2011年12月30日金曜日

私の還暦過去帳(127)

私が終戦記念日に思い出す話は沢山有ります、当時の私が育った
環境では忘れられない思いとなって、心に残って居るからです。
この話は戦争が人間の愛と絆をも壊す事無く、悲しい思い出と
して残っていた事実の出来事です。

私が住んで居たのは、九州の大牟田市でした。私の祖父が今から
百年近く前に住み始めたからでした。私の父と台湾から家族で
戦争が終り、引き上げて来ました。当時まだ祖父が住んで居た
家が残っていて、そこに落ちついて生活を始めて、九州弁も話す

事が出来る様になり、確か小学生の高学年の時と思います。
近所で親子二人で生活している家族が居ました。
子供といってもかなりの歳の女性です。その頃35歳は過ぎて
いたと感じます。母親は市の公園課で、その子供の女性は会社で
仕事をしていました。

近所で婚礼が有り、若いお嫁さんが来て賑やかでした。
有る日、近所の友達の家で遊んでいた時に、そこのお婆さんに
婚礼の賑やかさを話して、『どうしてあの綺麗な女の人は結婚
しないのかーー?』と聞いていました。

すると、『まだ子供がそんな事を聞くものではないーー!』と
叱られましたが、お婆さんが『全てが戦争のおかげでそうなった
』と言うと『気の毒な人だよーー!』と言うと、涙ぐんでいま
した。

その話の続きは友人宅でおやつの蒸かし芋を出されて、そこの
友人の母親と食べながら話して、教えてもらいました。

彼女が戦時中の勤労動員で女学校から、工場で仕事をする者、
飛行場で戦闘機の仕上げの磨きと、清掃をする者などに別れて
勤労奉仕の作業をしていた時に、飛行機の受け取り業務で

来ていた、若い海軍の飛行士と知り会った様でした。
戦争が激しくなり、神風特別攻撃隊が編成され、特攻作戦が開始
された頃に、彼女との仲も婚約者としての仲になっていた様でし
た。終戦間際に沖縄に米軍が上陸開始して、特攻作戦も激しく

なり、彼女の恋人もその一人の中に入り、全てを捨てて突入する
攻撃命令が出て、最後の帰郷の許可が出た時に、その二人の間で
どの様な話が交わされ、短い時間を過ごしたかは誰も知りませ
んが、恋人のパイロットは彼女が贈った純白の絹のマフラーを
巻き悠然と手を振りながら、離陸して行ったと言う事でした。

鹿児島突端の知覧飛行場から沖縄の海に向けて、二度と帰らぬ
出撃に彼女がどのような心で見送ったかは知りませんが、悲しい
別れであつたと感じます、身も心も狂う様な別れと感じます。

友人のお母さんが話しながら、目頭を押えて居た事を覚えてい
ます。彼女はその当時、8月15日の旧盆休みには必ず、
恋人が出撃した知覧飛行場の供養塔に行き、お花を捧げて祈り、
帰りに、熊本市内に有る恋人のお墓に参拝して来るのが決まり
と言う事でした。

私が彼女を最後に見たのは、アメリカに移住する為、お別れに
両親の家に帰郷した時、裏の河の土手の上から、近くの橋の
上を歩く彼女を見たのが最後でした。その当時彼女も50歳近い
年齢であったと感じますが、一人者で独身を貫いていると聞いた
事を覚えています。

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