2012年12月31日月曜日

第3話、伝説の黄金物語、(40)

ドンと呼ばれる資格

ブラジルでの富蔵達の仕事も順調に動いて、何事もなく平穏な日々がしばら
く続いた。富蔵はサンパウロでサムの飛行場の事務所に通い仕事をして居
たが、モレーノはリオ・ベールデの飛行場を中心に飛び回って居た。

週に2~3度は必ずサンパウロに飛んで来て、忙しい時はサンパウロで泊ま
っていた。 モレーノにも彼女が出来て、リオ・ベールデに新居を構えて家庭を
築き幸せな時を過ごしていた。
運送業も貸し金庫を合せて繁盛して町では大きな事業となっていた。

パブロもポルトベーリョとリオ・グランデ・ドスールを行き来して事業を見ていた。
子供も出来て現地に溶け込み、彼の親戚も集まり事業を益々強固にして繁栄
させていたので、全ての事業で大きな収益が出ていた。

時は進み、時代は動きヨーロッパでの動きが激しくなり富蔵達にもその様な
話が伝わってきた。
スミス商会やダイヤモンド商会などと、仕事を通じて入る情報は正確で遠い
国の情勢が刻々と入って来ていた。
それと同時に日本からの国策移住が進められ、ブラジル各地で移住地や入
植地が出来ていたので、富蔵も上原氏の両親を通じて話を聞き、興味を
持っていた。
その頃には富蔵も現地人の間では、トミーと呼ばれ言葉も不自由しなくなって
居た。
その富蔵にも二人目の子供が生まれて平穏な幸せな時期をすごしていたが、
ある日、出かけたリオ・ベールデに滞在して居る時に、近所で建設された日本
人の入植地で日本人が襲われ、何人か怪我をして若い女性が連れ去られた
と言う事を仲間が知らせて来た。

日本人達が助けを求めていると言う事を富蔵は聞いて、じっとしておれずに仲
間のアマンダに相談して、三人ばかり腕の立つ若者を急に集めてもらった。
トラックに十分な武装をして乗り込むと、四名で1時間ばかりの入植地に向か
った。

日本人移住地の集会所に着いた時はまだ騒動が収まる事無く、入植者達が
不安な様子で薄暗い集会所で相談をしていた。
富蔵達が訪ねると最初は不安の表情で居たのだが、富蔵が日本語で『騒動
が起きて困っていると言う事で、同じ日本人として手助けをしたい・・』と申し出
た。
直ぐに中の責任者らしき男が丁重に挨拶して、事の事態を説明してくれた。
土地の境界線からの争いだと説明してくれたが、隣の牧場主が境の隣接する
日本人の家を襲い、その家の子供の18歳と15歳の姉妹を連れ去って、そこ
の土地から立ち退くまで姉妹を人質に取った事がことの発端であった。

富蔵は若い日本人の姉妹を気ずかって、直ぐに馬を出して牧場主の家に連れ
て来た若い男を走らせた。
伝言は簡単な一言であった。事が解決するまでなんであろうと若い日本人女
性には指一本触らない様に警告させた。そして・・、リオ・ベールデのアマンダ
兄弟達が後ろに居る事も相手に知らせるように話しておいた。

急いでトラックを町に引き返させ、アマンダを連れて来るように頼んだ。
移住地では富蔵達に夕食が出され、事の成り行きを上手く解決してくれるよう
に移住地の長老達が頭を下げて頼みに来て、娘の両親が床に頭を着けるよう
に救助を頼んでいた。
町の警察より先に来た富蔵に皆が驚いていた。食事が終わりしばらくして、車
の騒音がしたので外に出るとトラックが2台、その前にフォードの自家用車が
止まっていた。
モレーノが車から降りてくると、富蔵から事の次第を聞くと憤然として牧場主の
行為をトラックの荷台に乗せてきた若い衆達に説明すると、口々に牧場主の
横暴を非難した。
その時、馬で牧場主の家に話しに行った若い男が馬を飛ばして戻ってくると、
『相手は驚いて了承した』と伝えて来た。

直ぐに牧場主の家の前までトラックを連ねてフォードの車を先頭に押しかけた。
アマンダ兄弟の二人とモレーノと富蔵4名と、護衛の若い男が5名ばかりが周
りを囲んで玄関口の前に立った。

玄関は開け放され、明かりが外まで点けられて、牧場主が青い顔をして出て
来た。
モレーノが前に進み出て、『リオ・ベールデ運輸倉庫会社』のドンで日本人
移住地の相談役が貴方に話しに来たと伝えると、家の奥から日本人姉妹が連
れて来られ、先ず富蔵に引き渡された。

富蔵は近寄ると『何もなかったか?』と聞いた。安堵で喜ぶ姉妹が、うなずくの
を見て直ぐにフォードの車で移住地に送り届ける様に指示した。

案内された応接間で酒が出され、富蔵が『今回の揉め事が上手く解決出来る
様に来た』と話すと、相手も了承して地図を出して境界線を示して来た。

牧場主も富蔵達の押しのある威圧感に日本人移住者の言葉の分からない人
達に接する態度とは正反対の態度で小さくなっていた。
手短な交渉でお互いが譲り合うと言うことで明日、町の登記所で移住者達を
交えて正式に境界登記をしてサインする事が決まった。
グラスに酒が注がれ、明日の約束の時間を確認すると乾杯した。

富蔵達は帰りに移住地の集会所に立ち寄ると明日の登記所の事を詳しく説
明して、時間に登記所に集合するように説明した。
移住者達とは感謝の言葉で別れたが、帰り道の車の中で、 モレーノとアマン
ダ兄弟が

『貴方はドンの資格がある男だ・・』と言ってくれた。

2012年12月29日土曜日

私の還暦過去帳(333)


旅に出て・・・、

南米各地を歩いて感じた事が、カトリックの影響が生活の隅々まで浸透し
ているという事でした。

ペルーのリマを振り出しに各地を歩いた街道筋に事故者の冥福を祈って
建てて在るカトリック様式の祠です、必ず十字架を飾り、中には立派な
装飾もして有りました。

永年に交通事故死した人を弔う為に各地で建てられた祠は街道の難所と
言うようなカーブの多い、狭い山間部に沢山有りました。
一度などはアルキパにプーノから行く道筋で、標高の高いカーブの多い
道でしたが、道端に固まって何個もその十字架の祠を見ました。

そして各地の遺跡や名所見物で訪ねた田舎の小さな町で、その町に似合
わない様な巨大で豪華な教会が中央の広場の前に必ずありました。
大抵は1700年ごろから1800年頃に建設された教会です。

アルキパからコルカ峡谷に訪ねて行く途中のインデアーナ達が住む小さな
集落でした。朝早くチバイの町を出て未舗装のガタガタ道を走って朝日が
登り、冬の冷え込んだ空気の中に朝日に輝く白い巨大な教会の前でバス
が停車して休憩と教会の見学でした。

周りの集落は日干し煉瓦の屋根の低い、その屋根もトタン屋根の侘しい
感じの家々でしたが、その教会が全ての富と労力を取り上げて建設され
たと感じる建物でした。町の小高い中心地に白く塗られて威容を誇る建
物が何かむなしい搾取の象徴としか感じる事が出来ませんでした。

1700年代のペルーではカトリックに盾付いて反抗したり教義を否定し
たりすると捕らわれて宗教裁判にかけられ、見せしめに、人間の肢体を牛
や馬に引かせて八つ裂きの刑とか、火あぶりや残酷な拷問をして改宗や現
地人に見せしめの為の処刑をしたとか、現在ではペルーの宗教裁判所が博
物館となっていました。

侵略者のスペイン人達が考え、企画して遂行した政治と宗教です。
観光ガイドが話してくれましたが、彼は現地人のガイドでしたが、

『カトリックという宗教の教義と金銀財宝の獲得の野望を組み合わせて、
 インヂオ達を脅しと恐怖と懐柔での洗脳で、カトリックと言う象徴をあ
 らゆる目に付く所に建てた』と話していました。

スペイン人侵略者達の理論で現地人を守り保護して搾取から守ったスペイ
ン人を、侵略統治の必要性から容赦なく見せしめに残酷な処刑にしている。
教育も与えず、搾取と恐怖を組み合わせて、ボリビアのポトシに在る当時
南米最大の金銀鉱山採掘労働者として使役を税金の代わりに働かせて、過酷
な労働を強いて空腹をコカの葉を噛むことで紛らわせて、奴隷労働を強制し

たとガイドが話していたが、長時間の粉塵が立ち込める過酷な労働と栄養
状態から、推定で200年の間にミリオンと言う人の命が亡くなった勘定
と聞いた時は、日本の歴史で徳川家康がスペインやポルトガルの宣教師を
捕らえ処刑し、追放してカトリック布教を禁止し、鎖国として長崎の出島
を交易と交渉と定めたのは賢明な政治ではなかったかと、フトー!考えま
した。
そして種子島に漂着したポルトガル人から得た技術で火縄銃を僅かな時間
で当時世界で2万丁も一番多く所有する国とした事が当時の侵略者列強か
ら日本を守ったと想像いたしました。
1600年の日本を二分した関が原の戦いで、両軍が使用した火縄銃を推
定した数字をカトリックの宣教師達がローマに報告した数字と状況が当時、

スペインがフイリッピンを支配下に、ポルトガルがマカオに植民地を建設
した時代に日本が南米諸国の様にならなかった事の関連が、徳川家康の彼
の政治的な判断があったからと思います。

遠く南米を旅して、昔の日本の歴史を考えさせられた事は有意義でした。

2012年12月27日木曜日

第3話、伝説の黄金物語、(39)


 リオでの出来事、

富蔵達がダイアモンド商会の御曹司と知り合い、仲良くなり、信用を得て
ビジネスに深く関わる上で解決しておかなければならない、ジャマイカ人
達との死闘の結末であった。
彼等はこのポルトベーリョの郊外に眠っているが、その情報は何処にも
漏れてはいなかった。ジャマイカ人達が殺した人間も発見されず、永久
に闇に消えてしまった。

ロンドンに本社を置くダイアモンド商会のビジネス範囲の広さと、その資
本力を改めて知らされたが、富蔵達には彼等から、おこぼれを貰う様な
感じであった。

しかし、御曹司のビリーが中心となって動かしている商会の政治力を考
えると、富蔵達の仕事は微々たる範囲であった。
完治してモレーノが彼等のオフイスがある、リオ・デ・ジャネイロに飛行機
で送り届けた。奥さんのスザンが改めて遊びがてら来る様に、リオの自
宅に招待してくれた。

この事が一件落着して、皆でリオ・ベールデに集まり、これからの自分達
の生き残りを相談していた。スミス商会のサンパウロの事務所に訪ねて、
今までの経過を話してダイアモンド取引に参加することを話して相談して
いた。

スミス氏親子はその話を聞いてスミス商会は金を主体に取引をして、そ
の中でダイアモンドを取り扱っていると説明してくれた。そしてスミス氏も、
ダイアモンド商会と取引があると教えてくれたが、どこかで繋がりがある
世界であった。

サンパウロのサムの事務所に皆が集まったが、アメリカに注文して居た
飛行機が到着したからであった。モレーノも来て、パブロもワイフを連れ
てサンパウロに久しぶりに出て来た。
これからの事業をどのように進めるか話し合った。

