私の還暦過去帳(6)
夏になりますと、いつも思い出す事は縁台で近所の叔父さんや、叔母
さんが昔話をして、スイカを食べて、麦茶を飲んで、線香花火を楽し
んで過ごした、50年以上も前の夏の日です。
まだTVもない時代で、近所のおじさんから聞いた話です。
九州でも沢山の若者がシナ事変の戦場に駆り出されて行きました。
近所の方も中国奥地で激しく中国軍と戦争していたと言っていました
が、ある時日本軍の陣地が攻撃を受けてかなりの被害を受けて、反撃
して撃退したそうです。
それから中国軍の部隊を追跡して、追いかけて行ったそうですが、強
行軍での追撃で、まる2日間はろくに睡眠も取らずに偵察機の情報の
もとに、先回りして山間の谷を見下ろす頂上に陣取り下の谷間の道を
登って来る中国軍を待ち伏せしていたそうです。
40人ぐらいの小部隊で、小銃と軽機関銃の軽装で急ぎ足で登って来
た所を、日本軍が一斉射撃でほとんど、なぎ倒してしまったそうです
が、生存兵がいるか見ていたら、赤十字の腕章を腕に巻いた丸腰の看
護兵が、一人だけ生き残っていたそうです。それも無傷でーー。
誰も戦場の混乱する中で、看護兵は撃たなかった様でした。
彼は平然と倒れた仲間の中国兵を一人ずつ見てまわり、隠れ様ともし
なかったそうですが、一人の倒れた仲間が生きていて負傷して動けな
かった様です。すると肩に担いだカバンから応急手当の包帯などを出
して手当てをすると、肩にかついで仲間の兵隊を引きずり、励まし、
急な斜面では気違いの様にぐったりとした仲間の兵士を一歩一歩と引
きずり上げて行ったそうでした。
日本兵は「シーン」として銃を構えたまま、地面に伏せて見ていたそ
うです。
隊長殿がーー。
「丸腰の看護兵じゃ~!、撃ってはならんーー。」
「国際条約で決められているのじゃ~!」
「わかったか~!」
言われなくても、仲間の戦友を必死で助け様としている看護兵を撃つ
者は居なかったそうです。
側に居た軍曹殿が、「それそれーー、もうちょっとだ~!」
「くそ~!何しているーー、引っ張れ、それそれーー!」
大声で怒鳴り、皆は手に汗を握り閉めて拳を突き出して、
「それーー、それーー、」と掛け声を掛けて応援したそうです。
丘の分岐点の直ぐ下で力尽きたのか、負傷兵を抱えたまま、看護兵も
のびてしまい、水筒からの水を負傷兵に飲ませて、自分も飲んで一息
入れて、肩に担ぐと最後の斜面を登り切って向かい側の丘の頂上に出
て、谷の向かい側に並んで見ている日本兵に軽く頭を下げると、負傷
兵を肩におんぶして歩き去ったと話してくれました。
そのあと帰りは荷物も少なく、駆け足のごとく無事に部隊の駐屯地の
戻ったそうです
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