私の還暦過去帳(144)
私がだいぶ前に、かれこれ30年ほどなります。契約管理して
いたアメリカで言う、コンデミニアムの集合住宅で仕事をして
いた時でした。そこの集合住宅管理は依託されていましたので
殆ど毎日の様に見回りに来て仕事をしていまして、よく内部の
住人達の事情も分る様になっていました。誰か近所の金持ちが
かなり投資で買って、レントハウスとして貸し出している家も
ありました。
私はどのユニットがレントハウスかも覚えて、仕事をしていま
したがある時、東洋人の女性が若い白人の男と入居して生活を
はじめた事を知り、興味が有りましたので注意していました。
それからしばらくして、集合住宅の前にあるバス停に若い東洋人
の15~6歳の女性が降りてきました。近くで仕事をしていた
私に住所を書いた紙を見せて、場所を聞きましたので指差して
教えました。
私は一瞬、あの東洋人の女性の家とすぐに感じました。
しばらくしてプールハウスの清掃を見ての帰りに、先ほどの彼女
が、とぼとぼと歩いてバス停に戻る所でした。何か落ち込んで
いる感じで、容貌は日系人の感じがしますが、髪が少しちじれ毛
で黒人の容貌も有り、しかし何かおとなしい感じの女性でした。
彼女は私を見ると、『トイレに行きたいので、プールハウスの
入り口のカギを貸して下さい』と訪ねて来ました。
私は入り口のカギを貸すと、しばらくして彼女が戻って来て、
『ママは居なかったーー!』と話すと今度は日本語で『日本人
ですか?』と聞いてきました。彼女は少し話せると言っていま
したが、カタコトの日本語でした。
バスは昼間は一時間に一台ぐらいしか通っていません、私もすぐ
にランチタイムですので、仕事の手を休めて話していましたが、
彼女が話す事は、私の幸せな家族の事を考えると少し悲しくなる
感じでした。
彼女は『ママを訪ねてきたけれど、私には会おうともしない、
今は白人の世界に住んでいて、わたしが訪ねて行くと迷惑な
感じをする』と言うと下を向いて唇を噛んでいました。
離婚して、ママは家を出ていったそうですが、どの様ないきさ
つで子供を母親が捨てたかは計り知れない事ですが、彼女の目に
何か、ひかるものが見えたときに、私には心に感じる何かが有り
ました。
そこの集合住宅は私が知っているだけで殆どが、白人で占められ
ていまして、廻りは高級住宅が連なる古い住宅街でした。
公民権運動が始まる前は、その地域の家を売る時は『黒人やアジア
人種には売却してはならない』と仲介業者に一筆入れさせていた
と言う地域でした。それだけ廻りが白人社会で固まっていたから
でした。高級住宅地で一画が500坪の大きな敷地です、昔は
それ以下の敷地では建築許可が出なかったと言う所で、それなり
に格式がある地域でした。彼女はバス停のベンチに座っています
が、バスは先ほど通り過ぎていましたので、かなり待つ事になる
と感じまして、『ランチは食べた~?』と聞きましたら、彼女は
正直に『お金が無いーー!』と答えました。
どこまで帰るのか聞いたら、『バスと電車で一時間半は掛る』と
心許して答えてくれました。
すぐ近くに高校が有りますから、近くには沢山の軽食の店があ
り、コーヒーショップも有りました。近くに止めていた私の
トラックで、ハンバーガーとソーダーを買うと、その暖かい包
みを持って
バス停に戻ると、近くのプールハウスのベンチで食べる様に勧め
『一時間はバスは来ないから安心して食べて』と言って包みを
渡しました。彼女は昔、子供の頃に日本の横浜に住んでいた時に
会った親戚のおじさんと似ていると話してくれました。
彼女は私と話す事で、母親と会えなかった事も忘れて、ランチの
ハンバーガーを口にして、元気を取り戻していました。
私が感じたことは『心の空腹も満たす事が出来れば』と感じた事
でした。
人は皆、両親に愛され、いとおしまれて育てられ、心豊かに育つ
と言う事は、たとえ貧しくてもその子供の人格形勢に多きな影響
を与えると、その時に心に感じました。
彼女がバス停からバスに乗り込む時に明るい声で、『おじさん~!
アリガトウーー!』と元気な声で別れたのが印象的でした。
その後、母親がすぐに引っ越して行ったので、その女性にはその
あと二度と会う事は有りませんでした。
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