2012年1月25日水曜日

私の還暦過去帳(148)

私もカリフォルニアに37年もながきに住んで、色々な方
に出会いました。アメリカには145カ国からの移民が住
んでいると言うことで、まさに人種のルツボと言う感じです。

つい先日もアパートの管理で来ていたら、そこを下見に来
たかなりの年齢のご婦人でしたが、案内してから少し話す
と驚いた事に、ロシア革命で満州に両親が逃げて来て、

そこで育ち日本に渡り東京に住んで、戦後日本に進駐して
来たアメリカ兵と結婚して、当地アメリカの土を踏んで、
住みついてしまったと話していました。

ロシア語、日本語、英語の三カ国を上手に話して、これ
まで歩いて来た人生の道程を知ることが出来ました。
私が仕事で出会った人で忘れられない人が居ます。
レントハウスの修理の立会いで管理している貸家に行った
時でした。

エアコンのユニットの交換で助手と来て仕事をしていました。
あらかた終り助手はランチを食べに出て、そのまま次ぎの
仕事に行くと言って居なくなり、主人は配線などの取り付け
と、点検をしていましたが、ランチの時間となり裏庭で一緒
にランチを食べ始めました。

彼はかなりの年配で、お互いに同じ年格好でしたので、仲良
く話し始めました。彼は第二次戦争中は海兵隊で、南太平洋
諸島を転戦したと話してくれ、彼がどうしても忘れる事が出来
ない話しを、お前が日本人だからと言って話してくれました。

彼は戦争が激しくなり徴兵で海兵隊に入隊する事になり、
カリフォルニアの当時、日本人が沢山農業で住んで居た
スタクトンの町に居住していた様でした。学校では日本人
がクラスに沢山居たと言っていましたが、戦争が始まっても

急には日本人を憎む事などは出来なかったそうです。
徴兵の検査も合格していよいよ入隊する日に、前の日に壮行会
を開いてくれて、賑やかなパーテイで夜を明かしたと言ってい
ました。

当日両親が戸口で見送りサクラメントの集合場所に行く
時に両親から『必ず生きて帰って来い』とせん別の言葉を
貰い、涙ぐんでいたら母親がハンカチを取り出して、

『さあ!これを持って行きなさい』と手に握らせてくれたそう
です。入隊して訓練を受けて戦地に出陣する時に、母親から貰っ
たハンカチを真鍮製のタバコ入れに小さく折りたたんで入れ、

中には家族の写真も二枚入れていたと言っていました。
密閉出来るタバコ入れは薄くて頑丈で汗にも汚れず、シャツ
の胸ポケットに入れてもかさばらず、時々蓋を開けると、母親

の香水の香りに混じり懐かしい、いつもつけていた化粧のほの
かな香りがして、匂ったと話していました。タバコは吸わなか
つたのですが、タバコ入れは必ず肌身離さず持ち歩いていたと
言っていました。

戦場でタバコ入れを開ける時は、心和む安らかな時間と感じて
いた様です。ある日、戦場の陣地で日本軍の襲撃を受けて、激
しい戦いの後、爆風に飛ばされて陣地の塹壕の中で倒れて居た
様でした。

彼は気が付くと近くに同じ様に日本兵が倒れ、虫の息で横
たわった居た様です、彼のすぐ側で若い日本人兵士の最後を
見詰めていたと言っていました。若い日本兵は乾いた唇を動か
して血だらけの胸で、荒い呼吸をしていたと言っていましたが、

彼が見詰めていると、同じスタクトンの学校に居た日本人学友
とそっくりで、哀れと空しさと、心が詰まって涙が滲んだと話
してくれました。横たわる日本兵の胸も動かなくなり、ただ微

かに唇が動き水を欲しがっている感じで、彼は腰の水筒から飲
まそうとすると全てこぼれ落ち、彼はタバコ入れからハンカチ
を出して水に浸して口に含ませたと言っていました。すると微

かな香水と化粧の香りが硝煙の匂いを吹き飛ばす感じで倒れて
いる塹壕の中に広がり、今まで微かに唇を動かしていた若い
日本兵が聞き取れないような声で『お・か・あ・ーーさん!』
とつぶやいたそうです、

彼もその日本語の意味は知っていたので見ていると、今まで死ん
だ様にしていた若い日本兵が微かに両手を動かし彼の手を掴み、
閉じられたまぶたが微かに開いて、もう一度、今度ははっきり

と聞える声で『おかあさん~! おかあさん~!』と二度もつ
ぶやき、力を入れて彼の手を握り、ハンカチを唇に噛んで微か
な笑顔で彼の手の中で息が絶えたと話してくれました。

彼はそこまで話すと食べ掛けのサンドイッチをランチボックス
に戻し、紙ナプキンを出して目頭を押さえていました。彼は別
れの時に私の手を握り、握手して、『戦争など、人間はどうし
て起こすのだろう、ただ人の殺し合いをするだけなのに、むな
しい事だ、私はあの瞬間から反戦主義者となった』と話してく
れました

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