2013年7月31日水曜日

私の還暦過去帳(401)

 霧の思い出話し・・、

カリフォルニア州のサンフランシスコ周辺では、1月のこの時期に良く霧が
出て、一日中、どんよりと肌寒く、しっとりと濡れる霧が出ている事があり
ます。
何となく冬と言う実感を味わうことになりますが、サンフランシスコ市内で
はこれが毎日の様に続くのですから、慣れないと少しばかり嫌な気分に
なりますが、これも少しばかり美化して、歌にまで成っています。

シナトラが唄った『霧のサンフランシスコ』などは中々情緒があるもので
すが、実際にゴールデンゲート・ブリッジの橋げたの先が、霧の中にぽ
つんと突き出て居る姿などは、中々見事なものです。

私が住んでいる地域はサンフランシスコから離れて、少し郊外となりま
すが、今時期はサクラメント河周辺から湧いてくる濃い霧で覆われる事
が有ります。しかし、車で3分も走ると晴れて居る場所もあります。

少し盆地ですから霧が出た時は、坂を走り降りると霧の中に飛び込むよ
うに先が見えなくなります。
私も車を運転して霧の中を走る事は何度も致しましたが、特に印象に残
るのは南米のアルゼンチン北部に上って、サルタ州まで行くと内陸性気
候の寒暖の差が酷いので、時々夜霧が地面を這うように漂っている事
があります。

幻想的な神秘性を秘めて、地面をまるでドライアイスの白い白煙の様に、
流れて漂っている姿をいまだに思い出します。

一日の寒暖の差が酷いので、地面の暖かい地表に冷気が冷やされて
霧になると思いますが、半砂漠地帯の荒涼と塩を吹いた大地を、真綿
の柔らかい純白の色がゆっくりと流れて行く様は、幻想的な光景です。

特に日が暮れて、街灯も無い昔の田舎の国道です、単調なエンジンの
音以外は何も無い道中で二つのヘッドライトの明るさだけを頼りに走る
トラックの中で、遠くに霧の中に微かに霧の流れを抜けて光るヘッドラ
イトを見つけると、暗黒の闇からホッとする安らぎと、輝きの気持ちが見
えたと感じます。

真夜中の2時過ぎ、すれ違う車も45年以上も昔の南米奥地の田舎道
です、30分に一台あるかどうかの交通量で、轟音と共にすれ違うトラッ
クのヘッドライトの輝きが、霧の中から蛍の輝きの様に瞬いて見えて来
て、アッと言う間にすれ違う車の窓に、手を振る姿を見て、神経がホッと
和らぐ感じでした。

人それぞれに思い出として霧にまつわる物語があると思いますが、人
様の話しとして聞いた事ですが、パラグワイのエンカナシオンからアス
ンションに行く小型バスで乗り合わせた中年過ぎの男性が、早朝の出発
で朝霧が残る途中の休憩

所の裏の広々とした草原に流れる霧を見ながら、『満州で現地召集を
受け、出征する朝に妻と子供に見送られて、集合場所に霧の中を歩い
て行く時に、見えなくなるまで手を振って別れを惜しんでくれた妻子の
姿を思い出す』とポツリと話してくれた事を思い出します。

かなり離れて振り返ると、一瞬の間、霧の流れが切れて妻子の姿が見
え、その時の、立ちすくむ姿が心に焼き付いて離れないと話していまし
たが、切ない別れの一瞬であったと感じます。

戦場に出征する夫を見送る妻子の別れが、二度と再び会えない別れ
となる事もある見送りです。満蒙開拓団員であった経歴の人でしたが、
私はその時別れた妻子と再会出来たか、とてもその方に聞く事は出来
せんでした。

2013年7月30日火曜日

私の還暦過去帳(400)


 私のお勧め映画、『アバター』

映画の歴史を変え、映像革命を開いた映画として歴史に残るSF超大作
映画と確信致します。
70歳近いこの歳で、この様な映画をこの目で見るという事は、昔を思え
ば夢の様な感じが致します。 昔の白黒フイルムの映画で、画面も狭く
画面の声が聞こえるだけの音でした。
それからしたら今日、この映画の画面は私の度肝を抜くのには十分で
した。
今日の私のお勧め映画は、ハリウッドの巨星、ジェームズ・キャメロン
監督製作の3D三次元映画で次世代の、映画史に残る超大作と感じた
『アバター』と言う映画です。

ジェームズ・キャメロン監督は過去に、いまだ興行収入世界一の記録
が残るタイタニックの映画の製作者でもあります。

今回の映画はこの歳まで見た映画で一番ショックと、感動とそのデジ
タル画面での奇麗さ、鮮明さ、躍動するシーンの構成など、2時間42
分と言う上映時間が短く感じた映画と言う事をお知らせいたしておき
ます。

まさにこの文章を書いているこの時も、映画のシーンと音楽が頭に響
いています。
それだけ私に衝撃を与えたSF超大作映画と思います。

その事は、端的に一言で言うなれば・・、それはまさにー!

『映像革命』を監督がこの世界で果たしたという事と思います。

彼が構想14年、映画制作期間4年と言う歳月を投入して撮影された
事は娯楽映画としても一級の作品と誰もが感じる事と思います、その
一番良い事例は現在の興行収入が世界で1番の巨額な金額を毎週
維持している事は、この映画の人々の期待と、見たいという願望があ
るからと思います。

上映が終って出口から出て来る観客の人々が、唸る様に『凄いー!』
の一言だとか、いまだにドキドキするとか話して居たのを聞いて、映画
が終ってからの私の思いも同じでした。

それから私の真実の感想ですが、『映画もついにここまで来たか!』
と言う実感でした。
ストーリーは未知の惑星のパンドラを舞台に繰り広がれる、貴重な
鉱石を狙う人類と先住民族との戦いを画いたSF映画です。

映画のドラマも筋の通ったストーリーで画かれており、人類の欲望の
為に武力でパンドラ星の自然豊かな彼等の里を侵略、破壊するという
事を画いて、反戦と自然環境を守るという、意図を強く観客に訴えてい
ます。

