2012年1月13日金曜日

私の還暦過去帳(138)

アメリカには多くの移民が新天地として、難民や家族の呼び寄せ、
学生として来て、結婚して居残り家族を作り、新しい人生を出発
した人が沢山います。

またアメリカの歴史として移民と奴隷と難民としてアメリカ
に来た人々で成り立つと言う人がいます。その事は私も実感と
して身体で感じます。戦後アジアの諸国から沢山の戦争難民が

アメリカの土を踏んで、全米各地に根を降ろして伸びて行きまし
たが、その中で、私の知合いは台湾からの移民でした。
特にサンフランシスコ湾岸はアジア系が沢山住んでいます。

サンノゼはシリコンバレーとして世界的に有名ですが、そこが
べトナム系の移民の集団で全米一の多さを誇っています。
そこから少し下がった、フリーモントはアフガニスタン系の移民
が全米で一番多い、2万5千人以上は住んでいます。

アメリカ政府の難民政策が寛大で、受け入れも多数の難民を受け
入れたからでした。

私の知合いの台湾から移民して来た方は、苦労して店を持ち、
やっと生活も落ちついて、息子をロサンゼルスの大学に出して
子供の成長を楽しみにしていました。

夏休みも前のある週末の日に、ジェームスと言う名前の、彼の
息子が近くの海岸にサーフインの波乗りに友人達と出掛けて行
き、その前にいつも両親が電話を掛けて来るので、留守番電話
にメッセージを残していました。

『お母さん~!直ぐに夏休みだから、来週は家に帰宅するから、
 僕の好きな物を沢山食べさせて下さい、エアポートまで迎え
 に来て下さいーー!』とメッセージを留守番電話に残して、

サーフインに出かけて、友人が必死で探し、助け様としたが
大きな波に呑まれて帰らぬ人となりました。

両親は直ぐにロサンゼルスに駆けつけたが、全ては終って悲しい
帰宅となった様です、しばらく母親は狂った様に嘆き悲しみ、
悲嘆に暮れて、家に閉じこもって居たようでしたが、有る日

息子のアパートに電話をしたら、同部屋の友人と同じ電話で
番号もメッセージもそのまま残っていて、生前の元気な息子の
声で『お母さん~!直ぐに夏休みだから、来週は家に帰宅する
から、』という声が流れて来ました。

それからと言うものは、毎朝必ず一度は昔の息子に電話を掛けて
声を聞く事が習慣と成った様でした。
同じ部屋の友人もそのメッセージは消す事もなく、彼がそこに住
んでいる間は、そのまま同じ留守番電話をしていたと言う事です。

それからは、母親も声を聞く事が元気を取り戻す要因となって
少しずつ悲劇からの落ち込みを回復して、もとに戻ったと友人が
話してくれました。

その話しをしてくれた友人もつい最近、病気で亡くなりまして
寂しくなり、戦前の日本統治時代に日本語教育を受けた台湾の
古き良き時代の友人がひとりまた、消えて行きました。

私の歳になると良くそのようなニユースが入って来ます。
『年々再々、花は変わらず、再々年々、人同じからず』の言葉が
胸に染みます。

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