私の還暦過去帳(11)
事実は小説より奇なりと言いますが、確かに私もそう感じます。 だいぶ昔に、サンフランシスコで会った方でした。 その女性は歴史を背負って歩いて来た様です。父親がロシア革命から 逃れて、満州のハルピンに居たそうですが、それから韓国の日本海側 のある町に住んで居たと言っていました。 父親は韓国語を上手に話して、戦争が激しくなるまでは平和に暮して いたそうです。終戦となり赤軍のロシア兵が南下して来て、ロシア革 命での避難民的なロシア人はロシアに連れ戻される危険が有ったので、 家族は上海に逃れて行ったそうですが、彼女は、そこでアメリカ空軍 の兵士として、上海に来ていたご主人と知り合い結婚して、アメリカ に移住して来たそうです。ご主人はアメリカンクラブで知り合い、そ れまでは中国軍にアメリカからフライング.タイガーとして有名なア メリカからの義勇軍に参加して、中国の上空で日本軍と激戦の空中戦 をしていたそうですが、その戦場から生きて生還して、当時は輸送機 のパイロットをして、良く上海から台湾まで、バナナや熱帯果実を運 ぶのに彼女を乗せて飛んでくれたそうです。しばらくして復員してア メリカ本土の空軍基地で、ご主人が勤務していた時、夜に帰宅する時 に交通事故で急死してしまい、死んだ彼の同僚が余り英語も上手では なかった彼女の世話をしてくれる様になって、親しくなり、結婚して 子供も生まれて幸せな家庭を過ごして居た時に、べトナム戦争が始ま り、ご主人は戦闘機のパイロットとして出撃して、ベトナム軍に撃墜 されたが、ヘリコプターで救助されて病院に収容されたが、それから 3ヶ月後に後遺症で亡くなったそうです。 彼女は歴史にふり廻された一人だと感じます。 彼女が見せてくれた蒋介石総統からの直筆の感謝状を見て、ご主人が フライング.タイガー時代、仲間のアメリカ人パイロット達と、どの ような戦いをしたかが偲ばれました。 飛行服の皮ジャンの背中に漢字で、撃墜された時の用心に「このパイ ロットは中国軍に協力するアメリカ人である。救助して、安全な所ま で避難させ、当局に引き渡したら、多額の賞金を支払う」と書かれて いました。 彼女が見せてくれた、ご主人の遺品でした。 その当時、子供も育ってしまい、一人アパートに住んで居ました。 彼女は時々、御主人の遺品を出して日に当てていました。 飛行服を抱きしめてーー、 「どこかに彼等はーー遠くに飛び立ってしまった」 「みんなーー、みんなーー、急いで、私を置いてーー!」 彼女は晴れた爽やかな日に良く思い出す事は、中国大陸から台湾の台 北まで、DCー3の輸送機でバナナやその他の荷物を取りに行った帰 り、操縦席に座らせてくれて、台湾海峡をのどかに、爽やかな日差し の下に飛んだ事がいっも思い出されると話していました。
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