結論は政治力も政界の繋がりも無い、資金力も僅かな砂金掘り業者が、
不用意に新たな事業のダイアモンド採掘など手を出す事は、大きな火傷
を負う羽目になると考えた。
仲間の顔を見回しても、それだけの政治力も影響力のある者が誰もいな
いからだ。

分相応に生きて、仲間の生活とこれまでの事業を維持、成長させる事が
重要と皆で決
めた。回りの仲間達はジャングルで生き残る知恵はあっても、国際社会
で国を越えての取引など無理な事で、誰も大学など卒業した者も居なか
った。

ポルトベーリョで現在採掘しているダイアモンドも、たまたま砂金採掘か
らの続きで発見したものであったので、回りの鉱山などの資材調達、それ
らの運送などがブラジルの発展に連れて地道に伸びて行くことが富蔵達
には間違いない仕事であった。

話し合いが済んで富蔵もワイフと子供を連れ、それとパブロもワイフを連
れモレーノが試験操縦する飛行機でリオに飛んだが、飛行場ではダイア
モンド商会の迎えの車が来ていた。
御曹司の邸宅に案内されたが、リオのイパネマの海岸近くの高級住宅で
あった。

主人のビリーと奥さんのスザンの歓待を受けたが、富蔵には少し気にな
る事があった。出迎えの男がポルトべリョで仲間二人と死んだジャマイカ
人に良く似て、浅黒く精悍な体付きの男であったからだ。何かその目付き
が鋭く、富蔵には殺気が感じられた。

ダイアモンド商会とは運送契約も取れ、ダイアモンド採掘の新しい技術も
教えて貰った。これからお互いに協力して事業を伸ばしていく事で話し合
いが付いた。富蔵達のブラジル奥地での運送業務もかなり名が知られる
ようになり、顧客も増えていた。
御曹司との付き合いで彼の気質が分かり、ダイアモンド商会の規模の大
きさも知らされたが、これから生き残りを賭けて事業を進める上で大きな
手助けと感じた。

明日別れと言う日の前に、ブラジル名物焼肉、シュラスコの宴を開いてく
れたが、その宴の最中に、また死んだジャマイカ人に似た男の視線を感
じた。さりげなくパブロとモレーノにも注意していた。

庭園を歩きながらビリーと二人だけになったチャンスをつかみ、英語で直
接その男の事を聞いた。回りのポルトガル語を聞き流しながら、英語で話
し合っていた。誰も居ない海岸の砂浜が見えるテラスまでビリーと来ると、

『あの男は間違いなくポルトベーリョで行方不明になったジャマイカ人の
弟』と教えてくれた。

『彼等が貴方達を用心しているのは、ポルトべーリョで行方不明になった
 ジャマイカ人の兄達がダイアモンド原石の横流しと、略奪した原石の密
 売を知られたかと疑っているからだ・・』と説明してくれた。

彼等は、『リオまで来てその事を告げ口されるかと疑っていると・・』そう感
じている事を説明してくれたが、ビリーは彼等の電話を盗聴して気が付い
たと教えてくれたが、『弟がリオで兄の指示で動いていた様だとする証拠
も掴んでいる・・』と話した。

飼い犬に咬まれた様だと説明してくれたが、彼等が危険な飼い犬である
事は間違いなかった。『私も用心に腹心の部下にジャマイカ人の弟を見張
らせている』と言った。

富蔵はワインのグラスを飲み干すと、ビリーと向き合いポルトべーリョの
一件を正直に話した。ビリーは少し間をおいて『それで良かった・・、それ
でなかったらどんな事になっていたか、我が商会の信用に関わる大事件
になっていた』と話してくれた。

『私が調べただけで彼等が10人以上は関係する人間を抹殺していた』と
教えてくれた。『彼等が行方不明となり、一応は捜索と言う方法を取ったが、
実際は彼等の犯罪の隠密調査をして居た』とビリーが話してくれた。

ブラジル奥地の試験採掘でも彼等のウソの報告がバレたと説明してくれた。
『我々は何も知らず、また業務命令も出してはいない事だ』と富蔵に話すと、
『あの弟達を何とかしなくてはならない・・・』と富蔵に話し掛けて来た。

富蔵は少し考えて『それでは私が彼等が考えている様に、今晩、囮となっ
て声明を皆の前で発表する様にさりげなく彼等に流してください、そうすれ
ば必ず口封じを考えて、襲ってくることは間違い無いと思う』と言う事を伝え、
その場で彼等を始末する事を勧めた。

直ぐに了承され、腹心の部下を呼び、手順を示して用心して準備する事を
ビリーは命令した。しばらくしてダイアモンド商会と富蔵達の業務提携が成
立したので、重大な会見をすると連絡が出され、応接間で新聞記者達を呼
んで午後8時に会見と、その後のパーテイがホテルで用意された。

するとしばらくして腹心の部下が急いで報告に来た。ジャマイカ人の弟達
が動き出したという事であった。直ぐにビリーと部下達が用心に各自が拳
銃をベルトに挟んだり、ポケットに隠していた。
黒人の若い精悍な男が、小口径のライフルを持って事務所に入ってきた。
それと腹心の部下2名が自動散弾銃に対人用の弾を詰めていた。

モレーノが自分の使い慣れた拳銃をカバンから出すと弾を詰めてベルト
に隠し、予備の弾をポケットに入れていた。パブロに話して自分のワイフ
と富蔵の妻子を連れて、飛行場に駐機している所の、24時間開いている
警備が厳しいオフイスに待機するように指示して、飛行機の給油も頼んで
いた。

パブロは何も手に荷物も持たずに散歩に出る格好で道に出ると、流しの
タクシーで皆と消えて行った。しばらくして無事に飛行場のオフイスに着い
たと電話連絡があった。

それを聞くと富蔵もトランクから拳銃を取り出すと、最初の2発は蛇撃ち用
の散弾を入れ用心していた。デリンジャーの2連発もポケットに入れ、服装
を整えて身軽な様子でモレーノと準備をして居た。

部屋の電話が鳴り、海岸砂浜側の裏口ゲートから四名の不審者が侵入し
たと見張りから緊急報告が来たとビリーが電話して来た。門番が倒されて
いた様だ。

同時にモレーノがパテオ・ドアの外に、一人の男が突進して来る様子を見
た。手には大型の自動拳銃が握られているのが見えた。
瞬間、モレーノが拳銃を抜くと、窓ガラス越しに2発、男目掛けて撃った。

ガラスが砕けて丸く穴が開きその向こうで男が胸を押さえて棒立ちになっ
て居た。ゆっくりと朽ちた木が倒れる様に潅木の中に倒れていた。

モレーノが窓際の壁に隠れて外の様子を見ていた。
ドーン!と散弾銃の発射する音が響くと同時に窓が粉々になり吹き飛ん
でしまった。壁に散弾の弾がめり込むのが分かった。

二階のテラス辺りから軽く二度連続してライフルの発射音が響くと、遠く
でヒー!という声が響いた。黒人の精悍な感じの若者が応戦した様だ。

下の庭内でト・ト・トと短く拳銃を連射する音が響き、しばらくして静かにな
った。電話が鳴り、ビリーから『侵入者達が一人逃げているから外には出
るな』と念を押して来た。
そして『番犬が2匹とも侵入者に殺されていたから、その逃げている男を
犬では捜せない・・』と話していた。しかし、警察は呼ばないとビリーは話
していた。

薄暗くなりかけた外では波打ち際の音だけが響いていた。8時までは、
まだ1時間半は十分に時間はあるが、このままだと、記者会見が流れる
事もあると感じて居た。

風が出てきて広々した屋敷のうっそうと茂った木々が揺れて、岸辺に打
ち付ける波の音だけが響いていた。回りはすっぽりと茂みの中に沈んだ
屋敷がまばらに、微かに見えていた。富蔵とモレーノは窓際に身を隠して
外を見ていたが、回りの住人達は季節的に避暑のシーズンから外れてい
るので誰も居ない様であった。

波の音が轟音となって部屋に響き渡った時、ドアが開いて誰か部屋に無
言で侵入して来た。用心に外から見えない様に部屋の灯りを消していた
のが幸いした。

窓の飛び散った割れガラスを踏んだ、『バシャー!』と言う音が響いたと
同時に、富蔵とモレーノの拳銃が火を噴いた。
閃く銃口からの閃光で浅黒い男の影が瞬間見えた。

暗闇でモレーノが拳銃の弾を詰め替える音がかすかに響くと、暗闇で微
かに動く音がして人影が動いた、それに向けて富蔵のデリンジャーの2連
の散弾の弾が同時に発射された。窓ガラスが散弾の粒で無数に小穴が
開き、一部は吹き飛んでしまった。

男の影がカーテンの脇から崩れる様に窓に倒れ込んで行った。
ガシャーン!という音が響き、動かなくなった。
モレーノが身を低くして男に近寄ると、先ず止めの1発を男の頭に撃ち込
んだ。

モレーノは直ぐに富蔵を促して隣の部屋に逃れ、受話器を取りビリーを
呼んだ、『無事かー!』と言う声が響き、『その部屋を動かないで待て・・』
と連絡して来た。

廊下に足音が響き、五人ばかりが走り込んで来ると、外から見えないよ
うにカーテンが閉め回され、スタンドを点けた。皆が手に武器を握ってい
た。

ビリーが『良かった、客人に怪我がなかったのが一番だった』と話すと、
部下に隣の部屋を点検させていた。窓の外側で一人、中で窓から身体
半分突き出してもう一人が死んでいた。直ぐに部下達が死体をキャンバ
スに包むと移動してどこかに消えて行った。
ビリーに案内され二階の居間に通されると、ウイスキーがグラスに注が
れ、無言でグラスを合わせると、富蔵も飲み干した。
一言『邪魔者が消えた・・!』とビリーがつぶやいた。

モレーノが『邪悪な飼い犬に咬まれる事はもうありえない・・』と言って
グラスを飲み干した。
定刻に記者会見が開かれ、ダイアモンド商会と富蔵達との提携した事が
発表され、シャンペンが抜かれて乾杯すると、ビリー達が新聞記者達を
引き連れてホテルの宴会場に繰り出した。
玄関の前にはハイヤーの高級車が何台も並びホテルに皆を送り込んだ。

部下達も何人か来ていた。
馬鹿騒ぎの様な宴が終わりに近くなって、ビリーが『お前達と知り合え
てよかった、
全ての過去を忘れて、俺と付き合ってくれー!』と肩を抱いて来た。
富蔵もモレーノもビリーの肩を抱いていた。

その朝早く、星が瞬くリオの飛行場を飛行機が一機飛び立って行った。

2012年12月25日火曜日

私の還暦過去帳(332)

旅に出て・・・、

それは45日も歩いたのですから、チン談、奇談の話しもありました。
今日はそのチン談のお話です・・・、

私がブエノスに滞在している時でした。ブエノスは私が48年前の若い頃
に長期で滞在して生活をしていましたので、懐かしく知った所も多く9日
間も滞在していました。

スリパッチャ通りのブエノスでも一番賑やかな所から直ぐですので、便利
も良くて少し煩いのですが、前はバス通りで歩いてフロリダ通りまで簡単
に歩いて行け、地下鉄もA線、B、C、D、E 線と5路線に歩いて行け
ますし乗り換えも簡単でした。

