2012年1月17日火曜日

私の還暦過去帳(141)

私がカリフォルニアに来て、すぐに日系人が集まって開いて
いる、小さな信用組合に加入しました。
お互いに相互援助の役目も果して、多くの日系人達が事業を

起こし、運転資金を借り、家を買う頭金を借りる事が出来ました。
当時、第2次大戦が終り、アメリカ政府が家族一人あたり20
ドルの金額で強制収容所を退去する様に命令しましたので、

当時の日系人達は、手元の現金が無くて、銀行にローンを借りる
事も出来ずに、自分達で信用組合を作り、自分達の金融を始め
たのでした。私も一時、役員となりまして、月末や年度末は

良く事務の手伝いに夜、仕事が終ってから出掛けていました。
休憩の時間にお茶を飲みながら、良く若い私に色々な戦前の
話しや、戦争中のヨーロッパ戦線の激しい戦闘の話しを聞かし
てくれました。

当時かなりの年配の人でしたが、私が日本から来て、年齢的
に一番若かったので、良く話しを聞かしてくれましたので、
色々な話しを現在も覚えています。

その方が話してくれた、戦闘場面の思い出は今でも良く覚えて
います、とても忘れる事は出来ません。印象が深かったと思い
ます。ドイツ領に入りドイツ軍の抵抗が激しくなり、トラック

で前線を移動中に、前方でドイツ軍が陣地を築いて進撃して
くるアメリカ軍を阻止していた様でした。天気も悪くて戦闘機
の援護も得られず、砲兵隊の援護も弾薬の砲弾の輸送が悪天候

で遅れて、わずかな砲撃しかドイツ軍の陣地に打ち込むことが
出来ない状態で、対峙していたと話していました。
かなり広い牧場の開けた場所で、小高い丘に機関銃陣地を築き

そこから狙い撃ちされて身動き出来ない様になって伏せていた
と話していましたが、どうしてもそこを攻撃して潰さないと
前進できず、攻撃命令が出て、小人数で藪の陰から3組に分か
れて攻撃開始した様でした。

中の二組が援護して一組が接近して対戦車擲弾筒と手投げ弾で
機関銃陣地を襲う予定で、激しい機関銃の射撃を受けながら
伏せて前進して、やっと攻撃圏に入り、先ず小銃の先に付けら

れた対戦車投擲弾で陣地の銃眼を狙い、一斉射撃で射撃を止め
最後のとどめは手投げ弾での至近距離よりの陣地の破壊をして
敵兵を制圧をする計画だった様でした。

敵陣地の前で、全員が一斉射撃をして、機関銃の掃射を止め、
一瞬の時間、最終にアタックするマイクと言う日系兵士が、
『行くぞ~!日本語ではバンザイと言うのかなーー!』と言って

彼の手を硬く握ると、自動小銃を片手に安全ピンを抜いた手投げ
弾を持ち、敵の機関銃陣地に走る様に飛び出して行ったと言う事
です、それを阻止しようとするドイツ兵を自動小銃で撃ち、

手投げ弾を陣地に投げ込み、崩れる様に伏せたと言っていました
が、彼は二度と起き上がらなかったと話していました。
吹き飛んだ陣地からは何も反撃は無く、近寄ってマイクと言う

戦友を起こすと、胸を一発撃ち抜かれて眠る様にうつぶせに
なって倒れていた様でした。彼はしんみりして『悲しかったな!』
と言葉を詰まらせていました。

彼の死は生まれた祖国アメリカの為と、強制収容所にいる両親や
幼い兄弟の解放の為と、偏見と人種差別のアメリカ人達の打破の
為に若い命を捧げたと話していました。

戦争が終り、アメリカ大統領が『貴方達、日系兵士は敵のドイツ
と戦いそしてそれを破り、また多くの偏見とも戦った』と賞賛
したことを思えば、第二次大戦中に一番多くの戦死者と負傷者
を出して戦った部隊で有る事が証明している。

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