2012年1月31日火曜日

私の還暦過去帳(154)

今日は晴れて暖かい日でした。感謝祭のお休みで里帰りして
いた娘も帰りまして、急に静かになりましたが、この素晴らしい
天気に、私の有機栽培をしていた家庭菜園のかたずけをしました。

5月から収穫を始めて、長い期間沢山の野菜を食べて余った
物は多くの近所や知り合いに配りまして、喜んでもらいました。
今日も最後のトマトをかたずけていたら、トマトの茂みから青い

トマトが沢山採れまして、保存して赤くなったら食べる様にして
います。これで例年同じ様にクリスマスまで食べる事が出来ます。
今日の思い出話しは、かれこれ46年前となりますがアルゼンチ

ンの郊外で体験した初めての、大陸内陸部の嵐のすさまじい様子
を書く事にします。私がパラグワイを出て、ブエノス・アイレス
の郊外で知合いとトマト栽培を始めた頃です、苗を植えてその

支柱を立てる為に、パンパス草原の中に整然と作られた牧場の
中に支柱となる竹を切りに行っていた時でした。
だいぶ変わりやすい天気で、朝早く現場に行ってかなり切り出
して居た時でした。急に風が出て来て雲行きが怪しくなり、暗く

空が雲で覆われて、微かに遠くで雷鳴が聞えて、地平線は空と
の境が分らない様にどす黒く、まるで墨を塗りたくった様に真っ暗
となりました。風はますます強くなり、牧場の防風林のユーカリの

木々が音を立てて唸って、小枝が風で飛び散っているのが分り
少し心細くなってきました。その時にパラパラと雹も降り出して、
牧場の干草を囲ってあるトタン屋根の小屋が『カンカンーー!』

と乾いた音を立てて、まるで危険信号の様に鳴り、かなり遠くまで
聞えていました。その時です、多くの牧場の牛が列を作り急いで
ユーカリの日陰を作る小さな林の中に集まり出しました。

ボスと見られる牛が吼える様に鳴いています。その時雷鳴が近く
で鳴り、火柱が近所のユーカリの頂上で炸裂する様に光ると、あと
は『キ―ン!』と耳が鳴る感じで、ズドーンと衝撃が直に身体に感
じました。

その時は私もナタや山刀などは遠くに放り出して、防風林の中に
避難していました。50センチは直径があるかと思う大きな木でそ
の根元に座って、嵐が過ぎるのをジッと待っていました。

列を作って牛達が集まり、日陰樹の林はまるで牛の群れの塊が押
合い、圧し合いして居る感じでしたが、ちゃんと統制が取れ、真中
は子牛達が居て、外側は親牛が全部尻を外に向けて見事に空きも

なく丸く並んでいます。びっしりと隙間なく、まるで装甲車が並ん
でいる感じがしました。突然真っ暗くなった空から、かなりの大き
さの雹が落ち始め、パンパの草原の草が少し白く見える感じに染ま
りました。

私は初めての体験で少し身体に震えが来て、膝がガクガクしていま
した。『えらいこっちゃ~!』とこれでは迎えに来るトラックもい
つの事やらと、シュ―ン!と落ちこんでいました。遠くに見える牧
場主の水揚げポンプ用風車が物凄い速さで廻っていますが、連結は
外してあるのかポンプは止まっている様でした。

いつもはゆっくりと風車が『カターン、カターン』と軽い音を響か
せて水を汲み上げていましたが、今日はまるで恐ろしいような感じ
で廻っていました。

その時、地平線からまるで渦巻きが涌き出る感じで竜巻が突然に現れ
天と地がその竜巻で繋がって居る感じで、どす黒い雲が凄い早さで雪
崩を打つ様に流れています。時々その真っ黒い雲の中に雷鳴が飛び散
り、『ズシーン』と言う音が伝わって来る感じがしました。

その頃は『なむあみだぶつ!』などと口で唱えていました。威勢の良
かったお兄さんがまるで、震えながらユーカリの木にしがみ付いてい
る感じで、まるで恥じも外聞も無く、ひたすら嵐が過ぎるのを祈って
いました。

なんと自然の偉大さ、すさまじさ、強烈さに、ただただ恐れ入ってい
ました。おそらく近くで『ドーン!』と落雷でもあり、樹上の木が
『バリバリ~』などと音を立てていたら、これまさに、おしっこでも
漏らす事になったと感じていました。

その頃は喉はカラカラ、緊張で膀胱が破裂しそうになっても、出るも
のも出ない状態で、少しショック状態でいました。生まれて初めての
体験で一人で来た事がますます悔やまれました。誰かと来ていたら
少しは心強い感じだったと思いましたが、時はすでに嵐の真っ最中で、

あるのは口の中で、もごもごとつぶやく『なむあみだぶつ!』のみで、
生きた心地がしませんでした。そうしている内に遠くで雲が切れ、少
しどす黒い雲がちぎれて行き、僅かですが空が見え雷鳴もダンダンと
遠くに鳴る様に聞えまして、どうやら峠を越した感じがしました。

近くの牛達の群れも、何か鳴き声が変わり、落ちついて来た感じがし
ます。私もホッとして、心の緊張が取れ少し安心したのか、さっきま
で堪えていた物が急に緊急信号をだして来ました。

しがみついていたユーカリの木根に、それこそ『ジョー!』と激しい
音を立てて出す物を出してしまいました。やれやれと言う感じが心か
ら湧いて来て、ホッとした気分も出て来ました。
その時に地平線のかなたに光りが輝き、七色の虹が出て居るのを見付
けて、その神々しい輝きに何か神秘な感じを受けた思いがします。

自然の雄大さ、凄さ、神々しさ、神秘さを今でも忘れることは出来ま
せん。

2012年1月30日月曜日

私の還暦過去帳(153)

昔の事です、アメリカの感謝祭のイブで、先ほど娘も帰宅して
愛犬も付いて来て、急に賑やかになりました。
犬はチワワの小型犬ですから部屋で遊んでいますが、いっも

の犬の玩具も沢山私の家に置いて有りますので、それを引
っ張り出して来て、まるで子供の様に遊んでいますので、孫
が来たみたいです。ワイフも明日の感謝祭の用意で今年も

七面鳥(ターキー)とハニーベイクのハムを買って来てあります
が一番小さな塊と言っても、ターキーが約5キロぐらいあり、
ハムが2キロ半ぐらいです、それが一番小さなサイズとは驚き
です。

家族の多い人は10キロも有るターキーを焼くと言う事です
から大変です、かなりの時間が掛ります。まるで日本の正月
と言う感じです。ご馳走を作り家族全員が集まり、一日かけ

て飲み、食べ、大いに語り合います、大抵は一週間はお休
みする人が居ます。当地の正月は元旦の一日のみお休みで
、2日からは普通の仕事となります。ですから感謝祭は米国

の正月の感じがします、今日の水曜日だけで1100万の人
が交機関を利用して家族のもとに帰省すると言う事ですから
まさに日本の正月の里帰りと言う感じがします。

これまでアメリカに来て30年も同じ感じで、感謝祭を祝って
来ましたが、それぞれの年で感謝祭を祝ったテーブルでの育
ち行く子供達の様子を思い出します。今年の感謝祭は次男が不

在となり12月29日にインドから帰宅したら、正月を次男を
入れて家族全員で祝う予定で居ます。明日は午後から長男も
帰宅する事になっていますので、テーブルを飾り祝う事にして

います。今日、午後の高速道路もガラガラに空いていて、明日
の木曜日の感謝祭を家族で祝うために皆が早めに帰宅した様
です、今夜は少しゆっくりして明日の用意もする予定でいます。

長い30年でしたが、今、思うとアッと言う感じの時間でした。
その年、その年でテーブルを飾るご馳走も少しは変わりますが、
我が家ではターキーとハムは必ず出す事にしています。飲み物

はワインとビールが私の家では必ず出す飲み物となっています。
28年も前に、私が仕事をしていた集合住宅に住んで居たイタリア
人の老人が、私が修理などを手助けしていたお礼に、1977年

物のワインを感謝祭で飲みなさいとプレゼントしてくれましたが、今
だに戸棚にしまいこんでいます、私が引退する時に開け様と思って
居ますが、かなり高級品です、彼のイタリア故郷の一番美味しい

ワインと話していましたが、余り温度管理もして居ない戸棚ですか
ら中身は保障は有りません。誰かが『それでは中身はお酢になって
いるか、腐っているよ~!』と脅かしてくれましたが、飲むと言うより

記念品でプレゼントしてくれた、仲良しだった老人も今ではこの世に
居なく、思い出の品として飾りに戸棚に入れています。そのワインの
瓶を見るたびに、彼がバスで降りて来て、手提げカバンからパンや

故郷のチーズやワインなど、色々なイタリアからの輸入品を見せて、
説明してくれた穏やかな語り口を思い出します、エチオピア遠征に行
ったと話していたのを覚えていますが、アフリカで暑い砂漠を小銃を

肩に行軍して水に苦労したと話して、その時飲んだイタリアのミネラル
水の瓶がこれだと、袋からわざわざ出して見せてくれた記憶が有りま
す。そして、彼が28年も前に家族で感謝祭を祝うと言って、献立を
丹念に教えてくれた事を、今では懐かしい思い出として覚えています。

2012年1月29日日曜日

私の還暦過去帳(152)

私も運転を始めてからかなりの年月になります、あるとあらゆる
車を運転しました。しかし運転で根気と体力と集中力の一番多く
要るのはトラックの長距離運転です、アルゼンチンで農業をして

いた時代に良く、ブエノス・アイレスまで野菜の荷物満載で走り
ました。約12トンは積載していますので、当時の北のボリビアま
で行く道路はかなり酷い舗装と一部は、ジャリ道のデコボコ道で

40キロぐらいしか最大スピードを出せない所も有りました。
野菜の生鮮食料品を運びますので、なにぶんスピードを要求され
大型トラックでも当時のトレラー型の連結して走るトラックは

積載量はかなり有りますが、途中のスピードはかなり遅くなり
ますので、敬遠されていました。荷台一つのトラックはかなり
スピードを出して走りますので、時間の競争では三日間近く走る

長距離走行では最終的には5時間から、半日ぐらいの時間的差が
出てしまいます。鮮度は落ち、ブエノスの競りの時間に間に合わ
ないと次ぎの日の市場の競りに廻されて、値段もグッと下がり
ますので、運行時間短縮は重要でした。

特にナスなどは時間が遅れると、しぼんで張りの有るナスの光沢
が無くなり、まったく売れない時が有りました。
それで途中で収穫を中止して畑で捨ててしまった時も有りました。

オレンジやバナナなどは日保ちがしてそれに合わせて収穫します
ので安心でしたが、トマトはいつも時間との戦いで、収穫する
時はトマトの真中が少し赤くなった時に収穫します、それから

三日して、ブエノスの市場で競りに掛けられる時に全体的に赤く
熟れているのが最高の値段が出るので、同じ一年間の労働として
働く報酬がタイミングが合わないと、一瞬で半分の値段しかなら
無い時がありました。

私が農業をしていた農場はブエノスから丁度、1658Kmの
標識が町の入り口に有りましたので、そこから12Kmぐらい
ジャングルに入った所の河岸で生産していました。かなり

の距離を走る事になります、荷物満載で走り始めるタイミング
はかなり重要ですから、時には満載にならなくても走り始める
時が有りました。特にブエノスなどでトマトなどが品薄で値段

が高騰した時は少なくても値段がカバーして採算が合いますので
飛ばして行きました。二人で交替で運転して行きます、夜は昔の
トラックですからラジオだけで、それも短波ラジオがない長波の

ローカルしか聞えないラジオでしたので夜になると雑音だけで
ジー!と言う音しか聞こえなくて切っていました。途中のジャン
グル地帯を抜ける時までは、道に夜タカの鳥が道路で轢かれた

動物などの死骸を目当てに居るのには最初は恐ろしくて、道路の
黒いアスファルトの中がランランと輝いているのでドキリとして
ブレーキを踏んだ事が何度かありました。日本では夜タカと言う

のは昔から道端で、通行人を目当てに春を引く女性の意味でした
がアルゼンチンの奥地のジャングル地帯では本当の鳥でした。
夜も飛べる鳥はフクロウと夜タカだけではないかと思います。

最初はヘッドライトに飛ぶ影を見て、コウモリかと思っていたら
なんと夜タカでした。真夜中の擦れ違うトラックや車も無い道で
道路の真中で光輝く点が有ればそれは夜タカに間違い無い光で

したが、慣れるまでは気持ちが悪くて、不気味な感じがしていま
した。相棒の運転手は後ろのベッドに寝ていて、一人ハンドル
を握る寂しい時間帯に、真夜中の暗黒の夜に吸い込まれる恐怖が
有りました。

ジャングルの木陰の闇にチラチラと輝く光があると木の枝と混じ
り合い揺れている錯覚を覚えて何か人魂の光かと感じて、心臓が
『ドキドキーー!』と高鳴り、グッとツバを飲みこんで息を凝ら
して走る抜けた覚えが有ります。

その時は近くで、交通事故で亡くなった人の十字架が立てて有り、
その思いが心に有りまして、ポツン!と夜中の運転で心侘しかっ
たかもしれません、サンチャーゴエステーロの砂漠地帯では

真夜中に滅多に擦れ違うトラックも無い時間帯にヘッドライトを
見つけると嬉しくて、何度もかなり前からライトを点滅して、
窓を開けスピードを落して、轟音の中に大声で挨拶して擦れ違う

