仕事が終って帰るときは出口の門まで見送りしてくれます
 ので何か友達になったみたいです。

 でもある日、携帯電話にオーナーから電話が有りまして、テナントが
 引っ越したと言って来ましたので、直ぐに見に行きましたがそこには、
 引越し残りのダンボールとゴミが残されているだけでした。
 犬が居た小屋も有りません。そこには半分だけ土に埋まったボールが
 一つ有るだけでした。

 がら~とした庭には紙くずが風で飛ばされて、侘びしいものです。
 あの大きな犬もどこか引越ししてしまったのだと思うと、ふとーー、
 私も毎週会っていたので何か心寂しい感じでした。
 犬とも一期一会の出会いですが、物言わぬ動物達との別れも何か心
 に残る事が有ります。

2011年7月19日火曜日

私の還暦過去帳(16)

 自殺志願の16歳の女性に送ったインターネットのメール。

 貴方のメールを読んで思い出したことを書いて見ます。
 1966年、アフリカのモザンビークで会った子です。
 その頃はモザンビークは内戦でポルトガル軍とゲリラが激しく戦って
 いた頃です。
 港で子供を連れて、物乞いして、片手では桟橋から釣りをして魚を釣
 っていました。
 歳は16歳で家族は全部殺されて、一人逃れて来たと話して居ました。
 途中逃げる為と、命を守る為に何度もレイプされて命と食べ物はかろ
 うじて繋がったと話していましたが、子供が出来てその誰とも分から
 ない子供を必死で育て、生きていました。

 朝は4時には青空市場で野菜くずを拾い、それから港で魚を釣りなが
 ら、物乞いしていました。
 外国船の船員が沢山お金を恵んでくれるからと話していましたが、そ
 のたくましい生活力、忍耐、生き様とする執念、とても16歳とは思
 えませんでした。

 母乳がたらなくて、粉ミルクを買う金が無いと、なくなったカラの缶
 を見せて、私にお金をくれる様に頼みましたので、お金をあげると、
 子供と釣り糸を預けて直ぐに飛んで買いに行き、粉ミルクを水で溶か
 して飲ませていました。

 一日一日が生きる、食べる、子供に食べさせる事で、死にもの狂いで
 生きている子供でした。
 しかし、その笑顔と、子供に注ぐ愛情は涙が出るものでした。
 彼女はその赤ちゃんを神様の贈り物と言って、キスして、私に見せて
 くれました。

 その子は夕方僅かな魚を持って、これから1時間は歩いて難民キャン
 プに帰ると話していました。
 一日二度しか食事は出来ないと話していましたが、それでも死にもの
 狂いで生きている、そして子供をそだてて居る16歳の女の子が居た
 事を知って下さい。

 貴方が死にたいならば、生きたいと願って毎日臓器移植を待っている
 人の為に、間違いなく移植カードにサインしてからにしてください。
 宜しくお願しておきます。それで沢山の人の命が助かるならば、それ
 も世の為です。
 無駄にはなりませんーーー。


追伸。
 この女性はその後ーー、この16歳の女の子は腕を自傷して、死ぬよ
 ーー、死ぬよーー、と廻りの注目を集めて居た様ですが、その子は私
 が投稿した原稿に、「これに賛成するやつは全部落ちてしまえ~!」
 と書いて、そのあと、ごつそり読者を無くして居た様です。その後し
 ばらくして、チャットの中で偶然遊んでいるその子がいて、何か「け
 ろり~!」で,ぎゃ~!と騒いでいるのを聞いてー-、あははでした。

2011年7月18日月曜日

私の還暦過去帳(15)

だいぶ昔の話になりますが、面白い話しが有ります。
 カリフォルニアではスクールバスが生徒の送り迎えをしている所が沢
 山有ります。
 朝のラッシュアワーでした。仕事に出かける所で信号を待っていまし
 たところ、隣りの車線にスクールバスが止まり、並びました。
 すると窓から小学生らしい生徒ですが、こましゃくれてひねた感じの
 子供がこちらを見ています、パチンーー!と目が会いましたとたん、
 白人の子供は中指を立てて、何かアジアンをケナス言葉を吐きました。

 ジジイも歳も忘れて、「カチン~!」です。
 朝から気分が悪くなりました。
 例のごとくジジイの反骨の意地悪精神が「むらむらーー」です。
 黒人運転手のおばさんがチラリとみて、子供に注意しています。
 私は近くの小学校を知っていますので先回りして、スクールバスが停
 車する隣りのパーキングに入れました。

 まずシャツの腕をまくり上げて、野球帽子をアミダにかぶりなおすと
 外で立って待っていました。
 中々来ませんので時間潰しにタイヤの空気圧をテストする棍棒でタイ
 ヤを「ボンー、ボンー」と叩いて音を聞いていました。
 するとそこにバスが入ってきました。

 「チラリーー」と見ると先ほどの子供が目を見開いて「ぎょ~!」と
 見ています。今度は目が会うと「ピヨン~!」で瞬間で消えてしまい
 ました。

 バスの出口で口をひん曲げて、細い目を益々細くして、腕組みして立
 っていました。

 黒人のバスのおばさんは「げらげらーー」笑っています。
 中々先ほどの白人の子供は降りて来ません。
 友達が大きな声で、「そらみろ~!いわんこっちゃない~!」とさと
 しています。「出ていってあやまれ~!」と廻りから言われています。
 私は何も、一言も言いません。