噂に聞いていた日本の地下鉄車両の中古が走っていると言う事で、興味
がありました。地下鉄B線は昔の東京、丸の内線を走っていた車両で、ま
だ先頭の運転席の窓には乗務員室と漢字が残っていました。

車両の色も座席も同じで、扇風機に営団地下鉄と書いて在る様な車両で、
また、地下鉄D線では名古屋市営地下鉄東山線の30両ほど走っている
と聞きました。でも実際に乗車してその車両に対面した時は驚きました。

車内のつり革も日本式でベンチの下の座席には消火器と言うサインも見
ました。良く見ると禁煙と日本語でサインがあり、英語も併用して書いて
有りました。地下鉄D線も消火器や、禁煙のサインは同じ物が有りました。
それにしても昔の話ですが最初にブエノスで地下鉄が走った頃に、日本

からブエノスの首都に視察団が来たという話です、驚くなかれ・百年も前
の地下鉄が走っているのです。地下鉄A線です、まだ車両は木製で、ドア
も完全自動ではありません。走行中、ドアが半開きで走っている車両も
有りました。日本では直ぐにTVのニュースか新聞種になる話です。

おおらかなものです・・、見ていたら誰も気にもしていない様子、驚きで
した。B線の車両にはエアコンは無かった様ですが、まさに日本語のチラシ
がぶら下がっていたら、まさにどこかと勘違いすると思います。

ブエノスの市内を歩いていると1880年代の古い建物が残っています。
まるでどこかヨーロッパのフランスか英国と感じます。ブエノスも終わり頃
になり、夜、道端でタンゴの演奏とダンスを踊っているのを見に行きました。
8時過ぎて宿を出てアルゼンチンは夕食が遅いので、ゆっくりです。

歩いてお目当てのレストランを探して夕食を食べ、ぶらぶらフロリダ通りな
どを歩いてから演奏をしている場所を探して見ていました。
週末でかなりの賑わいの通りは、ブラジルからの観光客で溢れていました。
タンゴの演奏がバンドネオンの音で盛り上がり、ダンサーの若い男女が絡み

合い、セクシーなステップと肢体のからみが大勢の観客の声援と拍手を受
けていました。投げられるお金が帽子から溢れていましたが、若い男女の
ダンサー売り出し前の路上ダンスショーと思います。
遅くまで見て、聞いて、満足して11時過ぎです、宿まで歩いての帰りでした。

街灯も有り、ブエノス・センター街の街頭にはポリスも沢山立っていますの
で、ぶらぶら歩いて帰宅していたら、古い建物の歩道も幅が無い様な街角で
す、私らの前に若くも無い男女が、石畳に靴音を響かせて歩いていました。
何か様子がおかしい様で、私も内心用心していました。

その二人は服装も一応はキチンとしており、でも何かそわそわしている感じ
で、私もハテ・・!と感じて見ていたら、薄暗い外灯の光にポタポタと水滴
が歩道を濡らしているのが分かりました。
ポタポタがだんだんと、細長い線となりアレー!と感じてすれ違いましたが、

ここまで書いたら皆様は何と思いますか?

私もその後は仰天の驚きで、一瞬アレー!を通り越して、ギョー!と目を見
開きました。男女のカップルが抱き合い、建物の陰に入り呆然としています。
女性の長いスカートの下から水滴が落ちて、下に水溜りの様になっていました。

私は側のワイフにもその時は話さず、急いで通り過ぎました。
見て見ぬふりです、さっさと早足で過ぎて行きましたが、宿に帰りお茶でも
飲みながらワイフにその事を話すと、何も気が付いてはいませんでした。

私が推察すると、薄暗い道に慌てた用事で来たカップルが、後ろから歩いて
きた我々にチヤンスを逃がして・・、先ほどのハプニングとなったと想像いた
しました。我々が来なかったら建物の陰でスカートを広げて、一件落着と
なっていたと想像いたします。

それにしても私にはその夜は強烈な印象のブエノスとなりましたが、もっと驚
くのはブエノスの高級住宅街の歩道で、犬のウンチがあちこちに落ちていたの
にはいささかゲンナリの印象でした。毎朝、沢山の犬を集めて、散歩に連れて
歩く業者が掃除をしない様でした。

2012年12月24日月曜日

第3話、伝説の黄金物語、(38)


 救助成功、

モレーノから電信が入り、『積乱雲が出て飛行経路の行く手を阻んでいる
ので、着陸して様子を見る間に給油をする』と連絡があった。

帰途の飛行コースの途中で降りて、給油しながら積乱雲をやり過ごしてい
るので帰りが夕方になると連絡して来たが、ポルトベーリョに、夕方には間
違いなく戻って来た。

英国人の女性は飛行場でモレーノの飛行機が着陸するのを待ち構えて、
飛び出して行ったが、モレーノが現場で目撃した遭難者の服の色を正確に
言うと、安心したのか、涙を流して喜んでいた。

確実に生きていることが証明された事で,明日は水上飛行機を飛ばして河
面に着水して連れ戻す事が決まった。行きは4名しか搭乗出来ない飛行
機で、遭難者を2名連れ戻すことを最優先としていた。

医者と富蔵が乗り、操縦はモレーノとリオ・ベールデから操縦して来た助
手が乗った。助手は墜落遭難者の救助も手助けする事が出来、ジャングル
生活の経験もある、タフな男であった。
寝る前には全ての飛行準備が整い、翌朝に備えた。

翌日早朝、まだ明け切らぬ朝の水面に轟音が響き、医者が搭乗すると同
時に、水面を滑走しだした。上空に飛び上がって、ゆっくりと持って来た朝
食を食べていたが、予定どうりに現場上空に到達して、一度上空を旋回し
て近くの河面に着水した。

現場上空では予定の信号弾が確認され、翼を振って答えていた。
モレーノは飛行機で待機して、助手と富蔵、医者の三人がジャングルに分
け入った。

簡易担架を担ぎ、山刀で下枝を切り開きながら30分程度で、お互いの声
がする所まで近ずいた。先ず歩ける英国人女性のご主人が手を振りなが
ら薮から出て来た。
お互いにしっかりと抱き合い、無事を喜んでいた。

負傷が酷い助手はテントに寝かされていた。早速医者の手当てが行われ、
足の骨折の手当をして、強打した胸部を診察していた。そこの肋骨も折れ
ているということで、応急手当を済ませると担架に乗せて、それを助手と富
蔵が担ぎ、医者が側について飛行機に戻って行った。

富蔵達は河の水に下半身浸かりながら水上飛行機に遭難者を乗せた。
狭い機内で、使用した担架は捨てられ、昨日投下された救助資材も岸に
放棄された。

河の水面から飛び立ち、上空に到達してモレーノが電信を送ったが、直ぐ
に感激の返電が来ていた。座席の後ろの貨物室に寝かされた遭難者の助
手はかすかに唸っていたが、英国人の女性のご主人は座席に座って、医
者の手当てを受けていた。

あちこちと切り傷や打撲があったが命には別状なかった。

その後、主人は持って来たサンドイッチなどを食べると、安心したのか深
く眠っていた。しばらく飛んで、一度着水して給油を受けると直ぐにまた飛び
立った。予定より少し遅れてポルトベーリョまで戻って来たが、着水して岸
辺まで滑走すると、すでに車が用意され、英国人の女性と関係者が並ん
でいた。

負傷者は直ぐに車に担ぎ込まれ、医者が付き添って病院に運ばれていっ
た。英国人の女性は、感激の再会を果たしたご主人を抱えるように車に乗
せるとモレーノに、感謝の言葉を何度も言うと病院に向かった。

その夜、仲間達と食事を済ませて、コーヒーのカップを手に、コニャックの
酒を注いだグラスを前に今日の救出作業の話をしていた。

英国人の女性が面会に来た。大きなカゴには溢れんばかりのワインやウ
イスキー、つまみのハムやサラミなどと、チーズも各種入って見事な飾りつ
けのギフト・カゴを持って来ていた。

女性は主人からと言うと、モレーノにカゴを手渡した。
重症の副操縦士の命は助かったと話していたが、主人も3日ばかりで退院
できると言ってその退院祝いをホテルで開くので是非とも招待したいと申し
出があった。

翌日、水上飛行機はリオ・ベールデにここからの荷物と、用事でサンパウロ
に出かける仲間を乗せると飛び立って帰っていった。
モレーノは招待を受けてその日まで、ポルトベーリョに滞在して近場の用事
で飛んでいた。
招待の当日、富蔵達はホテルに出かけて行った。町一番のホテルで退院祝
いの宴が用意されていた。先ず夫婦の滞在する部屋に通されると、正式に
自己紹介をして、丁重に救助のお礼を夫婦で言ってくれた。

5万ドルの小切手が手渡され、それと同時にモレーノが預かった「アフリカの
星」のダイヤのネックレスが彼女に返された。シャンパンが抜かれ、グラスを
交わして乾杯した。それが済んで広間に行くと、そこには南米各地から来た、
ロンドンのダイヤモンド商会の幹部が来ていた。

御曹司の掛け声で宴が開かれたが、富蔵達には良い顔見世となった。
富蔵達のダイヤモンド採掘は始まったばかりで、まだこれからと言う事で、色
々な情報は貴重なものであった。英語を話す富蔵はグラスを手にモレーノを
皆に紹介して廻った。
話が弾み、英語やポルトガル語、スペイン語も飛び交い、南米を舞台に貴重
な財宝を各種商う者達の世界を富蔵は見た様な気がした。
そして彼等の別世界も見たような気がした。

富蔵はその場で彼等の世界に飛び込む決心をした。

御曹司が入院した3日ばかりの間に、田舎のポルトベーリョに南米各地から
見舞いに来た幹部の姿を見せ付けられた事は大きな勉強となった。
敵対する相手の懐に飛び込んでビジネスの発展と活動の平穏さを富蔵は考
えた。そして今がチャンスと感じた。

資金力と企業の実力の差と、政治力を見せ付けられたからであった。

2012年12月22日土曜日

私の還暦過去帳(331)


旅に出て・・・、

旅に出てから魚を食べたくなる事が何回かありました。
ペルーの首都、リマでは困る事は在りませんでしたが、他は殆どが魚と言
っても川魚です、養殖のマスやナマズ、ピラニアなども在りました。
海で獲れる新鮮な魚が無いのです。冷凍の物は在りましたが、いまいちで
チリ-産の鮭などが食べられる様でした。

魚で育っていますので、口に出来ないと益々食べたくなります。
養殖マスは食べましたが、全部、料理は油濃い揚げた物ばかりでした。
それにポテトフライにライスが、お決まりで付いて来ました。
時には1匹そのままで、お皿からはみ出している時も在りました。

魚・・、魚・・・で食べたくなると、缶詰を持参していましたので、それを開けて
インスタント味噌汁や、これも持参の沢庵などを切り、食べていました。
缶詰はサバの味噌煮、サンマの蒲焼、イワシの醤油煮などでしたが、時に
は宿泊したペンションで、自炊でしたので御飯を炊いて食べていました。

