2012年12月1日土曜日

私の還暦過去帳(326)


旅に出て、

旅に出て沢山のバックパッカーと言う若者達に会いました。
昔は無銭旅行者と言う方達でした。

48年も昔は日本政府の外貨保有高が少なくて、僅かな金額のドルしか日本
から正規の交換レートでしか持ち出す事が出来ませんでした。
当時の闇ドルは1ドル400円の時代で、当時の所得からしたらとてもその様
なお金を持ち出す事は出来ませんでしたので、大抵は働きながらの旅行でし
た。
一般的にはアメリカに渡り、そこで稼いでメキシコから南米と降りてい行く行
程が多かったと思います。当時は労働許可証が無くても、仕事が出来た時
代でした。
南米で農園で仕事をしたり、工場で働いたり、レストランの給仕をしたり、
マッサージ師や指圧などで稼いでいた人もいました。

また、『包丁一本晒しに巻いて』の唄にある様な板前さんも居ました。 しかし、
現在のバックパッカー達のパターンは『ワン・ワールド世界周遊券』を購入し
て、西回りか東周りで世界を半年や1年掛けて歩いている男女でした。
バック・パックがその標識と感じます。

私は小さなバック・パックを背負い、ガラガラのトランクを引きずって歩いて居
ました。ガラガラと言うのは手で引っ張れるトランクです、便利で軽くて重宝致
しました。 衣類や雑用品はガラガラのトランクに、重要な物はバック、パック
に入れて居ました。ノート型パソコンはいつも背中に背負って居ましたが、予
備のデジカメやビデオも同じく背中のバック・パックに入れていました。

長距離夜行バスなどに乗る時は必ず手元に置いて居ました。予備の電池や
地図など、旅行案内書は直ぐに出せるようにしていましたので、何かと便利
で使いやすい物でした。
たくさん見ましたが、現在のバックパッカーと言う人達の度胸です、女性の一
人旅が多いのです、昔では数えるほどしか居ませんでしたが、何と言っても時
代の変化と思います。今回の旅で若者達に感じた事は彼等が日本人として、
海外で祖国を感じ、また批判してこの世を感じ、新しき物を得ていると思います。

旅は自分を見詰め、反省して自己の視野で批判と言う価値観を持ち、多くの
新しい斬新で改革的なアイデアを生み出すと思います。
近年では中高年のツワー客が南米の各地で見られましたが、これからの日本
を支える若者達の海外旅行が減っているという事は私個人の考えですが、日
本が衰退の兆しではないかと奇遇するものであります・・、

私も昔、アルゼンチン北部のボリビア国境から大型トラックで、トマトなど野菜
満載でブエノスの首都まで、1658kmの標識を見ながら田舎町を出発して行
きましたが、3回ほど無銭旅行者を拾った事が在ります、大抵はボリビア国境
からトラックなどを乗り継いで来た旅人でした。彼等とつたない英語で話した時
に、彼等がいつの日か帰国したら、その時の行動理念を持っていたことでした。

当時はヨーロッパからの旅行者が多かった様で、1回目は若い夫婦の二人連
れでした。3時間ほどの乗車でしたが、サルタ州からチリに抜ける様な話をし
ていました。州都への分岐点の道で降りましたが、トラックを発進して重い大
型トラックを加速する、ゆっくりとした動きの間、彼等が手を振っていたのを覚
えています。
今回の旅でその場所をバスで通過しましたが、道路拡張と綺麗な舗装で様変
わりした国道の様子は、何も昔の面影も在りませんでした。今ではデラックス
な長距離バスで食事や飲み物までサービスされ、冷房の効いた車内で映画の

ビデオなど見ながら、セミカマのシートにもたれて目的地に行く旅人達 の様子
を見ると、田舎の汽車が薪を焚いて走っていた、のどかな様子を思い出して汽
車の中でカゴに入れて売りに来たサンドイッチをワインの栓を開け、ガタガタと
揺られながら食べていたローカル線の様子を懐かしく思い出していました。

旅の途中で、パラグワイのアルゼンチンと国境のパラナ河を挟んだエンカナシ
オンの町で、48年前に降り立った、現在は廃駅となった場所を見物に行った
時に、貨物列車を引く機関車が、まだ薪を焚いて走っていたので驚きと、現在
も稼動する機関車で、その整備工場に3両もまだ存在した事に感激いたしま
した。

今回の私の旅は多くの人と出会い、また別れ、昔の思い出を目にして郷愁の
せつなさと、過去に旅立った友や知り合い達の墓標との再会だった感じが致
します。

しかし・・、旅先で会い、すれ違い、同じ宿に泊まり、話し語らった若者達が、
これからの日本とこの世界に祖国の意識を確実に持った人物として、多くの
人が育っていると確信いたしました。

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