2012年11月28日水曜日

第2話、伝説の黄金物語、(32)


 スミス氏の救出、

夜が開けても、各自が持ち場に隠れて何処に居るのかも分からなかった。
静まり返った林の中で鳥達が朝の訪れを賑やかにさえずっていたが、人の気
配などは何処にも無かった。

微かに10時ごろになると太陽が輝きだし、町外れの飛行場でエンジンをテ
ストする様な音が、切れ切れに聞こえて来た。

富蔵も養蜂手伝いの若者と犬を2匹で茂みに隠れていたが、静かな林に溶
け込み、その直ぐ先にはリオ・ベールデから来た若者がトンプソン・マシンガン
を構えて身軽な様子で隠れていた。

突然、エンジン音が響き離陸すると感じた。遠目でも見える2機が軽く町の
上空をゆっくりと旋回しだした。複葉機の翼の先が赤く塗られた、飛行士サム
の愛機が緩やかにこちらの牧場の林の上空まで来ると、いきなり低空で爆音
高らかに木々の上をかすめて飛び去った。行動開始の合図と感じた。

富蔵は自分の銃器を再確認して点検していたが、背中に背負った日本刀の紐
も結びなおして背中で刀が飛び跳ねない様にした。腰の拳銃は最初の2発は
散弾を入れた蛇撃ち様の弾に交換していた。水筒から水を飲むと、養蜂手伝
いの若者にも飲ませ、行動開始の全ての用意を済ませていた。

町の上空では花火が上がり、軽く宙返りをする飛行機が皆の関心を集めてい
た。突然、2機の飛行機が平行して牧場の上空に飛来すると、エンジンの轟
音をわざと響かせて強盗団を誘うように飛んでいた。

それが終る直ぐ後に、若い4名の強盗団の連中が林から出て来た。
手には各自ライフルや散弾銃が握られ、腰には拳銃を差していた。

上空では華やかなキリモミ飛行や赤い発炎筒の煙を引いて宙返りなどが始
まった。サムの飛行機が真っ直ぐ上昇すると急にこちらに飛んで来ると、
ポーン!と45度の角度で信号弾が円を画いて飛んだ。同時に重なった銃声
が響き一瞬で4名の姿が吹き飛んだ。

富蔵達は林に犬を先頭に突進した。養蜂手伝いの若者がホセの犬に引か
れて前を進み、馬が囲いに6頭繋がれ、飛行機の爆音で暴れていた。

側にテントがあり中に誰かが居ると感じ、マシンガンを構えて藪を透かして
見るとまさにスミス氏がテントの中で両手と両足を縛られたまま、簡易ベッド
に座っていた。
しかし、富蔵達はギョッとして動きを止めた。側に黒人の男が調理用の大き
な包丁を構えて立っていたからであった。コックらしく白いエプロンを腰に巻
いて、側では湯気が出ているフライパンと鍋があった。

突然、林の外で拳銃を速射する連続した音が響き、同時にマシーンガンの
トトト・・、と断続的な轟音が響いた。
コックは一瞬ひるみ、逃げ様と構えたその隙を富蔵は見逃さなかった。
犬が2匹、コックに向かって突進して行った。

富蔵もトンプソン・マシンガンを猛烈な連射でその男の頭上に撃ちまくると、
近くの藪を制圧する為に用心に弾倉が空になるまで掃射していた。

コックが度肝を抜かれて呆然と犬を相手に必死に逃げ惑っていた。
空になったマシーンガンを捨て、背中に背負った日本刀を抜きながら犬達
に包丁を振り回すコックに突進した。
相手が包丁一本しかないことに安心して、先ずテントに居るスミス氏の縄
を切った。

自分の拳銃をスミス氏の手に握らすと、コックと対峙して犬を避けようとし
た一瞬の隙を付いて相手の手元に飛び込み、小手一本を決めて相手の
腕を切っていた。浅く切ったのだが、鮮血が飛び散り男がその場にへたり
込んだ。

犬達がコックを囲むように激しく吼えて威嚇していた。
富蔵は救出成功の信号弾を林の中の木々の間から空に打ち上げると同
時に、2機の飛行機が轟音と共に上空を通過して行った。囲いの馬が狂っ
たように暴れていた。

スミス氏の弟が駆け込んで来るとスミス氏としっかりと抱き合って無事を喜
んでいた。
富蔵は養蜂手伝いの若者を呼び、コックの傷の手当てをさしていたが、コ
ックは命乞いをしてうずくまっていた。
全てが一瞬で決まり、味方には誰も死傷者などもいなかったので安心した。

4名の賊は、ただ一人だけ重傷だが動ける男が居て、拳銃で反撃したので、
先ほどの銃撃戦となったようだ。でもこれが幸いして全てが終ったので、今
は皆の顔に安堵の表情があった。パブロが現場に皆の乗馬を引いて来た。

ホセも馬車を移動してくると、皆に食事の用意を始めていた。まずピンガの
酒を開けると、コップに注ぎ回してスミス氏を囲んで乾杯した。
食事が配られ皆が空腹を充たすと、スミス氏の弟が警察に連絡を取る為に
馬で町に向かった。
リオ・ベールデから来た若者達4名は現場に残り、富蔵達はスミス氏を連
れてホセの養蜂農場に移動したが直ぐに、サムとモレーノの二人が駆け付
けて来た。
皆の無事を喜び、賊のコックまで生け捕りにしたので、これまでの数件の事
件が解決すると喜んでいた。

その日の夕方までには、スミス氏弟の尽力で町の警察と連邦警察にも交
渉して、今日の現場と捉まえたコックも引き渡され、コックの証言で町の警察
官の内通者も逮捕され、前回の人質の遺体も掘り出されていた。

全てのケリがついて、その夜は皆がホセの養蜂農家の庭先で大きな焼肉の
宴を開いた。スミス氏兄弟が皆の手を取り感謝の言葉を言って、皆の労をね
ぎらっていた。
翌日、スミス氏の警察での事情聴取が終わるとサンパウロに戻る事になった。
サムの飛行機にスミス氏兄弟が乗り、モレーノの機には富蔵とモレーノの犬、
持ち込まれた大量の銃器類が汽車に持ち込めないので飛行機で持ち帰る
事になった。
パブロは新しい砂金採掘現場の管理と今回のスミス氏の事件での後始末を
する為に居残り、リオ・ベールデから来た若者達4名は列車の一等車で帰宅
する事になったので、飛行機の出発を見送ってくれた。

途中、給油で一回着陸してサンパウロ郊外のサムの飛行学校の滑走路に降
り立った。そこには連絡を受けたスミス氏の家族が全員で待ち構えていた。

先ず奥さんと子供達がスミス氏と抱き合い、涙を流して喜んでいた。
その隣で、スミス氏の弟が富蔵をスミス氏の両親に紹介してくれたが、父親
は喜びを全身で表して富蔵を抱きしめて感謝の言葉を何度も言ってくれた。
母親も同じく感謝の言葉を何度も言って、富蔵を明日の夕食に招待してくれた。

富蔵はその招待がこれからの人生を、大きく変化する事になるとはまだ何も
気が付いてはいなかった。
サムとモレーノの二人も招待されていた。

食事の招待が富蔵を巨大なユダヤ資本の組織に足を踏み入れさせる第一歩
となった。

2012年11月26日月曜日

私の還暦過去帳(325)

南米旅日記。

旅に出て自分を振り返り、見直して考える事が出来ました。
昔、自分が歩いた道は全て変わって面影も残っていませんでした。
時代は代わり、時代は昔を破壊して新しい「かたち」を形成して、繁栄して
いました。

バスで今回は長旅をしましたが、道路が格段に綺麗に舗装され、振動も少なく
時間的にも格段に短縮されていました。

アルゼンチン北部のサルタ州も開発が進み、昔の原始林のうっそうと茂った
ジャングルも消えていました。それと同時に機械化した農業が多くの人手を減
らし、人影も少ない農場を沢山見ました。

私が旅して感じたもので、代わらないものは河の流れでした。

ベルメッホ河の早い流れも、パラナ河の海の様な川幅のゆったりとした流れも
人間達の生活からかけ離れた雄大さで、44年前と同じテンポで流れていまし
た。自然の流れは何も変化が無かったのでした。

今回の旅で通過したペルーの山岳地帯で、4910mの高さから見た空が一番
綺麗に感じました。宇宙と言う「人が言う神々が宿る空間」が有る事を実感で
この目で感じたことが、何か大きな旅の収穫か、体感としての自然の偉大さを
心感じました。

旅は自分を見詰め、考え、思考する時間ができると思います、ブエノスに滞在
して、街中を毎日歩いています。夜遅い街中でタンゴの演奏を聴き、そのリズ
ムにのって踊る若いカップルを群集の外から眺めていると、今の私の人生も
輪の外で過去の世界を眺めている気持ちがいたします。

若いと言うことは、人生の花が開き、輝いて躍動している時と心思います。

2012年11月24日土曜日

第3話、伝説の黄金物語、(31)

 人質奪還、

飛行機は途中1回給油すると早朝に到着した。

今回のスミス氏の救出作戦の基本は、賊をおびき出して殲滅する事を考え
ていた。
リオ・ベールデで、皆と話した事は彼等と接触地点の地域で、大きく飛行機
の曲芸飛行を上空で行い、隠れている場所から見物に出てきた所を待ち構
えて奇襲攻撃で、人質奪還を考えていた。

昨夜、遅くにカンポグランデの養蜂農家のホセに電話して聞いたら、養蜂の
箱をつい先日郊外のリオグランデ・ドスールの小さな村に馬車で移動して
100箱ぐらい蜂箱を据え付けたと話していたが、養蜂手伝いの若い男が4
名の男達に囲まれて両手を縛られた中年の男が馬で移動しているのを遠
目で目撃していたので、おおよその見当が出来ていた。

当時はその地域で珍しい白のパナマ帽子をかぶっていた事が決め手にな
っていた。

スミス氏の弟が富蔵にブラジルでは珍しい日本刀を土産に持って来ていた。
サンパウロの骨董品店で購入したと話していたが、誰か日本人移住者がブ
ラジルに先祖のサムライだった人の遺品を持ち込んで金に困って売り払った
と感じた。
錦の袋に入れられた日本刀は飾りではない、戦場刀と言う無骨で鋭利な刀
であった。

富蔵は剣道が好きで、居合い抜きも船に乗船したいた時期に事務長から習
っていたので、是非とも欲しいものだった。感謝してスミス氏の弟からプレゼ
ントとして受け取った。

飛行機がカンポグランデに到着して直ぐに、ラジオ放送局の記者をランチに
招待して曲芸飛行を体験させる事にした。明日、町の上空でサムとモレーノ
の操縦する2機で曲芸飛行をすると言う事を宣伝させるには最良の方法で
あった。

後2日しかない犯人達の接点を考えるとこれが最善の方法と感じていた。
また接触して人質解放交渉に失敗すれば人質の命は無いと考えていた。

サムがラジオ記者を、モレーノが新聞記者を搭乗させて、晴れ上がった上空
で見事な宙返りをして体験させた、当時は珍しい飛行機とその曲芸で搭乗し
た二人は夢中で興奮していた。
その後はラジオ放送が一日中、明日の2機の曲芸飛行を何度も放送してい
た。新聞も朝刊に昼に開催される2機の曲芸飛行の事を詳しく書いてあった。

