2012年1月26日木曜日

私の還暦過去帳(149)

私も外国生活が長くなりましたが、食べる物は日本食です、これ
ばかりは変える事は出来ません。日本に帰国してサンフランシス
コの我が家に帰宅すると、ホットして安らぎを感じます。

ここが我が家と感じ、日本ではお客様と言う感じで、もう安住
の土地とは思わなくなりました。ワイフとの二人の墓も造り、
産まれてすぐに早産で死んだ我が子が今はそこで眠っています。

一月に一度訪ねていくのが決まりです、カリフォルニアの青空の
下で、いつか私もこの土地に骨を埋める覚悟での生活ですが、
こと食生活だけはいかに長く住んでも、変える事は有りません。

自己の本能としてDNAに焼きついた記憶は、死ぬまで変わる
ことはないと感じます。私が46年前にアルゼンチンのブエノス
の町で知合った日系二世が、彼はそこで生まれて育ったのですが

ステーキとサラダそしてパンの食事でしたが、最後に冷蔵庫から
御飯を出してくると、私にも勧めて茶碗に御飯を入れて、熱い
日本茶をかけると漬物と佃煮を出して、『お茶漬けだよー!』と
言って食べさせてくれました。

こればかりは親の遺伝だからと言って笑っていましたが、戦前
の移住者は両親が完全な日本食で子供を育てた人が多くて、食事
にこと関しては、『日本食でなくては一日もダメだー!』と何度

も聞いた事が有ります。私の近所に住んでいるハワイからのご主
人は三世、奥さんは二世の方ですが食事は日本食で生活していま
す、私が作る有機栽培の日本のキューリなどをあげると喜んで

漬物やキユーリもみをして、シソの葉を入れて喜んで食べている
のを知っています。日本人が稲作民族としての長い民族的生活
が体の遺伝子まで染みついて、その事をそう簡単には変えること

は出来ないと感じます。アメリカに50年前に白人と結婚して
ながきに住み付いている日本人のご婦人が、やはりご主人が不在
の時や、友達と外で外食の時は必ず日本食を選び、食べていると

話していましたが、日本食を口に入れるという、心やすらかにな
る行為が、今ままでカリフォルニアに住んで、色々なことを我慢
できた一番の大きな要因だったと聞いた事が有ります。

私が南米に移住して、田舎のボリビア国境の辺ぴな田舎町で
農業をしていて、時々思い出して食べたくなる物は、味噌汁と
沢庵。熱い天ぷらソバでした。味噌汁と沢庵は難しいことではな

く材料さえ手に入れば食べる事は簡単でしたが、天ぷらソバと
言うのは、そばつゆの出汁の効いたあの香りと、しゃきしゃき
と歯ごたえの有る、カラリと揚がった天ぷらのエビがなくては

食べた気になれません、時々思い出しては祖国日本で食べた
ソバを思い出し、少しホームシックに掛っていました。
いつか日本に帰国したら特大の天ぷらそばを食べたいと思って
いました。

私が日本に帰国してその願望が実現した時は、大盛りで、上に
載せる天ぷらは二人前と特別注文で、出てきたソバを見て感激
したのを覚えています、天ぷらはソバの上に載りきれず、一人
前は別に盛りつけて有りました。

私はその時は、お茶碗に一杯の御飯をもらい、心ゆくまで食べ
ました。今でもその時の満足感を覚えています。幸せな感じで
全てを忘れて、むさぼる様に食べた満足感は人生の幸せとも
通じるものが有ると心感じました。

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