実際の詳しい内容は、貴方ご自身の目で鑑賞してからご自分で納得
して下さい。

私の個人的な鑑賞能力ですが、この映画が観客の心まで掴み、その
人間の心の中のどこか深い所まで取り込んでしまうという力がある事
を感じさせられました。

またタイタニックの映画でも流れていた音楽を覚えていられる方が沢
山居ると思いますが、この映画も同じく同じ映画音楽監督の下で作曲
されています。

バックサウンドで流れるこの映画の音楽も次回のアカデミー賞に輝く
と私は感じて居ます。
優雅で躍動する旋律は観客の耳に大きな感動と感激の印象を深く、
強く印象に焼き付けると感じます。
レオナ・ルイスの新曲、『I See You・・』は映画アバターの愛のテーマ
ソングです。

鑑賞、お勧め度は:120%、(子供達にお勧めです。)

私の個人的な感想としてまた、この映画を映像革命を果たしたという
観点から再度観て見たいという衝動があります。

上映時間:2時間42分

監督:ジェームズ・キャメロン

映画『アバター』の公式サイトです。  
http://movies.foxjapan.com/avatar/?foxad_id=ggl_adwords_avatar_091007_0

今回は公式サイト掲載で配役、他の映画制作情報は省略いたします。

2013年7月29日月曜日

私の還暦過去帳(399)

 
寿司飢餓症候群発病

私はついに寿司飢餓症候群を発病してその症状は重症でした。

ワイフも同じ病気の様で、これは重大な家庭の危機となります。
そこで・・・、
夫婦してこの際、新米も手に入った事などで治療に掛かる事に致しました。
これが治らないと身体はしおれ、力も入りません。

この病には良薬が有りますので、治療は難しいものではありません。
早速です、今日のランチが終ると、二人していそいそと出かけました。
それは、マグロの塊を買いに出かけたのです。

今日はマグロが入荷する日です。お店に行くと真っ先に行く先は
お魚売り場です。ありましたー! 鮮度の良いマグロが・・・・!

早速家に持ち帰り、漬けマグロに致します。

この漬けマグロは、ある日、テレビで見ていた時に、寿司の美味しい店の
紹介で、そこの板前が店の味として、マグロのトロ以外は、漬けマグロに
してお客に供して居たからでした。

その味も、お客の人気もたいした物でした。そこで美味しく頂く事に
関しては、我々夫婦はひけを取りませんので、かなり前ですが試して
見たところ、味も良く、食身も良くて、すっかり気に入りまして、マグロは
漬けマグロに致しております。

サッと熱湯に通して、氷水に入れて絞めますので、食感が良くなります。
それを醤油と酒、ミリンなどで作ったタレに浸しておきます。
これが良い味で、残ったマグロはマグロ茶漬けとして使います。

タレにゴマを磨った物を入れ足して、刺身状に薄く切って漬け込み、
それを暖かいご飯の上に並べて、これも熱いお茶を掛けてパラパラとネギ
などの刻んだ物を入れて頂きます。私は少し昆布茶を入れるのが好きです。

さて、新米を炊き、寿司酢を混ぜて、その頃には『寿司飢餓症候群』
の症状もピークに達して、生唾がごくりと出ています。

せっせと用意をして、出来上がった品々を並べて、熱燗のコップ酒で軽
く口と胃を慣らしてから、いただきまーす!と良薬の薬を 口に致します。

あら不思議・・!一口、二口と食べると、スーッと心の重い思いが吹き
飛び、ほかほかの心地が湧いてきました。

新米の米粒が立った様なご飯です、これは日本人にしか分からない様
な心意気を身体全体に感じます。

あー!ありがたや・・、濃い深蒸茶などをススルと、もうすっかり身体中
に良薬が効いて居る事がわかります。

貴方も寿司飢餓症候群を発病したら、私の様に美味しいお寿司を、お腹
ポンポコリンに食べて心行くまで満足したら、あら不思議、一日で全快す
ると確信致します。

2013年7月28日日曜日

私の還暦過去帳(398)


日米開戦の日、

ハワイ時間、12月7日は日本帝国連合艦隊空母群が真珠湾を奇襲
攻撃した日です。
アメリカでは今日は星条旗を掲げて、記念日に敬意を表している人が
居ます。

23年ほど昔ですが、私がアメリカに来て最初に購入した家から、二番
目の大きな家に引っ越して来た時の隣の住人で、その戦前生まれのご
主人が生きている間は、必ず我が家の隣の一番見える所に、わざわざ
これ見よがしに星条旗を掲げていました。

私は最初は、なんだろう?と考えていましたが、直ぐにその意味が分か
りました。彼はおそらく日米開戦時点では兵役には行く前だったと思いま
す。当時の彼の子供心に何か感じていたと思います。

それを私が完全に無視して、ハロー!ともいわない横柄な面をしていま
すので、益々気に触ったと思います。何処にでもその様な人間は沢山い
ます。

少しでも自国の悪口とか、それと、ご本人が感じた事があると、それこ
そ、目を剥いてまるで子供の様な態度と、そぶりで悪態を付いて、幼稚
な振る舞いで相手をこき下ろして来ます。

その様な事にも何処吹く風です、隣は益々いきり立ち、まるで幼稚な子
供の様に難グセを付けて来ましたが、これも黙殺です、勝手にしやが
れー!
と言う事で、平気の平左で居ますので、どちらかと言うと、ざまー!見
やがれという感じでいたのですから、相手が頭に来て、酒を飲んで真っ
赤な顔で睨んで来ます。
一度などは塀の上から顔を出して、何か言い出しましたが、見向きもせ
ず、無視です。これには相手もお手上げ?と感じたらしく、それ以来は
少しはおとなしくなりました。

それには少し理由があるのです、かれこれ23年ほど前でしたからその
頃はパソコンも無く、目も医者が驚くほど良くて、週末は趣味の射撃に
通っていました。
大口径ライフルの射撃です、当時はまだ軍用弾の放出品が格安で、弾
薬箱のままで購入する事が出来ました。弾薬箱を担いで帰ってきた事も
あります、そして良く射撃をしていました。

50mぐらいの近距離でしたら、100発撃って、100発全部、9と
10の黒点に全弾命中させていました。その標的用紙を持ち帰り、何枚
もゴミのリサイクルの箱の上に捨てていました。