 出口で立っているだけですが、凄い効果があります。
 バスのおばさんが早く降りろと怒鳴っています。
 すると先ほどの子供が両脇を友達に抱えられて、13段の死刑執行の
 階段を歩くごとく、とぼとぼーーと出て来ました。

 うつむいたままです、友達が、「早くおじさんにあやまれ~!」と怒
 鳴っています。「お前があやまらないと絶交だ~!」と隣りの子供も、
 「先生にいいつけてやるーー」と怒鳴っています。
 その時、蚊の泣くような声で、べそかいて、「ごめんなさい~!」
 「二度としませんーー」と言いました。

 子供達は「おら~い!それでなくちゃ~!」と口々に言います。
 一人の子供が私に「あいつは謝ったのだからーー、握手してくれる」
 と聞きました。
 私も「OKーー!」です。私と子供が握手すると「ワ~!」と歓声が上
 がり、先ほどの子供はもう一度、「ごめんなさいーー」と言うと、走
 って学校の中に消えて行きました。

 バスの黒人のおばさんもニコニコして見ています。私は手を振って挨
 拶して、車を発車させました。
 時々、スクールバスを見るとその事を思い出します。

2011年7月17日日曜日

私の還暦過去帳(14)

 今日は韓国人の国籍観について少し意見をのべてみたいと思います。
 長い間に私は三代の韓国人の世代を観察する事が、付き合いの中で有
 りました。これはカリフォルニアで35年も在米しての経験から私の
 個人的な主観から書いているものです。

 韓国人の国籍問題、それに関する感情の移行を見る事が出来ました。
 在日で娘がアメリカに結婚して移住してきて、アメリカ国籍も取り両
 親を呼び寄せたのです。それに伴い彼は50年以上居た日本では帰化
 しなくて、5年の待機期間が過ぎると直ぐに帰化してしまいました。
 アメリカには何にも抵抗なく帰化して行きました。

 そして嬉々として帰化した事を喜んでいました。
 その娘はやはり韓国から幼い時にアメリカに移住してきた韓国人と結
 婚していましたので、その同じ韓国人でも感情の違う同士の組み合わ
 せを観察する事が出来ました。

 その子供はまったくのアメリカ人で、英語を話して韓国語は第二外国
 語の範囲で、私と話す時も違和感が有りませんでした。
 ご主人は小さい時にアメリカに移住して来て、此方の学校を出ていま
 すので感覚的に違和感がありませんでした。

 しかしその家族でソウルからアメリカにたよって来ていた家族の子供
 は私が日本人と言うこと自体で、何か違和感が有りまして、暫らくし
 て英語も上手になってから話す時も、何か打ち解けない感じでした。
 話しの端はしに反日教育がされた文句が出て驚いた事があります。

 同じ韓国人でも世代、教育環境においてこれだけ一人の主観が子供で
 も変化して、変わって行くのを観察して色々と勉強になった事は多い
 と思います。私はこれまで自分の仕事の関係で韓国人を雇った事もあ
 
 りまして、これまでに沢山の韓国人の心理的な物の考え方を学ぶ事で、
 批判と言う目が養えたと感じています。特に在日韓国人でも朝鮮学校
 での教育を受けた人は理論が偏って、批判と言う対称をする物差しが
 偏屈で有ると感じました。
 仕方がない事です。それだけの教育環境しかなかったのですから。

 しかし日本人で、これに反発する人が沢山出ている事をもっと理解し
 て貰えばと感じています。人間は相互理解がないといっまでも違和感
 と、いがみ合いの精神しか出来ません。アメリカで育った韓国人の子
 供が自由な発想と精神で日本を見ている事にも驚いた事が有ります。
 教育の大切さが良く分かりました。

 これからの韓国と日本の相互理解と平和的関係は、根本の教育改革が
 是非必要と感じます。それにより国籍と言う民族の理解が深まる事と
 思います。

2011年7月16日土曜日

私の還暦過去帳(13)

今日の話は46年ほど前に、アルゼンチンで農業をしていた時でした。
 
 田舎の山奥のジャングルでの生活は単調な繰り返しで毎日が激しい労
 働でした。
 遊びと言う休息は魚釣り、鉄砲撃ち、酒を飲に町へ行き若い女の子達
 と、ぎや~!と歌って踊って、馬鹿騒ぎをしている事などでした。
 或る時近所で山豚が出て来たとの事で、インジオの案内で鉄砲撃ちに
 出かけました。

 狩猟はガイドが居ないと危険で、獲物を撃つ事は中々出来ません。撃
 ち方は二名で、ガイドのインジオが道案内してくれましたが、猟犬を
 3匹連れて来ました。
 私達二名は木の上で待つ事になり、インジオが犬を連れて山豚を河の
 近くの藪から追い出して来ました。
 7~8頭の山豚が犬に追われて逃げて来ましたので、その中の大き目
 の一頭をライフルで狙い上手く倒す事が出来ました。
 しかしもう一人の友人は打ち損ねて、傷を負わせてしまいました。

 大きな山豚は強暴な鳴声を上げて、犬達に襲いかかり傷で動きが鈍く
 なって逆襲してきたのです。逃げられないと観念しての逆襲であつた
 と思います。ライフルで狙っても近くに犬が居ますので撃てません。
 インジオが犬達と山豚との格闘している所に追い付いて来まして、直
 ぐに至近距離から山豚を散弾銃で打ち倒してしまいましたが、猟犬の
 
 1匹が牙でやられてかなり腹部を切り裂かれて居ました。
 彼は直ぐに犬を膝に抱いて、消毒をアルコールですると、縫い針で腹
 部を縫合してやりました。
 しかし出血が止まらず、直ぐに犬も弱って来ましたがどうする事も出
 来ずに止血する為に必死で看護していました。