嬉しさは、眠気も吹き飛ぶ感じでいつも楽しみでした。
時々休憩所などで再開して握手して、情報交換などをして走って
いましたが、アメリカの高速道路で18輪の超大型トラックの

風圧を感じる重量感を自分の車に感じて走る時代の変遷が、私の
思い出が過去に過ぎ去って行く感じがします。時にはトレラーが
三両も連結して貨物列車のごとく走る姿を見るとなおさらです

2012年1月28日土曜日

私の還暦過去帳(151)

今日の思い出語りは温泉のお話です。
それと言うのも先週の土曜日の朝からSanLuis Obispoという、
カリフォルニアでもだいぶ古くから開かれた温泉に娘夫婦に
招待されて行ったからです。

ちょうど娘の誕生日でしたので、そこまで約400Km離れていま
したが、お互いにそこで落ち合いまして、秋の温泉旅行を楽しむ
事になりました。娘夫妻と4名で土曜日の夜は誕生日パーテイを

楽しんで温泉につかり、私にしては30年以上も温泉などは縁が
なくて、期待して出掛けて行きました。娘が住んで居る所からは
2時間もかかりませんので、ちょくちょくと出掛けて行くようで

すが、娘は日本を訪問した時に味わった温泉の魅力を覚えていた
様で、近所に温泉を見つけると、喜んで訪ねて行った様です。
そんな事で、私もワイフも久しぶりの秋真っ盛り、紅葉の森の
中に有る温泉に期待して行きました。

土曜日の朝、9時に家を出ました。それからワイフの愛車で飛ば
して行きましたが、16年前の日本製の車です、ポンコツでは有
りません、メカニックが居ます、それは私ですが、いっも丁寧に

手入れしていますので、現在は16万5千キロは走っていますが
驚くなかれ、平均時速は135~140km/hで走って行きま
した。途中でトイレに立ち寄り10分間の休憩で、目的のホテル
に到着したのが12時半でした。

娘が驚いていましたが、歳は取ってもまだ運転は現役ですから、
慣れたものです。車も歳ですが電気関係は全部新品の部品ですか
ら安心して飛ばせました。5千キロでオイル交換しますが、

余りオイルも減る事も有りません、エンジンも元気で動いてくれ
ます。普段はワイフが運転していますので、ママ・タクシーで
ピカピカです。ホテルに到着して娘夫婦とランチを近所のレスト
ランで済ませまして、部屋に帰るとさっそくに温泉にドボン~!
と言う事にしました。

日本の様に岩ブロとかは有りませんので、ホテルの部屋のテラス
が大きく、8畳は有るかと思うくらいでしたが、そこにタブが置い
て有りまして、そこに温泉を溜めて入るのです、温泉をひねる

と硫黄臭い匂いのお湯がドバー!とほとぼり出て来てアッと言う
間にタブがお湯で一杯になりました。私と娘夫妻の部屋は二階
で隣り合わせでしたが、温泉は別に部屋ごとにタブが有りまして
各自のホット・タブで楽しむ事になりました。

最初はおそるおそると山の紅葉を見ながら首までお湯に浸かり
一瞬、『あー!』と溜め息ともつかぬ感激の声を出しました。
二階でテラスの外です、空気は澄み切って、すぐ側に巨木が有り、

そこの木陰から漏れる秋の日差しに紅葉が輝き、後は無言で
ワイフとジェット噴射の温泉を浴びながら湯船に寝ていました。
目をつぶりポカポカと暖かい温泉に浸っていると、昔の日本の

温泉の思い出や、アルゼンチンで40年も前に農業をしていた時代
に私が仕事をしていた農場のオーナーの奥さんがあだ名は『鬼婆』
と言われていました様にキツイ人でしたが、フフイ州の温泉に

泊りがけで出かけて帰って来たら、『ああー!日本を思い出した
郷里に帰って温泉に浸かり、美味しい刺身と寿司を食べたい』
と話して少し、しんみりとして落ち込んでいました。

日本人の胸の内深くに、どこかに温泉の暖かいお湯に浸り、心ま
で温まり満足して過ごした過去を覚えているからと思います。
パラグワイの隣り、アルゼンチンのミッショネス州で会った

老人が日本を出て一度も帰国する事なく、アルゼンチンに骨を埋
める何ヶ月か前に会った時、『一度、日本の温泉にゆっくりと入
りたいね~!』と話していた事を覚えています。

その時、私も温泉のお湯に浸りながら、心の幸せを噛み締めて、
目をつぶりながら、昔の事をドーッ!と思い出していました。
私も南米の暑い夏の日に、眠られぬ夜に思い出した事は日本の冬

に木枯らしが吹く中で、野天風呂の温泉の中でポカポカとゆだっ
て冷たいビールを飲んだ思いがこみ上げて来たのを覚えています。
温泉に浸かり、目をつぶり、メリケンの温泉で過去を思うなどと

40年前には想像もしなかった事が、今、自分で体験してなにか
不思議な感じでした。その後に少し昼寝をして、その夜は近所の
ホテルから10分ぐらいの所にある、剣(つるぎ)レストランで、
これまた美味しい日本食を食べ、寿司をつまんだ事も幸せでした。

   やれ涼し秋風まじりの寒風に
         紅葉吹雪のメリケン晴れ

2012年1月27日金曜日

私の還暦過去帳(150)

私が近頃ふと思う事が有ります。昔の事ですが、かれこれ50年
も前になると思います。その頃は今のように物質文明に押し流さ
れると言う事もなく、子供心に未来と夢を持った感じがします。

現在では五人に一人は、定職に就かずアルバイト的な時間給で、
専門的な技術を身に付ける事もなく、無意味な時間を過ごして
いる感じの若者が多く居ると言う事を、見聞きして、考えさせ
られる事が有ります。

私の今まで歩いた人生の道筋から思うとーー!

時間とは二度と戻っては来ない人生の大切な時、
時間とは自分に神から与えられた、未来の空間、
時間とは己が安住の地を探す大切な夢の空間、
時間とは金でも買えない、新しく作る事が出来ない空間、
時間とは己が産まれて死ぬまでの一瞬の宇宙の空間、
時間とは自分から追いかけて夢にして手にする空間、
時間とは日本になく異国の灼熱の砂漠にあるかも知れない空間、
時間とは異国に夢として転がっているかもしれない空間、

私が農場でジャングルを開拓するのに、インジオと森に入り、
巨木を相手に切り倒し、伐採の木の根を掘り起こし、ジャングル
にポッカリと開いた空間から夜に入り、昼間の激しい労働の

休息に身体休めて、夜空を見上げ、満天の星空を見上げていたら、
廻りのジャングルの梢の先に、人工衛星が流れ星の様に動いてい
るのを見て、当時、最高レベルの技術の結晶が飛んでいる感じが
しました。

しかし、ジャングルでは古代からの、そのままでの人力で原始林
に立ち向かい、畑に変えて行く根気の労働で、自分と言うその時
点の人生を考えていました。電気もガスも水道も、近くには水も

無いような生活で自分と言う人生を考え、鍛え、未来を考えまし
たが、その考えると言う過程で心が強く、自己鍛錬となった感じ
がしました。大陸性の夜、冷え込む気候で、焚き火の側で火酒を

コップに握りしめて、宇宙まで続くような暗黒の空に吸い込まれ
るような恐怖を感じながら、ポツンと考えていました。
その時、私が心に感じた詩が有ります。
 『灰とダイヤモンド』です。
燃え盛る炎が燃えあがる松明のごとく君から吹き出る時、
君の身は自由なれど、それを知らずー!
あるいは君の手から全て失われたともそれを知らずー!

私は詩の言葉を噛み締めて、自分が己の人生の時間を原始林の
ジャングルで試している修練を感じ、二度と帰ること無い空間に
居ると思いました。

私は今までの体験と過去の遍歴と経験から、
燃え盛る炎が自分から吹き出る時、身を焦がす灼熱の思いに身を
投じ、燃え尽きて青春のダイアモンドを手にしたと思います。

人生一度の長い道ですが、時間と言う空間は一瞬です。
貴方も人生の迷いがあったなら、一度、異国の太陽に照らされ
そこの水を飲み、食べ物を貪り、そこの大地をさまよい、自分の

今までの生きざまを振り返り、反省して見詰め、過去を捨て、
未来を掴む事を目指して歩いてみようではありませんか?
迷いと、混迷と、未来を欠いた心の人は是非とも旅に出てみて
下さいと私は言いたい。
昔から、『犬も歩けば棒に当たるー!』と、人間では、まして
若者で有れば未来と言う輝きの人生が当たると思います。

2012年1月26日木曜日

私の還暦過去帳(149)

私も外国生活が長くなりましたが、食べる物は日本食です、これ
ばかりは変える事は出来ません。日本に帰国してサンフランシス
コの我が家に帰宅すると、ホットして安らぎを感じます。

ここが我が家と感じ、日本ではお客様と言う感じで、もう安住
の土地とは思わなくなりました。ワイフとの二人の墓も造り、
産まれてすぐに早産で死んだ我が子が今はそこで眠っています。

一月に一度訪ねていくのが決まりです、カリフォルニアの青空の
下で、いつか私もこの土地に骨を埋める覚悟での生活ですが、
こと食生活だけはいかに長く住んでも、変える事は有りません。

自己の本能としてDNAに焼きついた記憶は、死ぬまで変わる
ことはないと感じます。私が46年前にアルゼンチンのブエノス
の町で知合った日系二世が、彼はそこで生まれて育ったのですが

ステーキとサラダそしてパンの食事でしたが、最後に冷蔵庫から
御飯を出してくると、私にも勧めて茶碗に御飯を入れて、熱い
日本茶をかけると漬物と佃煮を出して、『お茶漬けだよー!』と
言って食べさせてくれました。

こればかりは親の遺伝だからと言って笑っていましたが、戦前
の移住者は両親が完全な日本食で子供を育てた人が多くて、食事
にこと関しては、『日本食でなくては一日もダメだー!』と何度

も聞いた事が有ります。私の近所に住んでいるハワイからのご主
人は三世、奥さんは二世の方ですが食事は日本食で生活していま
す、私が作る有機栽培の日本のキューリなどをあげると喜んで

漬物やキユーリもみをして、シソの葉を入れて喜んで食べている
のを知っています。日本人が稲作民族としての長い民族的生活
が体の遺伝子まで染みついて、その事をそう簡単には変えること

は出来ないと感じます。アメリカに50年前に白人と結婚して
ながきに住み付いている日本人のご婦人が、やはりご主人が不在
の時や、友達と外で外食の時は必ず日本食を選び、食べていると

話していましたが、日本食を口に入れるという、心やすらかにな
る行為が、今ままでカリフォルニアに住んで、色々なことを我慢
できた一番の大きな要因だったと聞いた事が有ります。

私が南米に移住して、田舎のボリビア国境の辺ぴな田舎町で
農業をしていて、時々思い出して食べたくなる物は、味噌汁と
沢庵。熱い天ぷらソバでした。味噌汁と沢庵は難しいことではな

く材料さえ手に入れば食べる事は簡単でしたが、天ぷらソバと
言うのは、そばつゆの出汁の効いたあの香りと、しゃきしゃき
と歯ごたえの有る、カラリと揚がった天ぷらのエビがなくては

食べた気になれません、時々思い出しては祖国日本で食べた
ソバを思い出し、少しホームシックに掛っていました。
いつか日本に帰国したら特大の天ぷらそばを食べたいと思って
いました。

私が日本に帰国してその願望が実現した時は、大盛りで、上に
載せる天ぷらは二人前と特別注文で、出てきたソバを見て感激
したのを覚えています、天ぷらはソバの上に載りきれず、一人
前は別に盛りつけて有りました。

私はその時は、お茶碗に一杯の御飯をもらい、心ゆくまで食べ
ました。今でもその時の満足感を覚えています。幸せな感じで
全てを忘れて、むさぼる様に食べた満足感は人生の幸せとも
通じるものが有ると心感じました。

2012年1月25日水曜日

私の還暦過去帳(148)

私もカリフォルニアに37年もながきに住んで、色々な方
に出会いました。アメリカには145カ国からの移民が住
んでいると言うことで、まさに人種のルツボと言う感じです。

つい先日もアパートの管理で来ていたら、そこを下見に来
たかなりの年齢のご婦人でしたが、案内してから少し話す
と驚いた事に、ロシア革命で満州に両親が逃げて来て、

そこで育ち日本に渡り東京に住んで、戦後日本に進駐して
来たアメリカ兵と結婚して、当地アメリカの土を踏んで、
住みついてしまったと話していました。

ロシア語、日本語、英語の三カ国を上手に話して、これ
まで歩いて来た人生の道程を知ることが出来ました。
私が仕事で出会った人で忘れられない人が居ます。
レントハウスの修理の立会いで管理している貸家に行った
時でした。

エアコンのユニットの交換で助手と来て仕事をしていました。
あらかた終り助手はランチを食べに出て、そのまま次ぎの
仕事に行くと言って居なくなり、主人は配線などの取り付け
と、点検をしていましたが、ランチの時間となり裏庭で一緒
にランチを食べ始めました。

彼はかなりの年配で、お互いに同じ年格好でしたので、仲良
く話し始めました。彼は第二次戦争中は海兵隊で、南太平洋
諸島を転戦したと話してくれ、彼がどうしても忘れる事が出来
ない話しを、お前が日本人だからと言って話してくれました。

彼は戦争が激しくなり徴兵で海兵隊に入隊する事になり、
カリフォルニアの当時、日本人が沢山農業で住んで居た
スタクトンの町に居住していた様でした。学校では日本人
がクラスに沢山居たと言っていましたが、戦争が始まっても