ある日、隣の住人が恐る恐るそれを覗いているのが分かります、その時
は拳銃の38口径で打ち抜いた標的用紙も何枚かありました。
それも9と10の黒点を奇麗に丸く撃ち抜いて空洞に穴が開いていまし
た。
それからです、何も言わなくなりました。私を見る目も、何か恐れている
感じでした。私は一切沈黙して何も言う事無く、私の庭も近所の何処より
も奇麗にしていましたし、パーテイなどを開いて大騒ぎなどもする事無く、
借りて来た猫で静かに住んでいました。

そのうちに隣の住人が病に倒れてしばらく入院して亡くなりました。
その次の家の同じ歳の住人も奥さんが癌で亡くなると、家を売り引っ越し
て行きました。
そして近所と隣人の家で、真珠湾攻撃の記念日に、星条旗がはためく事
がなくなりました。
今ではテレビも昔のようには特集を組んで報道する事も無く、朝の二ユース
で短く放送している位です。

私も今朝のテレビで、今日が日米開戦の日かと思い出したぐらいです。

今では歴史は遥か遠くになりにけり・・、

2013年7月26日金曜日

私の還暦過去帳(397)

欲と破滅

そろそろ33年も昔です、私が知り合った女性でしたが、近くでしたのでそ
の方が子育てを終わり、不動産ブローカーの仕事を得て、最後は全てを
無くして失踪された人でした。

中国人のその女性はかなりの教養もある方でした。ご主人は最先端のIT
の研究員でかなりの収入も有ったと聞きました。

その方が私に紹介したのは当時、香港や台湾、シンガポールなどからア
メリカに投資をする方や、移住して来てサンフランシスコ周辺に不動産を
購入する人の仲介をしていたようでしたので、多くは裕福層の投資家や
移住者でした。

それらの方々は全員中国人か華僑と言う人達でした。台湾からの人も沢
山居ました。不動産を購入しても、商業物件などは管理人が必要でしたが、
小さいアパートやオフイスビルなどは、私のような何でも屋で、簡単に管理、
修理などをこなせる人間を探していました。

そこから付き合いが始まりましたが、香港を中国に返還する前が、一番多
くの管理物件を私の仕事に得ることが出来ました。
その様な仕事が増えると、中国人や特に台湾人たちの間で、日本人と言
う事で信頼され何でも任される事もありました。

移住してして来て、先ず不動産を購入したら車です、詳しく比較した車種
の性能を教えて、中古車になったときも良い値段で売れる車種を紹介い
たしました。

台湾人が懸念していたのは、香港が返還されると次は台湾になるかもし
れないと言う事を考えての資本移動でした。サンフランシスコ周辺は中国
人でも広東系、シンガポールから華僑という、広東系の人達が多く移住し
て来ていました。

ベトナム人や中国系ベトナム人も町を作るぐらいの大きさで、ショッピング
センターもサンノゼにあります。
私が知りあったその女性は、ビジネスが繁盛してかなりの収入もあり、
オフイスでトップの成績を何度も取っていたと聞きました。

当時はリンカーン、コンチネンタルの高級車を乗り回していました。
良く中華料理屋でふと声がするので見回すと、大きな食卓を占領して何人
ものお客と会食しているのを見た事が有ります。

その頃が一番盛況な時期だったと思います、彼女が住んでいた地域は
かなりの良い住宅地区で家も大きな邸宅でした。
その隣の家が私が長く管理していた家で、主人は大規模に手広く不動
産管理会社と保険会社の代理店を持ち、オークランドにはオフイスも構
えていました。

そんな関係で色々なノウハウを教えて貰い、時には私も近くの現場では
修理なども手助けいたしましたが、ある日、その家で仕事をしていたら主
人が出て来て、隣人のトラブルを教えてくれました。
隣の中国人のご主人が家を出て行って、別居したと話していました。

二人の子供達も大学を出て一人は就職して、あとの一人は自分で独立
して生活して居ると話していましたが、子供達が親が別居して別れた時
に、荷物を取りに来て私に話してくれたと言っていました。

家庭崩壊です、それもブラック・マンデーの前に、バブルで不動産の活況
の時期にその女性が中心となり、オフイスビルにかなりの人達の資金を
集めて投資してそれが、もう少し、後わずかでもっと値上がりすると、投資
家達を引きずり、バブルが弾けて全て暴落して、その不動産ローンも支払
い困難となり、債権者に追い回され、家には石を投げられ、抵当で入れて
いた不動産は全て差し押さえられ、一時は自宅にも裁判所の張り紙がし
て有りました。

その頃はフォードの一番安い乗用車のピントという中古車に乗車していま
したが、それも故障して動かなく、自宅の前に放棄されていました。
その後、困った母親を見かねて子供が自分のお古の車を与えていたよう
です。
それも事故を起こして修理する事も無く、ボロボロの状態で走っていました。
ご主人にも逃げられて離婚して、子供達も独立して家に寄りつかない状態
で、家は債権者達に投げられた石で窓ガラスは割れ、それをダンボール
で塞いでありました。

ゴミ代が払えず、ガレージの中にはゴミが袋に入れて重ねてあり、ペイント
は剥げ落ちて寒々しい様子でした。嵐の時期に家の横に植えられていた
松の大木が、枝降ろしも出来ない状態で、屋根に大木の枝が嵐の大風で
穴を開けて、ブルーシートで塞いでありました。

毎週、隣の不動産管理会社の社長さん宅に行きますので、その様子が手
に取るように分かります。そして色々な情報もその社長さんが教えてくれま
した。
その方には、不動産関連の仲間が沢山居るので、情報は直ぐに知る事が
出来たようです。なぜか・・、彼女が金・金・・、と儲かるからと走り回ってい
た時代を思い出していました。
私が用事でオフイスを訪ねていくと、大きな部屋を貰い、デスクの前で電話
で話して居た姿を思い出します。

彼女を最後に見たのは、最後まで奮闘して所持していた家も、債権者に
裁判で差し押さえられ、競売されて、住宅の玄関に退去命令が張られて、
僅かな荷物をガレージから出して事故でボロボロになった、子供から貰っ
た車に荷物を積み込んでいる時でした。
ガレージにはベッドや家具がそのままコンクリートの床に並べてあり、そば
にはゴミ袋が山と積んで有りました。

その時、隣の不動産管理会社の社長宅で仕事をしていたのですが、何度
か車をスタートする音がしていましたが、エンジンが掛からず困っている
様子でしたが、最後にやっとエンジンが始動して、表の道路に出て、車の
窓を開けて自宅をしばらく眺めていましたが、ハンカチを取り出して涙を拭
くと走り去って行きました。

