2021年2月4日木曜日

私の還暦過去帳(762)

移住の昔話、(72) 

時代は刻々と変化し、全ての物事は忘却の彼方に消えて
行くのがこの世の道理ですが、しかし、棄民、余剰人口
政策と言われた、戦前から戦後の政府の移住政策を、立
案、計画して、実行した多くの官僚や、関係者達の殆ど
が何も責任を取ることも無く、安穏と定年まで勤めて、
引退して豊かな年金で暮らしてこの世を去っています。

ドミニカ移住者達の苦難の移住政策で多くの亡くなられ
た人達や、またアルゼンチンに再移住されて来ていた方
に対して、それと、パラグワイでの初期開拓の移民政策の
誤りの責任を誰も取る事無く、歴史にこの事が消えて、全
て過去の事として、忘れ去られています。

「日本の現行法では人の命を2名も奪えば、間違いなく
死刑の判決が出る」その事を考えると、苦難と死に追い
やった官僚と関係者は何も責任を取る事無く、過去に消え
てしまい、今では全てが忘れ去られて歴史の片隅に消えて
行こうとしています。
しかし・・、その様な事で亡くなられた方々の魂は、い
まの現代の若者達が歴史として記憶して、後世に語り繋げ
て行かなければ成らないと感じるものであります。


転移住者は物言わぬ地下の魂を連れていく事が出来なかっ
たのです。この事は現在でも忘れてはいけない事柄と感じ
ます。
パラグアイには現在日本からの移住者は有りません、政府
の移住政策も有りません、パラグアイの日本人移住地も落
ちついて、エンカルからポサダのアルゼンチン側にゴルフ
をしにベンツの高級車で出かける人も居る世の中で、大豆
と小麦の2種類の作付け穀物の安定生産と国際相場の高値
移行で健全経営をする事が出来ます。

時代が変わり、ポサダに行く渡しの船にトランクと布団袋
を乗せて、家族が不安と希望と入り混じった表情でエンカ
ルから離れ行く町を眺めていた情景は過去の昔となりました。
しかし、なぜ日本から全財産を整理して家族を引き連れて来
てジャングルの過酷な労働を耐えて、切り開いた農地を捨
てなければならなかったか、その質問を移住事業団と政府
に向けたい。

しかし移住事業団も無し、政府も全ての官僚が入れ替わり
時代の流れで全て消し去られている、今のパラグアイを見
れば過去の苦難を知る事は出来ない、人の中には思い出し
たくないと言う人もいる、『現在が有り、これからは将来
を見て生きて行くのだから』と・・・、

アマンバイ農協でもコーヒー栽培の間作に蔬菜を作り、町
で夜の市場で売り生計を助け、養鶏を始めて卵をアスンシ
オンに送り、台湾桐を植え付け、原始林から硬木を切り出
して、現金収入を計り、しかしそれでも再移住して行った
のです。
エンカル近郊で油桐の永年作物を、茨城県でも優秀な梨と
桃の栽培者としてその手法で育てて、近所のドイツ人が驚
嘆するほどの短期間で大きな実を作ったが、それが全て売
り物にならないと嘆いていたのを見た。

そこに全て日本から持ってきた資金を吸い取られ、『油桐
の木の間作に植えたトマトとレチュウガで生きたが、今で
はエンカルの町はトマトもスイカも溢れて金にもならない』
と、あきらめてブエノスに出た人と会ったが、全てがある
特定の要因で追い詰められている。

移住者の高知県大正町と広島県沼隈町の比較も私の目で確
かめているが、高知の大正町には1958年頃に訪ねた事
があり、現実に移住前と移住後のパラグアイの生活の両面
を比較してみた事が有ます。
沼隈町の出身で神原汽船の、現在ラプラタで洗濯屋をされ
ている、親戚筋の方ともブエノス近郊で一時、一緒に仕事
をして詳しく転移住の経緯をこの耳で聞いた事が有り、批
判と言う対象物を得たと思います。