急には日本人を憎む事などは出来なかったそうです。
徴兵の検査も合格していよいよ入隊する日に、前の日に壮行会
を開いてくれて、賑やかなパーテイで夜を明かしたと言ってい
ました。

当日両親が戸口で見送りサクラメントの集合場所に行く
時に両親から『必ず生きて帰って来い』とせん別の言葉を
貰い、涙ぐんでいたら母親がハンカチを取り出して、

『さあ!これを持って行きなさい』と手に握らせてくれたそう
です。入隊して訓練を受けて戦地に出陣する時に、母親から貰っ
たハンカチを真鍮製のタバコ入れに小さく折りたたんで入れ、

中には家族の写真も二枚入れていたと言っていました。
密閉出来るタバコ入れは薄くて頑丈で汗にも汚れず、シャツ
の胸ポケットに入れてもかさばらず、時々蓋を開けると、母親

の香水の香りに混じり懐かしい、いつもつけていた化粧のほの
かな香りがして、匂ったと話していました。タバコは吸わなか
つたのですが、タバコ入れは必ず肌身離さず持ち歩いていたと
言っていました。

戦場でタバコ入れを開ける時は、心和む安らかな時間と感じて
いた様です。ある日、戦場の陣地で日本軍の襲撃を受けて、激
しい戦いの後、爆風に飛ばされて陣地の塹壕の中で倒れて居た
様でした。

彼は気が付くと近くに同じ様に日本兵が倒れ、虫の息で横
たわった居た様です、彼のすぐ側で若い日本人兵士の最後を
見詰めていたと言っていました。若い日本兵は乾いた唇を動か
して血だらけの胸で、荒い呼吸をしていたと言っていましたが、

彼が見詰めていると、同じスタクトンの学校に居た日本人学友
とそっくりで、哀れと空しさと、心が詰まって涙が滲んだと話
してくれました。横たわる日本兵の胸も動かなくなり、ただ微

かに唇が動き水を欲しがっている感じで、彼は腰の水筒から飲
まそうとすると全てこぼれ落ち、彼はタバコ入れからハンカチ
を出して水に浸して口に含ませたと言っていました。すると微

かな香水と化粧の香りが硝煙の匂いを吹き飛ばす感じで倒れて
いる塹壕の中に広がり、今まで微かに唇を動かしていた若い
日本兵が聞き取れないような声で『お・か・あ・ーーさん!』
とつぶやいたそうです、

彼もその日本語の意味は知っていたので見ていると、今まで死ん
だ様にしていた若い日本兵が微かに両手を動かし彼の手を掴み、
閉じられたまぶたが微かに開いて、もう一度、今度ははっきり

と聞える声で『おかあさん~! おかあさん~!』と二度もつ
ぶやき、力を入れて彼の手を握り、ハンカチを唇に噛んで微か
な笑顔で彼の手の中で息が絶えたと話してくれました。

彼はそこまで話すと食べ掛けのサンドイッチをランチボックス
に戻し、紙ナプキンを出して目頭を押さえていました。彼は別
れの時に私の手を握り、握手して、『戦争など、人間はどうし
て起こすのだろう、ただ人の殺し合いをするだけなのに、むな
しい事だ、私はあの瞬間から反戦主義者となった』と話してく
れました

2012年1月24日火曜日

私の還暦過去帳(147)

私がアメリカに住み始めてかれこれ36年となります、南米に
いた時は独身で気楽なものでしたが、カリフォルニアに居をか
まえて家族をやしない、子供の教育をして生活をする事は習慣

や言葉の不自由も有りましたが、気候が良く、子供達がのびのび
と成長するのが一番の楽しみでした。日本にはない自由な教育
です、型にはまり込ませるやり方ではなく、その子の個性や長所
を伸ばす教育にアメリカの精神を感じました。

自分で自己を主張して、意見を述べる事をしないと学校のクラス
でも取り残される感じがする様です、三人の子供達もスピーチ
のクラスで話し、自分の意見を皆の前で話す事を学び、仲間の

友人やクラスの生徒の前で存在感をアッピールして個性を身に付
けて、育て、自分の成長につれて自分の心と自己精神年齢をも
育てて訓練している感じが私には受けていました。

私自身の日本での学校教育での体験が、そう判断させたのかも知
れません、生きるという事が、日本とアメリカでの違いとなる
大きな差がそこで出てくると感じました。

日本では同じ型にはまり、同じ流行を追い、格好までが一目で
観光に来た日本人を見分けられる感じがします。それはしかたが
ない事ですが、そのような目で見ること自体がアメリカに長く

住んで、対象物を見る目が変わったからと感じます。私も今では
日本に行くと違和感を感じる時が有ります、生活に実感として
入り込む色々な事から感じます。私がこれまで沢山の海外で

居住する日本人を見て来て、住む国でまた人の考えの価値判断
が変わり、その対象とする見方が変わる事に戸惑う事があります、
日本では『ところ変われば、品変わる、』ということわざで、

住む所が変わると、住む人もそれに合わせて変化すると感じまし
たが、それも日本語を話す人と話さない人で、また大きな差があ
ると感じます。私の子供達も兄弟同士では話す言葉は英語で、

親を含めた家族同士では日本語と言う変化が有ります。これも
一つは生活からくる変化と感じます。今までじっと多くの日本人
の生活を見て来ましたが、中には戦前の日本人で70年近くも、

アメリカに住んで、今日本に住んで居る日本人以上の大和魂を
持つ一世の日本人を見ると、何か偉大な感じがします。
彼等が『今の日本人はおかしな言葉を話して、ヨ~!と長く

言葉尻を伸ばすのには驚いた』と話していた事を聞いて、私も
笑ったことがありますが、これが現実の差だと感じました。
時代は刻々と変化して変わります、私もそれに負けずに追いつい
ていかなければならない事と感じています。

2012年1月23日月曜日

私の還暦過去帳(146)

私が仕事をしていたアルゼンチンとボリビア国境の農場は、かな
り暑い所でした。かれこれ今年で47年前になります、当時は
クラーなどは数えるほどしか個人では所持していません、特に

私が住んでいたエンバルカションの町は貧しい田舎町でした。
車で通過するのに5分もかかる事は有りませんでした。
北回帰線から100キロは内に入っていたので、夏はかなり暑さ

が厳しい所でしたので、午後一時過ぎると農閑期などは死んだ様
に昼寝をしていました。トラックも余り通過する事なく、昼間は
小さな町がゴースト・タウンの感じがしていました。

今でも思い出します、町の中を通過する、ボリビアに上る国道が
車一つ通過する事なく静まり返り、昼寝の時間は商店も店を閉め
未舗装のジャリ道が風に吹かれて埃が舞い、どこか西部劇の映画

に出てくる感じの町並みと一致して、どこと無く国境の町という
感じでした。商店は夕方涼しくなって開き、夜の9時過ぎまで
開いていました。涼しくなると、どこからか人が出て来て少し賑

やかな感じとなり、バーも開いて冷たいビールも飲むことが出来
ました。私が季節的に農閑期も過ぎ、そろそろ人手が要ると感じ
ていた時です、町の鉄道駅の近くのレストラン兼バーという

感じの店の前テーブルで座って、生ハムのサンドイッチとビール
を飲んでいました。その時、近くの木の下で数人のボリビアから
来た出稼ぎの労務者が、仕事を探している様でした。

肩に担いだ毛布に、自分の全ての財産のわずかな持ち物をまとめ
て入れていますのでまるで職探しのサインをしている感じでした。
その中の若い一人が、遠慮がちに近寄ってくると、

『仕事が欲しいのですが、何か仕事は有りませんか』と聞いてき
ました。真面目そうな若い青年です、『トマトの栽培だが経験は
あるのか、』と聞きました。『請負で生育の管理もした事がある』

と答えたので、いくつかの質問にも全部答えて、かなり経験があ
りそうな感じでしたから、農場に連れて帰ることにしました。
植付けの準備を始めていましたので、即戦力のある経験者を優遇
していました。

しばらく待たせることになるので、サンドイッチとビールを買っ
てやり、街角に駐車しているトラックで待つ様に指示してその
夜、農場に連れて帰りましたが、翌日から良く仕事をしてくれて、

自分から進んで仕事をしてくれ、すぐにかなりの広さのトマト畑
の管理を請け負うことにさせました。良く仕事をすればかなりの
収入になります、私は良いボリビア人の労務者を雇ったと感じて

いましたが、彼の生活ぶりは爪に火を灯すと言う感じで、節約し
て金を貯めていましたので、感心して見ていました。
労務者の小屋で自炊をして、酒やタバコは一切手を出す事なく、

休みの日は河で魚釣して、ナマズなどは干物にしていました。
ボリビアの労務者が良くコカの葉を噛んで居ますが、彼はその様
なことに手を出す事なく、何しろひたすらに稼いだ金を貯めてい
ましたので、何か訳があると感じていました。

私が町に肥料を取りに行った時に、トラックの荷降ろしの助士と
して連れて行き、帰りのトラックの中で、何気なく聞きました。
すると、『母親が病気でその手術の費用がかかるので、頑張って
いる』と話してくれました。

急いで稼いで帰らないと、手術に間に合わないと話してくれ、
その真剣な口ぶりが、今でも忘れることは出来ません。
彼は良く仕事をしてくれ、若いながらトマト管理の責任者として
も良いと感じていました。

ある日、彼の知合いが農場を訪ねて来て、母親の様態が急変して
すぐに帰郷する様に知らせを持って来ました。
彼は私のことろに来ると、今までの労賃を精算してくれる様に

頼みましたので、途中で襲われて金を強奪されない様に高額紙幣
にして靴の中に隠す様にして、わずかな金額を古いぶよぶよの
小額紙幣にして見せ金にしてやりました。過去に幾度も強盗に

襲われて身包み盗られた、ボリビアからの労務者を知っていたか
らでした。翌朝、町に出かける用事で、彼も連れて乗せて駅まで
行きましたがしかし、ボリビアまで行く列車の3等は夜は危険で

私も駅に行き、これまで彼がよく仕事をしてくれたお返しに2等
の切符を買ってやり、いくらかの食料も持たせました。
彼は何度も感謝して、私の手を握り、彼が暇な時に作った竹笛を
プレゼントしてくれました。

私が欲しかった物で、私も貰い物のナイフでしたが、細身の握り
が鹿の角で出来た折りたたみの大型ナイフをプレゼントしました。
ベルトに差していても目立たないナイフでした。

その日はあまりボリビアに上る汽車は込んではいませんでしたが、
3等はいつも出稼ぎの労務者が溢れ、木のベンチは固くて長旅に
は辛い乗車となると思いました。彼は2等車両の窓から顔を出し

て見えなくなるまで手を振っていましたが、彼と別れてしばらく
して、町の郵便局の私書箱に手紙が来ていました。
彼の手紙で『汽車がボリビア領内に入った所で、列車の夜の便所

に出た所を、デッキで強盗に襲われ、用心にナイフの刃を開い
てズボンのベルトに差していたので、それを振り回して助かった』
と書いて有り、母親も手術をして今は様態も快方に向かっている
と便りに知らせが有りました。

私は駅の近くの行き付けの、レストラン兼バーのテーブルで読み
ながら、人生の僅かな時間にめぐり会いい、別れて行った男の平凡
な当時の成り行きを思い、『袖すり合うのも多少の縁』で人生の
奇遇さを感じていました。

2012年1月22日日曜日

私の還暦過去帳(145)

私が子供の頃でした。九州の福岡県に住んで居ましたが、炭坑町
で、その頃はだいぶ賑やかに栄えていました。

近所に南方から復員して来た、若い青年がいましたが、未婚で
独身の気楽くさから、よく子供達の世話をして草野球の監督な
どをしてくれました。

本業はプロの競輪の選手でしたが、競技大会が無い時はいつも
子供を集めて、近所の小学校の校庭で草野球の試合を監督して
終ってからは、色々な野球の話しや、戦場での体験を聞かせて
くれました。

ニユーギニア戦線で戦って、最後は餓死寸前で生き残り帰国が
出来たと話してくれました。当時は小学生の低学年でしたが
戦災で校舎が焼けて、二部授業でしたので、午後から学校に
行く事もありました。

特に私の住んで居た炭坑町は景気が良くて、沢山の人が仕事で
町に来ていましたのでその頃は、子供が溢れるくらい学校の
クラスで勉強していまして、大変に賑やかな時代でした。

二部授業でしたが、1クラスが55名ぐらいも居た事を覚えて
います、ですから草野球などは、選手がいくらでも居ました。
監督をしていた青年が、しばらく姿を見せなくてどうしている

かと心配していたら、ひょっこりと来て、草野球が終ってから
『僕は三男だから、結婚してお嫁さんの家族と同伴でブラジル
に移住する事になった。』と話してくれました。

『それまでは草野球の監督は続けるから』と話して面倒を見て
くれ、楽しい試合をする事が出来ました。しかし、いよいよ
ブラジルに移住して、神戸から移民船での出航が決まった時に、

練習試合が終ってから、焼きイモと今川焼を買ってくれ、ラムネ
を飲みながら子供達に話してくれた物語が有ります。
それはニユーギニア戦線で撤退して海岸までくる時に、あと僅か

な距離まで来た時には、すべての食料は尽き、食べる物は雑草と
僅かな熱帯果樹だけで、やっとジャングルを歩いていたと言う
事でした。小部隊を率いていた隊長がマラリアと負傷していた