ガレージの家具類はそのまま放置されていました。
私は空しい気持ちで物陰から見送りましたが、仕事が終わり自分のトラッ
クに戻ると小さな蘭の鉢が車のボンネットに置いてあり、メモが残されてい
ました。

『お世話になりました、もし良かったら育てて下さい。』と書いてありました。

その後、風の便りで、一時期は弟の家で世話になり、それからどこかの宗
教団体に参加して、そこの農場で生活していると聞いた覚えがあります。

それにしても自分の金銭欲で家族離散して、人生の破綻までしなくてはな
らなかったか?私には今でも考えさせられます。

2013年7月24日水曜日

私の還暦過去帳(396)


便利な世の中になりました。

かれこれ38年の歳月をカリフォルニア州で過ごしましたが、昔からす
ると格段に便利になったと感じます。

インターネットにしても、今では格安の24時間使い放題の月極定額
料金で、これもテレビや電話も同時で契約すると、何とー!全部込み
で、99ドルで2ヵ年価格据置保証というオファーが来ています。

なんだかドンドンとハイスピード接続となり、値段も安くなってくる事を考
えると、これは便利になったと思います。
ありがたいことに競争も激烈で私の地域では3社がお客の取り合いをし
ていますので、値段が安くなる一方です。

私がインターネットを始めた頃は、電話回線接続で、時々は切れたりす
る事が多くて、インターネット電話もダメで、ダウンロードなどは20分
とか、30分も掛かった時があります。

それからしたら今では、画像送信などは一瞬で済んでしまいます。 電話
も38年前に来たばかりの頃は、日本まで最初の3分が3ドル近い値段
でしたが、後は1分間80セントぐらいでした。
今では一番格安の電話は1分2セントぐらいで日本まで掛けることが出
来ます。
昔は雑音が入る電線ケーブルでしたが、今では最新のファイバーグラス
のデジタルですから、雑音やエコーも無くなりました。

インターネットのスカイプ電話を使用すると、スカイプ同士では無料で画
面を見ながらテレビ電話の様に話す事が出来ます。

インターネット接続だけで写真やビデオまで簡単に何処でも送る事が出来
ますので本当に便利な社会になったと感じます。

今や写真も自分が焼き付けしたい写真があると、これもインターネット経
由で画像をストアに送ると、1時間もしない内に店に行くと、焼き上がっ
た写真を手にすることが出来ます。

写真のファイルやアルバムも要らなくなりました。 値段も格安で、プリン
ターのカラーインクと印画紙を考えたら安いと感じます。
いつでもアクセスして、そこの店のアルバムをクリックするだけで写真も
見る事が出来、また写真焼き付けの注文が出来ますので重宝しています。

銀行も昔は小切手帳を注文して、支払いは小切手を郵便で送っていまし
たが、今ではオンライン・バンキングでこれも送金などは簡単にクリックす
るだけで済ませてしまいます。
払い込みは無料で相手方に払い込んでくれますので、切手代42セント
が不要です。

残高参照や払い込みなどの確認も、パソコンで瞬時に確認が取れますの
で、これも重宝して、なくてはならない文明の利器と感じています。

テレビも昔はアンテナで受信していたのが、今ではケーブルになり、覚え
きれない数のチャンネルがあります。これでNHKやフジテレビなども見
る事が出来ますので、これも便利だと心から感じていますが、衛星放送
のチャンネルを別に有料で契約すれば一日の内、16時時間以上は日本
語の放送を見る事が出来ます。

全てが様変わりする世の中に必死に付いて来た私ですが、もとクリントン
大統領が言った言葉を思い出します。

『現代ではパソコンが出来なければ、知的貧困者となってしまう・・』と言
うこの言葉は正解と思います。

2013年7月23日火曜日

私の還暦過去帳(395)


洗濯今昔物語、

洗濯と言っても、それは国が違えば洗い方も違い、様々な感じが致
します。私の家族では長男と娘夫婦が去年の暮と、今年の夏でした
がアメリカで売れ筋の洗濯機、LG韓国製の洗濯機と乾燥機をセット
で買いました。

これは先ず長男がインターネットで商品調査のコンスマーレポートなど
を読み、調べてから、ユーザーのコメントなどを読んで決めた様です。
これは前から洗濯物が出し入れできるタイプでドラムがスピーンして洗
濯するやり方です。
新しい機械は音が静かで節水型ですから欲しいと思いますが、現在
の洗濯機が元気に動いていますので残念です。

今日の22日のTVニユースを見ていたら、年寄りが大事に50年
間も使用した乾燥機が博物館に展示されるという事で、新品と交換し
て貰えたと言う事をTVが報道していました。
とか言う私の家の乾燥機も35年間も使用している機械です。何度か
故障して、そのたびに修理して使用可能になり、現在も使っています
が、冬場だけ使います。
感心な事に、今でもパーツが買えると言う事が驚きです。

カリフォルニアは4月を過ぎると、9月の終わりまで雨らしい物は降り
ませんのでエネルギー節約にもなりますので外で乾燥させています。
何しろ夏などは乾燥が激しいので、大抵の物は2時間程度で乾いてし
まいます。

洗濯物ではありませんが、渋柿を剥いて干し柿にするので外に干して
いたら、今朝辺りは外に出す時は『重いなー!』と感じながら日の当
る所に干していました。
夕方それを家に入れる時は、何だか軽くなった様な感じが1日で致し
ました。それだけ乾燥していると思います。

でも洗濯の話で私が一番驚いたのはアメリカ人が、自分の運動靴まで
洗濯機に投げ込んで洗うという事を聞いて私もびっくりとしていました。
洗ったあとは、それをドラーヤーの乾燥機の中に投げ込んで乾燥させ
るという横着なやり方だそうです。

アメリカの洗濯屋でもコインランドリーでは強大な回転式の布団などを
丸洗い出来る大型が有ります。私の家でも時々利用致しますが、これ
は便利な機械と思います。
でも乾燥まで全部機械でドライヤーに入れて済ませると、かなりの金
額に成りますので、我が家に持ち帰り外の天日で乾燥させています。

