2011年12月31日土曜日

私の還暦過去帳(128)

戦争が終り、戦地から復員してくる人がボツボツと郷里の町に見
られる様になった頃でした。私の家族は当時はまだ焼け野原の
市街地から離れた、住宅地の新興住宅地でマーケットを開いて
いました。その頃はまだ子供で、現在では余り記憶も残っては

居ませんが、この話は良く心に刻まれて残っています。
その老婦夫のご主人が目が見えなくて、そのワイフが杖を
片手にして、ご主人を引いて店先に来ます、そして大声で。

『きたきたーーほいなら、きたきたホーイ~!
 アラーーがまだしゃ(頑張れば)はいやー、ホイのホイー!』
と言う簡単で、直ぐに覚えられる唄でした。

かなりの高齢で、戦災で家を焼かれ、まだ防空壕に住んでいまし
たが、かなりの距離をゲタを履いて歩いて来ていました。
すると、直ぐに子供達が、廻りを囲み、今日は何が要るか聞いて
居ました。
米、味噌、砂糖、塩、ロウソクなど全て、生活用品でした。

終戦後まだ日が浅い時期です、食べる物にも困っていた時代で、
皆が助け合い、分かち合い、支え合い、生きていた頃です。

餓鬼大将がすばやく、手分けして近所に知らせに走ります。
まだ朝の食事も済んでいないと言う事も、知らせていました。
それからが老婦夫が門付けの唄を歌うと、湯呑み茶碗に米が
山盛り盛られて、子供達が各自下げた袋に入れられ、子供が

大声で『おばさん~!お米、有り難う御座いますーー!』と
近所に聞える様に、デカイ声で怒鳴ります。次ぎは味噌を竹の
皮に包んで貰い、そこでも大声でお礼を叫んでいます。
袋は直ぐに沢山の生活用品が入れられて、それを子供が担いで

側を歩いています。時には卵や、乾魚なども有りました。
卵など貰うと、米の中に入れて割れない様にして担ぎます。
リヤカーを引いた近所の農家のおばさんが、ネギなど野菜を沢山
持たせてくれ、子供達が全員で『おばさん~!ありがとうー!』
と声を掛けていました。

田舎町の有名人でした。食事が貰えると老夫婦は玄関先で並んで
ゆっくりと食べます、目が見えない主人をかばって時々はオカズ
を茶碗に取り分けて食べさしていました。その時は子供達は
黙って見ていました。時々、子供が『美味しいーー?』と聞いて
いました。二人はうなずいて、黙って食べていました。

食べ終わると、ご主人と二人で並んで、その食事を振舞ってく
れた家の人に両手を合わせて『どうもーーご馳走様でした』と
言うと、門付けの唄をもう一度歌います。その時は子供達も
合唱して歌います。その家人は喜んで『良く寄りやしゃんさった』

と言って、子供達にもキャラメルなどを与えていました。
当時、田舎の助け合いの相互扶助の精神でした。生活保護などが
まだ出来上がっていなくて、近所の近隣の住人がその様な人を
助けていました。全てが終ると、子供の代表が荷物の袋を手に

後を付いて歩き、防空壕の住家まで送って行きました。
そこに着くと、バケツで井戸から水を汲むと、水桶に一杯入れて、
時々貰う炭を割り、火が直ぐに起こせる様にしていました。
子供達の親も、そこの老夫妻の手助けに行く時は何も言う事は
有りませんでした。そして何か直ぐに食べられる物を持たせて
いました。

その夫妻の子供が戦地から復員して来ると、直ぐに息子が近所
の口利きで炭坑に仕事を始めて、鉱山会社の社宅に入り、両親
を引き取り、面倒を見ていました。戦災で焼けた家も息子が
頑張って建て治して、結婚して両親と住んでいました。

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