足が化膿して、一歩も歩けなくなった時に下士官の軍曹を呼んで
『俺はもう余り生きられないから、死んだら俺の軍刀で遺体を切
り、お前達が胃の中に入れて日本まで持ち返ってくれ』と命令を

して、軍曹に軍刀を渡して、『良いかーー!これは隊長の命令だ
誰も拒むことはならぬ、お前達は生きろ!生きて日本に帰るのだ、
そして、あの小高い丘を超えれば、おそらくは海岸にたどり着け
るからーー!』と言うと『この中で誰か生きて日本に帰国したら

俺の家族に会って最後を話してくれ、そして、俺の墓を造ってく
れ』と言うと、それからしばらくして息を引き取ったと言うこと
です、軍曹は命令を実行して、僅かに生き残っている兵隊に

飯盒二つ分を食料として、後は丁寧に埋葬していつの日か遺骨
を探せる様に石をのせ、最後の丘を越えて海岸にたどり着いた
と言うことです。彼はその最後を話して居る時は泣いていまし

たが、なぜブラジルに移住する前に、子供達にその事を話した
かは、当時はまったく分りませんでした。しかし成人して色々な
本も読んで、ニユーギニアの戦時情勢も分り、彼が子供達に残し

た悲惨な戦場の物語を理解することが出来ました。今ではその話
しを聞いていて良かったと感じます。またその事を話すのには、
どのくらいの勇気が要ったかと今では感じます。

戦争の悲惨さと無残さを、これからの子供に話しておこうと考え
た彼の心に今では感謝しています。

2012年1月20日金曜日

私の還暦過去帳(144)

私がだいぶ前に、かれこれ30年ほどなります。契約管理して
いたアメリカで言う、コンデミニアムの集合住宅で仕事をして
いた時でした。そこの集合住宅管理は依託されていましたので

殆ど毎日の様に見回りに来て仕事をしていまして、よく内部の
住人達の事情も分る様になっていました。誰か近所の金持ちが
かなり投資で買って、レントハウスとして貸し出している家も
ありました。

私はどのユニットがレントハウスかも覚えて、仕事をしていま
したがある時、東洋人の女性が若い白人の男と入居して生活を
はじめた事を知り、興味が有りましたので注意していました。

それからしばらくして、集合住宅の前にあるバス停に若い東洋人
の15~6歳の女性が降りてきました。近くで仕事をしていた
私に住所を書いた紙を見せて、場所を聞きましたので指差して
教えました。

私は一瞬、あの東洋人の女性の家とすぐに感じました。
しばらくしてプールハウスの清掃を見ての帰りに、先ほどの彼女
が、とぼとぼと歩いてバス停に戻る所でした。何か落ち込んで

いる感じで、容貌は日系人の感じがしますが、髪が少しちじれ毛
で黒人の容貌も有り、しかし何かおとなしい感じの女性でした。
彼女は私を見ると、『トイレに行きたいので、プールハウスの
入り口のカギを貸して下さい』と訪ねて来ました。

私は入り口のカギを貸すと、しばらくして彼女が戻って来て、
『ママは居なかったーー!』と話すと今度は日本語で『日本人
ですか?』と聞いてきました。彼女は少し話せると言っていま
したが、カタコトの日本語でした。

バスは昼間は一時間に一台ぐらいしか通っていません、私もすぐ
にランチタイムですので、仕事の手を休めて話していましたが、
彼女が話す事は、私の幸せな家族の事を考えると少し悲しくなる
感じでした。

彼女は『ママを訪ねてきたけれど、私には会おうともしない、
今は白人の世界に住んでいて、わたしが訪ねて行くと迷惑な
感じをする』と言うと下を向いて唇を噛んでいました。

離婚して、ママは家を出ていったそうですが、どの様ないきさ
つで子供を母親が捨てたかは計り知れない事ですが、彼女の目に
何か、ひかるものが見えたときに、私には心に感じる何かが有り
ました。

そこの集合住宅は私が知っているだけで殆どが、白人で占められ
ていまして、廻りは高級住宅が連なる古い住宅街でした。
公民権運動が始まる前は、その地域の家を売る時は『黒人やアジア

人種には売却してはならない』と仲介業者に一筆入れさせていた
と言う地域でした。それだけ廻りが白人社会で固まっていたから
でした。高級住宅地で一画が500坪の大きな敷地です、昔は

それ以下の敷地では建築許可が出なかったと言う所で、それなり
に格式がある地域でした。彼女はバス停のベンチに座っています
が、バスは先ほど通り過ぎていましたので、かなり待つ事になる

と感じまして、『ランチは食べた~?』と聞きましたら、彼女は
正直に『お金が無いーー!』と答えました。
どこまで帰るのか聞いたら、『バスと電車で一時間半は掛る』と
心許して答えてくれました。

すぐ近くに高校が有りますから、近くには沢山の軽食の店があ
り、コーヒーショップも有りました。近くに止めていた私の
トラックで、ハンバーガーとソーダーを買うと、その暖かい包
みを持って

バス停に戻ると、近くのプールハウスのベンチで食べる様に勧め
『一時間はバスは来ないから安心して食べて』と言って包みを
渡しました。彼女は昔、子供の頃に日本の横浜に住んでいた時に
会った親戚のおじさんと似ていると話してくれました。

彼女は私と話す事で、母親と会えなかった事も忘れて、ランチの
ハンバーガーを口にして、元気を取り戻していました。
私が感じたことは『心の空腹も満たす事が出来れば』と感じた事
でした。

人は皆、両親に愛され、いとおしまれて育てられ、心豊かに育つ
と言う事は、たとえ貧しくてもその子供の人格形勢に多きな影響
を与えると、その時に心に感じました。

彼女がバス停からバスに乗り込む時に明るい声で、『おじさん~!
アリガトウーー!』と元気な声で別れたのが印象的でした。
その後、母親がすぐに引っ越して行ったので、その女性にはその
あと二度と会う事は有りませんでした。

2012年1月19日木曜日

私の還暦過去帳(143)

私の息子達が30分ぐらいの所に有ります、UCバークレー校に
通っていた頃です、20年ぐらい前です。バークレー校の近くは
1960年台にヒッピー族の発祥地ですが、近所にはロフトと

言う感じのアトリエや、得体の知れないバンドの溜まり場が
有って、路上でもかなりの、これまた得体の知れない人が、店
を歩道で開いていました。中にはかなりの腕が有る芸術家と感じ
る作品を展示して、即売している人もいました。

有る時、用事が有って次男が当時、学生寮のマネージャーをして
いましたのでそこを訪ねたら、食料の買出しでしばらく帰ってこ
ないと言う事で、近所をブラブラと散歩に出ました。

次男がマネージャーの仕事を取ったのは、もちろん選挙で選ばれ
たのですが、マネージャーは寮費が無料と言う特典があるからで
した。しかし、かなり雑用があり大変な感じでした。

ブラブラと歩いて下に降りて行き、賑やかな通りに出て太鼓の
音が聞こえて来ましたので、見に行きましたら、黒人の若い青年
がアフリカ太鼓の乾いた音をだして、リズミカルな踊りの伴奏を

していましたので、見ると、それまた若い東洋人の女性があらわ
な服装で、はだしのまま、何か得体の知れない格好で踊り、腰
をくねらせていましたので、これは面白いと見ていました。

しかし、太鼓のリズムをとる黒人の青年はビシ~!と決まって
中々上手い打ち方で、4個ぐらいの大小の太鼓を打ち鳴らして、
見ていても、聞いていても楽しい感じでした。

しかし踊っている女性は何か場違いな感じがして、どうもピーン
と来ません、それと言うのも、まさに胴長短足でステップの感覚
が『ドテ~!ドテ~!』と相撲の四股を踏む感じがして、笑いが
こみ上げてきました。

ご本人は得意満面で踊っています、しかし観客はチラリと横目で
見て通る人だけです。私の気のせいか、笑って居るような人も居
ます。きっと笑いを我慢して横を通過していると感じました。

しばらく見ていて、日本語で『あ・・・!これを両親が見たら、
驚き、桃の木、サンショの木だなーー!』とつぶやいたら、
途端に、その東洋人の女性が『ギー!』という感じで、私を
ねらみ付けて、凄い形相です。私も『ギョ~!』と感じました。

しかし、そんな事で引っ込むジジイでは有りません、意地悪爺さ
んですから知らん振りして、『よせばいいのに、無理をして
踊らなくてもーー!』と言った途端に、『要らんおせっかい~!』
と彼女が怒鳴りました。

はははーー!やはり日本人でした。

踊っている前に置いてある籠は空で、誰もお金は投げては居ませ
んでした。黒人の青年は盛んに威勢良く叩いていますので、かなり
お腹も減ると感じまして、『お兄ちゃんや~!あんたは上手いなー
ハンバーガーでも、これで食べてーー!』と大枚10ドルをポンと
カゴに入れました。もちろん日本語で言いました。

驚いたことに大阪弁で『ほんまカイな~!10ドルも・・・!
アリガトさん』と来ました。
これには私もまいりまして、驚きました。

そんな事で、時間潰しが楽しい時間となり、ますますバークレー
の町が好きになりました。それにしても雑多な人種の町です。
その時に、近くのエチオピア料理のレストランで食べた料理の
味が今でも忘れません。雑穀の粟で作った料理でした。

2012年1月18日水曜日

私の還暦過去帳(142)

私がカリフォルニアに来て、そろそろ37年となります、早い
もので、アッと言う感じです。来たばかりの頃です、隣りの市
にローズモアという、引退者のかなり大きな町が有ります。

55歳以上しか入居出来ません、どちらか夫婦の一人が55歳
以上であれば許可になると聞いていました。
最初にそこの近くを通過した時に、やたら年寄りの運転手が多い
と感心していました。

それと37年前です、ぎょ~!とする、超大型のキャデラック
が、それも1950年台の重量が2トン半もあるような、鉄の
塊と言う感じで、バンパーも鋼鉄のクロームメッキのビカビカ
と言う感じで走っているのを見て驚きました。

そして、また、ぎょ~!としたのは、小柄なかなり歳のおばさん
が、赤いドレスに赤い飾り帽子をチョコン!とかぶり、横には
真っ白いプードルを乗せて走っていました。

おばさんはハンドルにしがみついている感じでしたが、プードル
は悠然と、私のトラックを見下げていました。冷房の効いた車内
は快適らしく、お犬様がうらやましい感じでした。

何せ~!引退者ホームと言っても金持ちしか入居出来ません、
中にはハーバードクラブとか、スタンフォードクラブとかが有る
様な所で、毎月の管理費だけでも、安い引退者アパートぐらいの

家賃です、ゴルフ場、テニスコート、水泳プールなど何でも揃い
中は豪華な分譲の家は軽く億となります、中には古いコンデミニ
アムの形式で、2ベッドぐらいの部屋も有ると言う話です。

私が一度、そこの入り口前の道路を走っていた時に、旧式な古き
良き時代の超大型車が、まさにゆっくりと走っていました。
追い越し禁止ですから、金魚のうんこで、仕方なく後ろを付いて

走っていたら信号が近くになると、ブレーキをチョン!チョン!
と踏んで減速です、こちらはイライラで、カチーン~!と来て
いました。私はまだその頃は中年の元気な時です。

心の中で『もたもたするんじゃね~!』と怒鳴っていました。
すると、それが通じたのか、信号まじかでビユー!とスピード
を上げると、あれよあれよで、排気音をグァ~!と吹かして

黄色の信号を突破して行きました。なんで信号前でスピードを
落し、黄色では突き切りかと腹が立ちましたが、やっと追いつい
て追い越しが出来る車線に来て、横に並んで見たら、ぎょ~!と

するような感じの老夫妻が仲良く、アイスクリームを食べながら
運転していました。アー!ここはアメリカだと、つくずく感じ
ました。日本ではあんな歳寄りは運転はしないから、ふと感じ
ていました。

私の知合いのレデイーは今でも、リンカーンの6500CCの
V8の大型エンジンの車で、84歳ですが、時速140kmでロス
アンゼルスまで現在も飛ばして行きます。運転が大好きと話して

います、五号線をフッとばす気分は堪えられないとか!、84歳
ですぞ!。当地からでは450マイル(720km)は有ります。
なにせ運転が出来ないと、買物にも困る社会ですから、しかし

ローズモアは近くの病院廻りや、買物コースのバスも走って
いますし、門から出て1km以内には沢山のシニヤのケアホーム
が関連してあり、入院設備が整った老人専門の病院も有ります。

中のコンデミニアム形式のアパートは、一日、ランチと夕食の2回
食事が出る施設が有ります。私の友人は『天国の待合室』と陰口
を叩きますが、日本にはない大規模引退者施設には感心します。

私も歳になり、今では慣れて何とも感じませんが、でもローズモア
の近所を走る時はいつも注意しています。いつ何時に時代物の
超大型車で、『ドシーン!』とやられかねないからですーー!
わたしの小型トラックなどは、ひとたまりもありませんからね~!