洗濯も所違えば洗い方まで違いますが、インドに居る次男のアパート
に来るお手伝いさんが洗うやり方は、先ず来たら直ぐにバケツに洗濯
物を洗剤につけておきます。
他の仕事をしながら様子を見て、頃合いでシャワールームの床で、
手でごしごしと押し洗いをしていました。
洗濯物の絞りが緩く、ポタポタ水滴が落ちる様な洗濯物を干していま
した。
次男が言うことには、ここインドでは洗濯機より仕事を増やす為に使用
人に洗ってもらうほうが簡単で良いと話していました。

インドではカーストが決まっていて、お手伝いさんはトイレの掃除はし
ないと言う事でした。炊事洗濯などは勿論OKです、部屋の掃除も
モップで奇麗に床を拭いてくれますが、トイレは次男が自分で掃除を
していたようです。

この歳まであちこちの国で洗濯をして見て来ましたが、今でも忘れら
れない洗濯のやり方は、私がアルゼンチン奥地のボリビア国境で農業
をしていた時代に農場に働きに来ていた労務者達が、それこそ着たき
りスズメの一枚きりと言う、究極の何も無い生活をしているインジオ達
が居ました。

彼等の洗濯は気候的にも、緯度的にも暑くて乾燥地帯でしたので、
洗濯しても直ぐに乾きますので、休日、河岸に人が何人か毛布に包ま
り、かたまっていますので、最初は何事かと思っていたら、洗濯して
も代えの衣類が無いので裸で毛布に包まって乾燥するまで待っている
という事でした。

日当たりの良い岸辺に並んで話などしながら、焚き火でマテ茶などを
飲みながら服が乾燥するのを待っている姿を思い出します。
彼等は石鹸などは数人で1個、硬い洗濯石鹸を買い、それを廻して
使っていました。

確か私が居た農場は南回帰線から100kmも中に入った場所でし
たから、夏は乾燥が激しく野菜は日焼けして無理でしたが、冬は温室
など必要なく生産できましたので、ブエノスなどが冬の時期に、夏野菜
などを生産してトラックで送っていました。

45年も前です、当時の南米奥地ではインジオ達が、生活資金の現
金収入を得るために農場の仕事をしていましたが、お金が貯まるとこ
れで十分と仕事を辞めて帰られたのには困りました。

時々、インジオ部落の近くに魚釣りなど行った時に、双眼鏡で岸辺の
洗濯場辺りを覗くと、女性も水浴びがてら、全裸で洗濯 している様を
見る事が出来ました。
そして側の岸辺に花が咲いたように洗濯物が干してあるのが見えました。

2013年7月21日日曜日

私の還暦過去帳(394)


 秋深し隣は何を喰う人ぞ・・、

とか、何とか言いますが、世界中で収穫の秋とか、食欲の秋とか言って
何かと美味しい物を口にしたいと考えている人が多いと感じます。

私などサンフランシスコ郊外に住んでいると、日本食品などは何でも買え
て、お金さえ出せばなんでも御座れの様に感じます。

先日も最近開店したばかりの香港系の東洋食品スーパーで、大きな生ウ
ニが売っていました。お寿司にしたら、と考えるだけでヨダレが出て来ま
した。
先週も日本町に行くと、日本から空輸されて来たサンマがありました。
冷凍ものではなく、まだウロコがキラキラと光っているような新鮮な物でし
たので、値段は少し張るのですが塩焼きにと買い、ついでに大根も買って
その夜はサンマの塩焼きに、大根おろしを沢山つけ合せして食べました。

食生活は生まれてから食べて来た、母親から食べさせられた料理に大き
な影響があると感じます。何処に住んでも、何処に移住しても、何とかし
て食材を手に入れて、懐かしい味を楽しみたいと考えている人が多いと
思います。
今ではアメリカなどに住んでいると、何でも日本食が食べられ、日本の
寿司や料理なども大抵の地域に開店している日本食レストランで食べら
れます。
私が住んでいる町にも寿司屋が数軒開店いたしましたが、余りにも増え
すぎてつい最近2軒も閉店してしまいました。

それも中華料理店の片隅で寿司コーナーとかを開いて、寿司が食べられ、
注文が出来れば、わざわざアメリカ人など、家族で寿司屋だけに行くより、
中華料理が食べられ、寿司もつまめればと言う店が流行っていると思い
ます。
日本人からしたら、なんだー!とか言う人もいますが、ここはアメリカで
すからアメリカ人相手でないと生き残れないと思います。

49年前、私が移住した頃のアルゼンチンでは、日本人会館の食堂だ
けが、寿司や刺身が美味しく食べられた所でした。

その後に、当時のブエノス・アイレス市内に太洋漁業が開いた
『マグロの家』で本格的な寿司や刺身と、日本料理が食べられるように
なりましたが、我々、貧乏百姓ではなかなか食べに行く事が出来ない店
でした。
でもボリビア国境から片道1658kmを、長距離トラックで走ってブエノ
スに野菜などを出荷する楽しみの一つは、やはり日本人会館に行って、
ラーメンやウドン、寿司などの日本食を食べるのが楽しみでした。

戦前の一昔前では、米でさえ手に入れる事が難しくて苦労したと聞いた
事がありま
した。その方のファミリーは、ブラジル最初の移住船、笠戸丸でサントス
港に上陸した家族でしたが、後にアルゼンチンに再移住してブエノス・アイ
レスに住み着き、現地アルゼンチンで生産されたイタリア米を、少し稼ぎが
あって買って来て食べた時の嬉しさを忘れられないと聞いた時に、先人達
の苦労を肌で感じました。

今では日本米は世界中で手に入れる事が出来ます、大抵は寿司米として、
メキシコの田舎のスーパーでも買うことが出来ました。

去年、南米各地を旅して歩いた時に、ペルーの首都、リマのペンションで
自炊をしていた時に、近所の店でも短粒米を買うことが出来て、持参して
いた電気釜で炊いて食べていました。

パラグワイでもアルゼンチンの田舎でも日本米を口に出来た事は世界が
狭くなったと感じます。
アルゼンチンのブエノスでも、泊まったペンションの近所で、小さな店でし
たが1kgの箱で日本米を販売していたのには驚きました。