当時の農大の先輩でアマンバイ農協の設立にも関り、移住
事業団に勤務されていた方にもパラグアイの詳しい話しを
聞き、また、パラグアイのアスンシオンで、フラム入植地
の造成にも関った農大先輩にも詳しい話しをして、

当時のパラグアイの移住地を自分の足で全部見て、得た結
論が、当時ブエノスに転移住されていたコルメナ移住地の
戦前の第一回移住者、隈部友吉氏の意見と同じとなり、私
自身が最終的に転移住を決意したのです。

それは単身移住者として正解でした。
それは今でも変わりません、去年ブエノスを訪問した時に、
友人がしみじみと『お前は思い切って移住地と頭を切り替
えて行動して良かったな~!』と言ってくれました。

同時期にアルゼンチンに転移住した人の多くは鬼門に入り
異国の土と成っています、その2世は日本に出稼ぎに出て、
全てが過去の出来事と消え様としています。
今では移民船の蚕棚ベッドに寝て、移住した方々も僅かに
なりましたが、私の移住の昔話がこれからの移住を目指す
方々に何かの参考になればと思います。
最後に幾多の異国で亡くなられた移住者と転住者達の方々
に深く哀悼を示します。
終、




2021年2月3日水曜日

私の還暦過去帳(761)

 移住の昔話、(71)


パラグアイ移住者の動向も、今ではその研究と、過去の移動
痕跡を記録に残し、歴史の僅かな1ページを昔話に記す事を
考えています。
また事実は小説より奇なりと言う、特異な記録となる事も有
ります。
パラグアイ最初の移住地、ラ・コルメナの歴史をみて、現在
の日本人の最初の移住者から、4世までの生き方を見ても、
現在の安定、住民のパラグアイ化で現地に溶けこんだ生活と、
地域社会の重要な役割を担っている日系人と感じます。

コルメナのパラグアイで果した大きな役目は、日本人と言う
存在感を広め、勤勉、実直、向学心などと共に、大和魂と言
う、即ち自制心及び思い遣りや慈しみなど、
「義」、「礼」、「智」、「信」、「忠」、「勇」、「孝」等

と徳目を戦前の移住者が持ち合わせて、苦難の開拓に斧を原
始林に向けて開発した事を、隣国のボリビアや、アルゼンチン
などが注目していたと言う事です。
この事が戦後のボリビア移住やアルゼンチン移住などの政府
間協定がスムーズに行ったと感じられます。
フラム移住地の歴史を見ても、入植当時のエンカナシオン市
の人口が僅か3万5千人ほどしかなく、短期換金作物の生産物
が溢れて行き詰まっていた時期も有ります。
そのような時期を過ぎて、現在の移住地が有り、移住者が繁栄
を掴んだのです。
その歴史的事実を反省するとその過度期の生活困窮時代に政府
の政策として、生活保護的な救済が有ったなら、赤子や若年の
移住地で出生した子供達の命とその養育に親も安心して転住の
ストレスをも抱えることなく、生活して、安住の地を開く事が
出来たと感じます。

パラグアイから転移住して行き、移住地に残され、その移住地
の土と返った、数々の魂が有ることも忘れてはいけません。
墓地で見た事をここに書き残して置きたい。

(私の還暦過去帳より)

訪れた開拓地の墓標が思い出される。白木の粗末な墓碑に墨で
書かれ、名前が雨風に曝されて消えかかって、地面に埋められた
部分はすでに白蟻に食はれた哀れな姿で、熱帯の灼熱の太陽に
さらされて、夏草の茂みに静かに立っているその姿を思い出した。

心痛む事は、沢山の子供の歳を書いた墓標が有る事だった。何
も手入れがしてない墓地の片隅に、整然と並ぶ墓標の列は、近
くで鳴く虫の音に、泣き叫ぶ子供の声を聞いた思いだった。