 しかし犬は主人の膝で弱り行くのが分りました。
 しばらくして、ふと見ると、他の犬も近くでじっと見ています。
 膝の上で抱かれている犬は主人をゆっくりと見上げて、抱いている手
 を「どうもーー、長いあいだ世話になりましたーー!」と言うかの様
 に、ゆっくりとーー、ゆっくりとーー、舌で優しく舐めると最後は彼
 の手にあごを乗せて目をつぶると二度と開きませんでした。

 インジオは山豚の両目を復讐するかの様に撃ち抜き、山刀で頭を切り
 落としてしまいました。
 河の岸辺の小高い所にシャベルで穴を掘ると、その山豚の頭を枕にし
 て、その猟犬を寝かせて土をかぶせると石を乗せて、お墓の様子を作
 り、その前で生き残った犬とジット座っていました。

 私達が帰ろうと誘っても動きませんでした。
 彼は低い声で何か歌っていた様です。先に帰ってくれと言いますので、
 歩き始めてもしばらくは彼の悲しい歌声が低く流れて聞こえていまし
 た。
 かなり離れた所からでも彼の泣くような歌声が聞こえていました。

2011年7月15日金曜日

私の還暦過去帳(12)

 
いつも夏になると思い出す事が有ります。
今日のお話は題して、「真夏の昼夢」と私が心に感じている事です。
かれこれ20年以上にもなりますが、思い出は鮮明に今でも覚えています。それは夏休みに入り、かなり暑くなった時期でした。
私はその頃、大きな集合住宅のアメリカでコンデミニアムと言う、住宅の管理を請け負っていましたが、夏になると、散水装置の故障や、その修理
に追われていました。

かなりゆったりとした緑地の中に建物が建てられていましたので、見回りは自転車でしていました。その集合住宅も古くなって、あちこちと痛みが出ていた時期でした。散水装置のスプリンクラーの配管装置はPVCの
プラスチックのパイプで、接続部分の接着剤が老化で、良く水が漏れて修理に追われていましたが有る日、3インチの本管が木の根で押し上げられ

破裂して、大仕事になりましたが週末に散水装置を修理しておかないと
その当時かなりの暑さが続いていて、水を庭園に散水しないと、えらい事になり、平日は決まった仕事が山の様に有って、行列していましたので、どうしても週末にかたを付けて、修理を終わらせてしまいたいと思っていました。

週末の休み、朝早くからまず大きな穴を掘り出して、かなり掘りましたが
沢山大きな松の根が有ってそれを切って処理するのに手間が掛り、中々
はかどりません、土も粘土質のコンクリートの様に固い土でシャベルでは
歯が立ちません、つるはしで少しずつ掘り、シャベルで土を出していました。

集合住宅の直ぐ近くに高校が有り、賑やかなスポーツ大会が有っている
様でしたが、パーキングが出来ない車が、こちら側のコンデミニアムの
来客用パーキングにも来ていました。一台の小型スクールバスがどこかの
高校のチェアーガールを乗せて来て、パーキングしてそこから応援に道路

を隔てて歩いて競技場に行つたのを知っていました。お昼のランチ時間も過ぎて、かなりの格闘の末に穴も深く掘りプラスチックのパイプも見えて来ましたが、破裂してかなり穴の奥はドロドロのぬかるみで私も汚れ
放題で必死に綺麗に土をかたずけて、修理のスペースを確保

するのに木の根を切って、また伸びてパイプが破損しない様に切りとって
いました。そんな事でかなりの時間を食い、あらかた見込みが立った頃は
夕方近くなって、お腹も空いて、持って来た水も飲み終えて、疲れ果てて
ドロだらけで、まるで泥人形のていで仕事をしていました。

疲れてペタンと穴の中に座り込んで、まるで墓穴の中にいる感じでしたが。やっと最終の接続を済ませ、接着剤が乾燥するのを待っていたと思います。その時です、松の根っ子の茂みの向こうの塀を境にしたパーキングから賑やかな若い女子高校生らしいチェアガール達がドヤドヤと高校から

帰って来た感じで賑やかな話し声が聞こえていました。 塀の僅かな隙間から見ると色鮮やかなユニホームが見え、若いピチピチしたミニスカートの女の子が沢山見えます、すると中の一人が廻りを見廻すと、こちらの茂みに駆け込んで来ました。それからが私がアッと仰天して、腰を抜かした

事が起きました。私が見ているのも知らず、いきなり『じや~!』です、板塀の隙間から生暖かい飛沫も飛んで来ました。穴の中からピョコンと少し顔を出しているぐらいでしたが、多分誰かが見ていたら、いいかげん良い歳したオッチャンが目を見開いて、仰天して、驚愕の表情で、飛沫を浴

びながら放心して、ドロだらけの顔が引きつっていたと思います、多分口は開けてはいなかったと思います、それは変な味がした飛沫が口の中に飛び込んで来た記憶が無いからです、古い板塀の下はかなり痛んで隙間が有ったから、口を開けてポカンとしていたら、たっぷりと味見をする羽目に

なっていたと思います。『次ぎーー早くおいで~!』との声と同時にまた、今度は『シーーーーーー!』と穏やか系の音、しかしえらい物を見てしまいました。あそこの色がチラリと見えたからです。平凡な普通のオッチャンです、『ドキーン~!』と心臓が高鳴り、ドキドキと心臓の異常鼓

動がしているのが自分でも分かりました。その時です、スーッと腰の力が抜けてくるのが分かり、穴の中でペタンと座り込んでしまいました。晴天の霹靂とはこの事です、次ぎの『ジョーーーーーー!』と音が変わると、怖いもの見たさに意思に反して身体はヨタヨタと動いて覗いていました。その時ですーーー!

