2012年12月9日日曜日

私の還暦過去帳(328)

旅に出て・・、

南米の各地に中国の製品が溢れていた事には驚きでした。
価格的に、手軽に買え、手に出来る品物です。
ペルーの奥地の片田舎の市場で、殆どローカルの人しか居ない
様な小さな窓口に、雑貨製品から電気製品まで多くの中国製が
並んでいました。

私も旅の途中で2時間程度のランチタイムの自由時間にローカル
の市場を歩いて、その手にした品物で感じたのでした。
子供達が遊ぶトランプから、雑貨のボタンやこまごました裁縫の
用品まで、工具店では粗い仕上げの工具類や部品類が雑然と

積み上げられ、同じく電気部品なども箱に入れて各所の生活に
必要なソケットやスイッチなどが有りました。

私もパソコン電源差込プラグが合わなくて、アダプターを持って
来ていましたが、田舎ではそれが合わない事が判明して少し焦り
ましたが、町の市場に在る電気製品などを扱う所を探したら、簡単
に見つける事が出来ましたが、間違いなく中国製品でした。

作りが粗く、プラスチックのバリが綺麗に取れてはいませんでした
ので、差込口が少し堅くて削らなくてはなりませんでしたが、使用
で来る事は間違いなく、助かりました。

遠くコンテナーに詰められ、港で陸揚げされ、トラックに載せられ
てペルーの山奥の5千m近い峠を越えて田舎のローカルの市場の
片隅に並んでいるのです。

その驚きと、価格的な安さの衝撃です。
デジタル時計が1個、5ドルもしないのです、アメリカで交換する
電池の価格も致しません、それには『Made in China』
のラベルが在るのです。コルカ峡谷のペルー田舎のローカルの市場で、
隣ではオバサンが大きなスープを抱えてパンを食べていました。

店先に飾られたラジオや小型のTVなども皆、中国製品でした。
何か心の中で衝撃的な感じが致しました。
48年前に南米に足を踏み入れて、パラグワイやアルゼンチンの
田舎で日本製の雑貨が見られました。

アルゼンチンのサルタ州で、ボリビア国境近い辺地でトラックを停め
てランチを食べていた時に、年寄りの婦人が『お前は日本人か?』と
聞いて、『戦前の昔は、この辺までも日本製の粗悪品が売られていた』
と話していたが、『今ではこんなラジオが買える・・、』と見せてくれた
のがナショナルの我々が日本で松下電器と言っていた製品でした。

その婦人が話していたのは、第一次大戦でヨーロッパからの雑貨製品
の輸入が途絶えて、そこに日本製品の雑貨が大量に輸入されて来た
様でした。その様な話をしてくれました。彼女が『今ではこんな性能の
良いラジオが日本から来る・・』と言って話していましたが、音質もよく、

電池でも普通の電源でも使用できるかなり性能のよい国際放送の短波
も聞く事が出来るラジオでした。短波放送を受信できる微調整のダイアル
が付いた明るい感じのデザインで、海外用に製造されていると感じまし
たが、今でも心に深く残っています。

ペルーの田舎町でタクシーの殆どが韓国製、現代自動車の小型車だった
のにも驚かされ、一度などは20分ほど乗車していたが、メーターなどの
計器類は全て動いてはいなく、ドアもガタガタでくたびれた感じの車でした
ので、聞いたら中古車で買い、エンジンも一度交換したと話していました。

その時、まだ中国製の車は一度も見る事は在りませんでしたが、これが
時代を経て中国製の車が溢れるようになったらと考えると、現在の中国が
オリンピックと言う社会の総力を上げたエネルギーを、国家発展に結集し
たら・・、

『共産社会主義での矛盾と変貌が、階級社会と化した共産党幹部と労働
者、農民との階級闘争となっている現代中国社会を是正しないと、過去の
資本家と労働者と言う階級闘争の二の舞になる』と感じます。

格安製品とその氾濫する商品を輸出する産業資本、金融資本、資源獲得
競争などの底辺に中国の農民や労働者達の犠牲が有ると感じたのでした。

中国の13億とも言われる人口が作り出すエネルギーをぺルー田舎町の
寒村市場で体感させられたのは良い勉強でした。

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