2011年7月1日金曜日

私の還暦過去帳(4)

近くて遠い国を語る時の思いで話しーー、

今日は私が子供の頃、まだ終戦後でラジオしかない時代で、夏の夜は
近所の庭先でよく話しを聞いたものです。井戸で冷やしたスイカなど
食べながら、昔話や、戦争へ従軍した話しなど良く聞いたもので、
そろそろ50年近くなります。話してくれた近所の方々は全て過去に
消えて行かれた方達です、その中で昔、鉱山の炭坑夫をして、その

当時は大工をしていましたが、戦争中は中国戦線から、南方戦線に
転進して、最後はインパール作戦に参加してやっと生き残って帰って
来た人でした。
連合軍に追われて、撤退している時に伝令業務の為に部隊より遅れて
歩いていた時、ある部落の近くの小屋に雨宿りして飛び込むと、
そこには前に撤退した慰安所に居た朝鮮人慰安婦が二人居たそうです、
どちらもマラリアと栄養失調で殆ど動けないような状態で寝ていた

そうですが、彼が入って行くと一人だけが起き上がり、水をくれと
話して空の水筒を差し出して頼んだそうですが、それもやっとの様子
で、もう一人は身動きもしなかったそうです。彼が水を汲んでくると
それを口に含んで身動きしない女性に口移しで飲ませ、カビの生え
かかった保存食のカタパンを噛み砕いて、それも口移しで食べさせ
様として居たそうですが、それがダメと分かると水筒の水で身動き

しない女性の顔を綺麗にふいて髪の毛も水筒の水で洗い、櫛を入れて
整えて、ちびた口紅をポケットから出して、小声で「アリラン」の
唄を歌いながら、口に紅を引いてやったそうですが、その時今まで
身動きもしなかった若い女性の目から涙がポロポロと、落ちている
のを見たそうです、死期の迫ったやせ衰えた若い女性の最後の涙では
なかったかと話していました。

それが終ると胸にしまっていたお守りを出して、これをどこかの河に
流してくれと話して、二つのお守りを彼に差し出して頼んだそうです
が、「どうしてなのかーー」と訪ねると、いつの日か魂だけでも
国の故郷に帰りたいと思い、河は海に流れ込み、海は自分の故郷の
海にも流れて行き、繋がっていると言うと、彼の手に握らせて拝んだ
そうですが、「生きて私が大河にたどり着いたら、必ず流れに入れて
おくよーー、」と話して、別れを言って出ようとすると。

彼女は「もうこの食料は要らない、貴方が持って行きなさい、」と
言って、カタパンや2個の缶詰めを差出て、小さな瓶に入った塩も
くれたそうですが、当時の状況では大変貴重なものだったそうです。
そして、彼女は最後にもし貴方が手投弾を持っているのならと言って
それを下さいと両手を差し出して彼を拝んだそうですが、彼も最後の
自決用に一つ持っていたそうですが、それをその両手に握らせて

小屋を出て、部隊を追いかけて歩き始めてしばらくして、無人の部落
の外れに来た時、遠くで爆発音が、かすかに山にこだまして消えて行
つたそうですが、その時、音の方角に彼は両手を合わせて冥福を祈り、
涙がこらえきれなかったと話していました。
日本軍の撤退道は白骨街道とも呼ばれた悲惨な道です、彼は自決用の
手投弾も与えてしまい、代りに貰った食料で草木の根や、雑草まで

食べ尽くされた街道を何とか生き長らえて撤退して来て、部隊が降伏
して、終戦後復員して祖国日本に帰って来るまで、預かったお守りは
河に流せなくて、佐世保に入港する前に、朝鮮半島の近くで復員船
から海に流したそうです、彼は良くお酒を飲むと必ず唄っていたのが
「アリラン」のメロデーです、そして必ず泣いていました。
そして「戦争はムゴカ(悲惨)コツばするーー」と言って子供達に

話しを聞かしていました。
まだTVも無いような時代です、私達も良く話しを聞きに行きました、
そして時には涙して聞いていました。
還暦も過ぎ、あれから50年、近くて遠い国がまだ日本の隣国に存在
して、その隣国で祖国を思い、故郷を思い、家族を思い、帰国を念じて
無念の最後をとげた方々を同時に思うとき、現在の平和が夢幻の夢想
 
では無く、我々多くの人間が未来を見つめて生きて行ける、若い子供
達が未来を希望として生きて行ける社会にしたいものです。
時代の犠牲になられた方々の、ご冥福を深くお祈りすると共に、
これからの世の中が、子供達の明るい未来の世界で有ります事も、
深くお祈りするもので有ります。

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