一瞬、「ギャー!」と言う感じで本当に腰が抜けてしまいました。それは、沢山いた女の子の中で金髪のスラリとした、可愛い子チャンだったからです、トンカチで一発、頭を「コチン~!」のショックぐらい有りました。ヘナヘナと腰が砕け、後は本当に穴の底にペタンです。

まあ~!皆様考えて見てください
これまさに、腑抜けになるとはこの事です、産まれて初めてそして最後でした。直ぐにバスは賑やかな若い女の子達の、はしゃぎ声を残して消えて行きました。穴の底では放心して、ペタンと座り込んだ、良い歳をしたオッチャンが仰天と驚愕の表情で、穴グマの様にうずくまっているのを想像してみて下さい。

そなん事で、しばらくは頭の中は真っ白で、空腹も、疲れも、腰の痛みも全部忘れていました。どのくらい穴の中に座り込んでいたかは、今では覚えてはいませんが、「はっ~!」と気を取りなおして我に帰り、主バルブを開けてテストしました。水が漏れません、一回で成功して3インチパイプの修理が終りました。

やれやれーー!で庭園に散水のスプリンクラーを全開して、その中でドロで汚れた身体を服を着たまま洗っていました。穴を掘っていた直ぐ近くに野生のブラックベーリーを発見して手のひら一杯取りまして、それを口に入れながらニタ~!か、へらーへらーかは覚えていませんが、笑いながらーー!どこかのホームレスか、キチガイの風体で、シャワー代わりに水を浴びていました。

長年にわたり仕事をしていた場所ですから、誰も警察には電話しませんでしたが、代わりに、コンデミニアムに住んでいる人が、「修理終った~!」「Hello~!」などと声を掛けてくれました。私はその時、疲れて、空腹で、腰も痛み我慢の限界に来て、少しイライラして頭に来ていました。

打ちしおがれた私を神様が元気ずけに、チョイトいたずらをしたのだと信じておます、有り難い事です。この様な話しをジジイが棺桶に入れて、あの世とらに持って行っても、何も神様はお喜びはなさらないと感じ、ボケて忘れない内に皆様のお耳に入れたしだいです、この話しはワイフ殿にも内緒の丸秘の話しですので、どうか心して読んで下さい。

そしてその夜、ワイフ殿がのたまわく「今夜はいやにしつこいね~!」と、どやされましたことも書いておきます。 
はいー!そんなことで今回は終りです。

私の還暦過去帳(11)

事実は小説より奇なりと言いますが、確かに私もそう感じます。
だいぶ昔に、サンフランシスコで会った方でした。
 
その女性は歴史を背負って歩いて来た様です。父親がロシア革命から
逃れて、満州のハルピンに居たそうですが、それから韓国の日本海側
のある町に住んで居たと言っていました。
 
父親は韓国語を上手に話して、戦争が激しくなるまでは平和に暮して
いたそうです。終戦となり赤軍のロシア兵が南下して来て、ロシア革
命での避難民的なロシア人はロシアに連れ戻される危険が有ったので、
家族は上海に逃れて行ったそうですが、彼女は、そこでアメリカ空軍
 
の兵士として、上海に来ていたご主人と知り合い結婚して、アメリカ
に移住して来たそうです。ご主人はアメリカンクラブで知り合い、そ
れまでは中国軍にアメリカからフライング.タイガーとして有名なア
メリカからの義勇軍に参加して、中国の上空で日本軍と激戦の空中戦
 
をしていたそうですが、その戦場から生きて生還して、当時は輸送機
のパイロットをして、良く上海から台湾まで、バナナや熱帯果実を運
ぶのに彼女を乗せて飛んでくれたそうです。しばらくして復員してア
メリカ本土の空軍基地で、ご主人が勤務していた時、夜に帰宅する時
に交通事故で急死してしまい、死んだ彼の同僚が余り英語も上手では
 
なかった彼女の世話をしてくれる様になって、親しくなり、結婚して
子供も生まれて幸せな家庭を過ごして居た時に、べトナム戦争が始ま
り、ご主人は戦闘機のパイロットとして出撃して、ベトナム軍に撃墜
されたが、ヘリコプターで救助されて病院に収容されたが、それから
3ヶ月後に後遺症で亡くなったそうです。
 
彼女は歴史にふり廻された一人だと感じます。
 
彼女が見せてくれた蒋介石総統からの直筆の感謝状を見て、ご主人が
フライング.タイガー時代、仲間のアメリカ人パイロット達と、どの
ような戦いをしたかが偲ばれました。
 
飛行服の皮ジャンの背中に漢字で、撃墜された時の用心に「このパイ
ロットは中国軍に協力するアメリカ人である。救助して、安全な所ま
で避難させ、当局に引き渡したら、多額の賞金を支払う」と書かれて
いました。
 
彼女が見せてくれた、ご主人の遺品でした。
その当時、子供も育ってしまい、一人アパートに住んで居ました。
彼女は時々、御主人の遺品を出して日に当てていました。
 
飛行服を抱きしめてーー、
 「どこかに彼等はーー遠くに飛び立ってしまった」
 「みんなーー、みんなーー、急いで、私を置いてーー!」
 
彼女は晴れた爽やかな日に良く思い出す事は、中国大陸から台湾の台
北まで、DCー3の輸送機でバナナやその他の荷物を取りに行った帰
り、操縦席に座らせてくれて、台湾海峡をのどかに、爽やかな日差し
の下に飛んだ事がいっも思い出されると話していました。