その夕方、ホセの養蜂農家の倉庫に皆が集まり、養蜂手伝いが目撃した近
所を重点的に捜索して、彼等の居場所を特定する事に全力を挙げる事を決
めた。

暗くなる前に現場に近い蜂の巣箱が設置されている場所に到着して、そこ
のテントを基地にして偵察と現場の下調べをする事を決まった。

日没前に郊外のリオグランデ・ドスールの小さな村の上空を2機で通過して、
家から飛び出して来る住人と牧場の周辺の人の動きを見ると決めた。直ぐ
に行動が起こされ、サムの飛行機にはパブロが、モレーノの飛行機が富蔵
が同乗して下を見張ることにして、離陸した。

爆音高く低空で小さな村の上空を飛び回り、旋回した。
まさに予測したように、郊外のリオグランデ・ドスールの牧場の脇の林から
煙が上がり、二機で並んで爆音高らかにエンジンを吹かして通過する轟音
に誘われて、男達4名が林から出てきたが、富蔵は犬も1匹居るのを確認
した。

まさに彼等が強盗団と感じた。
彼等は夕食の支度でもしていたと感じたが、まさか飛行機で捜索されてい
るなど彼等は気が付いてはいないと感じた。
無用心にのんきに飛行機を眺めている様子は大きなチヤンスと感じた。
2機の飛行機は夕日を浴びながら着陸して来た。

皆がテーブルに集まり、最終の人質奪還計画を決定した。今夜皆が夕食
を終えたら銃器の点検準備を済ませると、馬車と乗馬で養蜂箱が置かれ
ている牧場のキャンプ小屋に集まり、そこから森の外れまで近寄り、曲芸
飛行で林の中から出てきた強盗団を狙撃し一度に全滅させる計画であっ
た。

林の中にはスミス氏が繋がれていると確信していたので、林の中には2
名ほどが忍び込み、確実に安全に救い出すと決めた。

テーブルに紙が広げられ、林の拠点を中心に牧場の草原の開放部分の
正面に3方から狙撃する様に3名の配置が決まった。それぞれのライフル
が用意され、各自10発ばかり練習で標的射撃をしていた。
それにはリオ・ベールデから来た4名から選ばれ、中の一人は富蔵と林
の中に忍び込みスミス氏を直接助け出す役目を担った。

パブロは皆の乗馬を飛行機の爆音などで驚いて逃げ出さないように確保
して、非常の用意をしている役割が決まった。蜂飼いのホセは今回も馬車
を使って皆の食料や飲料水を確保して、負傷者などが出たら直ぐに対応
出来る様にした。

蜂飼いの若い養蜂手伝いの男は道案内で活躍してもらうことにしたので、
拳銃を与えてモレーノが射撃を教えていた。ホセの犬も、モレーノの犬も
今回は活躍してもらうために養蜂キャンプ小屋に連れて行き、賊の犬を
相手に牽制する事が決まった。

翌日の曲芸飛行の為に燃料は3分の一しか積載しなかった。エンジンが
点検され、全ての用意が済んでから、もう一度は役割り分担を再確認す
るとホセの馬車に富蔵と養蜂手伝いが乗り出発した。
その後を、他の男達はパブロを中心に乗馬で養蜂キャンプに向かった。

今回も襲撃開始は信号ピストルを打ち上げる事が決まり、曲芸飛行を見
物に出てきた賊達を狙撃する最適な時間と場所を探さなければならなか
った。
信号ピストルはサムの飛行機と、地上の富蔵が所持していた。
どちらかがチャンスを逃さないように、最良の時に発射することが決めら
れていた。

養蜂業でこの地域の隅々まで知り尽くしたホセの手助けには皆が感謝し
ていた。飛行士のサムと、モレーノの見送りを受けて富蔵達は馬車で夕
暮れの道に消えていった。
今回はトンプソン・マシンガンは2丁用意され、富蔵は日本刀を背中に
背負って、山刀は持たなかった。

郊外の養蜂巣箱の現場にあるキャンプ小屋に到達して、牧場に面した
林の開口部分に、3名、各自が100mの間隔で狙撃拠点を真っ暗になる
までに決めてしまった。
夕方、賊が林の中から出て来た所を中心に、それを囲むようにライフル
で狙撃する最良の円を画いて囲んでいた。

一人がトンプソン・マシンガンを持って林と牧場の潅木の境にみを潜め
て、前から撃ち損じた時に林に逃げ戻らせないように狙って待機する事
になった。

富蔵は同じくトンプソンのマシンガンを手に林に突入する計画で居たが、
おそらく人質のスミス氏を見張っているのは一人と思っていた。

富蔵はその横で賊が全員飛行機の曲芸を見に出て来た所を見計らっ
て、信号ピストルで合図して、狙撃開始と同時に、養蜂助手の案内で林
の中に2匹の犬達と突入する用意を若い助手と綿密に何度も練習してい
た。
生きて助け出さないと、これまでの準備と計画が全て水の泡となると考
えていた。現場まで乗馬して来た馬も飛行機の爆音でパニックを起こし
て逃げられたら、いざと言う時の追跡や現場からの脱出、移動が困難と
なるのでパブロが注意深く見ていることにしていた。
全ての用意が済んで、用意してきた水と食事が配られ、各自が明日の
朝の攻撃開始までの時間を休息に充てていた。

富蔵はトンプソン・マシンガンを点検して、今回は1個の予備弾倉しか
携帯する事無く身軽にして、愛用の拳銃を腰に差し、それを用心に紐で
首にかけて、走ったり、転んだりして拳銃を失くさないようにしていた。
背中には日本刀を背負い、いざと言う時の接近戦の用意は済ませて
いた。
その夜遅くになり、スミス氏の弟が汽車で現地まで乗り込んで来た。
2機の飛行機には搭乗出来ないので、汽車で追いかけて来た様であ
った。
モレーノに連れられて夜も遅くなって養蜂キャンプ小屋に訪ねて来た
が、富蔵から詳しく明日の攻撃準備を聞いて、安心して納得していた。
そして兄の救出の手伝い参加を申し出ていた。

モレーノが飛行場に戻る時に、信号ピストルの発射はサムが上空から
見て判断するのが一番確かだから、遠慮なく最良のタイミングを逃さな
いようにしてくれと念を押していた。
スミス氏の弟はレミントンのポンプ式ショットガンとマウザーの大型ブ
ルームハンドルの拳銃を肩からぶら下げていた。

富蔵は林の開口部の両側の牧場と林の境に待ち伏せする事が、ミス
が無いと考えて左片側の林の陰に隠れてもらう事にした。

林の正面には3方面から三名で狙撃体制をして、その両側に一人ず
つ隠れている事は絶対に有利と考えていた。

その夜、養蜂手伝いの若者は養蜂家ホセのメス犬を目当てに来る、
犯人達の犬を簡単に干し肉で誘って捉まえて殺してしまった。
邪魔な犬が居なくなったので、林に忍び込んで奇襲する事がより安全
となった。

微かに夜明けの空が濃紺の色から輝きだす前に、皆武装して全員が
持ち場に着いた。
シーンと静まり返った林の中に人が居るのかと思うくらい静かであった。

2012年11月22日木曜日

私の還暦過去帳(324)


旅に出て・・、

ペルーに来たのは35年ぶりです。
前回の旅には、私には強烈な心に焼きついた思い出があります。
私もこれまでの人生であちこちと世界を歩きましたが、特に南米の思い出は
若い頃、情熱を叩きつけて、自分の生き方を探して、試していた時代です。

アルゼンチンの北の最果て、ボリビア国境辺りに行くと、キッチュワ語を話す
人が沢山居ました。アルゼンチンに出稼ぎに来ていた労務者がバスや汽車
を乗り継いで、遠くはペルーやパラグワイのチャコ地方からも来ていました。

その当時はボリビア人の出稼ぎが一番多かった様でした。 乾燥した抜ける
ような青空に、遠くの山肌に白い残雪が見える時も有りました。この時期の
季節、ラパスから、オルロを経て、寒いウユニの塩湖を見て、ボリビアを縦断
に抜けて、汽車でアルゼンチンのサルタ州に出るコースは4300mの高地を
通過せねばなりませんので、それが出来るか心配です。

サルタ州に出れば私が農場の支配人をしていた所が在るからです、一番の
近道でペルーのリマを振り出しに歩く旅です、40年以上も昔に果たせなかっ
た思いを、今回の旅で叶えようと思っています。

そして自分が仕事をしていた昔の農場を見ておきたいと考えています。そし
て・・、私が当時、忙しくて訪ねて行くことが出来なかった各地の、望郷に似た
マチュピチやウユニ塩湖の自然の姿を見たかったのです、この歳では最後と
考えて心だけは48年前の若い時の気持ちを抱いて歩いています。

以下は私が35年前に、この目で見た光景の思い出です・・、

私もだんだんと歳を重ねると、思い出す事が沢山出てきます。1976年でした。
アルゼンチンとブラジルを訪問するので二ヶ月ほど旅をしていました。行き道
でした。ペルーのリマの飛行場を飛び立ちまして、最終到着のサンパウロに
着く予定が夜中でした。

リマの飛行場を飛び立ったのは夕方で、かなりの明るさに夕日を浴びて飛び
立ったのを覚えています。 しばらく飛んで、アンデスの山頂の雪を被った山々
の頂きを見ながらその夕日で輝きの赤ね色に染まった山肌を見て、その下の
アマゾンの緑濃いい輝きの中に細く、くねくねと曲がって流れて居る河の水面
もかすかに色ずいて、赤き絵の具を混ぜている錯覚を覚えました。

その10キロもの上空から眺める展望は、この世のものとは思われない天地
創造の時代を彷彿させる想像の世界で、心の画像にしっかりと写していました。

かなり離れた地平線のかなたは、どす黒く墨を流した様に染め上げて、その
中に雷鳴が飛び散る様は、息を呑む感じで緑の群生の木々がまるで空高い
上空から見ると、まったく 緑の濃いい絨毯を見ている感じでした。黒くびっしり
と地平線を埋めた黒雲は、その切れ間に、光輝く光帯の細かな幾筋の五月雨
のごとく細かな光の糸を垂らして、神々がその光の筋に照らされて天上から降
りて来るのではないかと想うのでありました。

天地創造の世界がこの様な世界ではないかとふと~! 感じまして、何か涙
が込み上げて来た不思議な感じでした。今でも時々、Matsui Keikoの癒し
の音楽をかけて、ゆったりとソフワーに身を沈めて、目を瞑りーー、心のペー
ジを開いていくと、今でもその景色が音もなく神々の世界の光景のごとく現れ
て来ます。

景色の中で自由に飛び回りながら、自分が空中を鳥の様になっていつしか飛
び回っている幸せを見る事が有ります。

心のアルバムにしまっていますので、いつの日か私の命が消えるとき、同時
にこの景色も消え果てると想います。

旅はこれからチリーに入り、アルゼンチンに抜けます。サルタ州からバスで
そこからパラグワイに入り20日ほど歩き、ブエノスの出ます・・、

今日のリマは霧です。

2012年11月20日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(30)

 動き出した組織、

富蔵がサンパウロのサムの飛行学校の滑走路に着陸して、絵美が抱く子供
と二人を抱えて、感激の再会をしていた。

サムに借りていたコルトの自動拳銃を返して礼を言い、使うことも無かった様
に簡単に事が済んだと説明した。

サムが富蔵家族とモレーノを入れて食事を用意していたので、食事を共にし
ながら情報交換をしていた。モレーノが今回の仲間の救出作戦で分配された
砂金と、懸賞の金を合わせるとかなりの額になったので、思い切って現在使
用している飛行機の所有権を買い取ることをサムに話した。