でもリマでスーパーの魚売り場を覗いたら、何と・・!活きの良いカツオが
あるでは在りませんか・・、早速に値段を聞いたら、目の下30cmは在る
丸々とした、脂の乗ったカツオでしたが、格安の6ドル程度でした。

南半球ですのでまさに春カツオです、ワイフと話してペルー名物のセビッチャ
(新鮮な魚の身を降ろして、レモンなどで締めて食べる料理)にする事に
致しました。
値段も1匹6ドルもしないのです、食べなきゃ損と、早速に買う事に致し
ました。
ペルーです、セビッチャ用というと、大きなカツオを半身に降ろして皮を剥
ぎ、身だけにして、1本のカツオを2分も掛からずに綺麗に直ぐに調理出
来る様にしてくれました。

レモンよりライムの実が、香りが良いと言う事で、10個
ばかり買いまして、早速にペンションに戻ると調理してライムを搾り、赤玉ね
ぎを刻んでセビッチャを作りました。夕食まで冷蔵庫に入れて、ライムのジ
ユースがカツオの身を美味くしめると思い、入れておきました。
日本米を炊いて銀シャリと味噌汁でセビッチャを頂きましたが、まさに美味し
いと言う感じでした。殆ど全部食べてしまいました。

余ったのは怪我でペンションに滞在していた若者に、お見舞いで食べて貰い
ました。それにしても魚を食べると言う事はペルーのアマゾン河流域の人でし
たら河魚を食べる事が出来ますが、山岳地帯の標高4000m近い所に住
むインカの末裔達は、魚は一生で数えるほどしか食べないと思います。

現地人に聞いたら、缶詰のイワシのオイル漬けなどは食べるとか・・、生の玉
ねぎを刻んでパンに挟んで食べると話していました。おそらく海魚などの活き
の良い魚などは無縁と思いました。
チィチィカカ湖を訪ねた時に浮き島訪問で、そこで見たのは鮎みたいな魚で、
今夜の夕食用と言う魚を見せて貰いましたが、から揚げにすると話していまし
た。朝早く漁で獲って来たと話していましたが、側にはカモの様な鳥の身だけ
にしたのも2羽在りました。それも罠で捕まえたと話していました。

パラグワイに行った時に、日本食レストランではブラジルのサンパウロから
来ると話していました。寿司に使うネタ用の魚は全部サンパウロからの直行
便で来るので、結構新鮮な寿司を食べる事が出来るそうでした。
でも私はレストランでは寿司を食べる気になりませんでした。
でもチリー産、鮭の塩焼きを定食で食べましたが、これが美味しかったと思
います。
アルゼンチンのサルタ州に行った時に、ラプラタ河の支流のリオ・ベルメッホ
の河の近くの町、エンバルカションの河で獲れた川魚を自転車で売りに来て
いたのを見ました。鯉の様なかなり大型の魚でしたが、野生の川魚を売り歩
くだけの漁が出来る事に感心致しました。それからしたら、ブエノスの首都
で、大きなスーパーに買い物に行き、見たのは全部身に降ろした魚だけで
した。

量も少なく、貧弱な魚売り場で、冷凍のイカだけがかなりの量、陳列されて
いました。それにしてもアルゼンチンの国民は肉・肉と肉が無ければ食べる
物が無い様な感じでフャースト・フードもステーキばかり食べさせる店には驚
きました。
それは値段の安さも在りましたが、ランチにステーキとポテトを食べる事が出
来る国は余り無いと思います。それにしても魚を食べるという事は、旅先で
は中々難しいと感じる時が在りました。

たかが魚・・、されど魚なり・・・!
食べたくて、されど食べたい大和魂?

2012年12月20日木曜日

第3話、伝説の黄金物語、(37)

敵に塩を送る、

ポルトベーリョでの富蔵達のダイアモンド発掘作業は順調に進んでいた。

ジマイカ人達三名の抹殺後、何も邪魔が入る事無く鉱区の開発が進み、
原石の産出も採算が合う以上の、かなりの利益が出ていた。

初期の採掘としては成功であった。原石はスミス商会を通じて売りさば
かれていたが、行方不明になったジャマイカ人達三名は、英国人の会社
を通して捜索が行われポルトベーリョまで伸びて来た。

リオ・ベールデに居た富蔵達にも連絡が来ていた。
忽然と姿を消したジマイカ人達の消息が何処にも無い事と、ダイアモン
ド探索の記録が全て消えてしまった事が英国人達の焦りとなって探し回
っていた様だ。

ポルトベーリョでのホテルは、彼等が奥地に出かけていったという噂を
流していた。
その噂を真に受けて、捜索に来た英国人達が飛行機を使い、カヌーを使
ってアマゾン河の支流を探し回っていたが、何処にもその姿も、消息も掴
む事も出来なかった。

モレーノの操縦する飛行機で、富蔵がポルトベーリョを訪ねていた時で
あった。仲間と事務所で朝のコーヒーを飲んでいた時に、英国人の女性
が訪ねて来た。応接間に通して要件の話を聞いた。

それは、『捜索に出た飛行機が行方不明になり、昨日その情報がもたら
され、捜索に出た操縦士と助手の2名が生存して救助を待っている』とい
う事を掴んだので、誰か捜索と救助の飛行機を飛ばしてくれないか・・、と
言う事であった。

不時着して負傷して身動き出来ない事態で、緊急に医薬品と救助を必要
としていると言う事であった。英国人女性は手を合わせんばかりに頼んで
いた。

富蔵は英語が分かるので女性の話す言葉の意味が、真剣で誠実で、何
としてでも助けたいと言う心が伝わって来た。

富蔵がその女性に聞いたが、『貴方のご主人ですか?それとも・・!』と
言う言葉に、女性『私の主人です、そして会社の将来を担う経営者で
す・・』と答えた。

富蔵は瞬間、これは噂の英国人会社の貴族で、親族の一人として経営
に参加している社長の息子と感じた。使用人に命じて、その女性にコー
ヒーを出して、席を勧め、モレーノと地図を前にして、遭難行方不明地点
を探した。

女性ははアマゾン河上流のペルー国境に近い地点を指差して、『ここよ
り無線連絡が来て、そこより30km地点のジャングルに飛行機が墜落し
たようだ』と答えた。
女性は『どうしても救いたい、命を助けたい』と何度も懇願した。

『救助捜索の出来る飛行機は貴方達の飛行機しかない、この辺では誰
も経験が無い飛行士ばかりで頼りにもならない』と嘆いてハンカチで涙を
拭いていた。

気品のある英国女性が人前で涙を出しているという事は、切実に何か
があると肌で感じた。
富蔵がコーヒーカップを手に窓際でモレーノと救助の相談をしていた。
女性は二人の前に来ると、床にひざまずいて両手を合せて祈るように
懇願した。

ブラウスの前を開いてネックレスを外すと『これはアフリカの星と言う
名前があるダイヤです、主人が結婚祝いにお守りとしてプレゼントして
くれた物です、どんなに少な目に見ても5万ドルの価値があります、これ
を保証金として差し出しますので、今はその経費は払う事は出来ないが、
直ぐに捜索を開始して下さい』とダイヤを差し出して何度も懇願した。

モレーノが『5万ドルあれば新品の最新式の飛行機が買える・・』と言っ
て唸った。
富蔵がモレーノに『救助活動を開始するかー!』と言った。
モレーノは英国人の女性の手を取って、ひざまずいて居た女性を立た
せた。そして、『貴方の愛するご主人を今から助けに行きますから・・』と
伝えた。

使用人に命じて、飛行機に増油補助タンクを準備させ、医薬品リストを
見ながら電話をして、知り合いの医者に緊急薬品の助言を頼んでいた。

事務所の奥の電信室に行くと、自分で無線のキイを叩いてリオ・ベール
デから水上飛行機をこちらに廻す様に頼んでいた。直ぐに了解の返事
が来ていた。

英国人女性は富蔵とモレーノが飛行場に車で出発する時に、モレーノ
の首に『アフリカの星』のダイヤを掛け、『このダイヤモンドには、お守り
の力があります、貴方が無事に救助活動をして戻ってくる手助けをして
くれます』と言うと彼の頬にキスをするとモレーノ達を見送った。

飛行場ではすでに増油補助タンクが2個取り付けられ、医薬品や救助
用の信号用品など一式を入れたパラシュートが積み込まれた。
天気予報が調べられ、途中の通過地点にも飛行状態が無線で問い合
わされたが、途中の通過地点の天候は晴れて何も問題無いルートで
あった。

モレーノが飛行服にパラシュートを背負い、飲み物とサンドイッチを手
に飛行機に乗り込み、日が登り始めた空に飛び立って行った。用心に
マウザー自動拳銃と山刀が積み込まれていた。

長距離飛行の経験が十分なモレーノの操縦する飛行機は無線送信機
も積まれて、十分な装備を施していた。通過地点を通ると通過確認の
電信が来ていた。

富蔵は事務所で仲間と地図を前にモレーノの飛行を見守っていたが、
英国人の女性は、供の使用人と椅子に座って電信が来る度に新しい
情報を聞いていた。

昼過ぎ電信が飛び込んで来た。『目的地点到着、発煙の赤い煙と上
空地点では信号弾の打ち上げを確認した』という報告であった。

次の電信は、『地上でシャツを振る人間を確認、救助用品を詰めた
パラシュートを真近い現場に投下した』と言う報告であった。
当座の食料や緊急医薬品などが十分に詰められていた。

墜落機体も確認でき、現場は河岸に近い潅木の中と言う事であった。
リオ・ベールデからは夕方までに救助用の水上飛行機が到着すると
連絡が来たが、これで明日の早朝には救出に飛ぶ事が出来ると感じ
た。

しばらくして、『これから帰途に付くと言う事と、パラシュートの荷物を
引きずっている男を確認した』と言う連絡であった。

英国人の女性は胸の前で十字を切ると、祈りの言葉をつぶやいて
いた。

2012年12月17日月曜日

私の還暦過去帳(330)

旅に出て・・・、

中国の北京オリンピックの影響が世界の隅々まで、南米の片田舎の
墓地まで在りました。
北京オリンピックが決まって、中国政府の総力を上げた会場建設と
関連施設の準備、多くの建設ラッシュは単にオリンピックと言うだ
けではなく、成長著しい現代中国の産業の繁栄にも在りました。

アルゼンチンのサルタ州、ボリビア国境に近い私が若い頃に農業を
していた場所です、訪ねた町の郊外に在る、私の知人と、若い時の
友達の墓参りに訪れた時に、そこの墓地で墓の碑文として青銅に
刻まれた墓の飾りまで全てが盗まれていました。

碑文も何も無い、墓石に目印となる物が何も無い墓も在りました。
それはパラグワイでも同じでした。
パラグワイの首都、アスンションから3時間もバスに揺られて行っ
た日本人移住地のラ・コルメナ郊外の辺ぴな墓地でしたが、墓参り
に行って見た墓地の様子も同じ様でした。

銅板の碑文、青銅の飾り、全てが剥ぎ取られ盗まれていました。
今まで道端に打ち捨てられていたスクラップも、全て消えてしまっ
た様でした。それらは全てブラジルの製鉄所に送られた様でしたが、
北京オリンピックの建設ラッシュで高値が付く、鉄鋼材や銅やアルミ