2012年1月17日火曜日

私の還暦過去帳(141)

私がカリフォルニアに来て、すぐに日系人が集まって開いて
いる、小さな信用組合に加入しました。
お互いに相互援助の役目も果して、多くの日系人達が事業を

起こし、運転資金を借り、家を買う頭金を借りる事が出来ました。
当時、第2次大戦が終り、アメリカ政府が家族一人あたり20
ドルの金額で強制収容所を退去する様に命令しましたので、

当時の日系人達は、手元の現金が無くて、銀行にローンを借りる
事も出来ずに、自分達で信用組合を作り、自分達の金融を始め
たのでした。私も一時、役員となりまして、月末や年度末は

良く事務の手伝いに夜、仕事が終ってから出掛けていました。
休憩の時間にお茶を飲みながら、良く若い私に色々な戦前の
話しや、戦争中のヨーロッパ戦線の激しい戦闘の話しを聞かし
てくれました。

当時かなりの年配の人でしたが、私が日本から来て、年齢的
に一番若かったので、良く話しを聞かしてくれましたので、
色々な話しを現在も覚えています。

その方が話してくれた、戦闘場面の思い出は今でも良く覚えて
います、とても忘れる事は出来ません。印象が深かったと思い
ます。ドイツ領に入りドイツ軍の抵抗が激しくなり、トラック

で前線を移動中に、前方でドイツ軍が陣地を築いて進撃して
くるアメリカ軍を阻止していた様でした。天気も悪くて戦闘機
の援護も得られず、砲兵隊の援護も弾薬の砲弾の輸送が悪天候

で遅れて、わずかな砲撃しかドイツ軍の陣地に打ち込むことが
出来ない状態で、対峙していたと話していました。
かなり広い牧場の開けた場所で、小高い丘に機関銃陣地を築き

そこから狙い撃ちされて身動き出来ない様になって伏せていた
と話していましたが、どうしてもそこを攻撃して潰さないと
前進できず、攻撃命令が出て、小人数で藪の陰から3組に分か
れて攻撃開始した様でした。

中の二組が援護して一組が接近して対戦車擲弾筒と手投げ弾で
機関銃陣地を襲う予定で、激しい機関銃の射撃を受けながら
伏せて前進して、やっと攻撃圏に入り、先ず小銃の先に付けら

れた対戦車投擲弾で陣地の銃眼を狙い、一斉射撃で射撃を止め
最後のとどめは手投げ弾での至近距離よりの陣地の破壊をして
敵兵を制圧をする計画だった様でした。

敵陣地の前で、全員が一斉射撃をして、機関銃の掃射を止め、
一瞬の時間、最終にアタックするマイクと言う日系兵士が、
『行くぞ~!日本語ではバンザイと言うのかなーー!』と言って

彼の手を硬く握ると、自動小銃を片手に安全ピンを抜いた手投げ
弾を持ち、敵の機関銃陣地に走る様に飛び出して行ったと言う事
です、それを阻止しようとするドイツ兵を自動小銃で撃ち、

手投げ弾を陣地に投げ込み、崩れる様に伏せたと言っていました
が、彼は二度と起き上がらなかったと話していました。
吹き飛んだ陣地からは何も反撃は無く、近寄ってマイクと言う

戦友を起こすと、胸を一発撃ち抜かれて眠る様にうつぶせに
なって倒れていた様でした。彼はしんみりして『悲しかったな!』
と言葉を詰まらせていました。

彼の死は生まれた祖国アメリカの為と、強制収容所にいる両親や
幼い兄弟の解放の為と、偏見と人種差別のアメリカ人達の打破の
為に若い命を捧げたと話していました。

戦争が終り、アメリカ大統領が『貴方達、日系兵士は敵のドイツ
と戦いそしてそれを破り、また多くの偏見とも戦った』と賞賛
したことを思えば、第二次大戦中に一番多くの戦死者と負傷者
を出して戦った部隊で有る事が証明している。

2012年1月16日月曜日

私の還暦過去帳(140)

私がアメリカに来て、しばらくはレストランの共同経営をして
いました。ビザの関係で昔は簡単に投資家ビザがとれました。
そんな事でしばらくは仕事をしていましたが、時間が不規則で、

子供達とも一緒に夕食も食べられず、週末も忙しくて家庭サービ
スも出来ない事に見切りを付け、私の行動力は迅速でかつ効果的
ですからそこまでが勉強と、昔、アルゼンチンのブエノスで学ん

だユダヤ人の商売人と仕事をして、彼等の物の考え方が生きる、
生き抜く、生き残る、いつも己の人生を自分の民族的平均寿命か
ら逆算して、あと何年ー!今、これをやらないと難しいと話し、

行動する現実的な、時代に即した行動で、学ぶ事が多かった
と感じます、『そこまでが授業料』と言う割り切った考え、
日本人的に『もう少しーー!もうひとがんばりーー!』などと
言う気持ちは、余りもって居ませんでした。

ユダヤ人と仕事をして一番大きな収穫でした。
金は後で稼げるけど、時間はニ度と戻っては来ないと感じました。
そんな事ですぐに仕事を変えまして、買物に行っていた八百屋

の主人が、庭園業を引退して奥さんと二人で開いて居た店で、
すぐに庭園業組合を紹介してくれ、そこには信用組合、健康保険
生活物資の購買部も有りました。親切に教えてくれ、戦後の就職

の難しい時代、殆どの日本人と日系人が関連の仕事を始めていま
した。強制収容所から出て来ても、戦前からの慣れた仕事で、
資本がかからず、日本人の手先の機用さは美しい庭園、温室の

お花や切花などを生産して、確実に信用と事業の拡大をして
アメリカ社会にその勢力を広げて行ったのです。私も庭園業を
振り出しにして、しばらくしてから不動産管理の仕事に移行して

事業の拡大と安定と顧客の獲得に勤めましたが、今では引退間際
の気楽な仕事をしています。この仕事を始めて良かったと感じま
す、カリフォルニアの景気拡大と成長のすさまじさ、近郊の土地

が全米でトップの成長と住宅ブームに乗り、現在もそれが続いて
います、おかげで仕事も、今までは一度も後戻りする事もなく
続けることが出来まして、現在を迎えています。

今、日本ではフリーターと言う自由な職業で、専門的な知識も
余り得られず、将来の希望も的確に掴めないと言う感じの人が
多い様ですが、一度旅に出て、自分の存在感と生活力と、異国

での生きると言う鍛錬を自己の心で味わい、感じ、会得して、
日本で生きると言うことと、己が海外で体験した生きると言う
自己体験で、これからの大切な人生の時間を有効に利用して、こ
れからの生き方を定めてもらいたいと思っています。

私も今まで休まずに走り抜けて来ましたが、一度も時間を無駄に
した記憶は有りません、それだけ真剣に時間を大切にしたと思っ
ています。

以下のHPは私の生き方と行動を書いた事が少し載っています、
長編ですから、暇な時に読んで下さい。

http://www.geocities.jp/paraguaysaga/noguci-002.html

2012年1月14日土曜日

私の還暦過去帳(139)

アメリカに住んで、35年の歳月が流れ、私の永の住みかとなる
墓地も造りました。今日はお彼岸の墓参りに行きましたが、現在
は私の息子がそこで永眠しています、日本で42年前に生まれて

直ぐに亡くなり、私の心の中に今でも生まれたばかりの息子の
面影がまぶたに残っています。アメリカに来て、生活も落ちつ
いて、直ぐに墓所を購入して墓を建て、ワイフが書道三段の腕で

書いた文銘を刻んでもらい、石材店のオーナーからワイフの優し
い字体に、他のお客からも是非碑文を書いてくれと頼まれた様
な文字で、墓地の片隅に築かれた墓碑に、これからの百年も残る

文字として、静かに東の空を見詰めている。
そこに日本から連れて来た息子が一番に入り、毎月の墓参りに
訪れる事が習慣となっているが、そこのコルマ日本人墓地は

はるか昔の日本人達の移民の歴史ともなって、多くの日本人の魂
が永の住みかとして眠っています。
サンフランシスコで最初に葬られた日本人は、徳川幕府の軍艦
『咸臨丸』の水夫等三名である。

航海中に発病して衰弱して、1860年2月10日に到着したが、
現地の海軍病院に入院して、
3月22日に咸臨丸水夫、源之助、25歳が死去。同じく
3月30日に富蔵、27歳が死去している。

この両名は艦長の名により、日本国海軍水夫として墓が建てられ
ているが、5月20日に死去した峰吉、(年齢不明)は咸臨丸出航
後で、当時の日本の代理領事であったブロックスが幕府の命に
より墓を建立した。

1870年2月2日(明治3年)に死去した万屋常次郎、泉と言う
人物が横浜で、ミセス・ヘボンについて英語を学び、勉学の目的
でアメリカに来て、サンフランシスコで病に倒れ客死した。
彼がアメリカに勉学で来た学生では第一号と言われる。

1875年日本海軍最初の練習艦『築波』がサンフランシスコ
に来航したが、鈴木、伴寿、稲垣、松島各4名の水夫が病気で
死去した。その後、1880年にも第2回目の来航時にも的場
水夫が死去して同じコルマ日本人墓地に日本海軍水兵として
埋葬されている。

歴史の中に埋没して、忘れられている事が、今日も秋の日に照ら
されて年月を感じさせる墓標が、私の心の中で秋愁の思いを積も
らせていた。

1890年台から1906年頃までは多くの子供と若者の埋葬者
が多いのも特徴で、その頃のアメリカに一旗上げるための出稼ぎ
に来た20台から30台の若者達の墓標の群れである。

1901年7月にアメ行きさんと言われた娼婦が当時の黒死病で
若き命を赤線区域で亡くしている。
高木シナ(23歳)、池田ヨシ(22歳)、稲木ミネ(19歳)と
今では寄りそう様にして、コルマ墓地に眠っているが、初めて

訪れた時は、サンフランシスコ名物の霧に吹かれて濡れて、墓石
が涙して泣いている感じを受けたことが有り、
耳を澄ますと、太平洋から吹き付ける風がすすり泣く様に聞え、
私の胸がグット、込上げる何かがあった。

今日の墓参りは秋晴れの爽やかな日で、静かな墓碑が晴れ渡った
東の空を群れて眺めている感じでした。
貴方も一度、サンフランシスコを訪れたらぜひ訪問してください、
きっと心感じ、深く思いする事が貴方の胸にあると感じます。

2012年1月13日金曜日

私の還暦過去帳(138)

アメリカには多くの移民が新天地として、難民や家族の呼び寄せ、
学生として来て、結婚して居残り家族を作り、新しい人生を出発
した人が沢山います。

またアメリカの歴史として移民と奴隷と難民としてアメリカ
に来た人々で成り立つと言う人がいます。その事は私も実感と
して身体で感じます。戦後アジアの諸国から沢山の戦争難民が

アメリカの土を踏んで、全米各地に根を降ろして伸びて行きまし
たが、その中で、私の知合いは台湾からの移民でした。
特にサンフランシスコ湾岸はアジア系が沢山住んでいます。

サンノゼはシリコンバレーとして世界的に有名ですが、そこが
べトナム系の移民の集団で全米一の多さを誇っています。
そこから少し下がった、フリーモントはアフガニスタン系の移民
が全米で一番多い、2万5千人以上は住んでいます。

アメリカ政府の難民政策が寛大で、受け入れも多数の難民を受け
入れたからでした。

私の知合いの台湾から移民して来た方は、苦労して店を持ち、
やっと生活も落ちついて、息子をロサンゼルスの大学に出して
子供の成長を楽しみにしていました。

夏休みも前のある週末の日に、ジェームスと言う名前の、彼の
息子が近くの海岸にサーフインの波乗りに友人達と出掛けて行
き、その前にいつも両親が電話を掛けて来るので、留守番電話
にメッセージを残していました。

『お母さん~!直ぐに夏休みだから、来週は家に帰宅するから、
 僕の好きな物を沢山食べさせて下さい、エアポートまで迎え
 に来て下さいーー!』とメッセージを留守番電話に残して、

サーフインに出かけて、友人が必死で探し、助け様としたが
大きな波に呑まれて帰らぬ人となりました。

両親は直ぐにロサンゼルスに駆けつけたが、全ては終って悲しい
帰宅となった様です、しばらく母親は狂った様に嘆き悲しみ、
悲嘆に暮れて、家に閉じこもって居たようでしたが、有る日

息子のアパートに電話をしたら、同部屋の友人と同じ電話で
番号もメッセージもそのまま残っていて、生前の元気な息子の
声で『お母さん~!直ぐに夏休みだから、来週は家に帰宅する
から、』という声が流れて来ました。

それからと言うものは、毎朝必ず一度は昔の息子に電話を掛けて
声を聞く事が習慣と成った様でした。
同じ部屋の友人もそのメッセージは消す事もなく、彼がそこに住
んでいる間は、そのまま同じ留守番電話をしていたと言う事です。

それからは、母親も声を聞く事が元気を取り戻す要因となって
少しずつ悲劇からの落ち込みを回復して、もとに戻ったと友人が
話してくれました。

その話しをしてくれた友人もつい最近、病気で亡くなりまして
寂しくなり、戦前の日本統治時代に日本語教育を受けた台湾の
古き良き時代の友人がひとりまた、消えて行きました。

私の歳になると良くそのようなニユースが入って来ます。
『年々再々、花は変わらず、再々年々、人同じからず』の言葉が
胸に染みます。

2012年1月12日木曜日

私の還暦過去帳(137)

アメリカのサンフランシスコ湾のオークランドや、アラメダは
戦前にはかなりの日系人が住んでいました。
戦争で強制収容所に送られて、全てを無くしてキャンプから
帰って来ても行く当てもなくて、当時の仏教会や、集会所、教会

などで仮の住まいとして生活して仕事を見つけ、家族で住む家
や貸家を探して、戦後の反日感情が激しい時を過ごしたと話して
くれました。強制収容所を出る時はアメリカ政府は一人当りに
当時の金で20ドルを渡して、退去を命じた様です。