戦前の移住者が日本から米を1升ビンに密閉して、故郷の日本米を何本
か持ち込んで正月とかお祝い事に少しばかり炊いて、先ず仏前に供えて皆
が口にしたと聞いた事があります、中にはその米で死の瀬戸際に、重湯を
作り口に入れてもらい、口に含ませてもらって、『この世の別れに、こん
な美味しいものを口に出来た』と言い残して亡くなられた方もいます。

たかが日本米、されど故郷の大地で育ち、大切に育まれて収穫された米、
死に際に口にする思いは、いかほどかと今でも感じます。

今年も新米の季節となりましたが、私が口にする米の思いは大切な思い
出です。

2013年7月19日金曜日

私の還暦過去帳(393)


 寝取り、寝取られ

何とか言いますが、この言葉はいつの世でも聞かれ、話され、繰変えされ
ます。
つい最近は、週刊紙の三文記事にも有りますが、
鳩山首相がスタンフォードの大学院生でいた時代に、サンフランシスコの
ベイエリアの日本食レストランで知り合い、ウエイトレスをしていた今の

首相の奥さんと出来てしまい、不倫して(当時はれっきとした人妻であった
とか)出奔して同棲して、前の旦那とは協議離婚で、ハイさよならして、一
緒になったというお話ですが、 世の中の、かしましきスズメ達は寝取った
とか、または、寝取られたとか・・、うるさい事です。

でも現職の首相が工学博士号を持っているなど、初めてではないかと思
います。
私もこのサンフランシスコ湾の沿岸に住んでいますので、それは、それは・・、
何処からともなく聞こえて来る話題です。

昔から男と女のことに関しては年齢と国籍、人種は関係ないと言います。
私もそれを信じています。かれこれ日本を出てから50年、幾歳月と色々
な、また様々な人間関係を見て来ました。

何処に行っても男と女の話は絶える事はありません、それはアダムとイブ
の歴史の時代からと思います、神様がお作りになった人間と言う人類が
集まる地球です、それはそれは百万遍のストーリがあると思います。

でも余り日本国内では露骨な話は聞く事はありませんでしたが、南米を歩
いて生活していた頃は、私がへー!と驚く話も聞きました。

50年も昔は結婚時期の総体的な年齢が低かったと思います、私が学生
時代に、夏休みで帰省すると、高校生時代の同級生で、近所の女の子が
結婚してまだ20歳を過ぎたばかりで、お腹が大きく妊娠している姿を見て、
俺達男性は何と晩生なんだろうかと考えていました。

私もこの話を南米で聞いた時は、先ず現代的に、今の流行の言葉で
『ウソー!』とか口走っていました。

南米に移住して来た家族でしたが、戦前、元々農村では婚期が早いので、
そのご主人も22歳頃には結婚して子供がいたと言う話でした。

移住して来た南米で、20年以上も連れ添っていた奥さんがガンで急死す
ると、長男も南米に移住してくる時に、南米では日本人の良い奥さんは探
すのが大変だと若くして、4歳ばかり年上の働き者の女性と結婚して来て
いたのでした。
でも、父親もまだ40を過ぎたばかりで男盛りの壮健な身体で、奥さんを亡
くしたので大変な事のようでした。

人様の話ですから誇張も、付け足しの話もあったと思いますが、何と・・、
父親が何処をどうしてかは、男と女の間ですから知りませんが、長男の奥
さんと出来てしまい、世間一般の言葉で言えば『息子のワイフを寝取っ
たー!』と言う簡単で手短な話となった様です。

結論から言えば、息子夫婦は協議離婚で別れ、息子は家を出て、収穫時
期に手伝いに来ていた16歳ぐらいの若くて可愛い現地人の子と結婚して、
上手く家庭を築いていたようです。

その若いワイフが確か、18歳ぐらいの頃に訪ねて行ったら、子供を抱い
てお茶を出して来て、『ミッショネス州の日本茶だから口に合わないかも・・』
と日本語で話していたのには驚きました。

男と女の間は、まして夫婦間の争い事など、他人が口を挟んだり、ちょっか
いしたりすれば『馬に蹴られて死んでしまえ・・』とか言います。
それだけ人様は口を挟んではいけない事なのかもしれません。

でも野次馬とか、野次馬根性とか言う人も、これも世の中には必要な人達
かもしれません。そんな人を全部失くしてしまえば、世の中は面白味も無い、
無味乾燥の神信心に凝り固まった人ばかりでは、これでは困ると思います。

以前、近所のお話ですが、日本人の女子学生が夏休みでホーム・ステイを
して滞在していた白人家庭で、そこの40過ぎのご主人と出来てしまい、年
齢差も関係なく手を取り合って出奔して、どこかのアパートで生活していた
ら、女性の方がある日、不審な死を遂げて、迷宮入りとなりました。

何でも女性は水の入った洗面器に顔を突っ込まれて死亡したと言う事でし
たが、巷のスズメ達は、寝取られたワイフが殺し屋を使い、復讐をしたとか、
ないとかそれはしばらく日本人社会でも大騒動でした。

かなり前に同級生がアマゾンで65歳ぐらいの現地人の男性が、まだ20
歳ぐらいの女性を寝取って来て、一緒に生活していると話していましたが、
彼は『それからしたら俺などはまだ若造だよー!』と話していました。

もしもですよ、貴方でしたらどちらを選択致しますか?

寝取るほうですか、それとも寝取られるほうですか?

2013年7月17日水曜日

私の還暦過去帳(392)

 
  食欲の秋、

毎年、9月が終わり直ぐに10月になると秋の収穫の季節が来ます。

私が住んでいる所は春夏秋冬があり、冬は雪こそ降らないが霜が降りて
薄氷が張ることもあります。
雪は近所の山頂付近に、たまに冬の嵐が過ぎた後に雪が被る事が有り
ますが、大抵は一日で消えて行きます。

しかし、3時間も車で走ると、スコアバレーの冬季オリンピックが開かれた
スキー場もあります。春先にその近くを走ると、見事な残雪が光っている
のが見られ、シエラ山脈の標高が高いことを感じさせてくれます。

昔、南米にいた頃は日本と季節が直反対ですから、良く手紙などで、12
月頃になると『そちらも寒くなったでしょう・・』とか書いてきますので、返事
にこちらでは真夏で、毎日暑い日を過ごしていると書くと、同じ地球で珍
しい事もあると、また返事が来ていました。