2011年7月14日木曜日

私の還暦過去帳(10)

 今日のお話は最近亡くなられたビルさんと言う方のお話です。
 彼はアメリカ海兵隊員として、硫黄島の戦闘に参加された方です。
 彼から硫黄島の激戦の話を直接聞きました。

 彼は硫黄島でも一番の激戦であった、すり鉢山のふもとの海岸に第一
 波の強襲部隊として参加したそうです。上陸舟艇で海岸の砂浜に接岸
 すると、直ぐに激しい射撃がすり鉢山から有ったそうです。砂浜に伏
 せたとたん、「ガツーン」と激しい衝撃を鉄兜に受けて、そのまま失
 神してしまったそうですが幸いに弾は貫通せずに「べこり~!」とひ
 
 しゃげて砂浜にのびてしまったそうです。幸いに直ぐ側に看護兵が居
 たので、そのまま引きずられて、乗ってきた上陸舟艇で沖合いの病院
 船に連れて行かれましたが、幸いにコブが出来ただけで、命には別状
 無いとの事ですぐに、第一波が苦戦との事で、第二波の攻撃部隊に参
 加して、自分の部隊に戻ったそうです。その時は橋頭堡を築き、部隊
 
 は100mぐらい内陸部に入った、砂丘の下に隠れていたそうです。
 彼はブロウニング自動ライフルの射手として、味方の歩兵の援護射撃
 をしていた様ですが、弾倉を撃ち終わって砂丘の淵から弾倉を入れ替
 えて立ち上がったとたん、腹部を撃ち抜かれて砂丘の下に転げ落ちて
 のびていたそうです。そこでも彼に幸運の女神が微笑んで、なんと~!
 
 そこには看護兵が激しい銃弾を避けて、負傷者を看護していたそうで、
 直ぐに上陸舟艇に担ぎ込まれて、手当てを受けながら病院船に運ばれ
 て腹部の切開手術を受けて腹部重傷ながら命を取りとめて、本国に送
 還されたそうです。

 彼が話してくれましたが、上陸したアメリカ海兵師団第4、第5、師
 団は戦闘消耗率が75%に達したと言っていました。
 サイパンではわずか20%の消耗率で有ったことを考えるといかに激
 しい戦いであったか分ります。彼は勇敢に戦って玉砕した日本兵に敬
 意を払い、祈っていました。
 
 戦闘開始時に日本軍、2万1千の守備隊で、7万5千の上陸部隊を迎
 え撃ち、2万5851名の死傷者を与えて戦闘は終りました。

 彼は戦後日本にビジネスマンとして行き、長い間仕事をして、最初の
 奥さんを病気で亡くすと、日本人の女性と再婚して、亡くなるまで
 カリフォルニアで仲良く暮していました。

2011年7月13日水曜日

私の還暦過去帳(9)

かれこれ46年も前になります。
私がアルゼンチンのブエノス.アイレスから170キロほど内陸部に
入った町で、野菜栽培を始めていた頃でした。その頃チビリコイと言
う町は廻りは牧場と大規模なトウモロコシや大豆、小麦などの畑が
連なり、パンパの広大で、肥沃な穀倉地帯を見る事が出来ました。

その町に戦前から、沖縄県出身の上原氏が、ご夫妻で洗濯屋を開いて
いましたが、良く町に出た時に立ち寄り、お茶を御馳走になり、話を
聞いていました。戦前の1935年ぐらいの時代に、ブエノスから
若い青年がこの田舎町に流れて来て、カフェーのボーイをしていたそ
うです、時々訪ねて来て話もしていたと聞きましたが、ある日、その

店のオーナーが朝早く訪ねて来て、日本人の若者が店に出てこないので
言葉の解かる貴方に、一緒に来て見てもらいたいと、頼んで来たので、
下宿を訪ねてドアを叩いても返事がなく、その家の大家に頼んでドア
のカギを開けてもらい、中に入ると、ベッドの中で眠る様に亡くなって
いたと話していました。誰にも見取られる事もなく寂しい生涯だった

様です。どこから流れて来たかも、詳しくは知らなかったと話していま
したが、日本人会で義援金を出し合って埋葬して、旅券はブエノスの
大使館に届けたそうです、埋葬は隣り町に日本人会長が居たので、その
町の墓地の一角に小さな墓が造られたと言う事でした。
今の世の中からすると、日本人の往来も極端に少ない時代、まだ交通

手段が船の時代です、私が歩いていた狭い範囲でもその様な話しを
聞く事が有りました。しかし1650年代にスペイン人の従者として
どこかアジアの港町からアルゼンチンに連れてこられて来て、
ラプラタ河をさかのぼり、内陸部に入ったロサリオの町の教会で洗礼
を受けた2名の日本人の若者がいたと言う事が、洗礼の記録に残って

いると聞いた事が有ります。歴史に埋もれた話しと思います。
その頃、遠い昔の時代に勇気ある青年がいたと感じます、金で買われ
てきた身かもしれませんが、今では確かめる術も有りません、上原氏
もすでに亡くなられて、遠いアルゼンチンの土に眠っています。

2011年7月9日土曜日

私の還暦過去帳(8)

