2012年1月22日日曜日

私の還暦過去帳(145)

私が子供の頃でした。九州の福岡県に住んで居ましたが、炭坑町
で、その頃はだいぶ賑やかに栄えていました。

近所に南方から復員して来た、若い青年がいましたが、未婚で
独身の気楽くさから、よく子供達の世話をして草野球の監督な
どをしてくれました。

本業はプロの競輪の選手でしたが、競技大会が無い時はいつも
子供を集めて、近所の小学校の校庭で草野球の試合を監督して
終ってからは、色々な野球の話しや、戦場での体験を聞かせて
くれました。

ニユーギニア戦線で戦って、最後は餓死寸前で生き残り帰国が
出来たと話してくれました。当時は小学生の低学年でしたが
戦災で校舎が焼けて、二部授業でしたので、午後から学校に
行く事もありました。

特に私の住んで居た炭坑町は景気が良くて、沢山の人が仕事で
町に来ていましたのでその頃は、子供が溢れるくらい学校の
クラスで勉強していまして、大変に賑やかな時代でした。

二部授業でしたが、1クラスが55名ぐらいも居た事を覚えて
います、ですから草野球などは、選手がいくらでも居ました。
監督をしていた青年が、しばらく姿を見せなくてどうしている

かと心配していたら、ひょっこりと来て、草野球が終ってから
『僕は三男だから、結婚してお嫁さんの家族と同伴でブラジル
に移住する事になった。』と話してくれました。

『それまでは草野球の監督は続けるから』と話して面倒を見て
くれ、楽しい試合をする事が出来ました。しかし、いよいよ
ブラジルに移住して、神戸から移民船での出航が決まった時に、

練習試合が終ってから、焼きイモと今川焼を買ってくれ、ラムネ
を飲みながら子供達に話してくれた物語が有ります。
それはニユーギニア戦線で撤退して海岸までくる時に、あと僅か

な距離まで来た時には、すべての食料は尽き、食べる物は雑草と
僅かな熱帯果樹だけで、やっとジャングルを歩いていたと言う
事でした。小部隊を率いていた隊長がマラリアと負傷していた

足が化膿して、一歩も歩けなくなった時に下士官の軍曹を呼んで
『俺はもう余り生きられないから、死んだら俺の軍刀で遺体を切
り、お前達が胃の中に入れて日本まで持ち返ってくれ』と命令を

して、軍曹に軍刀を渡して、『良いかーー!これは隊長の命令だ
誰も拒むことはならぬ、お前達は生きろ!生きて日本に帰るのだ、
そして、あの小高い丘を超えれば、おそらくは海岸にたどり着け
るからーー!』と言うと『この中で誰か生きて日本に帰国したら

俺の家族に会って最後を話してくれ、そして、俺の墓を造ってく
れ』と言うと、それからしばらくして息を引き取ったと言うこと
です、軍曹は命令を実行して、僅かに生き残っている兵隊に

飯盒二つ分を食料として、後は丁寧に埋葬していつの日か遺骨
を探せる様に石をのせ、最後の丘を越えて海岸にたどり着いた
と言うことです。彼はその最後を話して居る時は泣いていまし

たが、なぜブラジルに移住する前に、子供達にその事を話した
かは、当時はまったく分りませんでした。しかし成人して色々な
本も読んで、ニユーギニアの戦時情勢も分り、彼が子供達に残し

た悲惨な戦場の物語を理解することが出来ました。今ではその話
しを聞いていて良かったと感じます。またその事を話すのには、
どのくらいの勇気が要ったかと今では感じます。

戦争の悲惨さと無残さを、これからの子供に話しておこうと考え
た彼の心に今では感謝しています。

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