先ず家長が家族に支給されたお金を手元に自分が昔、住みなれた
場所に戻り、つてを頼りに先ずは仏教会や日系の集会所などに
寝泊まりして仕事を探して、家族を呼ぶ様に準備を始めた様で
したが、アパートや貸家を探すのは大変な苦労だったと話して

くれ、仕事も中々、見つからず多くの日系人が戦前からの慣れた
庭園業を始めて独立して行き、そこで資金を貯めた人が温室や
ナセリーと言う植木屋を始めて行きました。
私が昔、知り合った2世は強制収容所から軍隊に志願して、当時

の激戦が続くヨーロッパ戦線に出征する時、最後に家族との別れに
収容所を訪ねて、前線に出動する事を話したら、両親が『私達の
事は心配しなくて、自分の生まれた国に忠誠を誓って戦ってきな
さいーー!』と話してくれたそうです。

部隊に帰還する時に列車の窓から、遠くに見える監視塔に囲まれ
た強制収容所の夕暮れの砂漠の光景を見て、涙が出て来たと複雑
な感情で別れをした当時の光景を思い出しながら話してくれ、そ
の両親も今では亡くなり、自分が生きてヨーロッパ戦線から除隊

して両親をの住んで入るところを探して訪ねて行く時に、バスに
乗り合わせた白人の女が、アメリカ陸軍の制服を着ているのに
日本人が沢山その頃、集まって住んでいた所に来ると、口汚く
日本人の悪口を大声で叫び、聞えがましく喚きたてていたら、

運転手が、バスを止めて『喚くほどに嫌いなら、自分がバスを
降りろーー!』と怒鳴ったそうです、そして彼は『陸軍兵士と
して勲章まで胸に下げている帰還兵だ、感謝の言葉でも言うの
が普通だ、俺はドイツ戦線で日系兵士が、部隊の殆どが消耗す
るほど戦って戦死したのを見た』と言うと、
その女は黙ってバスから降りて行ったと話していました。

彼も帰還して仕事を探したけれど難かしくて、その頃、復員兵に
政府が与えていた奨学金で大学に行き、卒業して仕事を見つけて
アメリカ社会に出ていったと言っていましたが、戦後多くの日本
人が敗戦で困窮する生活から日本に救援物資を送り、援助活動を

して、出身地の学校や、社会に多くの救援の手を差し伸べたので
あるが今では全て忘れられてしまっていると嘆いていた。
戦後の沖縄県に戦争で壊滅した、畜産業の養豚を育成する為に
当時、輸送船一隻分の種豚を募金活動とボランテイアで沖縄に

送り、それから幾年もしない内に戦前の水準まで取り戻したと話
してくれ、沖縄県人の大きな栄養源と戦後の復興の原動力となっ
たと教えてくれました。

いくらアメリカで生まれて、アメリカで教育を受けても両親が
日本語とそしてお米で育てたので、日本の心は持っていると言っ
ていました。そして俺は『ヤンキー、サムライだよ~!』と笑っ
ていました。

2012年1月10日火曜日

私の還暦過去帳(136)

サルタ州で農場の仕事をしている内に、近所の町に住んでいる
日本人の人達と知り合う様になり、仕事でその町に行くと必ず
顔を見せていました。

タルタガールの町は田舎としてはかなりの大きな町ですが、大
都会の様には雑踏も有りません、その廻りの石油製品を賄うのに
石油精油所が有るくらいでした。ボリビア国境のアルゼンチンも
北の果てと言う感じで、ひなびた都会でした。

私がトマトの作付け状況を偵察にタルタガール市場と仲買の話し
を聞いて、今年はどのようなトマトの種子を植えるか、それも
研究に歩いていました。
その町には大城氏が洗濯屋を開いていまして、行くと必ず寄って
お茶を飲んでいました。時には食事もご馳走になっていまたので、
近郊のトマト農家の現状も知ることが出来ました。

町の住宅街の近くで小さなお店でしたが夫婦とパートの三人で
仕事をしていましたが、子供は全部育ってしまい、ブエノスの町
に住んでいると話していました。
そろそろ引退して子供の近くに引っ越すと話してくれ、この店を
売りに出すと話してくれましたが、中々適当な人が見つからなく
困っていました。

そん時に訪ねて行き、タルタガールに着いて直ぐに顔を出し挨拶
して、それから市場に行きましたが朝の競りは終り、仲買と話す
のには丁度良い時間でした。しばらく話して遅いランチを食べ様
と市場の近くを歩いていると、誰か、何処かで会った感じの女性
が見ていました。

思い出せず側まで来て、その若いインジオの女性は、はにかんで
笑顔でいます、私もはて~!と考えていましたら、昔にトラック
に乗せて、私の町まで来て、友人の家で一緒に夜を過ごした
あのインジオの女性でした。

あの時からしたら、少し身体に肉が付いて福与かな感じがして
前からしたら、美人に見える様になっていました。
駅前の別れから、だいぶ時間が経っていましたが、彼女は忘れる
事も無く笑顔で私を見ていました。

私が両手を広げると、小柄な身体を飛び付く様に抱きしめてきて、
久しぶりの再会を喜んでくれました。
ランチを聞くと、まだ済んでいないと言うので、近所でピザを
食べる事にしてテーブルを取り、注文してワインとソーダーを
テーブルに置いて話し始めて、近況を知りました。

彼女は世話になった事を感謝して何度もお礼を言って、ピザが
テーブルに来るまで手短に話していました。
インジオの田舎生活は結婚相手も難しいと嘆いていまして、
また都会に出る事を考えていると教えてくれました。

レストランでピザとサラダが出て来るまでに、あらかたの話しを
してくれ、現在は共同で姉夫婦と同居して、小さな雑貨屋をしな
がら洗濯屋の取り次ぎ業をして食べていると話してくれました。

私が大城氏の洗濯屋を知っているかと聞くと、そこに頼んでいる
と言うので驚いてしまつた。食後に彼女を連れて大城氏の店を
訪ねると驚いて、大城氏が私を店の隅に連れて行き、小指を出し
て『あんたのコレーーかい~!』と聞きました。

私もつられて『やんぬる事が有り、一晩彼女が泊まったことが
有る』と言うと、後は一人合点して、大喜びで『彼が彼女を連れて
来たよーー!』と奥さんに声を掛け、その後は私が何と言っても
『わかった~!、わかった~!』で終りでした。

とうとう夕食まで付き合う事になり、リサと言う彼女も私の恋人
として扱われ、夕食にはシャンペンも開けてくれ、『おめでとう』
と声を掛けてくれ、私は返答に困り、苦笑いをしていました。
しかしインジオの彼女は恥ずかしそうにしながら、内心は嬉しそ
うにしているのを感じました。

彼女がインジオの少し小麦粉肌でしたが、顔立ちは日本人に似
ていて黒髪の小柄な体格は、日焼けして無骨な私には似合って
いたと感じます。私も生まれて初めての体験で、少しドキドキ
していました。
お酒の酔いも有って、大城夫妻ともリサが仕事の関係で知り合

いであり、多いに話が弾んで、私に『彼女は働きもので、素直な
良い女性だよ~!』と話してくれました。
私が結婚適齢期を迎えているのを知っているので、何度も声を
掛けられ、女性を紹介された事がありました。

大城氏の店先に止めていたトラックでそろそろ帰るからと言うと
『2時間は運転しなくてはならないし、少し酔っているから今夜は
家で泊まっていきなさい』と進めてくれ、奥さんが私のトラック
のカギを取り上げてしまい、大声で『ダメよ~!酔っ払い運転は』

と、お祝いだからと今度はワインの上等な瓶を開けてくれ、
グラスになみなみと注いでくれ、彼女にも注いでいました。
私は誤解でも、楽しい雰囲気を壊したくはなかったので、
乾杯の音頭を取り、ワインのグラスを合わせ、楽しく日本の歌を
唄って、久しぶりに農作業の疲れも吹き飛ぶ感じで過ごして
いました。

かなり夜遅くなり、店の裏側に有る昔の子供部屋が客間として
用意されていましたので、その夜はそこで泊まる事になり、大城
氏が『リサ!貴方も泊まるか、それともタクシーを呼んで帰るか』
聞いていました。彼女はためらう事無く小声で『今夜はお邪魔で
すが泊まらせて頂きますーー!』ときっぱりと答えていました。

私は少し酔った頭でも『ドキリ~!』とする言葉でした。
前に友人の小屋で泊まった時にハンモックから素裸で私のベッド
に朝方もぐり込んで来た、妖艶な彼女を思い出していました。
今夜のこの時間と、前に経験した妖艶な時間とが重なり、彼女の
身体に似合はない大きな乳房を思い出して、そして、友人の小屋で

ベッドから起き際に、私の両手にしっかりと握られえた乳房の感覚
が手の平に蘇ってきました。それから露天風呂に汗を流す彼女の
裸体を思い浮かべていました。何か前の続きが現実に起き様と
している感じを受けて、若い独身男の何かが目覚めた感じでした。

私と彼女を離れの客間に送り出す時、大城氏の奥さんが家族風呂
の小さなものだけど、お湯を溜めておいたからと教えてくれ、
浴槽に溢れたお湯を見て、久しぶりの日本式風呂に感激していま
した。綺麗な部屋の中で彼女は昔の続きを取り返す様に、私の

前で乳房を出して素裸になり、少しはにかんで抱き付いて来ま
した。今回は何も止める事態も無く自然に抱きしめてやり、
私の男の本能が目覚めていました。
その夜は、独身の若い男の経験としては充分でした。

まどろんで朝が来て、朝早く起きる習慣で目が覚め、起きて窓
を透かすと、何時の間にか起きた彼女が、着替えてテラスの
イスに座り、マテ茶をストローで飲んでいました。
しばらく二人でマテ茶を廻し飲みして終ると、彼女が私を固く
抱きしめて、唇を重ね店の横のドアから出て行きました。

見送ると、まだ人通りが少ない早朝の道を手を振りながら消えて
行きました。
別れ際に『神様が私の心のわだかまりを消してくれた』と一言
つぶやいていました。

2012年1月9日月曜日

私の還暦過去帳(135)

私がアルゼンチンのサルタ州、エンバルカションの町で支配人の
仕事を始めた時です、町から12kmは離れていて、農場に着い
て からはしばらく身体が慣れるまでは、近所の様子を見ていま
した。

それと前に支配人をしていたボリビア人が、契約が切れても残っ
ていました。一作契約ですから歩合も私が少し高く、売上の3%
が貰えるようになっていました。

前の支配人の家族は先にボリビアに帰郷して、小屋に従弟と住
んでいまして、オーナーが早く出て行く様に話していましたが、
ずるずると居座って目障りでした。昼休みの時間に狩猟用の
双眼鏡で家の廻りを見ていました。

日本から持ってきた、凄く性能が良いもので、少し暗い日陰でも
鮮明に覗く事ができました。
離れた作業小屋から誰か出て来ました。 双眼鏡で覗くと、手に
何か持っている感じで隠す様にして包みを持って歩いて河岸の
小屋の方に消えて行きましたが、

今の時間は皆が昼寝をしている時間です、一瞬、おかしい~!と
胸騒ぎがして小屋に戻る男を見ていました。やはり前のボリビア
人の支配人で農場に居残っている男でした。

私は作業小屋まで行きましたが、農薬を管理するロッカーが少し
誰か触った様で、不審に感じました。
高価な農薬の箱を買い入れたばかりで、かなりまとめて積み上げ
ていまして、用心に2重にカギを付けていました。

点検するとカギも壊れていなかったのですが、しかし何かおかし
い感じで、ロッカーの前の土間の土を、綺麗に草箒で平らにして誰
か来たら直ぐに判る様にして、その日は午後の仕事を始めまし
たが、その翌日です、私は用心して昼寝もしなくて見張ってい
ました。

しばらくして、ボリビア人の前支配人が歩いているのを見つけ、
作業小屋に入るのを監視していました。今度も直ぐに出て来ると
手に包みを隠すようにしています、彼が消えて直ぐに作業小屋に
行くと、土間にくっきりと足跡が残り、ロッカーを開けた事が分
りました。

昼休みが終り、私は農場のオーナーと話して、現行犯で捕まえる
事にして許可を貰い、一切を任すと委任状を取りました。それ
と前支配人が午後に荷物を運ぶので、トラクターを貸してくれと
話していたと聞き、直ぐに先回りして、トラックを用意して
ライフルと拳銃を車に入れていました。

監視をさせていた使用人が慌てて、彼がすでにトラクターで出か
けたと知らせてきました。私は直ぐにトラックに飛び乗ると、
微かに土ぼこりを上げて畑の農道を走るトラクターを発見して、
追跡しました。

私有地の中で停めて尋問しなくてはなりません、外に出たら問題
になります、ボリビア人は私に気が付いてボコボコの農道をかな
りのスピードを上げて走り逃げ様としているのが感じられ、私は
トラックを先回りして、ジャングルの切れ目の農場の境で車を止
め待ち構えました。

150mぐらい離れていたと感じます、彼はトラクターを飛び降
り畑の中を走って逃げ様としてあせっている様でしたが、土を起
こしたばかりで上手く走る事が出来ません、私はライフルで逃げ
るボリビア人の前の土を威嚇射撃で、3発ぐらい連続して撃ちま
した。
微かに土煙が上がり、ボリビア人は両手を上げて止まり、私が
ライフルで撃った事で驚いて、近寄るとガタガタ震えているのが
分りました。
10mばかり前に来ると、両手を広げてうつぶせになる様に指示
して、狙いを付けて見ていました。