サムは新しい飛行機とエンジンもアメリカから取り寄せた資金的な事もあり、
即座に賛成してくれた。
富蔵は自分の名義ではなく、その所有者にモレーノの名前を入れた。

食後に彼の事務所でタイプが叩かれ、書類を作成すると今日の金相場でで
決済され、名義が変更された。お互いが握手してこの取引に満足していた。
機体は少し古い型であったが、エンジンは新品同様に手入れされていた。

そしてエンジンの予備部品も出してくれ、リオ・ベールデに持ち帰るようにして
用意してくれた。
その夜、サンパウロの自宅に帰り着いた富蔵は子供を寝かし付けると、久々
に絵美を抱いていた。
事業も順調に進み、各地に投資した事業から入ってくる資金も貯まり、隣の
食堂の実入りだけでも、食べていく以上の金が入って来ていた。

しばらくはサンパウロで家族の休養にあてて居たが、奥地からパブロが帰っ
て来た。
ずっしりとした砂金が入った皮袋が持ち込まれ、採掘現場が良質で、回りの
採掘場からしたら3倍も産出したという話をしていた。

それは機械化して掘り出していた事もあるが、良質な採掘現場であったと思
った。しばらくして、富蔵はリオ・ベールデの町にパブロと戻り、仲間から歓迎
された。

事業の発展と繁栄が町の広がりと同時に皆に恩恵を与えてくれ、全ての事
業が平穏に動いていた。
パブロもアマンダ兄弟の親戚の女性と結婚することになり、リオ・ベールデの
町に家を構えた。

町の勢力地図が大きく代わり、アマンダ兄弟の事務所も世間で誰もが認めて
昔のように地主や牧場主達の天下が終わり、仲間と飛行場まで開いて活動
を始めたビジネスの力は誰も阻む事が出来なかった。

ある日の早朝、サムがリオ・ベールデの飛行場にサンパウロから飛んで来た。

モレーノがサムを連れて事務所に来たが、着くと同時に口を開いて、『知り合
いの金融と貴金属取引をしているスミス氏が新規開拓で、富蔵達が開いた新
しい地域の金採掘現場に助手兼護衛を連れて商談に行ったら誘拐され、抵抗
した護衛は殺され身代金を5万ドルも要求して来た』

と説明してくれ、『ブラジル連邦警察にはまだ何も話してはいなく、救出の援
助も頼んではいない、前回は、同じ様な誘拐で警察の手配が行われたと同
時に、誘拐された人物は殺されて犯人達が逃げてしまった。』と説明してくれ
た。

当時の5万ドルは巨額な金で、犯人達が準備周到に計画して実行したと富蔵
は思った。
富蔵もサムの紹介で何度も砂金を引き取って貰い、外貨のドルやポンドに交
換して貰っていたユダヤ系の信頼おけるビジネスマンであった。

家族と彼の親戚、仲間がつい先月、仲間の救出をした富蔵達の話を聞いて
相談して来たと思った。
皆を集めて話をするとアマンダの親戚仲間で、前回の救出に参加した4名も
今回のスミス氏の捜索に参加を了承してくれた。

話が決まり、サムは直ぐにサンパウロのスミス氏の事務所に電話連絡すると、
飛行機で戻って行った。
その日の夕方、飛行場に戻って来たサムは誘拐されたスミス氏の弟を連れて
来た。

事務所の皆が座るテーブルを前に、持参したカバンから札束が出され『これ
が手付けの救出資金です』と話した。
無事に救出したら犯人達の請求額5万ドル相当は支払うと約束した。

『必ず生きて兄を救出してくれ・・』と皆に哀願した。現地の警察内部に協力者
が居るので犯人達に知られないように行動してくれと再度念を押して来た。

弟は『身代金を払って解放を考えたが、前回2回の誘拐犯達の行動を考える
と危険と感じて貴方達に相談に来た』と説明してくれた。

2日後、犯人達との交渉はリオグランデ、ドスール郊外の牧場と決まっていた。

その夜のうちに全て準備され、翌日まだ夜明け前の薄暗い内に、モレーノと
サムの飛行機に分かれて同乗した6名が武装して出発して行った。

その中にはモレーノの犬も、富蔵とパブロも居た。

2012年11月18日日曜日

私の還暦過去帳(323)


『もと百姓が見たインド』(最終回)

バナーラスの市内は沢山のインド中から聖なるガンジス河で沐浴をして、
全ての罪が清められ、遺灰をガンジス河に流すと輪廻からの廻脱を得ると
言う、ヒンズー教の教えを固く守る人々が押し寄せて来ます。

年間、訪れる巡礼者の数が100万人を超すという事を聞きました。
同じインド人でも雑多な人の群れがうごめいています。
我々の視野からしたら3000年の歴史を持つ、ヒンズー教最大の巡礼聖
地としての街です、インド中から集まる人々が醸し出す雰囲気は、まさに
インドと言う事を肌で感じさせてくれる場所です。

今朝の早起きで、午後はゆっくりホテルでランチを食べて、午後1時過ぎ
に迎えが来て、飛行場に行きました。
市内を抜けて、飛行場では簡単にチェックインを済ませて待合のロビーに
座っていましたが、丁度、タイからの皇族が専用機で来ていた時でした。

隣の貴賓室での接待の様でしたが、あわただしく行き交う人が多く見え、
赤い絨毯がひかれて皇族が飛行機から降りてこられました。
後ろで日傘を差して侍従と歩いている姿を見ましたが、滅多に見ることも
ないタイ皇族の姿を見学出来ました。

予定より30分遅れてデリーの首都に帰って来ました。
次男が迎えに飛行場まで来ていました。旅行社手配の車が来ていましたの
でタクシーに乗る事も無く、次男のアパートに帰宅いたしました。

荷物をおいてから、一休みすると次男が美味しい中華レストランが在ると
言う事でタクシーを呼びました。
次男が英語で話すと、レストランまで450ルピーと言う事で、余りの高
額な要求で電話を切って、今度はヒンズー語でもう一度話すと380ルピー
と言う事でしたが、しかし、今度はタクシーの空車が無いと言う返事でした。

次男もヒンズー語で何か怒鳴っていましたが、タクシー交渉は決裂して、
近所のオート・リキシャを頼みました。何と150ルピーです、パタパタと
道の隙間を抜けて行きます。このオート・リキシャに乗ると、インドを肌で
感じます、今度の旅でも何度も乗りました。

そしてインドの自動車社会の幕開けを告げる国民車の記念する日に立ち会う
事が出来ました。
インドの3億人近くも増えた中間所得の階層を目当てに、徹底した低価格で
販売される、インドの大手自動車会社のTATA社がインド国民車として発
表した超低価格車「Tata Nano」の発表を見る事が出来ました。

歴史的なインド庶民の自動車社会の幕を開いた企画的な日でした。
どこのTVを開いてもその報道をしていました。
以下は報道記事より、

2008年01月11日
ついに噂の約27万円の超低価格車「Tata Nano」が発表されました。
インドの自動車メーカー「タタ モータース」が開発した超低価格車
「Tata Nano」が発表されました。
そのお値段はなんと2500ドル(約27万円)。2008年中にインドで販売される
そうですが、いつか日本では発売されるのでしょうか?

詳細は、以下から。
パワステ、エアコンを排除したりなど、その他いろいろと徹底したコスト削減
を行った結果実現した超低価格のようです。

「Tata Nano」のサイズは、長さ3.1メートル、幅1.5メートル、高さ1.6メートル、
そして、エンジンスペックは、後輪駆動、オールアルミニウム、2シリンダー、
623CC、33馬力となっており、日本の軽自動車の規格にとても近いものにな
っているようです。

「Tata Nano」公式ページ
Tata Motors - Media Centre

Tata Nano: The $2500 Tata Nano, Unveiled in India

中華レストランに行って食事をしながら、少しその車の事を話していました。
私は1960年代に日本でも旋風を起こした低価格車「スバル360」を思
い出していた。1958年から70年代まで生産され、日本でマイカーと言う
言葉を生み出した356ccのエンジンでしたが、大人が4名乗れる軽自動
車でした。

翌日はいつもの様に起きて朝のコーヒーが済むと帰りの荷作りをしていました。
その後は次男と連れだって近所のバザールに買い物に出て、少し日用品や靴
などを買い、次男に靴をプレゼントしてやりました。
この歳になってもやはり子供は子供です・・、喜んだ顔を見て次男の子供の頃
を思い出していました。

いよいよ明日は帰国です、外の雑踏から物売りの遠くまで響く声を聞きながら
仕事をしていました。ランチは次男が美味しい炭火焼のピザを食べたいと言う
ので街に出ました。行列が出来るほどの店で、のんびりと昼下がりの時間を
テーブルで次男と話しながら最後のチャイまで飲んでいました。

その夕方もアフガニスタン風の焼肉をホテルに食事に出ました。次男は余り
肉などは食べれられないと言うことで、予約していったホテルのレストランは
接待とビジネスのお客で満席でしたが、各テーブルから話す言葉も英語、ロ
シア語、日本語、、スペイン語と賑やかで、現在のインドの姿を象徴している
と思いました。
家族で満足するお別れパーテイを兼ねた夕食でした。帰宅してウイスキーで
乾杯して、明日の別れを惜しみました。精神的に成長した次男を見て、インド
人社会に入り、多くの同僚と仕事をする姿を知り、親として子供の成長を感じ
ました。

翌日は早朝に起きて、迎えのタクシーまで簡単に朝食を済ませて次男とコー
ヒーを飲みながら話していました。迎えの玄関ベルが鳴り、車に乗り込みまし
た。
運転手は街角のヒンズー教の祠の様な所に停車して、私達の長旅に祈って
くれました。小さなココナツの、神に捧げられたおすそ分けを頂き、飛行場に
急ぎました。
前回からしたら格段に良くなった高速道路で予定どうり飛行場に着き、タク
シーが長く停車出来ないので入り口で次男とハグをして別れをする時に、次
男の髭顔が少し涙ぐむ感じに歪んだのを感じました。

2012年11月16日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(29)

意外な落とし罠、

皆で町まで帰る道は遠かった、馬車と乗馬と徒歩で歩く者も居たからだ。
町に近い所まで来たら、制服を着た警官が四名が道を塞いでいた。

検問と考えたが、瞬間、様子がおかしいと感じた。
隣を馬で歩いていたモレーノを見たが、モレーノは微かに目配りをしてパブロ
の馬車の横に移動した。

馬車の後ろを歩いて来た5名の男の一人で、先ほど拳銃で頭を撃ち抜かれ
様としてモレーノに助けられた男が、モレーノに何か短く話した。
それと同時にライフルを持った警官の3名が、いきなり頭の上に発砲して来
た。馬が仰天して暴れ、歩いていた男達が道に伏せた。

富蔵は警官3名がライフルで他の指揮官らしき男が拳銃を構えているのを見
た。その男が拳銃で狙いをつけて馬から下りろと命令した。

富蔵はトンプソン・マシンガンは町に置いてきたので安心だったが、すばやく
馬を下りながら、小型のデリンジヤー拳銃を皮の帽子の中に隠した。
モレーノが近寄り小声で『奴らは強盗だー!』と言った。

屈強なリオ・ベールデから来た男4名はライフルで狙らわれて動けなかった、
銃を地面に投げろと命令された。ぐずぐずして銃を手放すのをためらっていた
4名に、一斉に三名の警官がライフルを威嚇射撃をした。