などが全て中国に流れ、飛躍的な中国自動車製造も含めて、世界に
ひっ迫した不足の金属が消えて行ったようでした。
見ただけで無残な光景です。現地人の組織的な窃盗の様でした。
パラグワイのイグワス移住地を訪ねた時に、国道際の電話線が盗ま
れ、10日も電話が不通の事が在ったと嘆いていました。

この事はアメリカでも同じで、仕事で管理していたオフイスの配電盤
の地下アースの銅線も軒並み盗まれていました。身近な所でも沢山あ
り、道端に捨てられていたスクラップもいつの間にか消えていました。
新聞やTVでも組織的な窃盗を報じていましたので、南米ではもっと
価格的に生活レベルからしたら高価だったと思います。

昔の歴史的な人の功績を称える碑文も全て消えていた様で、無残を超
えて、むなしい思いが致しました。
南米、片田舎の墓地の飾りまで、田舎道の片隅に打ち捨てられていた
スクラップも、金銭に換算して、そこに住む人間の収入からしたら宝
の山としか見えなかった様でした。

静かな墓地に並ぶ墓が碑文の飾りも無く並ぶ様は、異様な光景でした。
一国の繁栄の波紋が世界中に広がり、他の国ではアンバランスの被害
しか無かったのです、矛盾と言うバランスの崩れはドミノ倒しの法則
の様に、セメントの不足、建設鋼材の不足、非鉄金属の不足、パルプ
用紙の不足、建設資金の高騰、世界的な建設資材の供給不足、景気の
停滞、まさに北京オリンピックが世界を揺るがせたのです。

しかし・・・、これが終わり、オリンピック・バブルが消えたら・・、
と言う不安とその危険性、中国が暴走する経済をコントロール出来る
かは全て、中国政府の指導者の力に掛かっているのです。

蛇が出るか?竜が出るか?牙を剥いた虎が出るか・・・?

13億とも言う人間を操るタズナは容易ではないと、誰かが話してい
たが・・・、

『北京オリンピックが終わり不満、要望、不平、人権問題、公害問題、
チベット問題、国内貧困格差問題、貿易摩擦問題、石油獲得競争』

全ての不満とトラブルと政治不安を押し隠す次のターゲットは・・・、

何か?
どこか?

貴方はいかにお考えですか?

2012年12月16日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(36)


 陰謀の激突、

私がこの物語を書き始めて、ふと・・、過去の思い出から出会った人達を考
えていました。
すでに時は半世紀近くも経って、記憶の中に沈んだ思い出を引き出して、何
気なく心に浮かんだ思いが、今では私しが歴史の目撃者として、証人となっ
ていると感じる時が有ります。

全て過去に消えてしまった人達ですが、私が出会った時にはその人たちは
70歳を過ぎて居た方ばかりです。
またその話をしてくれた方もその方の友人であったり、昔の仲間であったりし
た事で良く覚えていたようでした。
ある方の話を聞いて歴史の重みを感じたり、奇遇さに驚いてしまった事も有り
ます。

日露戦争で、ロシア軍の捕虜となり、遥か遠いモスクワを経てフランスのパリ
から、当時繁栄していたアルゼンチンのブエノス・アイレスに来て生涯、日本
人としての縁を切って結婚した外人の奥さんの姓を名乗り、日本人社会とも
絶縁して、生涯をアルゼンチンに埋めた人もいます。

その様な中で富蔵と同じくサントスで脱船して、アルゼンチンとパラグワイ国
境のポサダの町でカフェー屋を開き、成功して農園経営にも手を出していた
方でしたが、パラグワイの独裁大統領として1954年から35年間、永

年居座ってパラグワイを支配した、ストロエスネル大統領が大学生としてア
ルゼンチンのミッショネス州、ポサダの町に居た頃にコーヒーを飲みに来て、
こずかいに困っていたので良くタダで飲ませて、時にはこずかいも与えたと
話していました。

彼がパラグワイの大統領を呼び捨てにして、大統領が敬語を使い俺に話すと
笑っていましたが、歴史の中にはその様な方も居たのです。

富蔵と同じ様なサントスからの脱走者が人生の一時期に富を掴み、繁栄して
そして消えて行ったと感じます。
私がその方と会ったのは、亡くなる1年くらい前でしたが70歳過ぎて居たと
思います。目が悪く夜は出歩けないと話していましたが、昼間明るい所で、
日本の古雑誌を拡大境で読んでいた姿を思い出します。

話に聞いたのですが、戦前の日本帝国海軍のアルゼンチン親善訪問艦隊か
ら、深酒の溺酔いで汽車を乗り間違えて船に戻る事が出来なく、脱走兵とし
て生涯をアルゼンチンで過ごした方の話も聞きました。

私が一時期、下宿していたブエノスの宿は戦前、ブエノス港から日本船を脱
走して逃げた人が、最後まで住んで亡くなられた部屋でした。

生涯、コックとして働いていたようですが、独身で最後は知人と、働いてい
た所のオーナーが葬儀を出したようです。

人生の今までの行程でブエノスで植村直己氏ともすれ違った事があります、
当時彼はアコンカグワ登頂を果して、次のアマゾン河筏下りを計画していた
時期とおもいます。
短い時間でしたが、彼もこの世には居ません。全てが過去に消えて行った
のです。

話しをもとの富蔵の話しに戻りますが・・・、

ジャマイカ人が来てからダイアモンド採掘現場の事件が起きて、富蔵達が
緊張して用心していた。
富蔵達の採掘現場の監督が突然行方不明となってから、かなり日時が経
過しても何処にも姿を探す事が出来なかった。
しかし、回りの仲間と業者間の情報を集めて検証すると、どうしても最後
はホテルに滞在して居る ジャマイカ人の3人の連中に行き当たる事となっ
た。

彼らは用心して決して単独行動はする事無く、何処をどう歩くかは分から
なかったが、彼等が欲しがる情報が金に買われて流れていた。

富蔵は一策考えて囮の情報を彼等に売り込む事にした。

ダイヤモンドの原石を餌に話を持ち込んだ。餌には直ぐに飢えた魚の様
に喰らい付いて来た。顔を知られていない下働きの仲間の男に、ダイヤ
モンド原石を持たせて情報と原石の販売を彼等に持ち込んだ。

持たせたダイアモンドの原石が飛び切り上質な物であったから、簡単に
餌に喰らいついたと感じた。
モレーノが『彼等をこのまま生かしておけば、次々と犠牲者が出る・・』と
言った。

すでに彼等に殺されたり、抹殺された人間は最近だけで確実に4名は
居た。何処にも彼等にはその犯罪の証拠も無く、誰も手が出せない様子
であった。

モレーノの提案は『目には目を・・』と、逆に彼等の抹殺を考えていた。
実際に彼等は不気味な存在であった。富蔵達はこれ以上、緊張とストレ
スある対立を重ねる事は不利と考えた。
どこかで決着を付けなければ富蔵達の事業にも差しつかえると結論ずけ
た。事は計画され、実行される事に決まった。

それはモレーノを、誰か分からない奴が狙撃して、危うく一命を落とす所
であったので、皆が賛成して決行された。
狙撃されたのは事務所を出て、駐車場に行く時に物陰から撃たれ、ほん
の僅かな差ですれ違うトラックに弾が跳ねて命拾いしていた。
でなければ完全にその場で即死していたと感じられた。

富蔵達の仲間で一番の行動力を持つ、パイロットのモレーノを狙う事は、
その重大性を認識している人間と感じた。実行はダイアモンド採掘現場で、
丁度、ジャングルを切り開き試験採掘を始めた場所で、 河岸の崖に近い
場所であったので、カヌーで河から来れる場所でもあった。

喰らいついた餌は大きかった。彼等が目の色を変えて罠に掛かった事は、
それだけ情報が彼等にとって重要だったと感じた。
採掘現場が休日の日曜日と計画され、崖の上にダイナマイトを20キロ
も設置して爆破させ、土砂で一気に押し潰すことが決まった。

ダイアモンド採掘現場を案内して発見された地層を見せるという条件に、
原石を見せて納得させた。段取りは全て整い、実行はモレーノとパブロが
すると決まった。

仲間の案内役の男がホテルに出向き、三人を連れ出して来た。
河の上流から2隻のカヌーで、1隻に二名ずつ乗船して河を降りて来た。

富蔵達は仲間と隠れて河岸に身を潜めて居たが、前のカヌーには仲間の
男が乗船して、後ろにジャマイカ人がライフルを持って座っていた。
後ろのカヌーにはジャマイカ人の仲間二人が同じくライフルで武装して乗船
していた。全て段取りどうりに動いていた。

日曜日の休日で試験採掘現場は誰も居なく、静まり返っていたが、マウ
ザー・ブルームハンドルの大型自動拳銃にホイルスターを取り付けてカービ
ンライフルの様にして富蔵は構えていた。
横でモレーノがトンプソンマシンガンを構えて狙っていた。

カヌーが岸辺に近ずいて来て、仲間の案内役が崖下の試験採掘現場まで
連れて来た。パブロがダイナマイトの発破ヒユーズのスイッチを握っていた。

反対側にも富蔵を護衛していた仲間の一人が同じくトンプソンを構えて十字
砲火の様に掃射出来る様に狙って伏せていた。
ジャマイカ人達三名が熱心に地層を掘ってサンプルを採取していた。
側に3人のライフルが岩に立て掛けてあり、案内役は彼等の油断を見逃
さなかった。

仲間の道案内の男が後ろで見ていたが、ライフルを掴むといきなり河に投
げ込み、それと同時に河に飛び込んだその瞬間、一斉射撃が開始され、
三名が一瞬でもんどり打って倒れていった。

時間的には10秒も掛からない短い時間で、銃声が止むと同時に崖の上
でダイナマイトの発破が炸裂した。腹にズシーンと響く音が、轟音と共に
ジャングルに響き、土砂が崖下に崩れ落ちた。遠くで発破の音がこだまし
て鳴って居たが、すぐに元の静けさに戻った。

ジャマイカ人達、三名の姿は何処にも無かった、分厚く積もった土砂が全
てを覆い被せていた。ジャングルの中で鳥達が騒いで居たがそれもすぐに
静かになった。
パブロが『明日は土砂を取り除いた地盤から作業を始める事に成るよう
だ・・』と皆に話していた。

富蔵達はゆっくりと現場を見て廻っていた。
河に飛び込んだ仲間の案内役が濡れた身体で河から岸辺に戻って来た。
そして現場を見渡して『ことは完全に成功した、これでしばらくは安心して
仕事が出来る・・』と話していた。

全てが土砂に覆い被されて、何も目立った物は無かったし、そして邪魔者
達が消え去った。

2012年12月14日金曜日

私の還暦過去帳(329)

旅に出て・・・、

今回の旅で食に関する事柄を強く感じました。
国、場所、所得階層、季節など自然条件、社会条件などで人間が受ける
あらゆる影響の下、一人の人間が口にする食物の差が、寿命としての一人
の人間の命が決まると感じます。

人が口にする食物が衛生と言う健康の基本的な条件を充たすか?
人が口にする飲み物が健康の基本的な条件を充たすか?