慌ててボリビア人は伏せると、私は近寄り凶器を隠していないか
調べている所に、銃声を聞いて先ほど見張りを頼んでいたインジ
オが飛んできました。
彼は帽子に付けている細い皮ひもを取ると、後ろ手に縛り上げて
いました。
そして『この野郎に、散々いじめられたー!』と話していました。

トラクター後部の簡易荷台を探すと、ナイロンの袋に入った
農薬、トラックの部品、トラクターの予備の新品部品などが出
て来ました。 ここでは農薬だけでも1kgが3000ペソで、
使用人の一ヶ月の給料となり高価な品物でした。

総額でかなりの金額となり、オーナーも警察に連絡して引渡しま
した。 夕方、警察のジープが引き取りに来て、手錠を掛けて連行
して行き、その日の内に、ボリビア人の身内の親戚も解雇して
追い出してしまいました。
警察でも私が威嚇射撃をしたのは私有地内で、逃亡を止める為の
正当行為として、証人に見張りのインジオが見ていたので、それ
ですべて終りでした。

2012年1月8日日曜日

私の還暦過去帳(134)

今年は終戦から70年目の年です、すでに終戦当時の方々は亡くな
るか、高齢で記憶も薄れて当時の話しを聞く事も余り出来なく
なりました。サンフランシスコ近郊で会った方でした。

20年ほど前です、まだ当時の方々が元気な頃でした。
一度、終戦後日本に、アメリカ軍の語学兵として通訳で軍務に就
いた居られた日系2世の方でした。

郷里は何処かと言う話しになり、福岡県の大牟田市が父親の田舎
と話すと『私も軍務で通訳兼、戦略爆撃調査団の一員として、
大牟田を訪ねた事が有る』と話してくれました。

台湾から引き上げて来て、しばらくは親戚のお寺に、お世話に
なっていた短い時期が有りました。そのお寺近くにB25の
爆撃機の胴体の部分が撃墜されて落ちていました。

私も近所でしたので、見に行った事が何度か有りました。
その時、ジープに乗った米兵が数人いまして、何か調査を
して居る感じでした。通訳らしき日系人が説明している様子で
したが、その事は良く鮮明に覚えています。

生まれて初めて、沢山のアメリカ兵を見たからでした。
そして、近所の中学生ぐらいの大きな子供達が、B25の積載
機関銃の弾を、鉄の水道管パイプの中に入れて信管をハンマー
で叩いて、発射しているのを遠くで見ていました。

危険な遊びでしたが、墜落現場には沢山落ちていたと聞きました。
何処かに沢山隠していて、遊んでいた様でしたが、それも直ぐに
朝鮮戦争が始まると、金屑景気が湧いて、アッと言う間に消えて
しまいました。B25の胴体部分の大きな物もそうで、綺麗に
消えていました。

そんな思い出を2世の方と話していたら、びっくりして、
『それは私ではなかったかーー!』と直ぐに答えてくれました。
『近所に鹿児島本線の踏切りが有ったのではーー?』と言う事
で、まさに偶然の一致でした。

彼が話してくれた事は、大牟田市の工業都市、爆撃被害調査
で、かなり詳しく調べたと教えてくれました。
私が見ていたと話すと、『廻りに沢山の子供が来ていたから』
と笑っていました。

B25が撃墜される前に落とした爆弾溝で、夏は良く泳いでいま
した。かなり深くて大きな穴でした。当時は溜池として利用を
されていましたが、近所の蓮根田で、戦時中に捕虜を使って
蓮根掘りをさせていたと聞いた事が有ります。

日系2世と話していて、捕虜収容所の事も聞く事が出来ました。
彼は良く、色々な話しを知っていました。
しかし、アメリカ兵の虐待の事は避けていました。米兵が
劣悪な環境で仕事を強制されていた様でしたので、色々な

トラブルが戦後あったと感じます、彼はさらりと話してくれ、
最後に『戦時中、私の家族はアメリカ政府の強制収容所で生活
していた、監視塔で囲まれ、鉄条網の柵の中に居た』と言うと

アメリカ市民であっても、戦争となれば迫害と苦痛を味あう
惨めな時が有った事を、それもさらりと話してくれました。
彼はそれから語句を強めて、
『この世に戦争は起してはならないーー!』とポツンと言った
事を、いまでも心に残っています。

2012年1月7日土曜日

私の還暦過去帳(133)

今日は私が見聞きしたガンマンの話です、南米の田舎町で会い、
そして聞き、見ました。どの方もかなりの年齢でした。

その話の最初はガン修理をしていた職人でした。彼は狩猟が趣味
で、案内してくれたので付いて行きましたが、当時のウズラの
狩猟シーズンでした。町外れの潅木と草原の混じる所で、ウズラ

を犬で探させると、上手くポイントして見つけ出していました。
彼が使う銃器は単発の22口径のライフルでした。
それでウズラを狙います、散弾銃ではありません、22口径の
弾はネズミの糞ぐらいの小さな物です、それで撃ちますから

余ほど腕が良くないと当りません、犬が飛びかかり、ウズラが
『びーー!』と大きな羽音を響かして滑空して逃げます、そこを
狙って撃ちますので、そのバッグンの感と経験がないと当りま

せん、滑空して一直線に真っ直ぐに飛びますので、彼はそこを
小口径のライフルで狙い、撃ち落としていました。
単発ですから、撃ち損じるとそれで終りです。しかし上手に
撃ち落としていました。私は良く当ると感心して見ていた覚え
が有ります。一度、狩猟の好きな人に話したら信用して貰えませ
んでした。そのくらい難しい射撃なのです。

第2話は、かなりの年齢のお爺さんでしたが、持っていた拳銃は
アメリカの南北戦争時代に使われた、旧式なピストルです。
弾倉のシリンダーに弾と黒色火薬を手詰めして撃ちます。
型もかなり大型で、それに弾を装填して、ワインのビン口にコルク

を載せてそれを撃つのですが、驚いた事に射撃が正確で、反動も
凄い旧式な銃身の長い拳銃ですが、6発撃って全弾が命中で、
瓶の口に載せていたコルクを見事に吹き飛ばしていました。
距離は7~8mはあったと思います。

彼は射撃の後に、『ここではこんなものが必要になる時が有る』と
話していました。それにしても年齢からしたら凄い腕でした。
チョット恐ろしい感じがしました。確かマカロニ・ウエスタン
で主人公が腰に提げて、使っていたガンと同じだったと思います。

第3話、その方は中年過ぎた感じがする体格でしたが、
かなり年期が入っている感じがします。オレンジを空中に
投げ上げてそれを拳銃で撃つ、曲撃ちでした。

自分でオレンジを投げ上げると、全弾命中でした。
他人が投げ上げると、タイミングがずれて外れる事も有りました
が、それにしても、凄腕の射撃でした。
実弾を使い、散弾などのごまかしでは有りません、38口径を
使っていた様でした。

空中で炸裂する様に、オレンジが飛び散る様は見事でした。
南米の田舎町にはそんなガンマンがいた頃です。そのガンマン
達が生まれた時代は1890年代から1910年頃だったと
推定します。1964年頃の昔の話です。

2012年1月5日木曜日

私の還暦過去帳(132)

47年前の南米の田舎です、TVは有りましたが、2チャンネル
で、昼間はお休みと言う白黒TVの時代でした。

ラジオも短波放送が有りましたが、受信するラジオが貧弱で、
あまり綺麗には聞く事は出来ませんでした。

娯楽と言うのは、酒を飲むか、釣か、狩猟で、それと若い女性と
ワイワイと騒ぐ事でした。勿論その後は、たまには酒も入り、
ドンちゃん騒ぎをして、ダンスをして酔いつぶれていました。

有る日、私の友人が狩猟に誘ってくれました。 ビスカッチャと言う、
ウサギと狸との合いの子のような動物で、 肉はかなりチキンに似て、
美味しい味でした。
私の友人は毎日罠を掛けて、週に2~3匹も掴まえていました。
それで肉は充分でしたので、かなり節約になっていたと思います。

夜行性で集団で生活している動物です、大きさはウサギの大きな
物と同じです、それをハントする事になり初めてで、ただインジ
オの後ろを付いて行きました。

狩猟と言っても、拳銃で撃つかなり上級な狩猟です、夜間狩猟で
だいぶ危険な事も有り、注意が必要でした。

用意は拳銃と弾、懐中電燈の大きな光源の有るもの、夜の潅木の
草原を歩きますので、夜行性の毒蛇の用心に皮の長靴を履いてい
ました。
刺の有る潅木の中を夜間に歩きますので、皮のジャンバーを着て
皮の手袋をしていましたので、大陸性の夜間冷え込む草原を歩く
のには充分でした。
歩きながら懐中電燈で草原を照らして、 ビスカッチャを探します、
うじゃうじゃ居ますので、焦点を 懐中電燈で合わせて、2~3度
点滅させると驚いて、ピヨンー! と停止して、こちらを見ますの
で、その時に撃つのです。

当ればそれで『一丁上がりーー!』と言う事で、当らない時は
漫画映画で、ぴょん~!と消える感じで、瞬間に消えて行きます。

余り威力の無い22口径の拳銃を使います、弾代が格安だからと、
急所を狙って撃ち、即死させますので22口径で充分でした。
下手な人が狙うと、5回撃って一度当れば良い方でした。

私が連れて行かれた所は、人家も無く、わびしい潅木の生い茂る
草原でした。微かに半月の輝やきに照らされた、壊れかかった
小屋が有り、そこが狩猟の基地でした。

インジオのガイドが3名いまして、全てを案内して世話をして
くれましたので、私達三名は、ただ撃つだけでした。
車が入れる所の終点はインジオの家があり、案内する時に使
う乗馬が囲いに5~6頭居ました。

私達三名はその馬で何処を歩いたかも知らないで、狩猟場に着き
暗くなった草原の中で、一息付いて焚き火を起こして、お茶を
沸して飲んでいまして、コーヒーを飲む者、マテ茶を飲む者に
分れて、持ってきたサンドイッチを食べて、その夜の準備をして
いました。
インジオから射撃の注意を受けて、夜間射撃の危険性を教えて
貰い、一人にインジオのガイドが一人同行します。
ズボンのベルトにホルスターを提げて、皮ジャンのポケットには
22口径のマグナムの弾を100発バラで入れていました。

小さな肩掛けカバンの中には予備の弾を100発と懐中電燈の
電池の予備を四本、後は水筒でした。緊急医薬品などはガイド
のインジオが持っていまして、私達はなるべく身軽にして歩いて
狩猟をする様にインジオが考えていました。

始める前にインジオが天地の神々に祈り、夜空に向かって祈りの
言葉を捧げていました。それが済むと各自がインジオのガイドと
分れて歩き始めて、危険がない様に別方向に分かれて歩き始めて,
わずか100mも行かない内に、インジオが懐中電燈で照らして
ビスカッチャを竦ませて、撃つ様に教えてくれました。

私は昔のネズミ撃ちの要領で、後ろ足で立ち上がった獲物を1発
で倒しました。距離が20mぐらいで獲物が大きかったので外す
事は有りませんでした。

それからは、無我の境地の様に点滅する懐中電燈の光に、空薬莢
を取り出して、弾を詰め替えながら撃ち、銃口の閃光が弾けて
どれだけ獲物を仕留めたかも、数える事もなく、ただひたすらに
夜の潅木の中を歩きながら撃ちまくった。

ふと喉の乾きを覚えて小休止を取ると、遠くで銃声が聞え、心ま
でが渇き切った感じがしてきた。水筒の水を飲み干すと、自分の
右手の手袋がドロドロに硝煙で汚れて、蒸れていた。

見上げた夜空が微かに色濃い濃紺の流れから、漏れる様に夜明け
の輝きが感じられ、朝が近い事を知った。
どーッと疲れが出て来て、後ろを歩いていたインジオに、戻るか
どうか聞いた。

彼は短く『戻りましょうーー!あと僅かです、 直ぐに夜が開け
ます』と話すと、私を案内して明け方の道を戻り始めた。
微かに夜明けの輝きの中で、ここに三匹、しばらく歩いて二匹 と、
獲物が集められていた。頭から血を流して死んでいる獲物。
首を撃ち抜かれて死んでいる獲物。口から血を流して死んで
いる獲物。

歩きながらそれらを見て、思わず心に何かグーッと 来る物が有った。
小屋の近くでは、インジオが獲物を処理していた。
小さな穴が掘られ、中には血で汚れた臓物が投げ込まれ、肉が
棚に吊るされて、下で焚き火が燃やされ、いぶされていた。

どす黒く血で濡れた両手を動かして、無心に処理するインジオ
が内臓を掻き出すと、穴の中に投げ捨てた。『ぐちゃり~!』と
音を立てて血が飛び散り、胃の中で『ムカーー!』と込上げる
物が有った。
私は小屋からウイスキーの小瓶を取り出すと、瓶ごとラッパ飲み
して、フラフラと小屋の横の藪に歩いていき、 お思い切り胃の中
から吐き出した。
皮ジャンのポケットに残っている弾を右手で掴むと、思い切り
朝焼けの草原に向けて投げ捨てた。

拳銃のシリンダー弾倉から残りの弾も抜き取ると、それも投げ
捨て、ホルスターに差し込むと、スーッと燃える様に草原に
輝きながら朝日が昇るのに向かって歩き出した。

何か空しい心が湧いてきて、涙が出て来た。 涙が冷えて、寒い
ような冷気に冷やされて流れていた。

2012年1月3日火曜日

私の還暦過去帳(131)

昔の南米の田舎です、リオ・ブランコ(白い河)と呼ばれる所の
河岸から2kmぐらいが耕作地帯でした。
そこの一番奥からは、町まで約15kmはありましたが、道幅
が狭くて、場所によっては車がすれ違う事が出来ませんでした。