納得してもらうのに何回か手紙を書くことが有りましたが、その手紙も48
年も前の日本との往復です、悠長なもので1ヶ月以上も掛かって来てい
ました。

ボリビア国境のサルタ州です、エンバルカションという町から10kmは
ジャングルに入った所ですから、町には忙しいときは10日も出ないとき
がありますので、私書箱止めの郵便ですから、取りに行くまではそこで
眠っていましたので、速達も普通も同じでした。

収穫時期は電報が頻繁に来ていましたので、誰かが取りに行っていま
した。南回帰線から100kmも入った所ですから、季節感が余り無く
魚の産卵期や野生動物の動きから、そろそろ秋が近いなどと話してい
ました。

でも突発的なボリビアの上流地帯で大雨などがあれば、晴天で乾燥し
た我々が住んでいた地域に突然の濁流となって、大木などを押し流し
ながら流れて来ました。

今年はリオ・ベルメッホ河が氾濫するのが早いので、雨季が早いなどと
話していました。ブエノスが真冬の時期にサルタ州ではトマトやピーマン
などの蔬菜を栽培するのです、暖かいので温室などを使う事無く栽培
が出来たので、たまには霜などが降りて全滅に近い被害が出ると、
トマトなどの値段がキチガイの様に高騰していました。

ブラジル辺りからトマトが来るまで、たまに霜の被害から逃れた人達が、
ブエノスにトラックを何台か出荷して、億万長者となった人も居ました。
それはトマト2箱が現地人の給料の1ヶ月分となったからです。

トマトだけではなくオレンジやレモン、グレープフルーツなど、勿論の事
にバナナも全部枯れて僅かしか残りませんので、被害甚大でした。
大抵の野菜作りは永年作として柑橘栽培もして、オレンジ畑などを所
持していましたので、どこかが生き残り食べることは何とか出来ていま
した。
私もこの目で見たのですが、他の農家の霜被害で値段が高騰して、
アッと言う間に新しいトラックや耕作機械のトラックターなどを新品に買
い換えていました。
また、新しいレンガ作りの家を建設して、新品の家庭電化製品を並べ
て居ました。

それはあたり前に出来たと思います、トラック一台で当時のアメリカドル
で1万ドル以上は手取りであったからです。その様な農家は霜が降り
ない河の側の一等地をまた買い込んでいきますので、次の大霜の時
に、また大儲けをするチヤンスが何倍もあったのでした。

今では私が住んでいるサンフランシスコの周辺では、チリから来た果
物や蔬菜が季節の正反対を利用して栽培され、冷凍コンテナーで送
られてきますので、季節感が無くなりました。
先日も見事な温州ミカンを見ていたら、ペルー産と表示が出ていまし
た。
それだけ北半球と南半球の気候の正反対を利用して生産される物が
物流の近代化で世界中に流れて行くとなると世界は狭いものと感じ
ます。
今日スーパーで買い込んだ物を見ると、エノキ茸とオイスターマッシ
ュルームは韓国産で、有機栽培のニンニクは中国製品でした。

有機栽培のバナナはエクワドル製品で、つい先月まで食べていた富
士リンゴはニユージーランド製品でした。
世の中が変化したと言いますが、食べる物も大変化したと感じます。
昨日も冷凍でないサンマを、塩焼きで食べましたが日本からの空輸
でした。
アメリカの西海岸で採れるウニが日本に空輸されて、寿司屋で食べら
れるご時世です、
何も不思議では無いと感じます。

2013年7月15日月曜日

私の還暦過去帳(391)

雨と魚、

数年前、9月の天気は私がアメリカに来て初めてと感じる、早期に雨が降り
ました。9月19日の土曜日でした。
朝方、6時ごろでしたが、ズシーン!と地響のような雷鳴で目が覚めると、
大粒の雨が降る音が聞こえました。

時々、稲妻の閃光がカーテンの隙間から光り、雨も土砂降りと言う感じで
した。6ヶ月は雨が降らないカリフォルニアです、普通は9月の終わりごろか
ら始まりますが、こんなに早くは今まで記憶にはありません。

それにしても気候変動の影響を感じます、今年の夏は余り暑い日が無かっ
たのですが、雨が降り出すのも異常に早いのです。

今朝降り出した雨は、昔、アマゾン河口のべレムの町で経験した、突然暗
くなって降り出した大粒の雨の様に、叩き付ける様な音がする雨でした。
短い時間でしたが、あっと言う間に地面がじっとりと濡れてしまいました。

一昨年と去年がカリフォルニア州は降雨量が少なく、渇水でした。
今年からは15%節水をしないと罰金となりましたが、去年は自主的な節水
でしたので、2年前の使用量から15%となりました。

今年も雨が少ないと、来年はもっと厳しくなると報道されていましたが、家
庭だけではなく、農家の植え付けも出来なくなります。

灌漑農業が殆どですから、水不足は深刻です。私も南米で農業をしている
頃に灌漑に使う水の用水路が渇水の為に、河の水位が下がり、本流から
の導水路が使えずに苦労した事が有ります。

夜間、水揚げポンプを稼動させていた時に、よくシャベルで水路を掘りに
行った事が有ります。ポンポンとジーゼルエンジンの音の中、浅い水路に
魚が入り込んで来る事があり、単調な水揚げポンプ場の暇つぶしと、魚捕
りを兼ねて小口径のライフルで魚を狙って撃っていました。

人に魚をライフルで撃つと言うと、変な顔をする人や、笑い出す人も居ま
した。バシャバシャと浅瀬を結構大型の魚が通過致しますので、ライフル
で狙い撃ちで当れば即、白い腹を出してひっくり返ります。
外れると一瞬で見えなくなりました。

翌日、大型の鯉に似たスルビーなどを撃つと、収穫して熟れすぎたトマト
を使い、オーブンでトマトソースで調理していました。

熱々の魚に、ぶつ切りの沢山入れたトマトソースを載せて食べるのは美
味しい食事でした。海魚などは年に数回しか食べる事が出来ないので、
川魚も貴重でした。

そんな魚の話を思い出して書いていたら、今日、9月15日に近所に大き
な東洋食品のスーパーが開店いたしましたので、早速、覗きに行くと新
鮮な魚が並べて有り、アメリカでもこれだけ品揃えが出来る店は少ない
と感じていました。