人それぞれに満足感と言う格差が在ることを認識しましたが、その格差の
大きさです。パラグワイの田舎をバスで走っている時に、停車した地方の
町で、バスの窓際に売りに来た食べ物でしたが、ホコリと雑踏の中で、串に
刺した焼肉と、その一番上にはマンジョウカの蒸かした芋が、一切れ付いて
いました。
バスの乗客は何人もそれを買い、食べていました。
私はそれを見て44年前パラグワイの田舎道をバスで走った事を思い出して
居ました。さほど状況が変わっては居なかったのです。

その情景を見る数日前にパラグワイの首都、アスンションのスーパーを見て
居ましたが、アメリカと何も変わる事は在りません、フルーツや肉製品など
はパラグワイの方が品物によっては豊かと感じました。
そして何よりも首都に集中した裕福層の厚さを感じました。

地方の小都市や田舎の小さな町では同じパラグワイでも私が驚くほどの格差
が歴然と残っており、その差を埋める事は難しいと感じる事が有りました。
日本の様に流通経路も規格化され、大量にかつ正確に日本中を一つの枠に
入る様にまとめて在るような市場では、パラグワイなどとの比較は無理と感
じました。
ペルーの田舎地方都市で見た町の広場で開催されている市場が、全ての日
常生活用品や生鮮食料品を賄う重要な場と感じましたが、生活に密着した市
場です、狭い通路を歩き、窓口も狭い店ですが特色在る商品を並べ、専門に
穀物や、肉類、ポテトを並べ、その種類も私が驚くほど有りました。

しかしながら魚類は見かける事は在りませんでした。市場の横で屋台の食堂
が並んでいましたが、現地で収穫する物で、そこで育てた野菜と穀物と肉類
の組み合わせの食べ物が、何百年と続く生活の中に染み付いた食事と感じ、
またその手にする飲み物が、現代社会の象徴的なコカコーラと言うのには驚

きと、そのアメリカ資本の巨大さと、南米を埋め尽くす宣伝の凄さとも重な
り、これが現実の世界と考えていました。
私がバスの中でふと何気なく飲んだ後のボトル水のプラスチック空瓶を見て
いたら、それも同じくコカコーラの製品と知り、現在の世界の生活には個人
的な選択が少なくなり、また出来ない社会と感じました。

限られた地域社会で生きる事は、調理する素材も、またそれ以外の食品も全
て限られた社会に流通する範囲と感じましたが、同じトウモロコシでもその
種類と食べ方、調理の仕方がインカ時代から続く伝統を守り、現代も食べて
いると言う事は、旅に出て田舎の町の生活市場を覗いて良く分かりました。

2012年12月12日水曜日

第2話、伝説の黄金物語、(35)

 
 事業の拡大と暗雲

富蔵達がスミス家の事業に参加して順調に事業を伸ばして安定企業と
なり、仲間達の生活とその家族の安定がもはや不動になった事が分か
った。

平凡に事業が回転して、地道に伸びるビジネスが仲間の大きな信頼と
なり、若いながら富蔵が30歳を前にして仲間のボスとしての地位を確
立していた。
それには誰にも好かれる性格と、他人と摩擦を起こさない人徳もあった。

それぞれのブラジル各地の砂金や貴金属を集荷する基地の事業所も
他にビジネスを開いて着実な実績を挙げていた。
歳月の流れは速く、仲間の子供達も育ってビジネスの基盤の支えとな
っていた。

砂金採掘や生活関連物資を取り扱い、発注を受付て、取り寄せ、運送
してそれが大きなビジネスと成っていた。
それはサンパウロで富蔵とサムが主体となり物資を集めて各地に配送
をおこない、情報を集めてスミス家の会社にも送っていた。

それと同時に海の向こうの海外情報も富蔵達にスミス家の企業仲間か
らの情報として流れて来ていた。
平穏な生活と時間の間に世界情勢は動いていたが、富蔵達に入ってく
る情報は貴重なニユースもあった。
ロンドンを拠点とする昔の大英帝国の威信を借りた様な会社が南米に
も勢力を伸ばして、アルゼンチンの鉄道敷設などからヨーロッパに建設
された鉄道の枕木まで輸出ビジネスに手を出している企業であった。

穀物や食肉まで幅広く扱い、スミス家の事業にも割り込んで来た。
摩擦が起きて、ブラジルから産出する貴金属や宝石の原石まで手を伸
ばして来た。

スミス家のアメリカ系ユダヤ人とイギリスの貴族階級が投資して行う企
業との摩擦が起きて、アマゾン上流のペルー国境近くのポルトべーリョ
辺りで衝突した。ダイヤモンドの鉱石が発見されたのであった。それに
触手を伸ばして来た。

大英帝国時代に南アフリカで大きく勢力を伸ばしたダイヤモンド採掘の
利権を、ここブラジルでも彼等は狙っていたと考えられる。
金銀の採掘より巨額な利益が出るダイヤモンド採掘事業である、彼等
が目を付ける事は当然と考えられたが、ある日事件が突発して起きた。

富蔵達の鉱区に何者かが侵入してサンプル採掘をした後を発見したか
らであった。
それと採掘現場の監督が突然行方不明となって、何処を探しても陰も
形も無くなっていた。
富蔵はリオ・ベールデの拠点で皆と相談をして今後の対応を図った。
決めた事は『歯には歯を・・、目には目をー!』という、撃たれたら撃ち
返す生き残りの方法であった。
富蔵がパブロの協力でアマンダ兄弟の家族達と組んで町中に情報網を
張り巡らしていた。すでに事業も定着して多くの協力者も出来て、ビジネ
ス仲間も何処でも顔が効く様になっていたのが幸いした。

英国系の不審者が洗い出され、目星が付けられた。
その居場所のホテルを看視して、そこの部屋の掃除係りを買収して二
人の男の行動を見張っていた。部屋の中から検査機械や現場地図など
もある事が確認され、逃す事の無いように行動を見張っていた。

そんな事の最中に飛行士のモレーノから、『見慣れない飛行機が飛ん
でいた』と連絡が来ていた。彼等の動きが本格化した様子が測られて、
対策を考えていた。

先ずホテルを拠点にする二人を看視して、その動きから彼等が何を重
点に目標としているか探していたが、ある日、飛行場に見慣れない機体
が着陸してカバン一つ提げた男が降りて来た。
出迎えはホテルに居る男二人であった。

パブロが緊張して富蔵達がいる事務所に報告に来ていた。
パブロが言うには『今日来た男はジャマイカ人で早く言えば殺し屋と言
える男だ』と言った。
各地の揉め事に顔を出して邪魔な者を密かに消し去る仕事をしている
様だと話した。英国人の血が入るハンサムで背の高い褐色の肌をした
精悍な感じの男であった。

パブロが前回、近所であった砂金鉱区の紛争でその男が出入りしてい
たのを覚えていたからであった。紛争当事者の男が行方不明になり、
裁判所の担当判事が自動車事故で急死した事で、紛争はうやむやに消
えてしまったと話していた。

パブロが富蔵に身辺を注意するように言って来た。そして仲間のアマン
ダ兄弟と親戚の中から一番の機敏で射撃も出来る若い男二人を護衛
に付けてくれた。中の一人はリオ・ベールデから来た軍隊経験もある男
であった。

彼等二人は慣れた土地で、仕事仲間と友人達に囲まれて町中の情報を
すばやくキャッチ出来る立場にあり、砂金採掘現場でも仕事で顔が売れ
ていたので、誰が何処に居るという事もすばやく知る事が出来た。

そのジャマイカ人が来て直ぐに、ダイヤモンド採掘現場の事務所が襲わ
れ、事務員二名が殺され、採掘計画書と地図、試掘されていた原石が
盗まれていた。

富蔵達に緊張が走り、モレーノも飛行機で駆け付けて来た。

2012年12月9日日曜日

私の還暦過去帳(328)

旅に出て・・、

南米の各地に中国の製品が溢れていた事には驚きでした。
価格的に、手軽に買え、手に出来る品物です。
ペルーの奥地の片田舎の市場で、殆どローカルの人しか居ない
様な小さな窓口に、雑貨製品から電気製品まで多くの中国製が
並んでいました。

私も旅の途中で2時間程度のランチタイムの自由時間にローカル
の市場を歩いて、その手にした品物で感じたのでした。
子供達が遊ぶトランプから、雑貨のボタンやこまごました裁縫の
用品まで、工具店では粗い仕上げの工具類や部品類が雑然と

積み上げられ、同じく電気部品なども箱に入れて各所の生活に
必要なソケットやスイッチなどが有りました。

私もパソコン電源差込プラグが合わなくて、アダプターを持って
来ていましたが、田舎ではそれが合わない事が判明して少し焦り
ましたが、町の市場に在る電気製品などを扱う所を探したら、簡単
に見つける事が出来ましたが、間違いなく中国製品でした。

作りが粗く、プラスチックのバリが綺麗に取れてはいませんでした
ので、差込口が少し堅くて削らなくてはなりませんでしたが、使用
で来る事は間違いなく、助かりました。

遠くコンテナーに詰められ、港で陸揚げされ、トラックに載せられ
てペルーの山奥の5千m近い峠を越えて田舎のローカルの市場の
片隅に並んでいるのです。

その驚きと、価格的な安さの衝撃です。
デジタル時計が1個、5ドルもしないのです、アメリカで交換する
電池の価格も致しません、それには『Made in China』
のラベルが在るのです。コルカ峡谷のペルー田舎のローカルの市場で、
隣ではオバサンが大きなスープを抱えてパンを食べていました。

店先に飾られたラジオや小型のTVなども皆、中国製品でした。
何か心の中で衝撃的な感じが致しました。
48年前に南米に足を踏み入れて、パラグワイやアルゼンチンの
田舎で日本製の雑貨が見られました。

アルゼンチンのサルタ州で、ボリビア国境近い辺地でトラックを停め
てランチを食べていた時に、年寄りの婦人が『お前は日本人か?』と
聞いて、『戦前の昔は、この辺までも日本製の粗悪品が売られていた』
と話していたが、『今ではこんなラジオが買える・・、』と見せてくれた
のがナショナルの我々が日本で松下電器と言っていた製品でした。

その婦人が話していたのは、第一次大戦でヨーロッパからの雑貨製品
の輸入が途絶えて、そこに日本製品の雑貨が大量に輸入されて来た
様でした。その様な話をしてくれました。彼女が『今ではこんな性能の
良いラジオが日本から来る・・』と言って話していましたが、音質もよく、

電池でも普通の電源でも使用できるかなり性能のよい国際放送の短波
も聞く事が出来るラジオでした。短波放送を受信できる微調整のダイアル
が付いた明るい感じのデザインで、海外用に製造されていると感じまし
たが、今でも心に深く残っています。

ペルーの田舎町でタクシーの殆どが韓国製、現代自動車の小型車だった
のにも驚かされ、一度などは20分ほど乗車していたが、メーターなどの
計器類は全て動いてはいなく、ドアもガタガタでくたびれた感じの車でした
ので、聞いたら中古車で買い、エンジンも一度交換したと話していました。