三名の警官達がライフルのボルトを引いて空薬きょうを出し、弾込めの瞬間
を富蔵は逃がさなかった。

富蔵は両手を挙げていたが、不意に帽子の中のデリンジャー拳銃を掴むと目
の前に居た指揮官らしき警官の顔面を撃った。同時に横の警官一人の胸を撃
ち抜いていた。2連発44口径の弾の威力は凄く、二人が言葉も無く倒れた。

モレーノがピー!と口笛を鳴らした瞬間、犬が警官に飛び掛った。
同時に一人の警官が逃げようとしたので、二人とも拳銃で抜き撃ちで倒した。
一瞬でニセ警官4名のケリが付いた、危うい所であった。

何もかも奪われて殺されて、寂しい原野に埋められていたかもしれないと思っ
た。一瞬、生まれて間もない、我が子と絵美を思い出した。
富蔵は生まれて初めて自衛だが人間を目の前で2人も殺した。

撃たれそうになりモレーノに助けられた男が、指揮官らしき男を指差して、懸
賞金が掛かっている強盗だと教えてくれた。
多くの砂金採掘場や運搬人たちが襲われた様だ。

モレーノはそれを聞くと馬車に4名の死体を積み上げ、犬を放して林の中から、
強盗団の乗馬を近くから探して来た。それに歩いていた男達を乗せ、今度は
急いで町に向かった。
パブロも驚いて乗せられた死体を見ていた。街中に入る前に死体にシートを被
せ警察署の前に来た。
その前に馬車の後ろを歩いて来た男達5名は、乗馬のまま別れてホセの養蜂
農家に、リオ・ベールデから来た男達と馬で向かった。

警察署では死体を見て人だかりがしていた。強盗団が逆に反撃され、全員が
死んだとライフルや拳銃などが並べられ、死体の横に展示された。

モレーノとパブロが巧みに話して、事をまとめてしまった。
警察署長が懸賞金が強盗団4名だから、これは良い稼ぎだと話していた。
銀行に明日行けば貰えると、タイプを叩いてサインすると用紙を渡してくれた。

富蔵はここでは自分はあまり前に出たくはなく、顔を知られない様に用心した。
それが後で災難から逃れられた。
翌日の新聞にはモレーノとパブロが懸賞金の支払い用紙を手に笑っている写真
が出ていた。
しかし、富蔵達の人質救出の騒ぎは一行も載っていなかった。

それには理由があった。この町の警察はかなりの賄賂で動いていたので、パ
ブロ達の救出依頼の話を持って行っても相手にしてくれなかった。

かなりの賄賂が来ていた様で、黙認されて強制労働的なタコ部屋で砂金採掘
をしていたようだ、でも今回の強盗団が壊滅したのは警察として世間からの批
判と疑惑を無くす良い機会だった。

世間では強盗団からも、幾らかの賄賂を貰い、見逃していたと勘ぐられていた。
富蔵達はこの町に一切関わる事無く、町の管轄から外れた所で新たに採掘場
を開くので、彼等からの裏の援助や妬みなどを絶つ事を考えていた。

翌日、モレーノとパブロは銀行に行き、委託されていた賞金を受け取った。
新聞記者のインタビューでモレーノが、昔は賞金稼ぎで今はサンパウロで飛
行機の操縦士をしていると話していた。
新聞は午後にも飛行機でサンパウロに戻ると言う事をコメントして、午後、飛
行機が出発する写真も後で掲載されていた。

全てモレーノが中心のボス的扱いで今回の強盗団の件で処理され、何事も無
く話題にも上がらなくなった。
しかし、リオ・ベールデから来た4人とモレーノ達が帰り、ホセの養蜂農場は静
かになった。富蔵はパブロ達とここで砂金採掘の用意を具体化していた。

富蔵が貰い受けた5人の男達は、この砂金掘りの家業から抜け出す事が出来
ない連中で、助けられた命を感謝していた。
彼等はホセの養蜂農場まで乗って来た強盗団の乗馬の皮袋から見つけ出した
砂金を富蔵に全部差し出していた。

彼等は『ボスの貴方は我々の5名の命を貰い受けて、砂金など何も貰わなか
ったのでこれを貴方の取り分と考えて貰ってくれ・・』と話して来た。
ずっしりと重い皮袋であった。

富蔵は差し出された砂金の袋を考えて、彼等の目の前で当座の資金とグラス
に砂金を入れて各自に渡した。
パブロがワインを出してくると、グラスに酒を充たし、首に掛けた十字架を浸す
と、『このドンに忠誠を誓い、仲間として仕事をするか決めてー!』と言って、
『賛成の者はグラスを取ってくれ・・』と言った。

5名ともグラスを手にすると、富蔵とグラスを合わせ、パブロが短く神に祈りを
捧げると酒を飲み干した。
皆にリオ・ベールデの砂金採掘現場のやり方を説明した。
皆が砂金を手にすることが出来て、ボスが砂金を手にするのは皆と対等と説明
した。リオ・ベールデと同じ、砂金は7対3で配分する事が決まった。

皆が了承して、再度酒がグラスに注がれ皆で乾杯された。
今度新たに開発される砂金採掘現場の図面が皆に示され、赤く印がされた地
図を見せた。地権も買い、全て手続きも終了していることを示した。

するとモレーノに命を助けられたアントニオと言う男が、興奮したように地図を
見て、そこは最良の金鉱があると言った。
『俺もそこに目を付けて、資金が貯まったら採掘を始めようと考えていた・・』
と言った。

富蔵は少し考えると、『アントニオ、お前が組頭として採掘するか?』と聞い
た。驚いた様な感じであったが、すぐさま彼はその仕事を了解して握手して来
た。
パブロが支配人で、リオ・ベールデから来た1名は町の親戚である、ホセの
養蜂農家に間借りした事務所に居て、運送と資材管理や事務を行い、採掘現
場と行き来すると決まった。

これで最初からプロの採掘人達が掘る現場となった。
奪われていた採掘資材や、機械も戻って来た。今まで何処にも無い様な配分
の率で、安心して働ける事を皆が納得していた様だ。

豊富な資金で、機械化した採掘をスタートする前に、現場を厳重に鉄条網で
囲み小屋を立て、犬を増やして、襲撃などからの警備を厳重にしていた。小型
自家発電機も据え付けられ、生活の場も食堂などから最初から揃えてスタート
したので、皆が喜んで働いていた。

富蔵のアイデアで川原の空き地が整地され、水上飛行機でなくても着陸出来る
様に周りの木を切り倒して簡易飛行場が出来上がった。

全てが出来上がり、誰にも干渉されること無く動き出した砂金採掘現場では活
気があり、皆も納得して満足していた。
採掘量も初めてにしては、手掘りで僅かな手作業の量からしたら、数倍もあり、
機械化した現場では少人数でも効率的に稼動していた。

富蔵は長居したここから、サンパウロの絵美が待つ自宅に帰りたくなった。
パブロはしばらくここに残ると話して居たが、ホセの親戚も3名参加したので、
所帯が大きくなった。
皆の炊事もモレーノが偵察に行き、夜に出会った足の悪い男がコックとして富蔵
のキャンプに来てくれたのでもっと賑やかになった。

モレーノが飛行機で迎えに来てくれた。その夜の別れの宴会で、今まで掘り
出された砂金をテーブルに出すと、皆の前で等分に分け与えた。

皆が満足して産出量が多いので分け前も普通の3倍もあると口々に話していた。
富蔵の取り分もそれに比例して、かなりの量となっていた。
その夜、パブロを呼んでトンプソン・マシンガン1丁と弾を渡し、用心するように
言った。

翌朝、モレーノと僅かな身の回り品と砂金を入れた皮袋を持って、川原の簡易
飛行場から飛び立ち、一回給油してサンパウロまで直接飛んで帰った。

サムの飛行場では絵美が子供と大手を広げて飛びついて来た。

2012年11月14日水曜日

私の還暦過去帳(322)


『もと百姓が見たインド』

1月11日は早朝に目が覚めてホテルを6時には迎えの車に乗り、ガン
ジス河の岸辺に出かけました。朝はインド・チャイを1杯飲んで出かけ
ました。
7時頃の日の出を見る為です。それから河を遊覧して船上から河岸など
に並ぶ家々の景色をみて、上流と下流に在る、大火葬場を見る事を考え
ていました。

早朝のまだ人通りの少ない街中を走ります、しかし、ガンジス河に近ず
くに連れて、かなりの人が列を作り歩いています。皆は手に手にガンジ
ス河の水を入れる容器を持ち、花輪を持ち、僅かな手荷物を肩に、裸足
やサンダル姿で歩いていました。

女性達の色鮮やかなサリーの色彩が黙々と歩く集団の中で際立った色を
添えています。ガイドが車を止めて『ここからは歩く・・』と言って先
にたって案内してくれました。
道の両側は屋台が立ち並び、チャイや朝食の臭いもしています。
バナナやオレンジ、マンゴーなども並んでいました。
そこを抜けるとガンジス河が突然前に見えました。どこからとも無く祈
り声が響き、河が見える場所には行者が座禅を組んで静かに朝日が昇る
瞬間を待っているようでした。
案内されて船に乗り込み、若い船頭が船を漕ぎ出しました。
微かに、ぎー!と力を込めて漕ぐ音が静かな河面に響きます。

まだ時間的に早いのでボートが団体を乗せては漕ぎ出してはいませんで
した。トロリとした波一つ無い水面を滑る様に走ります。
途中で『久美子のゲストハウス』の看板が在る建物を見ました。その近
くの岸辺には数人の日本人の姿も見えました。

火葬場辺りからすでに無風の水面に薄い煙がただよっています、すでに
早朝から火葬が行われているのでした。直ぐ側の岸辺では数人の男が
河に全身を浸して何か祈りの言葉を唱えています、その上の岸辺の石畳
の上には、担架に載せられた遺体がガンジス河の聖なる水に浸されて、
濡れたままで火葬を待っていました。

船上で見ていると、すでに火葬が終わった遺体の灰が河に投げ込まれて
いました。それを遺族と思われる家族が周りで両手を合わせて見ている
のが分かります。側にうずたかく積み上げられえた薪が次の火葬を暗示
していました。
祈りの声が水面に響き、微かに水面が色付いて朝日の輝きが増して来ま
した。人間が自然にまた帰る儀式かも知れません、何か心の中で輪転再
生が自然を仲立ちにして動いていると感じた瞬間でした。

母なるガンジスの流れは全てを消し去り、5分もしない内に河は何事も
無かったように流れています、遠く異国で命を終えても、その遺骨をこ
の河に流す人が多いと聞いた時は、インド人が心の中で、祖国の母なる
台地に帰る願望かもしれません、悠々と流れるガンジス河が肥沃な土地

を作り出し、人の命を養う穀物を生産して、人を育て、また死んでいく
自然のサイクルを持っています、輝きを増して河の水面を照らす朝日に、
私も両手を合わせて祈りました。

その頃になると団体が、かなり船に乗り込み水面を走り出して賑やか
になりましたが、私達夫婦はガイドと3名だけでしたので、心静かに船
の上から時間を過ごす事が出来ました。