ラプラタ河のボリビアから流れて来た支流でしたが、河口までか
なりの距離が有り、確か1700kmぐらいの上流と思います。
川幅もそんな上流ですが、100m近く有り、渇水期で30mぐ
らいの流れでしたが、一度上流で大雨が降ると川幅一杯で流
れていました。

流木も凄くて、大雨の後はインジオ達が流木拾いに精を出して
いまして、かなり製材して使える材木が流れて来ますので、河岸
に流れ着いた材木を牛に引かせて道路まで持ち出していました。
しかし、ボリビア上流で鉱山の排水を洪水の流れに放流して捨て
ますので、注意が必要でした。

47年も昔です、河には沢山の魚が生息して居ました。インジオ
が毎日、漁をして生活が成り立つほど魚が取れていまして、彼等
の昔からの習慣と、仲間のインジオの約束事として、産卵に上が
ってくる、雌の魚は絶対に取らないと言う不文律が有りました。

沢山お腹に卵を抱えて来て、上流の浅瀬に卵を産み付けて孵化さ
せていました。有る時、町に仲買のイタリア人ボスの息子が来て
だいぶ勝手な振る舞いをして、のさばっていました。
シシリア島出身で、マフイーアにも繋がりも有る、野菜仲買の息子
でした。

私達の農場は河岸まで車が下りられて、魚取りでは絶好な場所で
したが、私有地で許可を貰わないと立ち入り禁止でした。
そこに、ボスの息子が新車の小型トラックで網を乗せて魚取り
に来ていました。その事は後で知りましたが、夜の内に来て、

網を河に張り、朝方に網を上げていた様でした。
車に乗せてきていたゴムボートで網を張って、魚を追い込んで
かなりの魚を一網打尽と網に追い込んでいた様で、産卵期に、ま
して私有地に無断で入り込み、勝手に魚を取っているボスの息子

に、連絡を受けて河岸に行って『このやろう~!なめるんじゃー
ねえーー!』と頭に来まして、河の浅瀬に入り網を絞り、魚を
一ヶ所に集めているボスの息子に声を掛けました。
『止めてくれ~!、ここは私有地で、産卵期は捕獲禁止だ』と
怒鳴りました。

その時、私が激怒し『なめるんじゃね~!』と頭に来た言葉を
男がはきました。
『チーノが何を言うーー!』
 私は瞬間切れました。
誰からも、一度も言われた事も無い言葉でした。

いつも背中の後ろのホルスターに入れて隠していた拳銃を引き
抜くと、相手の後頭部のうなじに銃口を押し付けました。
まさに処刑する格好です、『びたりーー!』と凍りついた様に
動きが止まり、相手の素肌に鳥肌が立つ感じで、スーッと血の気
が相手の顔から引くのが分りました。

私はゆっくりと『ここはサルタ州だ、サルタの州法では私有地で、
無断で狩猟や魚取りをしたり、家畜を盗んだり、殺したりしたら、
その場で射殺してもお構いなしだぞーー!』
相手はガタガタと震えだしていました。

後方で見ていたインジオの飯炊き婆さんが『早く支配人のドンに
謝りなさい、そうでないとお前は犬死にだよ~!』と声を掛け
私の横に来ると『まだ若いムチャチョだからーー、ブエノスしか
知らない様だから、許してやって下さいナーー!』と懇願しまし
たが、確かに私に殺気がみなぎって居た様でした。

私は拳銃のハンマーの撃鉄を押し上げると、弾倉のシリンダーが
回転して、かすかな音がしました。瞬間、『ひー~!』と言う
ような声がして、『ドン、ノグチーー!許して下さい、』と言う、
声を絞り出すような口調で、何度もつぶやいていました。

私は撃鉄を戻すと、ホルスターに入れ、『さあ~!雄の魚を
各自1匹だけ取ると後は河に逃がす様にしてくれーー!』と
見物に来ていたインジオに話しました。
インジオ達はそれぞれ魚を取ると、私はマチエーテで網と縄を
切ると、魚達が銀鱗を、きらめかして深みに逃げて行きました。

ボスの息子は町から連れて来ていた、インジオの使用人に網を持
たすと、トラックに戻り、手ぶらで帰って行きました。しかし、
インジオ達が彼のトラックに細工して、エンジンに砂糖きびを絞
ったシロップを入れて、座席にサボテンの綿毛を叩いておいた

ので、トラックのエンジンは焼き付き、ボスの息子は2~3日は
死ぬ様なかゆみと、火ぶくれの様になった皮膚で病院で転げ回っ
ていたそうです。
そして2度と現地に顔を見せる事は有りませんでした。

私の還暦過去帳(130)

私が犬の話を思い出すと、この話も書いて置きたいと思います。
私が47年前にアルゼンチンのサルタ州で農業をしていた頃です、
季節労働者が収穫時期に沢山仕事に来ます。
大抵は近所のインジオでしたが遠くボリビアからも来ていました。

時々、収穫時に来ていた中年のインジオでしたが、何時も犬を
連れていました。ワイフは居なくて子供を一人連れていましたが、
町の近所の部落に親戚がいて、仕事に来る時は子供を預けて
来ていました。

週末は忙しい時も必ず町に帰り、子供と過ごしていた様でしたが、
子供の学校が休みの時には農場に連れて来ていました。
彼の仕事は請負いで、トマトなどの手入れを請負作業する仕事でし
た。トマトの芽かきや、成長に合わせてそれを縛る仕事で、50m

単位で、1本幾らと言う勘定で仕事をしていました。
子供を側の畑に犬と共において、自分は暑い盛りを仕事に精を
出していました。有る日、彼が珍しく仕事に出て来ませんので
様子を仲間に聞くと、彼の子供が嵐で町の高圧電線が倒木

で架線が切れて、誤ってそれを踏んで感電死したと教えてくれ
ました。悲しい突発的な出来事でした。
彼は小屋で酔って寝ていまして、起こしても起きないほど溺酔
して、全ての気力を失っていました。

彼の犬が側でジッと座り、見守る様にして薄ぐらい小屋で座り
込む姿が見られました。私も心配で見廻りの時に小屋に寄ります
と、犬がジッと小屋でうずくまって居ました。
何も犬の食べ物は有りません、水瓶が小屋の中に有るだけで、

私はその小屋に彼にはトウモロコシのお粥と、犬には筋肉の乾肉
を幾らか持たせました。静かな小屋の中で、お粥が入った鉢の
側で犬が心配そうに飼い主を見て居るのが、見廻りで寄った時に
見かけまして、私は酒瓶を小屋から持ち出すと、その中身の
焼酎を全て捨てて仕舞いました。

しかし、仕事には出て来ませんでした。気力を失った様でした。
河の岸辺の水揚げポンプ小屋に見廻りに行った時に、岸辺で
犬を抱いて河の流れを見ている姿が有り、やつれた後姿を今で
も思い出します。時々、仲間が運ぶ食事も残している様でした。

岸辺に座り込む飼い主の顔を、犬が優しく傷ついた彼の心を慰め
る様に舐めていました。私が仲間のインジオに酒は絶対に売っ
たり、与えてはいけないと注意して厳命していましたので、酔い
潰れる事は有りませんでした。

しかし、彼が何処に行く時も、犬は後ろを付いて歩いていました。
週末に焼肉のバーベキューをしていたら、犬がおこぼれの骨などを
貰いに来ていました。アバラ骨の、まだ肉がかなり残った所を
与え食べさせました。しばらくはろくな食物を貰ってはいなかった
のか、かなりやつれていました。

沢山食べて犬も満足そうにして、側の灌漑用水の水を飲んでいま
して、私も安心しましたが、ふと思いついてパンに焼肉を挟ん
で新聞紙に包むと、まだ暖かい包みを犬を呼んでくわえさせ、
小屋を指差して、持ち返る様に指示しました。

犬は私の顔を見上げると、包みをくわえてボコボコに乾いて
埃っぽい道を、嬉しそうに尻尾を振りながら小走りに帰って行き
ました。その翌日です、彼が犬を連れ訪ねて来て、請負いの仕事を
精算してくれと話して、昨日の焼肉のお礼を言ってくれました。

少し精気が戻っていました。これから子供が死んだ現場に十字架
とお花を捧げて、南のリンゴ地帯に、手入れと収穫に行くと話し
て、タバコをトウモロコシの薄皮に手巻きして、吸っていました。
彼は精算した現金を懐に入れると、農場の売店でいくらかの

食料品を買うと、犬と町に続く道を歩き出しました。
暑い日差しの下で、犬と僅かな荷物を持った後姿をジャングルの
木陰に消えるまで見送りました。別れぎわに、『南に下りてリオ
ネグロあたりで、しばらく全てを忘れるまで、そこで仕事をする』
とポツリと話したのを覚えています。

ボコボコに乾いた農道のかげろうの揺らめく中を、犬と並んで
歩き、小さくなる姿が今でも忘れることは出来ません。

2012年1月1日日曜日

私の還暦過去帳(129)

私がアメリカに来た35年も前の年でした。
正月過ぎて家族がサンフランシスコに来ると言う計画で、すっかり
準備して待っていました。早目に仕事をかたずけて帰宅してガラーン
とした静かな家で日本のワイフの郷里広島の田舎に電話して一人、大
晦日を過ごす予定でいました。家族がこちらに来てから正月をやりな
おす考えで、真夜中の零時の新年を待っていました。

十分ぐらい前から花火が上がり、町全体が何か異様な騒音となった
感じでした。2~3分前には下の道を走る車が警笛を鳴らして、何か
静かだった町が騒音で沸きあがる感じでした。
零時と同時に、ポン~!と大きな花火が上がり、それと同時にかなり
の銃器の発射音が連続して聞えて来ました。

『ドドーー!』『パンパンーー!』と時々は『ドーン』と言うかなり
強烈な音も有りました。それと同時に、裏のパテイオの広い窓に、
『サラサラーー』 『ピンピンーー!』と散弾の弾が当たる音がして
います。 一瞬、ぎょ~!として、飲みかけていたビールをおいて、
窓際から離れて外の様子を見ていました。誰か私がこの家を買って引
っ越してきたのを歓迎している感じでした。

『ドーン』と言う轟音が鳴り響くと、直ぐにパラパラと言う音が屋根
や壁に響くのが分り、『こんちきしょう~!やりやがったな!』と言
う感じが心にむらむらと湧いて来ました。当時はまるで野放しの感じ
で、30年も前は銃器での祝砲がライフルや散弾銃、ピストルなど自動
拳銃の連射音も聞えて、『すげー!やはりアメリカでは、やりあがる
な~!』と言う感じでした。

現在私がパソコンを叩いている窓の外では、そろそろ花火が上がり出
しました。現在では静かです、それと言うのも法律で禁止されたから
です。 違反すると、拘留され、罰金と使った銃器類は没収となりま
す、それから音響探査レーダーがピンポイントでの発射地点を割り出
して、直ぐに警察のパトカーがすっ飛んで来ますから、逃げられませ

ん。そんな事で現在は午前零時の新年に実弾が飛んで来る事は有りま
せん、しかし私は翌年には昔、南米での実戦の経験と、イヤと言うぐ
らい射撃はしましたので、それも農場の作物を守る為に、散弾銃を一
日中撃ちまくる事は、肩が青く脹れるくらいになります。一番被害の
多かったのはオレンジとピーマンでした。

オレンジは中の果肉のジユースを突付いて食べます、ピーマンは10
cmぐらいの大きな実で、中の種を食べますのでかなり大きな穴を開
けるので売り物にはなりません。そんな事で経験豊富でしたので、だ
いたいの発射地点は覚えていましたので、次ぎの年の大晦日の午前零

時には準備万端で用意していました。第二次大戦で使用された旧ドイ
ツ陸軍の主力ライフルK98の8MM口径と、ガンショウーで買ってきた実
弾が一山いくらと言う感じで買って来て有り、耳栓をして轟音を避け
る用意もしていました。

その時も同じくドカン!と始まり、なべ釜、フライパンなどを叩く音
が近くのアパートなどからしてきましたが、それそれと!私もワイフ
がオロオロするのを尻目に撃ちました。『ドカーン!ドカーン!』と
連続して弾倉に五発実包を装填していましたので、連射して最終の弾
を撃ち終わり、ボルトを引いて空薬莢を排出しました音が、

『ガシャーン』と言う音と同時に、下のコンクリートにピーンと音を
立てて転がって行くのが分りました。しかしおかしい事に静かです!
空薬莢が転がる音まで聞こえました。気がつくと近所のアパートもフ
ライパン などバンバン叩いていたのが聞えません。はてはてーー!
と思っていたら、

轟音の連続しての発射音で、たぶん近所ではあの日本人が気が狂った
かと思った様でした。後でワイフが話してくれたのでしたが一瞬、
『ビシー!』と言う音の衝撃が窓に走ったと言っていました。銃口か
ら火炎が30cmも吹き上がり肝を冷やしていた様でした。それもそのは
ずワイフなどは鉄砲の『テ』の字も知らなかったからでした。

しかしその年は私の家には散弾銃の弾の雨が降ってくる事は有りませ
んでした。そして近所で私に歓迎してくれた住人もそれ以降はまった
く静かになりました。
それからしばらくして、近所が話してくれた事は・・・・
『お前にはぶったまげた~!』と言っていました。

今の時刻は零時を少し回ったところです、もう静かです。
シーンとして、新年の朝を迎えて居る様です。おやすみなさいーー!