2011年7月2日土曜日

私の還暦過去帳(5)

 私が46年前にアルゼンチンの奥地にいた時、その頃鉄道貨物からト
 ラック便に変っていた頃でした。

 鉄道輸送は、その頃ストライキが多発して、突然輸送が止まり生鮮野
 菜のトマトや、果樹生産でバナナやオレンジなどの輸送が止まり、多
 大な被害が出てトラック便が全盛を迎える時期でした。ボリビア国境
 近くのサルタ州からの奥地です。

 エンバルカシヨンの町から、ブエノス、アイレスまで丁度1658Km
 有りました。

 片道が日本縦断するくらいの距離でしたので、運転席の後ろにはベッ
 ドが有りまして、二人で交替して運転して行きました。

 12トン近くのトマトを積んでいます。自分の荷物だけでトラックは
 満載出来ない時は、近所の荷物も積みますーー。

 道が余り良くありません。途中には舗装の無い所も有りまして、せい
 ぜい35~40キロでしか走れ無い所もあり、到着まで2日半ぐらい
 掛かりました。

 休憩は燃料補給と食事の時だけです、あとはひたすら走ります。道が
 悪いので良くパンクします。タイヤも3本予備を積んでいました。

 燃料の予備も50リツタ持っていました。それはガス、スタンドが売
 り切れで在庫が無い時が有るからです。私も一度経験が有ります。
 余りガス、スタンドが無いからで、燃料補給が狂うと次までだいぶ走
 らなくてはなりません。
 
 売り切れの話を聞いて、直ぐに50リッタの予備のタンクを入れて、
 丘の頂上では坂の下まで、惰性で走り登り、坂のみエンジンを吹かし
 て登りました。
 
 でもストの影響で輸送がストップして、次のガス、スタンドまでタン
 クローリが配達しているか心配でした。

 かなり走って、50リッタも心細くなって、お腹も減ってランチとし
 ました。

 食事も終って、何気なくそこのマネージャー氏に聞いたら、
 「200リッタぐらいは売っていいーー」と聞いて嬉しくなってしま
 いました。

 レストランの裏に行くと、古い旧式の手回しの給油機があり、交替で
 ハンドルを廻して、200リッタ売ってもらいました。
 かなり高めの値段でしたが、有り難く感謝して代金を払い、ぎりぎり
 で次ぎのガス、スタンドまで走る事が出来ました。

 サンチャーゴ、エステーロの砂漠地帯では燃料が無いと悲劇です。丁
 度真中当りでオアシスと言う、ガス、スタンドとレストランが有りま
 した。良く品切れで、慌てていました。

 しかし、レストランのヤギの肉はいっも沢山置いて有りまして、注文
 すると直ぐに美味しく焼けた肉を出してくれました。
 そこは牛肉は値段が高くて、硬くてヤギ肉を専門で出していて、それ
 に岩塩の潰した粗塩をまぶして焼きますが、美味しくていつもそこに
 寄って食べていました。

 砂漠の荒野を走って帰り道、ブエノス、アイレスを出てから1000
 Kmの標識が有りました。

 丁度夜が明ける時間で、ほのぼのと朝日が濃紺のベールを立ち切って、
 荒野の荒れ果てた中に輝く光の束をさしこんで全てを光の輝くオレン
 ジ色に染め上げていました。

 光の余りの美しさに見惚れて、トラックを止めてエンジンはアイドリ
 ングしたまま、相棒の運転手は後ろで寝たままでした。

 トラックを降りて、身体をほぐす為に少し荒地を歩いていたら道端の
 岩陰に十字架が有りまして昔、誰かがそこで事故で死んだ様でした。

 近寄って見ると枯れた花が風でゆれて、微かな音が有り、どこかで啜
 り泣いているみたいで、グーっと心が閉めつけられる感じで、良く見
 ると家族の写真が置いてあり、写真の上の石を除けると、そこには
 「愛するお父さんへ~!」と書いて有り日に焼けて色あせていました。

 かなり前に、ここに訪ねて来たものと思われました。
 冷たい朝風が吹きぬける中で、私も合掌してトラックに戻り発進させ
 ました。

 今度ここを通過する時は、花でも上げ様と思っていましたがとうとう、
 そのチャンスは有りませんでした。今でも荒野の道を走るときは風に
 ゆれて、啜り泣くような枯れた花の音が聞こえます。そしてサンチャ
 ーゴ、エステーロの砂漠地帯が目に浮かびますーー。

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