帰りは旧市街の迷路のような小道を歩いて表通りまで出ましたが、その
小道の中まで牛が歩いて居たのには驚きました。

チャイ屋の前には素焼きの小さなコップが飲み終わった後に一度きりに
割られて捨てられて居るのを見ました。ゴミゴミした感じの路地でした
が、生活の臭いと、所々に祭って在る神々の姿がヒンズー教が生活に染
み込んでいる事をこの目で見ました。
路地から表に出ると、そこは活気在る庶民の姿がいつものインドの太陽
の下で始まっていました。

ホテルに帰り遅い朝食を済ませると、部屋で今朝、多くの今までに体験
した事が無い様な出来事を思い出しながら、うとうととして休んでいま
した。

次回で、『もと百姓が見たインド』最終と致します。
その後は、私が48年前に青春の一時期を過ごした各地を訪ねて歩く予定
です。友や知人の多くは、南米の異国の地に眠っているので、その墓を
参る事も目的の一つです。
過去と現在の違いを旅先から書く予定です。

2012年11月13日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(28)


 全員救出成功、

朝暗い内に皆が起きて来た。
ホセの養蜂農家の大きな倉庫に、皆が寝起きしていたので誰か起きると直
ぐに皆が起きた。
各自、銃器を確認して最後の点検と襲撃の手はずを確認すると、コーヒー
で皆と乾杯して4名が馬で出かけて行った。

モレーノと富蔵は飛行場まで馬車で出かけて行った。
直ぐ近くの飛行場と言っても、ただの草原で、飛行事務所と燃料を補給でき
る施設が完備していると言う場所であった。

複葉機の機体の側に馬車を停め、馬を馬車から外して草原に繋いでいた。
管理人に挨拶すると、エンジンに被せられていたカバーを外すと、エンジン
を始動させた。
まだ薄暗い中に排気管から赤い炎のような排気ガスが出ていた。
バケツの発炎筒がもう一度確認され、富蔵はトンプソン・マシンガンに弾倉
を装填して、予備の弾倉2個を直ぐ手に取れる場所に固定した。

肩から斜めに提げた袋に、コルト用30連発の弾倉2本を皮ケースに入れて、
予備の弾と持ち、腰にはコルト自動拳銃を下げていた。
用心に胸のポケットにデリンジャー拳銃を入れていたが、至近距離では意外
と強力な自衛武器となった。

時間を見ると、すでに仲間の4人が現場に到着する時刻であった。救出時刻
は5時と決めていたので、飛行機を発進させる事にした。
軽く爆音を響かせ離陸して飛び上がった。
日の出と同時に救出作戦開始を決めていたので、タイミングを見て居たが

明るく空が輝き、朝日がジャングルの梢から漏れて来た。
10分も掛からずに直行した現場の下で、ジャングルの外れの木陰から懐中
電灯の点滅する明かりを確認した。

ホセがすでに偵察して安全と合図を送って来た様だが、仲間も全員、見張り
小屋に襲撃する準備が出来ていると安心した。

モレーノはエンジンを吹かして爆音を上げると、翼を振り攻撃開始を告げた。
富蔵はトンプソンを胴体に固定して標準を地上に決めていた。

キャンプ小屋の回りの木々の梢をかすめると、発炎筒を正確にバケツから
束にして投げ落とした。空中でバラバラになり煙を吐きながら落下して行った。

小屋からバラバラと走り出す男達が見え、河岸に走るのが確認された。
旋回した飛行機は低空で小屋の反対側のジャングル側の見張り小屋辺りに
目星を付けて、富蔵がトンプソン・マシンガンを撃ちまくっていた。

地上で仲間が見張り小屋を襲撃するライフルの瞬く銃口の光が見えていた
が、短い時間でケリが着いたと感じた。

旋回して河の上から河岸のカヌーが繋がれていた船着場辺りを見たら、多
くの男達が手を振り、ライフルや拳銃、山刀などを手にかざして見せてくれ
た。
富蔵は成功したと感じた。モレーノが操縦席からVのサインを見せてくれた。

2ヶ所の見張り小屋から火の手が上がり、燃え上がる様子が見えたが、残
った1ヶ所の見張り小屋の側で男が一人、撃たれたのか、不自然な姿で倒
れていた。

モレーノはもう一度河岸の上を低空で飛行すると、懐かしいパブロ達の姿も
確認したので、大きな爆音と共に翼を振って飛行場に戻って行った。
飛行場に戻り、馬車でホセの養蜂農場に戻ると、用意していた馬に飛び乗
ると、モレーノと二人で現場に急いだ、モレーノの犬が必死で付いて来てい
た。
速度の遅い複葉機でも、アッと言う間に到着する飛行機の距離と、馬で走
る距離とは意外な差があった。
かなりの早足で馬を飛ばしたが、1時間ほどすると微かに現場辺りから煙
が見えた。燃えた見張り小屋からの煙りと感じた。

現場近くなってモレーノが馬を止め、しばらく休憩して犬も休めて水を与え
ていた。
双眼鏡で良く回りを用心深く見ていたが、犬を先頭に散弾銃を構え歩き出
した。その用心深さは昔の賞金稼ぎの経験からと富蔵は感じた。

まじかに迫った現場に来て馬を降り、林の中に馬を繋ぐと犬に様子を探ら
せた。何も反応しない事を確かめて、モレーノが腰に付けた物入れから、
飛行機の遭難信号に使用する小型の信号拳銃を取り出すと、空に向けて
一発発射した。

赤い尾を引いて空中高く上がり消えていった。
同時に2発の銃声が返ってきた。
犬が吼える声が聞こえて来て、誰かがジャングルの潅木をかき分けてくる
音が聞こえて来た。モレーノの犬が喜びの表現をして尻尾を振っていた。

突然、犬が飛び出して来て仲良くじゃれ始めたが、その後ろからパブロが
何か喚きながら飛び出して来ると、富蔵とモレーノに飛びついて抱き合って
いた。仲間の二人も駆け寄るとガッシリと抱き合った。

採掘現場の全員が怪我も無く河岸に逃げ出して、採掘現場を支配してい
た男達8人は寝込みを不意に襲われ、銃で抵抗した男3人がその場で射殺
され、降伏した他の男達は縄で繋がれている話していた。
見張り小屋に居た一人が抵抗したので上空から見たよう死体で転がった様
だ。
誰も逃がさなかったと話したので、発炎筒の煙の威力は凄く、うろたえた逃
げ惑う男達を簡単に降伏させたとパブロが話していた。
連れ立って皆で、キャンプの小屋に行くと全員が揃っていた。後ろ手に縛ら
れた男が5名地面に座らされていた。

この砂金採掘現場を支配していた連中が、食糧倉庫に蓄えていた酒を持ち
出して来て、皆に酒を注ぎ回すと、パブロが声高らかに今日の無事を神に
祈っていた。
皆も静かに聞いていたが、『乾杯ー!』と言う声で、皆がどよめき、叫び、開
放された奴隷同然に働かされていた男達が湧き返っていた。

フェジョンの豆ばかり食べらせられていた労務達に、馬車に積まれて持って
来ていた食料が開かれ、燻製の肉が切られ、生ハムが吊るされ、好きなだ
け切り取って食べていた。
パンも袋から出され、コーヒーが湧かされ、満足いくまで食べていた。

しばらくして皆が満腹して、酒も回り、皆が興奮から冷めた時に、採掘場を
支配していた男達が住んでいた小屋から、蓄えられていた砂金を持ち出して
来た。
テーブルに炊事小屋からバケツを持ち込み、皆が見ている前でバケツに袋
から砂金が入れられた。
富蔵は酒のグラスに砂金を充たすと、一人ずつに砂金を手渡した。
襲撃で奪い取ったライフルや、拳銃も全て皆に配った。

それが済んだ時に、少し酒に酔った男が貰った拳銃で、後ろ手に縛られ、地
面に座らされていた男の後頭部に銃口を突き付け、頭を打ち抜こうとした。

降伏して命乞いをする、無抵抗の男を殺す事は出来なかった。
モレーノが飛び掛り、拳銃を取り上げて危うい所を逃れたが、生き残った5人
の男達は中には殴られて頭から血を流して居る男も居た。

富蔵は皆が居る前で、『今日、皆を解放した褒美に、この男達5名を俺が貰
うー!』と言った。『文句は無いだろう・・』と問うと、いっせいに『ドンの好きな
ようにー!』と声が返ってきた。

救出作戦でリオ・ベールデから来た4人とホセにも皆の前で砂金が多めに配
られ、残りを皆の前で、今日の一番の立役者、飛行士のモレーノに与えると
言うと、皆から『何も異存は無い』と答えが返ってきた。

最後にもう一度乾杯が行われて皆が抱き合い、町に戻る者、ここの採掘場に
残る者、故郷に帰る者などが荷物をまとめ始めた。
死体は埋葬され、富蔵は5人の縄を切ると食事をさせ、ここに居ると殺される
から、町について来いと言うと、パブロが操る馬車の後を歩いて付いて来た。

町に帰る者と、故郷に帰る者が馬車に乗り、後ろから乗馬の富蔵達6名が、
歩いて来る5名を見張っていた。

細い道を馬車がゆっくりと進んで行った。

2012年11月11日日曜日

私の還暦過去帳(321)


 『もと百姓が見たインド』

1月10日は6時半には起床して、お馴染みになったお粥の朝食でした。
今朝はタイからの団体客が先に食事をしていました。
私達夫婦が食事を済んで新聞でも読んでいる頃には、玄関ホールに集合して
いましたが、これからどこかの仏教遺跡にバスで出かける様でした。

私もホテルの清算をして、ホールのソフアで迎えの車を待っていました。
予定時間の8時に車が来ました。
これでブッタ・ガヤーにお別れです、この町が時を越えて巡礼者達を引きつ
ける何かが在り、何百年も永々と続く信仰の力を感じさせます。

ホテルの従業員に見送られて街中を抜け、街道を疾走し始めました。
しばらく走ると、インドで初めての高速道路に入りました。
有料でトラックの走行が目立ちます。首都のデリーまで続く高速道路と言う
事でした。アメリカの様にトレラー牽引の超大型車は見かけませんでしたが
途中にはレスト・ストップの休憩所もありました。

かなり田舎の、広大な広さの農村地帯を横断するように走り抜けて行きます
が時々、沢山のトラックが路肩に何台も停車して、高速下のレストラン風の
様な屋台の店で食事をしているのが見えます。田舎ののどかな風景にマッチ
している様でした。それにしても数時間走っても、一台も警察のパトロール
カーに会わなかったのには驚きました。

それと、途中で工事中とかで、回り道した街道の田舎道がホコリとデコボコ
道で、しばらくは腰が痛くなるような振動でした。
途中一度、休憩で止まった所は、レストランとモテルの宿泊所も有り、有料
のシャワーも浴びる事が出来ました。高速を降りて近道の田舎道を1時間半

ほど走り抜けましたが、また高速道路に戻るまで田舎の農道と言う感じの細
い支線を走った経験は貴重でした。まるで農家の庭先を横切るかと思う狭い
道で、放し飼いの牛、ヤギ、ニワトリ、アヒルなどが車の前を横切り、ロー
カルバスの屋根の上まで積み上げられた荷物の上に、人間が乗っているとい
う風景も見ました。

どこまでも続く、青々とした麦畑が海の様に連なる姿は、地平線まで伸びて、
その畑のあぜ道を、頭の上に荷物を載せた婦人達が列をして歩いている姿を
見て、どこまで海のような麦畑を歩くのかと心配になりました。
時々、麦畑の海に浮かぶ孤島の様な町が見えて、また消えて行きました。