私もだんだんと歳を重ねると、思い出す事が沢山出てきます。

1976年でした、アルゼンチンとブラジルを訪問するので
二ヶ月ほど旅をしていました。
行き道でした。ペルーのリマの飛行場を飛び立ちまして、最終
到着のサンパウロに着く予定が夜中でした。

リマの飛行場を飛び立ったのは夕方で、かなりの明るさに
夕日を浴びて飛び立ったのを覚えています。

しばらく飛んで、アンデスの山頂の雪を被った山々の頂きを
見ながらその夕日で輝きの赤ね色に染まった山肌を見て、
その下のアマゾンの緑濃いい輝きの中に細く、くねくねと曲がって
流れて居る河の水面もかすかに色ずいて、赤き絵の具を混ぜている
錯覚を覚えました。

その10キロもの上空から眺める展望は、この世のものとは
思われない天地創造の時代を彷彿させる、想像の世界で
心の画像にしっかりと写していました。

かなり離れた地平線のかなたは、どす黒く墨を流した様に
染め上げて、その中に雷鳴が飛び散る様は、息を呑む感じで
緑の群生の木々がまるで空高い上空から見ると、
まったく緑の濃いい絨毯を見ている感じでした。

黒くびっしりと地平線を埋めた黒雲は,その切れ間に、
光輝く光帯の細かな幾筋の五月雨のごとく細かな光の糸を
垂らして、神々がその光の筋に照らされて天上から降りて来る
のではないかと想うのでありました。

天地創造の世界がこの様な世界ではないかとふと~!
感じまして、何か涙が込み上げて来た不思議な感じでした。

今でも時々、Matsui Keikoの癒しの音楽を
かけて、ゆったりとソフワーに身を沈めて、目を瞑りーー、
心のページを開いていくと、今でもその景色が音もなく
神々の世界の光景のごとく現れて来ます。

景色の中で自由に飛び回りながら、自分が空中を鳥の様になって
いっしか飛び回っている幸せを見る事が有ります。

心のアルバムにしまっていますので、いつの日か私の命が
消えるとき、同時にこの景色も消え果てると思います。

2011年7月7日木曜日

私の還暦過去帳(7)

 人生は遠き道を、重き荷物を持って旅する如きーー。現実のドライブ
 はその道路、運転する車両によって変わって来ます。私が一日で一番
 沢山運転したのは、約1500Kmでした。

 朝の3時頃から、夜の9時近い時間まで運転しましたが、アメリカの
 高速道路では、かなりの速度で走れます。
 平均すると時速100Kmで走っていると思います。

 一番遅く走ったのは40年前、パラグワイのポンタポランの郊外で、
 まったく道のない所を、トヨタのランドクルーザーで走った時でした。
 移住地を訪ねて行く時に、雨の後で道路がすっかり消えてしまい川床
 をたどって走って行きました。

 道なき道を走ると言う事は、この事かと思いました。
 また車も結構タフに造って有る事を感じて、体感で思い知りましたが、
 道の無い所を走ると言う事は時間の掛かる走行だとしみじみ感じた思
 いがします。激しい衝撃で計器類がほとんど壊れていました。

 一番早く走ったのはアフリカで、南アフリカのヨハネスブルグに行く
 道を、新車のオペールのレンタルカーで、大きくうねる波状地形の一
 番丘の上から、突進する様に全速で降りたら、160Kmのスピード
 が、メーターに出ていました。

 同乗していた友達に気がついたら、「なんまいだ~!」と叫んでいま
 した。

 ひきつった顔で、「こらえてくれ~!」「止めてくれ~!」と怒鳴っ
 て、最後は「ヒーー~!」と座席にしがみ付いていましたので、よほ
 ど怖かったと思います。

 当時1966年頃でーーー、車の性能的にも、余り知らなかったから
 出来た事で、最後はエンジンが「ドドドドーー!」と少し異常な音を
 出していました。

 一番古い型の車はフォードのT型で、アルゼンチンのブエノス郊外の
 農場でそこの農場主が、おじいちゃん時代からの車を全部丹念に保存
 して、手入れして、残していたからでした。
 一度でエンジンが掛かり、スパスパーー!と音を立てて走ってくれま
 した。

 今でも思い出します、田舎の草ぼうぼうの道をパタパタと走ってくれ
 た事は。この自動車のハンドルを握って当時の古き良き時代を思い出
 しながら、歴史の移り変わりを身体で実感していました。

 車が変化して新しく生まれ変わる様に、人間の人生も時代の過去に老
 いと言う変化に乗って、変って行く様に感じます。

2011年7月5日火曜日

私の還暦過去帳(6)

 夏になりますと、いつも思い出す事は縁台で近所の叔父さんや、叔母
 さんが昔話をして、スイカを食べて、麦茶を飲んで、線香花火を楽し
 んで過ごした、50年以上も前の夏の日です。
 まだTVもない時代で、近所のおじさんから聞いた話です。

 九州でも沢山の若者がシナ事変の戦場に駆り出されて行きました。
 近所の方も中国奥地で激しく中国軍と戦争していたと言っていました
 が、ある時日本軍の陣地が攻撃を受けてかなりの被害を受けて、反撃
 して撃退したそうです。

 それから中国軍の部隊を追跡して、追いかけて行ったそうですが、強
 行軍での追撃で、まる2日間はろくに睡眠も取らずに偵察機の情報の
 もとに、先回りして山間の谷を見下ろす頂上に陣取り下の谷間の道を
 登って来る中国軍を待ち伏せしていたそうです。

