2012年1月14日土曜日

私の還暦過去帳(139)

アメリカに住んで、35年の歳月が流れ、私の永の住みかとなる
墓地も造りました。今日はお彼岸の墓参りに行きましたが、現在
は私の息子がそこで永眠しています、日本で42年前に生まれて

直ぐに亡くなり、私の心の中に今でも生まれたばかりの息子の
面影がまぶたに残っています。アメリカに来て、生活も落ちつ
いて、直ぐに墓所を購入して墓を建て、ワイフが書道三段の腕で

書いた文銘を刻んでもらい、石材店のオーナーからワイフの優し
い字体に、他のお客からも是非碑文を書いてくれと頼まれた様
な文字で、墓地の片隅に築かれた墓碑に、これからの百年も残る

文字として、静かに東の空を見詰めている。
そこに日本から連れて来た息子が一番に入り、毎月の墓参りに
訪れる事が習慣となっているが、そこのコルマ日本人墓地は

はるか昔の日本人達の移民の歴史ともなって、多くの日本人の魂
が永の住みかとして眠っています。
サンフランシスコで最初に葬られた日本人は、徳川幕府の軍艦
『咸臨丸』の水夫等三名である。

航海中に発病して衰弱して、1860年2月10日に到着したが、
現地の海軍病院に入院して、
3月22日に咸臨丸水夫、源之助、25歳が死去。同じく
3月30日に富蔵、27歳が死去している。

この両名は艦長の名により、日本国海軍水夫として墓が建てられ
ているが、5月20日に死去した峰吉、(年齢不明)は咸臨丸出航
後で、当時の日本の代理領事であったブロックスが幕府の命に
より墓を建立した。

1870年2月2日(明治3年)に死去した万屋常次郎、泉と言う
人物が横浜で、ミセス・ヘボンについて英語を学び、勉学の目的
でアメリカに来て、サンフランシスコで病に倒れ客死した。
彼がアメリカに勉学で来た学生では第一号と言われる。

1875年日本海軍最初の練習艦『築波』がサンフランシスコ
に来航したが、鈴木、伴寿、稲垣、松島各4名の水夫が病気で
死去した。その後、1880年にも第2回目の来航時にも的場
水夫が死去して同じコルマ日本人墓地に日本海軍水兵として
埋葬されている。

歴史の中に埋没して、忘れられている事が、今日も秋の日に照ら
されて年月を感じさせる墓標が、私の心の中で秋愁の思いを積も
らせていた。

1890年台から1906年頃までは多くの子供と若者の埋葬者
が多いのも特徴で、その頃のアメリカに一旗上げるための出稼ぎ
に来た20台から30台の若者達の墓標の群れである。

1901年7月にアメ行きさんと言われた娼婦が当時の黒死病で
若き命を赤線区域で亡くしている。
高木シナ(23歳)、池田ヨシ(22歳)、稲木ミネ(19歳)と
今では寄りそう様にして、コルマ墓地に眠っているが、初めて

訪れた時は、サンフランシスコ名物の霧に吹かれて濡れて、墓石
が涙して泣いている感じを受けたことが有り、
耳を澄ますと、太平洋から吹き付ける風がすすり泣く様に聞え、
私の胸がグット、込上げる何かがあった。

今日の墓参りは秋晴れの爽やかな日で、静かな墓碑が晴れ渡った
東の空を群れて眺めている感じでした。
貴方も一度、サンフランシスコを訪れたらぜひ訪問してください、
きっと心感じ、深く思いする事が貴方の胸にあると感じます。

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