一度狭い幅の鉄橋を渡る時に、車一台しか渡れない所に、ヤギ達がゾロゾロ
と橋の幅一杯に広がって渡ってくる光景は壮観でしたが、我々の車もヤギ
様達のお渡りをしばらくは、おとなしく待っていました。
停車して待っている我々の車を見上げて、『メー・・!』と鳴いていました
が、何かヤギ達が『待たせて悪かったね・・!』と言う様な感じでした。

それにしてもインドの田舎町と言えでも、どこに行っても人が沢山住んでい
るのには驚きです、そこを抜けてまた高速道路に戻り、しばらく走ってから
ガンジス河の鉄橋を渡りましたが、川幅も広く橋の両側は銃眼が付いた要塞
風の建物でした。
レンガ作りの古い建物でしたが、どこか英国風の様式を感じさせていました。

橋を渡る前に巨大なトラックターミナルと言う感じのトラックが群れている
場所を見ましたが、あんなに多くのトラックが停車している場所はインドで
は初めてでした。
街中に入り、しばらく走ると両側の商店や家がまるで爆撃にあったかと思う
ような凄まじい光景を見ましたが、運転手が話してくれた事は、違法建築で
国道にはみ出して建てられた建築物を、裁判所の許可の下に強制取り壊しを
したようでした。

インドの悠長なやり方ではありません、裁判所の令状の下にパワーシャベル
で一斉に破壊してしまったようでした。
それにしても、インド人はやりますなー!
家の半分を壊されて、まだベッドなどが、壊れかかった部屋からぶら下がっ
て居る様な光景には度肝を抜かれました。

また、大勢の人間がレンガを丹念に剥がして、自主撤去をしているのも見ま
した。運転手の話では、今回は立ち退き拒否の家を破壊したようでした。
年々増える交通量に苦慮した政府が、道路拡張に反対する違法建築に対して
実力行使をしたようでした。
驚きの光景を目にしながら、バナーラスのホテルに2時30分に到着いたし
ました。
ガイドが言うには、このガンジス河の側に在る町の名前は、日本式は
『べナレス』これは英語読みの『Benares』の日本語読みです、正式には
『バナーラス』と言うとインド人でも通用致します。
しかし、インド独立後の政府の正式名は『Varanasi』だそうです・・、私は
ベナレスと言うのが簡単で間違いない地名と感じますが、やはりジャパニー
ズ英語ですねー!

ホテルでは遅いランチを食べて、少しホテルで休んでから、ぶらぶらと街中
を歩く予定で、その夜は近くのショッピングセンターの中に在る、マクドナ
ルドとピザハットの店まで歩いて行き、見学しましたが、入り口には男女の
ガードが二人居て、所持品検査をしていました。

私達は呼び止められる事無く通過出来ましたが、お客は中流以上の客層と感
じました。中をぶらぶらと散歩して、ピザをお持ち帰りにしてもらい、ホテ
ルでのんびりと食べる事に致しました。
明日はガンジス河の夜明けを見て、聖なる河に船を出す予定です。

2012年11月10日土曜日

第3話、伝説の黄金物語、(27)


 仲間3人の奪還作戦、

しばらく旅に出ていました。
旅はカリフォルニア州の太平洋沿岸の都市です、そこにも昔から沢山の日
本人達が各地に僅かずつ住んでいました。
昔から、シアトルからロサンゼルスまでの鉄道が開通していたので、シアト
ルで船を降りてロサンゼルスまで鉄道で南下して行った日本人達の足跡が
あります。

サリーナスでは大規模な蔬菜栽培が昔から行われ、『エデンの東』や『怒り
のブドウ』などの作品で知られる、スタインべックの故郷です。
そこでも多くの日本人達の蔬菜栽培で働いた足跡が残っています。

そこから僅かに離れた場所ですが、昔はイワシの大漁場であったので、多
くの缶詰工場があったモントレーも、日本人の労働者が働いていました。

今もその働き手の宿舎が記念に残されています。僅かな面積の小屋です、
ベッドと洗面台、粗末なタンスがあるだけの部屋です。中にセピア色に変色
した当時の写真が飾られていましたが、その中に古い日本の風景の飾りが
写って入るのが見えました。

1895年当りから、1935年ほどまでは最盛期だったようです、近所ではア
ワビの潜水採取の良い海岸があり、日本人がそれも缶詰にして輸出してい
たようです。
現在では近海に居たイワシが消えて、アワビ漁も出来なくなり、全てが過去
に消えてその痕跡だけが残っています。

ブラジルでも当時のコーヒー園に契約雇用で入植して、余りの激しい労働と
貧困から夜逃げ同然で都会に出て、その都会の片隅でひっそりと人集めの
甘言に誘われて、奥地の鉄道建設や金鉱採掘などに出かけて行き、誰にも
知られることなく草葉の陰に眠っている人も居ました。

私も08年6月に訪ねたパラグワイで、1927年頃、パラグワイの、当時は陸
の孤島の様な所で、現地人に襲われて亡くなった若者の墓を見ました。

日本人の86歳にもなる一世が誰も訪れることも無いその墓の面倒を見てい
ました。その様に世界には、多くの日本人達の誰も知らない墓標があると思
います。

ブラジルの奥地で金鉱や鉱山採掘、、森林伐採などで使役に使われた人達
も同じ様な運命をたどったと思います。

モレーノは木にぶら下った男の長靴を脱がし、ゆっくりと研ぎ澄ましたナイフ
で足を叩いた。
『お前のキャンプには何人の仲間が居るのか?』と聞いた。
男は無言で木にぶら下っていたが、微かにナイフの先が足を刺すと、『8人
居る』と答えた。

モレーノの犬が緊張して、鼻を動かして何かを探していたが、その時、近くに
ラバの鳴き声がして誰か歩いて来る様な感じがした。

木に吊るされた男は叫び声を出そうとしたが、モレーノが男の馬から取り出
したライフルを口に差し込むと目を見開いて緊張していた。
静かなジャングルの茂みの道に、誰か近くに歩いて来る足音がして来た。

まさかこんな時間に人が通るとは予想もしてはいなかった。
犬に吼えないように合図して、静かにさせた。

右手にライフルを、左手に拳銃を構えていたが、モレーノは男の頭をライフル
で殴り気絶させていた。男は血の滴る頭をうなだれて、みの虫の様にぶら下
がって居た。

足音は間違いなくこの道を歩いてくる様で、ラバのいななきも聞こえていた。
拳銃を構えて木陰に隠れていたが、男が僅かに木に吊るされた男に気が付
く瞬間に、モレーノはラバのたずなを握った男の顔に懐中電灯を突き付け、
拳銃の銃口を額に押し付けると、男はへなへなと腰を抜かして座り込み、
ガタガタと震えていた。

しばらく時間が経ってその男が正気に戻り、回りを見回して居たが、突然・・、
木にぶら下った男を発見すると、表情が一変した。ゆっくりとその男がモレー
ノに聞いた『この木にぶら下った男を殺して良いか?』と聞いて来た。

何か事情がありそうだが、モレーノの『なぜかー!』という質問に、『俺の弟
と仲間の一人が殺された。そして何人かの労務者が酷い目に合い、働かさ
れている』と答えた。
『間違いなく、この男が帰りが遅いので探しに来ていたようだ・・』とモレーノ
に話した。
足が不自由の様だが、『それもその男に足を撃たれて逃げられないように
なった』と答えた。
『今日はキャンプで炊飯用の薪が不足したので、ラバで伐採地点まで取りに
行かされた』と答えたが、目は木に吊るされた男から離さなかった。

モレーノは足の不自由な男に巡り合ったので、木にぶら下った男は不要に
なったと感じた。何でもこの男は話してくれると思った。
ゆっくりとナイフを鞘に収め、ロープの結び目の所を教えた。男は両手でロ
ープを引いて緩めた。
『ドスーン!』と音がして気絶していた男が首に縄を巻いたまま、ストーンと
下に落ちた。

靴を脱がせた足先が痙攣して、大きく身体を動かしてもがき始めた。
足の悪い男が下で、木にぶら下ってもがく男に声を掛けていた。

『弟や仲間の仇を取ってやる、苦しむが良い・・、同じ様にして殺された仲間
の苦しみを思え!』と叫んでいた。

しばらくして静かになった現場で、モレーノは足の悪い男と救出の相談をし
ていた。相手は両手を挙げて歓迎してくれ、そして木にぶら下がった男を指
差して、あのボスの男が死んだので、救出作戦は間違いなく成功すると話し
ていた。

使役の奴隷同然にこき使われている労務者達が20人ほど居ると教えてく
れ、その中にはパブロと他の仲間2名も居ると教えてくれた。

きずかれない様に明日の朝にキャンプを襲うので、先ず飛行機が来たら発
炎筒を投下するので『大声で「毒ガス!毒ガス!」と叫んでくれ・・』と頼んだ。

そして『皆で河の方角に逃げてくれ』と頼んだが、直ぐにその事を納得して
くれ、同時にジャングルからも見張り小屋を3ヶ所から襲うと教えた。

パブロに明日の救出作戦を書いた伝言の紙が預けられ、木に吊るされて
死んだ男の銃器、拳銃2丁とライフルを手渡した。
死んだ男の懐中時計も救出時刻の正確さを守るために渡され、全ての手配
が済んでしまった。
死体をかたずけて、死んだ男の馬だけ引いて、モレーノは犬を連れて現場
を離れた。

足の悪い男はラバの背に積まれた薪の中にライフルを隠すと、拳銃2丁を
ベルトに挟み、シャツで隠して歩き出した。お互いに手を振って暗闇に消え
て行った。

モレーノは町に引き返すと、直ぐに明日の救出作戦の再点検をして、皆と
話して役割分担を確認して、明日の用意を済ませてしまった。
各自、銃器の手入れと弾の用意をして、それが済むと軽くビールで乾杯し
た。

富蔵もトンプソン・マシンガンの弾倉に弾の装填を済ませると、救出してか
らの労務者達の食料の用意と、負傷者が出た時の緊急薬品の用意をして
馬車に積み込ませた。

ホセがその馬車を馬で引いて早目に出かけて行ったが、救出作戦開始前
に現場に到着して偵察の役目も兼ねていた。

明日は朝5時に行動開始を決めて各自の時計を皆で合わせた。
モレーノが飛行機に燃料を補給して、発炎筒を10本ばかりバケツに入れて
用意して来たと話していた。

これで明日の用意が全て終了した。

2012年11月8日木曜日

私の還暦過去帳(320)


『もと百姓が見たインド』

その日、SUJATA村から街中の賑やかな参拝者達を見ながらホテルに帰
って来ました。
それにしても、これだけの参拝者達が宿泊できる設備があるのですから
感心致します。よく見るとあちこちに、ホテルの看板が出ている建物があり
ますが、洗濯物をぶら下げた様なホテルも見ました。

ホテルに帰ってから近所の雑貨屋の中にある電話屋に行きました。
次男に電話する為でした。ホテルでは電話代が高いと聞きまして、散歩が
てらに行きました。簡単に話す事が出来、周辺の状況も知る事が出来まし
たが、テレホン・カードをほかのスナック類と同じく、沢山ぶら下げて販売
して居ました。
終わりましてホテルではお昼のランチが開いていましたので、お腹も空いて
食事にする事に致しました。近所の日本寺を観光訪問した団体さんが立ち
寄りバフェーのランチを食べたので、今日も日本人が美味しく食べられる物
が沢山メニューに有りました。
チャウメン(インド式中華焼きそば)これが美味しいのです、それに鳥のから
揚げ、キャベツのインド式煮込みが美味しかった。このキャベツの煮込みに
はすっかりワイフとも好きになり、これがあったらどこでも注文していまし
た。
これは大きくザク切りしたキャベツを鶏がらのスープで煮込んで、しんなり
とした所に、塩・胡椒で味付けした簡単な物でしたが、キャベツの甘さと柔
らかさが舌に残る味でした。私はチヨイと醤油をかけて頂くのが好きでした。