 40人ぐらいの小部隊で、小銃と軽機関銃の軽装で急ぎ足で登って来
 た所を、日本軍が一斉射撃でほとんど、なぎ倒してしまったそうです
 が、生存兵がいるか見ていたら、赤十字の腕章を腕に巻いた丸腰の看
 護兵が、一人だけ生き残っていたそうです。それも無傷でーー。

 誰も戦場の混乱する中で、看護兵は撃たなかった様でした。
 彼は平然と倒れた仲間の中国兵を一人ずつ見てまわり、隠れ様ともし
 なかったそうですが、一人の倒れた仲間が生きていて負傷して動けな
 
 かった様です。すると肩に担いだカバンから応急手当の包帯などを出
 して手当てをすると、肩にかついで仲間の兵隊を引きずり、励まし、
 急な斜面では気違いの様にぐったりとした仲間の兵士を一歩一歩と引
 きずり上げて行ったそうでした。

 日本兵は「シーン」として銃を構えたまま、地面に伏せて見ていたそ
 うです。
 隊長殿がーー。
 「丸腰の看護兵じゃ~!、撃ってはならんーー。」
 「国際条約で決められているのじゃ~!」
 「わかったか~!」

 言われなくても、仲間の戦友を必死で助け様としている看護兵を撃つ
 者は居なかったそうです。

 側に居た軍曹殿が、「それそれーー、もうちょっとだ~!」
 「くそ~!何しているーー、引っ張れ、それそれーー!」

 大声で怒鳴り、皆は手に汗を握り閉めて拳を突き出して、
 「それーー、それーー、」と掛け声を掛けて応援したそうです。
 丘の分岐点の直ぐ下で力尽きたのか、負傷兵を抱えたまま、看護兵も
 
 のびてしまい、水筒からの水を負傷兵に飲ませて、自分も飲んで一息
 入れて、肩に担ぐと最後の斜面を登り切って向かい側の丘の頂上に出
 て、谷の向かい側に並んで見ている日本兵に軽く頭を下げると、負傷
 兵を肩におんぶして歩き去ったと話してくれました。

 そのあと帰りは荷物も少なく、駆け足のごとく無事に部隊の駐屯地の
 戻ったそうです

2011年7月2日土曜日

私の還暦過去帳(5)

 私が46年前にアルゼンチンの奥地にいた時、その頃鉄道貨物からト
 ラック便に変っていた頃でした。

 鉄道輸送は、その頃ストライキが多発して、突然輸送が止まり生鮮野
 菜のトマトや、果樹生産でバナナやオレンジなどの輸送が止まり、多
 大な被害が出てトラック便が全盛を迎える時期でした。ボリビア国境
 近くのサルタ州からの奥地です。

 エンバルカシヨンの町から、ブエノス、アイレスまで丁度1658Km
 有りました。

 片道が日本縦断するくらいの距離でしたので、運転席の後ろにはベッ
 ドが有りまして、二人で交替して運転して行きました。

 12トン近くのトマトを積んでいます。自分の荷物だけでトラックは
 満載出来ない時は、近所の荷物も積みますーー。

 道が余り良くありません。途中には舗装の無い所も有りまして、せい
 ぜい35~40キロでしか走れ無い所もあり、到着まで2日半ぐらい
 掛かりました。

 休憩は燃料補給と食事の時だけです、あとはひたすら走ります。道が
 悪いので良くパンクします。タイヤも3本予備を積んでいました。

 燃料の予備も50リツタ持っていました。それはガス、スタンドが売
 り切れで在庫が無い時が有るからです。私も一度経験が有ります。
 余りガス、スタンドが無いからで、燃料補給が狂うと次までだいぶ走
 らなくてはなりません。
 
 売り切れの話を聞いて、直ぐに50リッタの予備のタンクを入れて、
 丘の頂上では坂の下まで、惰性で走り登り、坂のみエンジンを吹かし
 て登りました。
 
 でもストの影響で輸送がストップして、次のガス、スタンドまでタン
 クローリが配達しているか心配でした。

 かなり走って、50リッタも心細くなって、お腹も減ってランチとし
 ました。

 食事も終って、何気なくそこのマネージャー氏に聞いたら、
 「200リッタぐらいは売っていいーー」と聞いて嬉しくなってしま
 いました。

 レストランの裏に行くと、古い旧式の手回しの給油機があり、交替で
 ハンドルを廻して、200リッタ売ってもらいました。
 かなり高めの値段でしたが、有り難く感謝して代金を払い、ぎりぎり
 で次ぎのガス、スタンドまで走る事が出来ました。

 サンチャーゴ、エステーロの砂漠地帯では燃料が無いと悲劇です。丁
 度真中当りでオアシスと言う、ガス、スタンドとレストランが有りま
 した。良く品切れで、慌てていました。

 しかし、レストランのヤギの肉はいっも沢山置いて有りまして、注文
 すると直ぐに美味しく焼けた肉を出してくれました。
 そこは牛肉は値段が高くて、硬くてヤギ肉を専門で出していて、それ
 に岩塩の潰した粗塩をまぶして焼きますが、美味しくていつもそこに
 寄って食べていました。

 砂漠の荒野を走って帰り道、ブエノス、アイレスを出てから1000
 Kmの標識が有りました。

 丁度夜が明ける時間で、ほのぼのと朝日が濃紺のベールを立ち切って、
 荒野の荒れ果てた中に輝く光の束をさしこんで全てを光の輝くオレン
 ジ色に染め上げていました。

 光の余りの美しさに見惚れて、トラックを止めてエンジンはアイドリ
 ングしたまま、相棒の運転手は後ろで寝たままでした。

 トラックを降りて、身体をほぐす為に少し荒地を歩いていたら道端の
 岩陰に十字架が有りまして昔、誰かがそこで事故で死んだ様でした。

 近寄って見ると枯れた花が風でゆれて、微かな音が有り、どこかで啜
 り泣いているみたいで、グーっと心が閉めつけられる感じで、良く見
 ると家族の写真が置いてあり、写真の上の石を除けると、そこには
 「愛するお父さんへ~!」と書いて有り日に焼けて色あせていました。