私が訪ねた所は、パラグアイの移住地の墓地で、かなりの人が
ブラジルや、アルゼンチンに転移住して、もはやその土地には
家族は誰も住んでいない訪れる人も少ない場所で有った。

しかし、その中で一ヶ所、夏草を綺麗に取り除き、朽ち掛けて
ぼろぼろになった墓標も側に取り除いてあり、穴を掘った後も
平らにして、その上に花が置いてあった。

墓標の消えかかった文字を見ると、女の子供の名前が有って、
当年二歳と微かに読めた。
誰か隣国に転移住して、生活が安定したので自分の子供を迎え
に来たのだと感じたが、まだ沢山の墓標の姿を見るにつけ、お
そらく遺骨を掘り出しに我が子を迎えに来た人の気持ちが、
子供に対する愛情を感じさせる気がした。

側で鳴く虫達の鳴き声は、数々の子供の墓標の叫び声と感じ
るーー、親を呼び、探している悲しい叫び声と取れた。物言わ
ぬ朽ちた墓標達がその月日の長さを感じ、哀れでならなかった。

次回で最終回と致します。

2021年2月2日火曜日

私の還暦過去帳(760)

 移住の昔話、(70)

『過去を見、現在を考え、未来を予測すると言う賢者の思考』が

有れば、移住者が生活資金にも困窮して、次ぎの生活設計と次期

世代に対する資本金をも稼ぎ、蓄える事が出来ない環境を日本国

政府が見過ごし、放棄していた事は移住行政の大きな誤りと感じ

ます。

その事が適切に理解され、援助されていれば、私が移住地で見た、

『この背中に背負っている子を妊娠しても、降ろす金も無く、育

てる金も無く、十ヶ月お腹に入れて過酷な農作業をして、産んで

育て無ければならない運命は・・!』と、そして貧困の中で避妊

具も買う金も無く、嘆いていた婦人と話した時は涙が込み上げて

来た事が有ります。

そしてその子供は3ヶ月ぐらいして栄養不良で死亡したと聞いた

事が有ります。

パラグアイ国内での日本人戦後移住者の再転住が一段落となった

時期は65年を挟んで、その前後と感じます。イグアス移住地は

パラグアイ縦断国際道路の建設を視野に入れて開かれましたが、

すでに1964年にはブエノス市内で移住地から全てを捨てて、

出て来ていた家族が居ました。

現地環境が日本人に対しては余りに過酷で、生活条件がかけ離れ

ていたと、話していたのを覚えています。

日本に帰国せずに、アルゼンチンに腰を落ちつけた様でした。

長くイグアス移住地に住んで居た方は、ブラジルに大きな目を向

けていた様でした。

その事はブラジルとパラグアイを結ぶ橋が完成して、確かな事

となり、周辺の活気と共に、定住が進みサンパウロやブエノス

などに出ていく人は、単身か勉学の為に出て行く、小人数の方

に限定される感じとなりました。

隣り、アルゼンチンのミッショネス州に出た方も有ると聞きま

したが確認はしていません。

イグアス移住地の近くで農大の学友が、杉野農場を開いた事は、

理論を実践する若い学徒の集団と感じました。

私も若い情熱をボリビア国境のアルゼンチン奥地で、理論を

実践と言う行動で試していましたので、彼等の気持ちが理解で

きました。

何も行動も起さずに、試す事もしなくて、口先だけで理論を捏

ね回すより、実際に行動を起して、貧困からの打破、将来の設

計、次ぎの世代の子供の為に、人生一回の夢を掛けて再移住を

した勇気有る方々に敬意を捧げ、尊敬を致します。

そしてその過程で倒れた方々に深く哀悼を捧げ、その人達の夢

と理想が今こそ花開いたと感じます。

日本の好景気の影響が南米まで到達して、出稼ぎブームが起る

まで、各移住地は平穏の中で成長し、発展していたと感じます。

次回に続く