その時、まだ中国製の車は一度も見る事は在りませんでしたが、これが
時代を経て中国製の車が溢れるようになったらと考えると、現在の中国が
オリンピックと言う社会の総力を上げたエネルギーを、国家発展に結集し
たら・・、

『共産社会主義での矛盾と変貌が、階級社会と化した共産党幹部と労働
者、農民との階級闘争となっている現代中国社会を是正しないと、過去の
資本家と労働者と言う階級闘争の二の舞になる』と感じます。

格安製品とその氾濫する商品を輸出する産業資本、金融資本、資源獲得
競争などの底辺に中国の農民や労働者達の犠牲が有ると感じたのでした。

中国の13億とも言われる人口が作り出すエネルギーをぺルー田舎町の
寒村市場で体感させられたのは良い勉強でした。

2012年12月7日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(34)

 
運命の定め、

富蔵達がその後、スミス氏達と正式に契約して、事業に参加する事が決ま
ったが、拠点を6ヶ所ぐらい設定して、そこから事業を伸ばすという事を決
めた。飛行機での運送経費は折半となり、サムのサンパウロ郊外の飛行
学校滑走路を拠点とすることが決まった。

リオ・ベールデに行き、仲間で今回のスミス氏救出に参加した者達を集めて、
それぞれにかなりの金額を手渡した。パブロもその金を結婚資金としていた。
カンポグランデの養蜂家ホセと助手の若者にも配分が手渡された。

彼等は思いもつかないボーナスに喜び、家を買う者、借金を清算して両親
にラジオや新しい家具などを揃えていた。

半分の2万5千ドルは仲間の軍資金として蓄えられ、新たに単発エンジン
の長距離を飛行できる大型飛行機を購入する事にした。操縦席は並んで2
名が操縦できる新しいタイプであった。

先日エレベーター内で襲って来た賊二人は、銀行の行員と通じて大金を降
ろした人を内通して、その金を仲間が強奪していたようだ。
同じ様な事件が起きていたので、犯人が射殺され身元がバレてから、直ぐ
に銀行員の内通者が逮捕された。

スミス氏のファミリー企業はこの様な内通者を用心していた。
しかしと富蔵達の仲間は全て誰が何処に繋がっているか、家族が誰か?
兄弟は何をしているか?全て知り尽くしての仲間だけの集まりであった。

金と原石など貴金属を集荷して、本店のサンパウロに運ぶ仕事は大きなビ
ジネスであった。金額が大きいので2%と言う利益がかなりの金額になって、
これからの富蔵の運命を決めたような感じであった。

列車や車を使う事無く、全て飛行機で拠点を回り、集荷する事は襲われる
危険性が殆ど無かった。
アマゾン河上流のマナオスの町では、交通手段では飛行機が最高に安全
で早いものであった。
砂金などの突然の発見でにわかに出来た町などは、サムがアメリカの陸軍
航空隊で学んだ、通信筒を飛行機で、引っ掛け引き上げる方法を活用して、
現場から簡単に砂金の袋などを着陸しなくても持ち帰る方法を考案した。

この方法はビジネスとして、大きな力を発揮した。
それと同時に操縦士を身内の中からもう一人養成することが決まり、アマン
ダの一番下の末の弟が決まった。
サムとモレーノの特訓が始まり、驚くほどの上達を見せていた。

リオ・ベールデに居るアマンダ兄弟の会社で働く腕が立つ若者4名は、集荷
拠点を運営する事が決まり、簿記から、計量計りの操作まで習っていた。
そして一番重要な拠点を守る武装と自衛の建物の建設であった。

拠点の建設もスミス氏の事業拠点を引き継いだ所が3ヶ所もあり、それを補
強して強固にした。リオ・ベールデは今の拠点をそのまま使い、カンポグラン
デも砂金採掘現場に隣接して事業所を開いた。

まったくの新規はペルー国境近くのポルトべーリョに決まったアマゾンの上流
で周りには有望な地下資源があり、砂金採掘なども行われ、これからの地点
であった。

それぞれの拠点に行く者は家族を連れ、兄弟を連れて出かけて行った。
特に新規のポルトベーリョは家族構成が多くて、兄弟などが5名もいる男を選
んだ。

中にはリオ・ベールデに居る仲間の軍隊経験者として、一番の射撃手として腕
があるオラシオの家族も居た。

これからの場所で、住居なども大きな建物を買い、それを改築建て増して拠
点を作った。ここには無線電信の機械を据え付けて、通信手段は自前で確保
していた。全てが整い、事業が動き出した。

サムが飛行計画を整えて、計画どうりに飛行機を飛ばして砂金や貴金属など
を回収して来た。中にはダイアモンドの原石や貴重な宝石の材料になる原石な
ども含まれていた。
安全で拠点が何も治安などの心配ない所は月に1回、危険で採掘量が多い所
は毎週飛行機が回収に飛んでいた。
モレーノの操縦する飛行機の副操縦士として、操縦免許を収得したアマンダが
座った。
かなりの長距離を飛ぶ事があったが、定期便の飛行機でもないので天気が悪
ければ何日でも回復するまでのんびりとしていた。

サムがサンパウロの飛行場の事務所で全てをコントロールして飛行計画を立て、
運営していたが、富蔵は組織として動き出した大きなうねりを感じて、自分の運
命を悟った。
自分達で採掘する金鉱もリオ・ベールデとカンポグランデの2ヶ所にあり、その
収益もかなりなものであった。
スミス氏の会社も関連する仲間の事業と絡んで富蔵達の迅速で安全な集配を
利用したので、その利益もかなりのものになっていた。
飛行機の運送経費折半分もそれで十分に賄えて利益が出ていた。

もやは引き返す事が出来ない組織となり、スミス氏の事業と絡んでその運命の
道筋を歩き出したと感じていた。

2012年12月5日水曜日

私の還暦過去帳(327)

旅に出て・・、

心感じた事は48年と言う自分が歩いた歳月でした。

旅に出て昔の郷愁に涙し、感激に浸り、驚きの変革に胸躍らせて見て、聞
いて語り合い、二度と戻る事は無いこの歳月が、過去に流されて、過ぎて
行った日々の積み重ねを体感として自分の身体が納得したと思います。

48年以上も前に、うっそうと茂る原始林のジャングルに恐怖を感じ、足
を踏み入れる事すら躊躇した事が在ることを考えると、今回見た移住地の
開発された広大な農地と、どこまでも青々と広がる麦の波を見て、感激の
興奮すら有りました。

人間の行動力は人間一人の力は僅かでも、その集団としての力と機械力を
操作する僅かな力で地球破壊の規模まで自然を変えて行きます。
48年の歳月は、昔は赤土にまみれ、雨が降ると泥土と化した道は舗装さ
れ、収穫した大豆を満載した大型トラックが疾走しています。

しかしながらパラグワイの日本人移住地として最初に開かれたラ・コルメナ
移住地では、高校卒業の10名の内、8名は日本に出稼ぎに出るという事態
を考えると、過去において日系人が努力して地元の大学を出て、学位を取り
その生まれ育った国に、日本人の血を持つという人間として活躍する人が
多く出ていました。

それも今では経済的な賃金格差の魅力から、日本に出稼ぎと言う若者達の
行動で地域の日本人社会の破壊的な要素も出て来ています。

若者がいない社会は衰退と敗退の世界です。私が48年前に最初に訪ねた
時は、原始林を伐採して、開墾して、農場には作物が植えられ、戦後移住し
た人達の活動がこれからの移住地や、パラグワイ日本人社会に対しても希
望的な多くの要素も有りました。

今回の訪問で、イグワス移住地や、ラパス移住地などの発展とその規模と
人口形態の動きなどとを比較すると、75年を経て、ラ・コルメナ移住地と
いう日本人社会が衰退の様を晒して、過去に日本人達がここで農業をしてい
たという過去の物語となる要素も含んでいます。
この事はパラグワイの全ての日本人移住地に言える事かもしれませんが、

日本国内で人口の減少と農業と言う社会的地位が失われている事が、教育
と言う、若者を教育して、精神的にも育てて行くと言う基盤の崩壊と感じま
す。移住地で話していた、『後に続く日本人、日本人の血と精神を持つ人間
が失われたら、いつの日かこの移住地はパラグワイ社会に埋没してしまう』
と話していた事が忘れられない。

それは同じく、日本国の現代社会の有様と同じ様だと心感じる事が在ります。
それは旅に出て、遥か遠い地球の裏側に訪ねて感じる疑問と思います。

2012年12月3日月曜日

第3話、伝説の黄金物語、(33)


 スミス氏一族との契り、

富蔵はスミス氏に招待された夕食に妻の絵美は子供が居るので男三名で出
掛けて行った。
サムがモレーノを連れて車で迎えに来た。絵美と子供に見送られて車に乗り
込み、サンパウロでも一流の高級住宅街にある屋敷に向かった。

富蔵には関係ないスミス家の上流階層で、初めての経験であったが物怖じ
しない度胸があった。
船に乗船してコックの端くれで頑張っていた頃に覚えた洋食のマナーも知って
いたし、船長や事務長などの高級船員達の食事の給仕もして、飲み物から
全てのコースの扱いにも慣れていた。
脱船してアメリカで生活していた時代に覚えた英語とニユーヨーク時代のレス
トラン給仕で覚えた高級レストランでの金持ち達の扱いにも経験があったので、
これがどのくらい役に立ったかと富蔵も今になって考えていた。

スミス氏の邸宅に着いて、玄関の広間に並んだ召使達に案内されて通された
応接間では、すでに大勢の家族と親戚と知人達が集まっていた。
スミス氏の紹介で3人がどれだけの人と握手して紹介されたか、覚え切れな
い数字であった。

それが終ると両親が座るソファーの前に来ると、両親が立ち上がり、もう一度
丁重に救出の礼を言うと手にした鈴を鳴らすと訪問者を制して、

『ここに居る三名が我が息子の長男を怪我一つなく救出してくれた勇士であ
る、その救出計画と実行を企画した若い紳士が上原富蔵氏で その方を紹介
する』
と皆に言うと、中央の階段を数段上がると、富蔵を中央に両脇にサムとモレ
ーノを並べて、シャンパンのグラスを握らせて 自ら三名のグラスにチーンと音
を立てて合わすと、長男のスミス氏に合図して、スミス氏が『怪我一つ無く救
出してくれ、家族と親戚一同感謝致します』と言うと、『乾杯ー!』と叫んだ。

『乾杯』とドーッと、どよめいた声が上がり、華やかにグラスが鳴っていた。
主賓のテーブルに座らされ、宴が始まった。富蔵は豪華な食卓に驚きながら、
何度も乾杯のグラスを空けた。

モレーノが食事のマナーを横で聞くので、それを教えながら食べていた。
モレーノは富蔵がなれた手つきで、上流社会のマナーで食べている様に驚い
ていた。
そして、サムが話す英語会話での仲間の話に加わり、大勢の親戚など共に、
にこやかに英語で冗談を言って談笑していた。

食事が終わりコーヒーとケーキ、コニャックのグラスが配られ、最高級のハバ
ナ葉巻が箱ごと廻され、食後のひと時を和やかに過ごしていたが、富蔵達の
回りは挨拶に来る人が絶えなかった。