食事の後に、朝は混雑すると言う事で、午後から仏陀が覚りを開かれた場所
の『大菩提寺』を参拝に行きました。
仏教徒の最も重要な聖地です、仏陀が覚りを開かれた菩提樹の木も残って
居ます、その木は3代目とか、大きな木です。7世紀には現在の姿の寺院と
成ったと聞きましたが、その聖地の貴重な座禅を仏陀がされて覚りを開かれ
た場所は、今では厳重に鉄格子で囲まれています。

ガイドが話してくれた事は昔、日本から訪問してきた来たオウム真理教の
教主がそこに座ろうとした事で、今では座禅を組んで座られた石の上は鉄の
格子が張られ誰も近かずく事は出来ません。
ひんやりとした岩肌の冷気が有る大きく茂った菩提樹の下で、老若男女の
数多くの人が、静かに座禅を組んで瞑想している姿は印象的でした。

境内の中は数多い仏教徒達が、遠く他国から一生一度の旅支度をして来た
と言う感じ年配の方達が、参道に自分の姿を全て投げだして、全身全霊を掛
て参拝ににじり寄っていると感じる、お参りをしている方達を見て、その信
仰心に心打たれました。

中にはあちこちの寺院の角に花びらと自分が故郷から持ってきた水を小さな
紙コップに入れて捧げている姿を見て、この寺院に在る守護神に感謝の奉納
をしていると感じ、それぞれの一つ一つのコップに秘められた願いが感じら
れました。
夕方近くまで境内を歩きましたが、ネパールから来た巡礼者達の合掌する経
文の声がどこにでも聞こえていました。
靴を脱いで歩いている石畳の参道がひんやりとして、心地よい感じが致しまし
たが、僧侶達が褐色の仏衣を着て、両手を合わせて素足で境内を歩く姿は
威厳が在る姿でした。

夕方になり、外に出たら周りの広場で若い男女が踊りをして見物客から小銭
を集めていました。その音楽がここは遠くの異国の地に居る事を肌で感じさ
せてくれました。

その夜、ホテルに戻り、私一人で街に出て何か思い出になる品を探しました。
在る寺院の前で、チベット族の老女が仏壇に飾る鐘やロウソク立てなどを売っ
ていました。英語がかなり話せましたので、聞くとネパール近くのインド北部
で作られて居ると話してくれました。思い出に綺麗な彫刻が入った10cmぐ
らいの鐘を購入いたしました。

その夜は早目に床に入って、明日のバナーラス行きの準備をしていました。
どこか遠くで微かに響いてくる鐘の音を聞きながら眠りに付きました。

2012年11月6日火曜日

第3話、伝説の黄金物語、(26)


 仲間の救出作戦、

パブロと他の仲間二人が消えてから10日が経過したが、何も消息がつか
めなかった。
マットグロッソのカンポグランデの町に飛行機で飛んだ。

小さな複葉機ではギリギリの航続距離であったが、サムが飛行距離を伸ば
す為に燃料タンクを2割程度大きくしていたので、荷物が少なく、人間だけ
の重量であれば問題なく飛ぶ事が出来た。

カンポグランデの町に入り、そこで情報を探した。仲間の一人の、郷里の親
戚と言う家族を探し出していた。ホセと言う名前だったが、小規模の蜂飼い
をしていたが、地理はその周りの全てを知り尽くしていた。

馬車で蜂箱を積んで各地を移動するので、大抵の水場や山道なども知って
いた。
パブロ達はそこからは道案内人と馬車で奥地に入って行ったが、それっきり
消息が消えた事は、どこかで奴隷同然に、こき使われて金鉱掘りをさせられ
て居ると考えていた。
郊外のホセの家で世話になりながら、まずホセを道案内で上空から偵察す
る事にしたが、ホセは生まれて初めて体験出来る飛行に興奮していた。

先ず金鉱が発見された地域の周りを飛んで見ることにして、ホセが指差す
地域をゆっくりと旋回してテントや、小屋がけで採掘している地域を見下ろし
て居たが、富蔵が双眼鏡で採掘現場を舐める様に見ていると、中から人が
飛び出して来て手を振った。

ボロをまとった男が必死に手を振っているのが見えたが、手首から上が無
かった。富蔵は一瞬、『パブロー!』と確信した。双眼鏡では顔までは判別
出来なかったが、見慣れた動作は間違いなくパブロと確信していた。
すぐさま操縦席のモレーノに伝言管を通じて現場を離れるように言った。

怪しまれないように、ただの砂金採掘現場に飛来した飛行機と言う感じで飛
んでいた。まさか当時、サンパウロから飛行機で捜索に来る事など先ずはあ
り得ない事なので採掘現場では珍しい飛行機を見ようと大勢の人が飛び出
して来ていた。
まさに富蔵の計画の様になった。

モレーノはサムの飛行士から借りて来ていた、航空写真を写すライカのカメ
ラで現場を撮影していた。この航空写真撮影は、牧場主などが自分の領地
を撮影して自宅の客間に額に入れて飾る写真で、当時はかなり流行して、
サムも良いビジネスになっていた。
これで富蔵はパブロ達が生きていると確信して安心した。
後はいかに安全に救出するか、金の採掘などはそれからの話だと感じてい
た。

急に開発された金鉱で人出が不足していたのと、大規模な金の採掘場を発
見したら、他人に嗅ぎ付けられぬ様に現地人では無い人間に掘らして、それ
が終ると殺して居た様な事が多くあったと話しに聞いていた。

一日か二日では掘り尽くす事は無いと考えたが、救出はゆっくり出来ないと
考えていた。
持って来た銃器などの荷物は全てホセの家に預けて、リオ・ベールデに戻っ
て来た。アマンダ兄弟達と相談して、銃の上手な若くて元気な、血の気の多
い男を救出に連れて行く事にした。

モレーノはサンパウロに帰って写真を現像焼付けして拡大すると、検証して
間違いなくパブロであり、他の仲間一人も確認できた。これで計画の実行が
決まった。

サムは近頃商用で行き、アメリカから持ち帰った、コルト45口径自動拳銃を
モレーノに持たせていた。それは特注の自動拳銃で、弾倉が長い30連発も
出来るマガジンを装填出来る様にしてあった。

弾倉が2個付いていた。弾倉を交換して撃ちまくれば60発も連続して連射
できると思った。
ホルスターに自動拳銃と普通の交換弾倉が2個、その横に皮のケースに入
った30発入りの弾倉が同じく2個あった。
アメリカでガン・スミスが個人的な設計で製作したと感じた。

モレーノはそれを試射していたので聞いたら、『すげー!威力がある・・、』と
驚いて話していた。

サムからの手紙を開けると、そこには『お前は子持ちで、乳飲み子を抱える
ワイフが居る事を忘れるなー!』と書いてあった。富蔵はサムの心使いに感
謝していた。

富蔵はトンプソン・マシンガンと45口径の弾が共通なので便利だと感じてい
た。救出作戦は用心深く準備を進めていたが、リオ・ベールデから4名の腕に
自信がある男を二回に分けて飛行機で送り込んだ。これで人員と資材が全
部整った。
後には引けない作戦となったが、相手も非合法に奴隷同然に集めて強制労
働をさせている労務者達を銃器で看視して、働かせているのであれば危険な
事は承知であった。

まず、ホセの家で航空写真と地図を前に基本的な作戦原案をまとめた。

全員で6名、富蔵とモレーノが飛行機で攻撃する事を考え、それに2名差し
引くと実際の攻撃要員は4名であったが、ホセも荷物運びと、看視を引き受
けてくれた。

先ずはモレーノが自分の犬を連れて馬で金の採掘現場近くまで偵察に出た。
そこにはパブロが飼っていた犬も居て、直ぐに母犬が嗅ぎ付けて探して来た。
犬の親子は吼えもせず、迎えてくれたパブロの飼い犬が外のジャングルま
で出て来て、お互いにぺろぺろと舐めてじゃれていた。

他には犬は居ないようで安心した。航空写真の様に、二棟の小屋があり、
片方が倉庫と食堂と感じ、他は居住の小屋の様であった。
馬が3頭ばかり草原に繋がれているのが見えた。
回りは囲いも無く、無防備で、見張り小屋が3ヶ所にあるだけであった。

少し離れた河岸にはカヌーが2隻繋がれているのが見え、双眼鏡で見ると盗
まれないように大きな鎖で木に結ばれていた。
これだけ調べるとモレーノは静かに現場を逃れて来た。
帰り道、暗くなる前にモレーノの犬が誰か町から馬で戻って来るのを探し出
していた。

馬から下りたモレーノは藪に隠れて待ち伏せていた。この道を戻る人間は
あの金の採掘現場に行く者しか通る事がない道であったからである。
片手にロープを持ち、木の枝によじ登り下を通過するタイミングを図っていた。

モレーノが投げ縄の要領で下を馬で通過する男の身体に縄を後ろから投げ
た。胴に縄が絡まると同時にモレーノは枝の反対側に飛び降りた。

胴を吊るされた男は両手の自由も無く、枝に吊るされた状態で宙に浮いて
グルグル回っていた。
片方の縄を木に結び付けると、首にも縄を締め付けて上に吊るした。
モレーノは、『暴れると自分の首が絞まるからおとなしくしろ・・・!』とゆっく
りと言った。
顔はスカーフで半分隠していた。男はモレーノに『お前は強盗か?』と聞いた。

暴れて胴を吊るした縄が緩んで下に落ちれば、首の縄が締まり、絞首刑と
同じになるので相手は静かに木にミノムシの様にぶら下っていた。

モレーノは腰のナイフを抜くと『今から俺の問いに答えなければここで死ん
でもらう・・!』と脅した。

2012年11月5日月曜日

私の還暦過去帳(319)

『もと百姓が見たインド』

1月9日の朝は7時ごろ起床しました。
前日の大浴場でのお風呂ですっかり旅の疲れも取れていました。
ホテルの日本人団体が滞在して居るので、私達夫婦にもそのおこぼれが来
ました。 朝食は何と・・、日本式の朝ご飯でした。

お粥に、お味噌汁はおジャガと大根の田舎風の具でした。
それに二つ目の卵焼きと、ほうれん草のおひたしまでありました。
これで十分です、お醤油もちゃんと用意され、インドのブッタガヤまで来
てこんな朝食を食べるとは、驚きでした。

ホテルも日本人団体客が泊まると、朝のバフェースタイルの朝食はこんな
物を出すようです、おかげで朝から、たらふく食べてしまいました。
朝食後にホテルのロビーで、出掛ける用意をして新聞を読んでいました。

