2021年2月2日火曜日

私の還暦過去帳(760)

 移住の昔話、(70)

『過去を見、現在を考え、未来を予測すると言う賢者の思考』が

有れば、移住者が生活資金にも困窮して、次ぎの生活設計と次期

世代に対する資本金をも稼ぎ、蓄える事が出来ない環境を日本国

政府が見過ごし、放棄していた事は移住行政の大きな誤りと感じ

ます。

その事が適切に理解され、援助されていれば、私が移住地で見た、

『この背中に背負っている子を妊娠しても、降ろす金も無く、育

てる金も無く、十ヶ月お腹に入れて過酷な農作業をして、産んで

育て無ければならない運命は・・!』と、そして貧困の中で避妊

具も買う金も無く、嘆いていた婦人と話した時は涙が込み上げて

来た事が有ります。

そしてその子供は3ヶ月ぐらいして栄養不良で死亡したと聞いた

事が有ります。

パラグアイ国内での日本人戦後移住者の再転住が一段落となった

時期は65年を挟んで、その前後と感じます。イグアス移住地は

パラグアイ縦断国際道路の建設を視野に入れて開かれましたが、

すでに1964年にはブエノス市内で移住地から全てを捨てて、

出て来ていた家族が居ました。

現地環境が日本人に対しては余りに過酷で、生活条件がかけ離れ

ていたと、話していたのを覚えています。

日本に帰国せずに、アルゼンチンに腰を落ちつけた様でした。

長くイグアス移住地に住んで居た方は、ブラジルに大きな目を向

けていた様でした。

その事はブラジルとパラグアイを結ぶ橋が完成して、確かな事

となり、周辺の活気と共に、定住が進みサンパウロやブエノス

などに出ていく人は、単身か勉学の為に出て行く、小人数の方

に限定される感じとなりました。

隣り、アルゼンチンのミッショネス州に出た方も有ると聞きま

したが確認はしていません。

イグアス移住地の近くで農大の学友が、杉野農場を開いた事は、

理論を実践する若い学徒の集団と感じました。

私も若い情熱をボリビア国境のアルゼンチン奥地で、理論を

実践と言う行動で試していましたので、彼等の気持ちが理解で

きました。

何も行動も起さずに、試す事もしなくて、口先だけで理論を捏

ね回すより、実際に行動を起して、貧困からの打破、将来の設

計、次ぎの世代の子供の為に、人生一回の夢を掛けて再移住を

した勇気有る方々に敬意を捧げ、尊敬を致します。

そしてその過程で倒れた方々に深く哀悼を捧げ、その人達の夢

と理想が今こそ花開いたと感じます。

日本の好景気の影響が南米まで到達して、出稼ぎブームが起る

まで、各移住地は平穏の中で成長し、発展していたと感じます。

次回に続く

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