父親が『今日はビジネスの話しなどは持ち出さないでくれ・・』釘を差して居
たが、名刺を差し出して『後日私のオフイスで・・』とか、『ゴルフなど』と
誘う人物も居た。

ユダヤ系のサムが富蔵を信用して、兄弟のように親しくしている様を知って、
サムと英語でも話しが出来る富蔵に皆が注目して、使える、頭の切れる人物
と理解した様だ。

それと上流社会の豪華な宴にも、何も動じないマナーで食事をして、飲み物
もそれにあった物を注文できる姿は、若いながら貫禄があった。

富蔵の剣道と柔道などで永年鍛えられた身体と、体格も大柄で、誰からも好
かれ陽気な性格はスミス氏のファミリーに大いに気に入られた。

宴も終わりになり、来客が帰り始めて両親とスミス氏が書斎に3人を呼んで
くれた。ドアが閉められ、大きなテーブルにカバンが2個おいてあった。

父親がおもむろに『皆に約束した5万ドルです、無傷で生きて長男を家族に
連れ戻してくれた事は、金銭には代えられない感謝の気持ちです。どうぞ、
この金を今回の事件で救出に関わった人達と分けて下さい』と差し出して来
た。
『我々のビジネスにはこの様な事件を想定して、仲間で保険の代わりに積み
立ててある金があるのです。今回はまったく驚いたが、我が長男が誘拐され
人質にされるなど考えてもいなかったので、安全に無傷で救助された事は何
よりも嬉しい・・、前に2件も人質が殺されているので、その事がなおさらで
す・・』と言って2個のカバンを前に置いた。

富蔵はカバンを開けてなかを見たが、ドル紙幣で2万5千ドルずつ入ってい
た。富蔵は考えて片方のカバンを押し返して、この金額はブラジルのクルゼ
ーロ紙幣で良かったら貰えるか・・』と聞いた。

直ぐに『明日で宜しかったらオフイスでお渡し致します』と返事があった。
その話が終ると側の包みが開けられ、中から新品のモーゼル・ブルームハン
ドルの大型自動拳銃が出て来た。

『親戚が取引している商品ですが、今日のお土産に・・』と各自に一丁手渡
された。富蔵は前から欲しかった物で、ホルスターの木のケースから取り出し
て、その姿に惚れ惚れと見ていた。

モーゼルC96型の20連発が出来る型であった。木製ホルスターストック
を取り付けるとカービンライフルとして使える大型拳銃であった。
富蔵達3人は感謝して父親からお土産を各自貰うと、家族に今夜の宴に招
待してくれた礼を言って帰宅した。

ドル札で2万5千ドルが入ったカバンは、一番安全な富蔵の隠し金庫に入れ
られた。明日の午後に残りはブラジル通貨で貰う事になったので、モレーノと
市中の事務所に車で行く事が決まっていた。

モレーノが護衛でカバンを守ると言うこともあったので、それが安全な方法で
あった。 事務所に昼休みの後に訪ねた。直ぐに応接間に通されると、コーヒ
ーが接待され、直ぐにスミス氏と弟が出て来て、昨日の賑やかな宴のお礼を
言っていた。

父親が居るオフイスに通されると、イスを勧められ、『貴方達に私達が商う事
業の手助けをしてくれないだろうか?』と問いかけて来た。

『長男が誘拐されて気が付いたのだが、ブラジル各地での砂金や金の買い付
けを我々直接では無く、貴方達が現場で直接買い付けて、その貴金属をサン
パウロの事務所で引き渡すと、その金額の2%を手数料として直接渡す』とい
う話であった。

富蔵は何のためらいも無くそれを引き受けた。そして父親の手を握り『私達を
貴方の事業に加えて下さい』と即答した。

父親は大喜びで、『それはありがたい、これからの事業の危険が殆ど無くな
る』と話して、近所の高級ホテルのレストランに電話で席を作らせていた。

そこまで皆で歩いて行く事になり、直ぐ隣のビルまで行くのに、皆がエレベー
ターに乗り、降下ボタン押す瞬間、飛び乗って来た男二人が拳銃を突きつけて
『静かにしろー!』と脅した。

エレベーターの奥にスミス氏兄弟と秘書や父親が乗り、入り口にモレーノと富蔵
が居た。二人の男は拳銃で威嚇しながら金の入ったカバンはどこかと聞いた。

モレーノが『事務所にあるから・・』とオフイスの入り口をアゴで示した。
『レストランに行くので事務所の金庫に入れて来た』と言うと、用心深く見回し
て二人は『外に出ろ!』命令した来た。

するとオフイスのドアが開いて若い女性の事務員が書類を持って出て来ると、
その場を目撃して絶叫を上げて『ヒエー!』と金切り声を響かせた。

仰天した男二人の拳銃が少し横を向いた瞬間を富蔵は見逃さなかった。蹴りを
入れて、相手の腕を掴むと拳銃の銃口を賊の仲間の方に捻り切り、その男を
楯にしてエレベーターの前で発砲した。

同時に相手も撃ったがそれは仲間を撃ち傷を負わせる皮肉な事になった。
モレーノが抜き撃ちで側の男に連続で発砲して即死させていた。

富蔵が楯にしていた男を廊下に突き倒すと、深傷でもがく男にモレーノは止め
の1発を打ち込んだ。すばやく空薬きょうを抜いて弾を装填すると、エレべー
ターホールの周りを用心深く見て、皆を事務所に招き入れた。

銃声が鳴り響き、逃げ惑う人達も居たが、エレベーター前に賊が二人射殺さ
れて転がっていて後は静かな様子であった。
秘書が警察に電話をしていたが、奥のオフイスではスミス氏兄弟と父親が富
蔵とモレーノに守られて安堵の様子で冷たくなったコーヒーを飲んでいた。

ビルの警備員が駆け付け、事務所の前に散弾銃を構えて警備を始めた。
警察官が来ると警備員と警察に守られて車に乗り込み、事務所に連絡交渉の
秘書をおいて自宅に帰宅した。

富蔵達はスミス氏達を自宅に送り届けて車で事務所のビルに戻り、警察の事
情聴取を受けると直ぐに帰宅が許され、秘書の車で自宅まで戻ると、ホッと
安堵していた。

その夜、スミス氏の長男が花束とカゴに入れた何本かの高級なウイスキーや
コニャックを持って父親のお礼を言いに来ていた。
中のカードには『勇気ある若者と懇意になれたことは神の導きである』と記し
てあった。
この事で、これからどれだけの便宜が彼等から受ける事になるか、富蔵には
まだ気が付かなかった。

2012年12月1日土曜日

私の還暦過去帳(326)


旅に出て、

旅に出て沢山のバックパッカーと言う若者達に会いました。
昔は無銭旅行者と言う方達でした。

48年も昔は日本政府の外貨保有高が少なくて、僅かな金額のドルしか日本
から正規の交換レートでしか持ち出す事が出来ませんでした。
当時の闇ドルは1ドル400円の時代で、当時の所得からしたらとてもその様
なお金を持ち出す事は出来ませんでしたので、大抵は働きながらの旅行でし
た。
一般的にはアメリカに渡り、そこで稼いでメキシコから南米と降りてい行く行
程が多かったと思います。当時は労働許可証が無くても、仕事が出来た時
代でした。
南米で農園で仕事をしたり、工場で働いたり、レストランの給仕をしたり、
マッサージ師や指圧などで稼いでいた人もいました。

また、『包丁一本晒しに巻いて』の唄にある様な板前さんも居ました。 しかし、
現在のバックパッカー達のパターンは『ワン・ワールド世界周遊券』を購入し
て、西回りか東周りで世界を半年や1年掛けて歩いている男女でした。
バック・パックがその標識と感じます。

私は小さなバック・パックを背負い、ガラガラのトランクを引きずって歩いて居
ました。ガラガラと言うのは手で引っ張れるトランクです、便利で軽くて重宝致
しました。 衣類や雑用品はガラガラのトランクに、重要な物はバック、パック
に入れて居ました。ノート型パソコンはいつも背中に背負って居ましたが、予
備のデジカメやビデオも同じく背中のバック・パックに入れていました。

長距離夜行バスなどに乗る時は必ず手元に置いて居ました。予備の電池や
地図など、旅行案内書は直ぐに出せるようにしていましたので、何かと便利
で使いやすい物でした。
たくさん見ましたが、現在のバックパッカーと言う人達の度胸です、女性の一
人旅が多いのです、昔では数えるほどしか居ませんでしたが、何と言っても時
代の変化と思います。今回の旅で若者達に感じた事は彼等が日本人として、
海外で祖国を感じ、また批判してこの世を感じ、新しき物を得ていると思います。

旅は自分を見詰め、反省して自己の視野で批判と言う価値観を持ち、多くの
新しい斬新で改革的なアイデアを生み出すと思います。
近年では中高年のツワー客が南米の各地で見られましたが、これからの日本
を支える若者達の海外旅行が減っているという事は私個人の考えですが、日
本が衰退の兆しではないかと奇遇するものであります・・、

私も昔、アルゼンチン北部のボリビア国境から大型トラックで、トマトなど野菜
満載でブエノスの首都まで、1658kmの標識を見ながら田舎町を出発して行
きましたが、3回ほど無銭旅行者を拾った事が在ります、大抵はボリビア国境
からトラックなどを乗り継いで来た旅人でした。彼等とつたない英語で話した時
に、彼等がいつの日か帰国したら、その時の行動理念を持っていたことでした。

当時はヨーロッパからの旅行者が多かった様で、1回目は若い夫婦の二人連
れでした。3時間ほどの乗車でしたが、サルタ州からチリに抜ける様な話をし
ていました。州都への分岐点の道で降りましたが、トラックを発進して重い大
型トラックを加速する、ゆっくりとした動きの間、彼等が手を振っていたのを覚
えています。
今回の旅でその場所をバスで通過しましたが、道路拡張と綺麗な舗装で様変
わりした国道の様子は、何も昔の面影も在りませんでした。今ではデラックス
な長距離バスで食事や飲み物までサービスされ、冷房の効いた車内で映画の

ビデオなど見ながら、セミカマのシートにもたれて目的地に行く旅人達 の様子
を見ると、田舎の汽車が薪を焚いて走っていた、のどかな様子を思い出して汽
車の中でカゴに入れて売りに来たサンドイッチをワインの栓を開け、ガタガタと
揺られながら食べていたローカル線の様子を懐かしく思い出していました。

旅の途中で、パラグワイのアルゼンチンと国境のパラナ河を挟んだエンカナシ
オンの町で、48年前に降り立った、現在は廃駅となった場所を見物に行った
時に、貨物列車を引く機関車が、まだ薪を焚いて走っていたので驚きと、現在
も稼動する機関車で、その整備工場に3両もまだ存在した事に感激いたしま
した。

今回の私の旅は多くの人と出会い、また別れ、昔の思い出を目にして郷愁の
せつなさと、過去に旅立った友や知り合い達の墓標との再会だった感じが致
します。

しかし・・、旅先で会い、すれ違い、同じ宿に泊まり、話し語らった若者達が、
これからの日本とこの世界に祖国の意識を確実に持った人物として、多くの
人が育っていると確信いたしました。