2012年1月12日木曜日

私の還暦過去帳(137)

アメリカのサンフランシスコ湾のオークランドや、アラメダは
戦前にはかなりの日系人が住んでいました。
戦争で強制収容所に送られて、全てを無くしてキャンプから
帰って来ても行く当てもなくて、当時の仏教会や、集会所、教会

などで仮の住まいとして生活して仕事を見つけ、家族で住む家
や貸家を探して、戦後の反日感情が激しい時を過ごしたと話して
くれました。強制収容所を出る時はアメリカ政府は一人当りに
当時の金で20ドルを渡して、退去を命じた様です。

先ず家長が家族に支給されたお金を手元に自分が昔、住みなれた
場所に戻り、つてを頼りに先ずは仏教会や日系の集会所などに
寝泊まりして仕事を探して、家族を呼ぶ様に準備を始めた様で
したが、アパートや貸家を探すのは大変な苦労だったと話して

くれ、仕事も中々、見つからず多くの日系人が戦前からの慣れた
庭園業を始めて独立して行き、そこで資金を貯めた人が温室や
ナセリーと言う植木屋を始めて行きました。
私が昔、知り合った2世は強制収容所から軍隊に志願して、当時

の激戦が続くヨーロッパ戦線に出征する時、最後に家族との別れに
収容所を訪ねて、前線に出動する事を話したら、両親が『私達の
事は心配しなくて、自分の生まれた国に忠誠を誓って戦ってきな
さいーー!』と話してくれたそうです。

部隊に帰還する時に列車の窓から、遠くに見える監視塔に囲まれ
た強制収容所の夕暮れの砂漠の光景を見て、涙が出て来たと複雑
な感情で別れをした当時の光景を思い出しながら話してくれ、そ
の両親も今では亡くなり、自分が生きてヨーロッパ戦線から除隊

して両親をの住んで入るところを探して訪ねて行く時に、バスに
乗り合わせた白人の女が、アメリカ陸軍の制服を着ているのに
日本人が沢山その頃、集まって住んでいた所に来ると、口汚く
日本人の悪口を大声で叫び、聞えがましく喚きたてていたら、

運転手が、バスを止めて『喚くほどに嫌いなら、自分がバスを
降りろーー!』と怒鳴ったそうです、そして彼は『陸軍兵士と
して勲章まで胸に下げている帰還兵だ、感謝の言葉でも言うの
が普通だ、俺はドイツ戦線で日系兵士が、部隊の殆どが消耗す
るほど戦って戦死したのを見た』と言うと、
その女は黙ってバスから降りて行ったと話していました。

彼も帰還して仕事を探したけれど難かしくて、その頃、復員兵に
政府が与えていた奨学金で大学に行き、卒業して仕事を見つけて
アメリカ社会に出ていったと言っていましたが、戦後多くの日本
人が敗戦で困窮する生活から日本に救援物資を送り、援助活動を

して、出身地の学校や、社会に多くの救援の手を差し伸べたので
あるが今では全て忘れられてしまっていると嘆いていた。
戦後の沖縄県に戦争で壊滅した、畜産業の養豚を育成する為に
当時、輸送船一隻分の種豚を募金活動とボランテイアで沖縄に

送り、それから幾年もしない内に戦前の水準まで取り戻したと話
してくれ、沖縄県人の大きな栄養源と戦後の復興の原動力となっ
たと教えてくれました。

いくらアメリカで生まれて、アメリカで教育を受けても両親が
日本語とそしてお米で育てたので、日本の心は持っていると言っ
ていました。そして俺は『ヤンキー、サムライだよ~!』と笑っ
ていました。

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