 かなり前に、ここに訪ねて来たものと思われました。
 冷たい朝風が吹きぬける中で、私も合掌してトラックに戻り発進させ
 ました。

 今度ここを通過する時は、花でも上げ様と思っていましたがとうとう、
 そのチャンスは有りませんでした。今でも荒野の道を走るときは風に
 ゆれて、啜り泣くような枯れた花の音が聞こえます。そしてサンチャ
 ーゴ、エステーロの砂漠地帯が目に浮かびますーー。

2011年7月1日金曜日

私の還暦過去帳(4)

近くて遠い国を語る時の思いで話しーー、

今日は私が子供の頃、まだ終戦後でラジオしかない時代で、夏の夜は
近所の庭先でよく話しを聞いたものです。井戸で冷やしたスイカなど
食べながら、昔話や、戦争へ従軍した話しなど良く聞いたもので、
そろそろ50年近くなります。話してくれた近所の方々は全て過去に
消えて行かれた方達です、その中で昔、鉱山の炭坑夫をして、その

当時は大工をしていましたが、戦争中は中国戦線から、南方戦線に
転進して、最後はインパール作戦に参加してやっと生き残って帰って
来た人でした。
連合軍に追われて、撤退している時に伝令業務の為に部隊より遅れて
歩いていた時、ある部落の近くの小屋に雨宿りして飛び込むと、
そこには前に撤退した慰安所に居た朝鮮人慰安婦が二人居たそうです、
どちらもマラリアと栄養失調で殆ど動けないような状態で寝ていた

そうですが、彼が入って行くと一人だけが起き上がり、水をくれと
話して空の水筒を差し出して頼んだそうですが、それもやっとの様子
で、もう一人は身動きもしなかったそうです。彼が水を汲んでくると
それを口に含んで身動きしない女性に口移しで飲ませ、カビの生え
かかった保存食のカタパンを噛み砕いて、それも口移しで食べさせ
様として居たそうですが、それがダメと分かると水筒の水で身動き

しない女性の顔を綺麗にふいて髪の毛も水筒の水で洗い、櫛を入れて
整えて、ちびた口紅をポケットから出して、小声で「アリラン」の
唄を歌いながら、口に紅を引いてやったそうですが、その時今まで
身動きもしなかった若い女性の目から涙がポロポロと、落ちている
のを見たそうです、死期の迫ったやせ衰えた若い女性の最後の涙では
なかったかと話していました。

それが終ると胸にしまっていたお守りを出して、これをどこかの河に
流してくれと話して、二つのお守りを彼に差し出して頼んだそうです
が、「どうしてなのかーー」と訪ねると、いつの日か魂だけでも
国の故郷に帰りたいと思い、河は海に流れ込み、海は自分の故郷の
海にも流れて行き、繋がっていると言うと、彼の手に握らせて拝んだ
そうですが、「生きて私が大河にたどり着いたら、必ず流れに入れて
おくよーー、」と話して、別れを言って出ようとすると。

彼女は「もうこの食料は要らない、貴方が持って行きなさい、」と
言って、カタパンや2個の缶詰めを差出て、小さな瓶に入った塩も
くれたそうですが、当時の状況では大変貴重なものだったそうです。
そして、彼女は最後にもし貴方が手投弾を持っているのならと言って
それを下さいと両手を差し出して彼を拝んだそうですが、彼も最後の
自決用に一つ持っていたそうですが、それをその両手に握らせて

小屋を出て、部隊を追いかけて歩き始めてしばらくして、無人の部落
の外れに来た時、遠くで爆発音が、かすかに山にこだまして消えて行
つたそうですが、その時、音の方角に彼は両手を合わせて冥福を祈り、
涙がこらえきれなかったと話していました。
日本軍の撤退道は白骨街道とも呼ばれた悲惨な道です、彼は自決用の
手投弾も与えてしまい、代りに貰った食料で草木の根や、雑草まで

食べ尽くされた街道を何とか生き長らえて撤退して来て、部隊が降伏
して、終戦後復員して祖国日本に帰って来るまで、預かったお守りは
河に流せなくて、佐世保に入港する前に、朝鮮半島の近くで復員船
から海に流したそうです、彼は良くお酒を飲むと必ず唄っていたのが
「アリラン」のメロデーです、そして必ず泣いていました。
そして「戦争はムゴカ(悲惨)コツばするーー」と言って子供達に

話しを聞かしていました。
まだTVも無いような時代です、私達も良く話しを聞きに行きました、
そして時には涙して聞いていました。
還暦も過ぎ、あれから50年、近くて遠い国がまだ日本の隣国に存在
して、その隣国で祖国を思い、故郷を思い、家族を思い、帰国を念じて
無念の最後をとげた方々を同時に思うとき、現在の平和が夢幻の夢想
 
では無く、我々多くの人間が未来を見つめて生きて行ける、若い子供
達が未来を希望として生きて行ける社会にしたいものです。
時代の犠牲になられた方々の、ご冥福を深くお祈りすると共に、
これからの世の中が、子供達の明るい未来の世界で有ります事も、
深くお祈りするもので有ります。