迎えの車が8時半頃に来て、それから各国の寺院を見て回りました。
それぞれ工夫を凝らした飾り付けで寺院を飾って在りました。
私は100ルピー札を小銭の貨幣で100ルピー交換していましたので、
各お寺の前にいる物乞いの人々のお皿に、カラカラと2~3ルピーずつ寄
進していました。
中には驚いた事に、お皿を前に置いて悠々と昼寝をしている御仁も居まし
た。ブータンから来た感じのご婦人が、心配そうに座り込んで覗き込んで
いましたが、昼寝をしている事が分かると、起こさないように静かにお皿
に小銭を載せていました。
その後にSUJATA村を見学に行きまして、初めてインドの農村地帯の農道を
歩きました。小学校を覗いたり、生徒が勉強している教室で、生徒と話を
したりして来ました。日本寺の影響で昔、寺の僧侶が日本語を学校で教え
たという事で、今でも日本語教育が続いているという事でした。
貧しい寺子屋の様な学校でしたが、請われてインドの田舎では大金ですが、
僅かなお金を寄付してきました。

今回初めて田舎の農道からあぜ道まで入り、植えられている野菜や作物の
出来ぐわいを見ました。機械力はあまり使われていません、かなりの人手
で管理されていました。一番感心したのはジャガイモ畑が綺麗に草一本も
無く、隅々まで管理されていたのには驚きました。

まるで昔の日本の田舎を思い出し、風景が似ている事を感じました。
農道の両側にある農家を見ると、壁は牛の糞を平たくして物が、びっしり
と貼り付けてあり、乾燥して出来上がった物は重ねて、その上に屋根を被
せて燃料としてありました。のんびりと木陰でインドチャイを入れて飲ん
でいる人も居ましたが、何かインド時間で生活している感じでした。

側のため池の周りにはパパイヤの木が植え付けられ、大きな実がぶら下が
って居ました。野菜もナス、キユーリ、キャベツ、大根などそれと、あぜ
道にはそら豆が植えられて居たのにはこれも驚きました。
それは、まったく同じ事を日本で昔、見た事があるからです。整然と綺麗
に管理されて居る畑を見て、インドの農村がまだ十分に機能して、多くの
インド人の命を養っていると思いました。

収穫が終わった稲藁を積み重ねて、日本でも昔見た様な丸い貯蔵の囲いが
幾つもおいてあり、農家の中庭を見ると、その脱穀した稲藁を刻んで家畜
の餌にしているのを見ました。のんびりとニワトリがヒヨコをゾロゾロと
連れて歩き廻り、ヤギが大きな乳房を垂らして乳搾りをされている光景も
見ました。
なんだか50年前、私の福岡の郷里で見た光景でしたが、何か懐かしさが
込み上げて来ました。牛の群れが農道をゆっくり年寄りに追われて歩いて
いました。インドでも最貧州と言われる、ビハール州ですが、金銭的な貧
困はあるが、心豊かさを農民の多くが持っていると感じました。

案内してくれた運転手が『金持ちは町に住んでいるので、ここで見る人達
は皆同じレベルの農民達だ・・』と話してくれました。
帰りに車を待たせていた所まで来ると、農家のどこかの奥さんと言う感じ
の婦人がサリーのすそをからげて、井戸端の横で牛を洗っていました。
手押しポンプでバケツに水を入れ、藁でごしごしと牛の背中を擦っていま
したが、牛は気持ちよさそうにして座り込んでいました。

帰りに細長い橋を渡り橋の中ほどまで来た時に、遠くに青々とした農地が
広がっているのが印象的でした。

2012年11月4日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(25)


  サンパウロの平穏な日々、

翌日からモレーノが飛行学校に通学する規則正しいオートバイをスタートさ
せる音が響いていた。

モレーノは砂漠に吸収される無限の水の様に、知識を吸収していった。
全ての費用は富蔵がサムにまとめて預けていた。

それとサムがアメリカから購入した飛行機エンジン代金のドル決済分を手
持ちのドルから貸していたので、彼に必要な物は何でも与えてくれる様に
頼んでいた。

サムも良い生徒だと褒めてくれ、モレーノにパラシュートに飛行服、その他、
蛍光時計や飛行帽子を揃えてくれていた。かなりの金額であったが、サム
がアメリカから取り寄せていた。

電信モールス信号の練習とエンジン整備の技術もサムが教えてくれた。
モレーノは午後帰宅すると、自分から希望して夜間の工業学校へ通学しだ
した。エンジン整備の基本から学んでいたようであった。

サムと話してモレーノの誕生日に大きな工具箱と、それにぎっしり入る工具
をプレゼントした。
サムがその誕生祝のパーテイで、『モレーノほどに操縦を覚えるのが上手
な男は今まで一人も居なかった。』と話してくれた。

それもサムに預けている豊富な資金で、時間の制限無く飛行を許可してい
る事もあった。サムも商業飛行の免許を取る様に勧めてくれた。

時々、サムの助手で地方への配送任務に付いて飛んでいたが、帰りの途
にリオ・ベールデの牧場に着陸して、両親と兄弟達に会って来た。

飛行場も市の建設許可も簡単に出て、町で初めての飛行場建設が進んで
いた。サムはその工事現場も見て指導して、あちこちと指示していたようだ。

帰りの飛行で沢山のお土産の中に子犬が1匹居た。モレーノの愛犬も連れ
て来たので急に賑やかになった。子犬は母犬の後ろを付いてまわり、富蔵
と絵美達を喜ばせていた。

砂金採掘現場に居るパブロもモレーノから貰った別の子犬を飼っている様
であった。平穏な時間が過ぎて、つかの間の幸せが皆の間で営なまれてい
た。

富蔵は絵美が生んだ初めての男の子供を手に抱き、パブロはアマンダ兄
弟の親戚の女性と仲良くなり交際を始めていた。

モレーノは単独飛行も許可され、自由に大空を飛んで、サムの助手をして
いた。アマンダ兄弟達も拡張する町と、繁栄するリオ・ベールデの経済で益
々伸びていた。

上原夫妻も初孫に喜び、訪れた富蔵達と増築した屋敷で楽しいひと時を過
ごしていたし、自宅隣の食堂も繁盛して何も問題なく営業していた。
富蔵もこれまでの人生の内で一番平穏な日々を過ごした時期と感じられる。

富蔵達が平穏な生活を楽しみ、過ごしていた時期に大きな社会変化の動き
が起きていたが、移民の日本人社会では政治に関連する事には無縁の事
が多かった。

富蔵は毎日、子供を連れて近くの公園を散歩するのが日課になり、午後は
近くに開いた武道館で剣道と柔道をコックで乗船していた時と同じ様に練習
していた。

富蔵も生まれて来た子供に幸せを感じて、ブラジル社会に生きる覚悟が出
来て、次の事業計画を練っていた。

最初の砂金採掘現場では機械化した採掘で砂金の量が毎月減少して来て
いた。掘り尽くしたと思われ、2番目の採掘現場でそれを補っていたが、仲間
の二名が自分の故郷の近くで最近金鉱が発見され、ブームとなっている事を
知り帰郷を申し出ていた。
そこはマットグロッソ近くのアマゾン河の上流にある支流で、トラックでまる
1日以上は掛かる場所であった。

富蔵はパブロと話して彼等を応援する事を決めて、資材を集め用意を始め
ていた。
採掘地の地権を買い入れ、柵を作り、小屋を建設して資材を運び込むこと
まで予定をこぎつけていた。

ブラジル時間で時は過ぎて、富蔵の人生時計もそれに合せて動いていた。

アマンダが運転するトラックに資材を積み込み、パブロと仲間二人が出発し
て行った。パブロが飼って居る犬もトラックに喜んで乗っていた。

トラックの荷台にはシートが被せられ、キャンプ用のテントも積まれていた。
早朝の出発で、アマンダ兄弟達も見送っていた。

それから4日ばかりしてアマンダはリオ・ベールデに帰ってきたが、パブロ
と仲間の二人からは何の音沙汰も一週間しても無かった。
富蔵はリオ・ベールデに出向き、アマンダ兄弟の事務所で情報を集めてい
た。しかし、何も情報が集まらなかった。

その夜、サンパウロのモレーノの所に電話を入れ、リオ・ベールデに飛行機
で飛んで来る様に要請した。仲間が三名、行方が分からなくなっている事を
知らせた。直ぐに了解の返事があり、サムにも電話を入れて援助を頼んだ。

翌朝まだ薄暗い内に出来たばかりの飛行場にモレーノが操縦する複葉機
が着陸して来た。サンパウロをまだ星が瞬いている頃に離陸したと話してい
たが、胴体の中に愛犬が居た。
飛行機に給油され、僅かな荷物の中にはトンプソン・マシンガンも一丁含ま
れていた。

モレーノは自分の拳銃と散弾銃を機内にすでに積んでいた。
用意が整うと、モレーノが操縦する飛行機は、富蔵を乗せて離陸して行った。

2012年11月2日金曜日

私の還暦過去帳(318)


『もと百姓が見たインド』

日本寺の夕方の法要を終わりまして、ホテルに帰って来ました。
永い間正座した事がなかったので、それは大変でした。
最後のほうはビリビリと来るシビレで、足が麻痺状態でしたが、
子供の頃に仏壇の前で父がお経をあげる声を聞きながら、座って
いたのを思い出していました。

夕方の法要が終わり外に出て階段に座って、しばらくはシビレが
治るのを待っていました。
ホテルに帰ってしばらくは、お土産屋の日本語の上手なラフル氏
に借りたパソコンでメールを見ていましたが、超スローな接続で
イライラを通リこして、これもインド流の現実とあきらめて見て
いました。

それでもメールのジャンクを消してしまい、何とかすっきりさせ
て夕食にしましたが、パソコンを借りましたので、夕食に招待し
てホテルのレストランで食べる事にしました。彼等もお店を閉め
て遅い夕食と考えていましたが、インドでは普通の時間だそうで
した。
いつもは母親が家から使用人に持たせる、夕食の出前を食べるの
だそうですが、『今日はご馳走になります』と、楽しく話しなが
らの食事でした。彼等はスープにメキシコ料理のブリートの様な
中に沢山の具が入った薄い小麦粉で作った皮のロール巻きの料理
を食べていました。
私達夫婦は野菜チャプスイとワンタンスープで軽い食事としました。
食事をしながら当地の地名も現地での書き方はBODH-GAYAと書くと
話していましたが、私が旅行案内で見た書き方はBUDDHA-DAYAと書
いてありました。一つ勉強になったと感じました。

一番多い訪問者はやはりブータンや、ネパール、チベットなどから
の巡礼訪問者で、2番目はタイからの訪問者だそうでした。
飛行機で2時間と、BODH-GAYAのインターナショナル飛行場に来る
事が出来るので、タイからは四季を通じて参拝者が来ると言う事で
した。
台湾や日本からも多くの仏教徒の参拝者が訪問してくる様で、どこ
を見ても、この街中をどこを歩いても、沢山の東洋人が歩いていま
した。
その夜、お待ちかねの大浴場の日本式お風呂でしたが、一緒に食事
をしたラフル氏が、『団体さんが終わったから・・、』と声を掛け
てくれました。
彼が話してくれたのは、『団体さんはご婦人の団体で、お風呂の入
り口は『女湯』と書いてあるが心配なく入れます・・!』と言う事
で、ワイフが確認の為に先に入りましたが、中は湯煙の中に大浴場
にお湯を溜めてありました。
久しぶりにインドの田舎のホテルで、たっぷりとしたお湯に首まで
浸かって銭湯気分になれた事は初めてでしたが、おそらくこんな事
は温泉ではあるかも知れないが、沸かした大浴場に入る事はないと
思いました。
おかげで湯上りは長湯が過ぎて、しばらくは汗が止まりませんでした。
部屋に帰ってからも、お風呂の効果は抜群で、洗い立てのパジャマで
ぐっすりと寝ることが出来ました。