2012年1月8日日曜日

私の還暦過去帳(134)

今年は終戦から70年目の年です、すでに終戦当時の方々は亡くな
るか、高齢で記憶も薄れて当時の話しを聞く事も余り出来なく
なりました。サンフランシスコ近郊で会った方でした。

20年ほど前です、まだ当時の方々が元気な頃でした。
一度、終戦後日本に、アメリカ軍の語学兵として通訳で軍務に就
いた居られた日系2世の方でした。

郷里は何処かと言う話しになり、福岡県の大牟田市が父親の田舎
と話すと『私も軍務で通訳兼、戦略爆撃調査団の一員として、
大牟田を訪ねた事が有る』と話してくれました。

台湾から引き上げて来て、しばらくは親戚のお寺に、お世話に
なっていた短い時期が有りました。そのお寺近くにB25の
爆撃機の胴体の部分が撃墜されて落ちていました。

私も近所でしたので、見に行った事が何度か有りました。
その時、ジープに乗った米兵が数人いまして、何か調査を
して居る感じでした。通訳らしき日系人が説明している様子で
したが、その事は良く鮮明に覚えています。

生まれて初めて、沢山のアメリカ兵を見たからでした。
そして、近所の中学生ぐらいの大きな子供達が、B25の積載
機関銃の弾を、鉄の水道管パイプの中に入れて信管をハンマー
で叩いて、発射しているのを遠くで見ていました。

危険な遊びでしたが、墜落現場には沢山落ちていたと聞きました。
何処かに沢山隠していて、遊んでいた様でしたが、それも直ぐに
朝鮮戦争が始まると、金屑景気が湧いて、アッと言う間に消えて
しまいました。B25の胴体部分の大きな物もそうで、綺麗に
消えていました。

そんな思い出を2世の方と話していたら、びっくりして、
『それは私ではなかったかーー!』と直ぐに答えてくれました。
『近所に鹿児島本線の踏切りが有ったのではーー?』と言う事
で、まさに偶然の一致でした。

彼が話してくれた事は、大牟田市の工業都市、爆撃被害調査
で、かなり詳しく調べたと教えてくれました。
私が見ていたと話すと、『廻りに沢山の子供が来ていたから』
と笑っていました。

B25が撃墜される前に落とした爆弾溝で、夏は良く泳いでいま
した。かなり深くて大きな穴でした。当時は溜池として利用を
されていましたが、近所の蓮根田で、戦時中に捕虜を使って
蓮根掘りをさせていたと聞いた事が有ります。

日系2世と話していて、捕虜収容所の事も聞く事が出来ました。
彼は良く、色々な話しを知っていました。
しかし、アメリカ兵の虐待の事は避けていました。米兵が
劣悪な環境で仕事を強制されていた様でしたので、色々な

トラブルが戦後あったと感じます、彼はさらりと話してくれ、
最後に『戦時中、私の家族はアメリカ政府の強制収容所で生活
していた、監視塔で囲まれ、鉄条網の柵の中に居た』と言うと

アメリカ市民であっても、戦争となれば迫害と苦痛を味あう
惨めな時が有った事を、それもさらりと話してくれました。
彼はそれから語句を強めて、
『この世に戦争は起してはならないーー!』とポツンと言った
事を、いまでも心に残っています。

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