2012年12月29日土曜日

私の還暦過去帳(333)


旅に出て・・・、

南米各地を歩いて感じた事が、カトリックの影響が生活の隅々まで浸透し
ているという事でした。

ペルーのリマを振り出しに各地を歩いた街道筋に事故者の冥福を祈って
建てて在るカトリック様式の祠です、必ず十字架を飾り、中には立派な
装飾もして有りました。

永年に交通事故死した人を弔う為に各地で建てられた祠は街道の難所と
言うようなカーブの多い、狭い山間部に沢山有りました。
一度などはアルキパにプーノから行く道筋で、標高の高いカーブの多い
道でしたが、道端に固まって何個もその十字架の祠を見ました。

そして各地の遺跡や名所見物で訪ねた田舎の小さな町で、その町に似合
わない様な巨大で豪華な教会が中央の広場の前に必ずありました。
大抵は1700年ごろから1800年頃に建設された教会です。

アルキパからコルカ峡谷に訪ねて行く途中のインデアーナ達が住む小さな
集落でした。朝早くチバイの町を出て未舗装のガタガタ道を走って朝日が
登り、冬の冷え込んだ空気の中に朝日に輝く白い巨大な教会の前でバス
が停車して休憩と教会の見学でした。

周りの集落は日干し煉瓦の屋根の低い、その屋根もトタン屋根の侘しい
感じの家々でしたが、その教会が全ての富と労力を取り上げて建設され
たと感じる建物でした。町の小高い中心地に白く塗られて威容を誇る建
物が何かむなしい搾取の象徴としか感じる事が出来ませんでした。

1700年代のペルーではカトリックに盾付いて反抗したり教義を否定し
たりすると捕らわれて宗教裁判にかけられ、見せしめに、人間の肢体を牛
や馬に引かせて八つ裂きの刑とか、火あぶりや残酷な拷問をして改宗や現
地人に見せしめの為の処刑をしたとか、現在ではペルーの宗教裁判所が博
物館となっていました。

侵略者のスペイン人達が考え、企画して遂行した政治と宗教です。
観光ガイドが話してくれましたが、彼は現地人のガイドでしたが、

『カトリックという宗教の教義と金銀財宝の獲得の野望を組み合わせて、
 インヂオ達を脅しと恐怖と懐柔での洗脳で、カトリックと言う象徴をあ
 らゆる目に付く所に建てた』と話していました。

スペイン人侵略者達の理論で現地人を守り保護して搾取から守ったスペイ
ン人を、侵略統治の必要性から容赦なく見せしめに残酷な処刑にしている。
教育も与えず、搾取と恐怖を組み合わせて、ボリビアのポトシに在る当時
南米最大の金銀鉱山採掘労働者として使役を税金の代わりに働かせて、過酷
な労働を強いて空腹をコカの葉を噛むことで紛らわせて、奴隷労働を強制し

たとガイドが話していたが、長時間の粉塵が立ち込める過酷な労働と栄養
状態から、推定で200年の間にミリオンと言う人の命が亡くなった勘定
と聞いた時は、日本の歴史で徳川家康がスペインやポルトガルの宣教師を
捕らえ処刑し、追放してカトリック布教を禁止し、鎖国として長崎の出島
を交易と交渉と定めたのは賢明な政治ではなかったかと、フトー!考えま
した。
そして種子島に漂着したポルトガル人から得た技術で火縄銃を僅かな時間
で当時世界で2万丁も一番多く所有する国とした事が当時の侵略者列強か
ら日本を守ったと想像いたしました。
1600年の日本を二分した関が原の戦いで、両軍が使用した火縄銃を推
定した数字をカトリックの宣教師達がローマに報告した数字と状況が当時、

スペインがフイリッピンを支配下に、ポルトガルがマカオに植民地を建設
した時代に日本が南米諸国の様にならなかった事の関連が、徳川家康の彼
の政治的な判断があったからと思います。

遠く南米を旅して、昔の日本の歴史を考えさせられた事は有意義でした。

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