あちこちと世界各国を歩きましたが、お魚はやはり日本が一番と感じま
す、しかしお値段は我々庶民では口に出来ないような値段もあります。 
それからしたら・・、
メキシコのバッハ・カリフォルニア半島、突端のカボでアメリカ人観光客
が釣った魚を釣り舟の船頭達が余禄として、観光客が釣りだけで、その
まま魚を船に置いて来た物を買っていましたが、新鮮で格安でした。

いつも船が港に帰ってくる頃に行きましたので、船頭達と仲良くなり、カ
ジキマグロの大きな2kgもある切り身を格安で買って、刺身やお寿司な
ど、またセビッチャなどにして食べていました。

アマゾン河の河口のべレムの町で山と積まれて売られていたナマズの
魚にも驚いた事が有ります。同じ種類のナマズが、型も揃って同じサイ
ズで山と積まれて売られていました。レストランでそのから揚げを食べ
ましたが、中々美味しい味でした。

マンジョウカの蒸かした芋と食べましたが、アマゾン河流域では現地食
として普段に食べられていると聞きました。

アメリカでは大型の養殖ナマズが沢山売られていますが、それを見て
いるとアルゼンチンの奥地のボリビア国境で農業をしていた時代に、
ボリビアから流れて来た、リオ・ベルメッホ河でインジオ達がモリで突い
て獲っていた大型ナマズを思い出します。

中には50kgぐらいの大きなナマズで、そのナマズを買い、身を主に揚
げカマボコに加工していました。冷えない灯油冷蔵庫しかないので、揚
げカマボコにするとかなり日持ちがしていました。

懐かしい思い出となっていますが、魚屋の前で見ていると昔の色々な
所で会った魚の思い出が湧いてきます。

2013年7月13日土曜日

私の還暦過去帳(390)

初孫誕生、

4年ほど前に我が娘に初孫が誕生いたしました。
70歳近い年齢での初孫ですからそれは嬉しい事でしたが、その時の話
です。

先週娘の家に行きまして、初孫を抱く事が出来て感激に浸っています。
可愛い女の子で3カ国の血が混じる事になります、早速におじいちゃん
バカぶりを発揮して美人などと廻りに話しています。

でも見ただけで生まれて直ぐですが、鼻が高く、まつげが長いので、今
から美人となるなど想像いたしております。

娘の家に着いたのが丁度退院する日で、その記念を撮影をすることが
出来ました。早速家に帰り、それからが大変です、あちこちとミルクを飲
ます場所まで選定するのに時間が掛かります。

でも何とか娘も頑張って2時間おきに母乳を与えていますので安心です。
 幸せに両親とおじいちゃんとおばあちゃんに囲まれて、母乳も沢山飲み、
着せ替え人形の様にして、お腹一杯にミルクを飲むと、すやすやと何時
までも寝ています。

娘夫妻が子供の誕生で、2ベッドの大きなアパートに引っ越す事になり
手伝いにその前に来ていました。

それが済んで未だ時間があると、メキシコのカボにバケーションを予定
して全て手配を済ませたら、いきなり2週間も早く出産となり、 それも超
特急で朝の5時頃に陣痛が来て、まだまだと9時に受付に行きましたら、
そのまま分娩台に直行で、45分後に自然分娩で生まれていたと言うほ
どの安産でした。

慌てたのが私達夫婦です、なにあともあれ、お手伝いに行く事になりま
した。メキシコの一週間の休暇はキャンセルになり、全部おじゃんとなり
ましたが、そんな事より、初孫が安産で生まれたという事が頭に一杯で
す。
そこでメキシコのカボにあるコンドの一週間の宿泊を
『誰か居ませんか・・!』と出したのですが、何方も居なくて捨ててしまい
ました。もったいない・・・、と感じましたがキャンセルが出来ないので残
念でした。

ワイフと車に荷物を押し込んで、520kmのドライブです、沢山のお土
産や、持って行く物で車のトランクには入りきれず、後部座席にまで乗
せていました。距離にして530kmですが、6時間も掛からずに到着い
たしました。

アメリカでは出産2日目に、異常がなければ退院です、娘も安産で2日
間病院滞在で帰る事になり、その光景に立ち会ったのですが、先ず病
院の受付けが厳しく、厳重にチエックされ、胸には訪問者の名前を書
いたカードまでつけて入ります。

娘のルームはトイレからシャワーまである大きな部屋で、そこで退院前
の書類手続きを済ませて最後に看護婦が両親立会いのもとに、子供
の手と足に付けられたプラスチックの認識リングを切って取り外します。
名前を確認してサインして全て終わりになりました。

しかし・・・、我が初孫を見ていると49年の昔のことが思い出されます。

49年ほど前にパラグワイに移住した時、ある農家を訪ねたら、生まれ
て間もない男の赤子がいました。  痩せて肥立ちも悪く、粉ミルクを与
えているようでした。
その粉ミルクを溶かす水も井戸水で、沸かしても居ない水でした。

パラグワイ入植者達が困窮して、作物を作っても売り先も無いような時
期でした。
奥さんが、『子供が出来ても降ろす金もなく、10ヶ月お腹に入れて過
酷な労働をして生んでも育てる事もでき無い・・』
と嘆いた言葉を今でも忘れる事は出来ません。 

棄民の如く扱う、日本政府の移民政策を肌で感じました。
当時の移住事業団は警察官僚の天下りの場所でした。 

ドミニカ移民も同じ、乳飲み子を抱えて売れる物はすべて売り払い、豚
の餌にする様な青バナナを塩煮て食べるまで落とされた移住者達の子
育てに怨念を感じます。

ある程度の年齢の子供達は、生活苦から学業も満足に出来ずに、 途
中で学業を放棄して労働力として働いたと聞きました。

パラグワイで私が訪ねて会ったその子供は数ヶ月後に、栄養不良で
死亡したと聞きました。 当時、移住地の墓地に行くと、死亡時、当年1
歳とか2歳とかの墓が多数ありました。 

49年も昔ですが、パラグワイの首都、アスンションの日本大使館 に出
向き、子供達の悲惨な現状を訴えました。

すると  『開拓初期だから仕方が無いー!』と係官が反論しました。 

私が激怒して『ラ・コルメナ日本人移住地は戦前の移住地で、28年 も
前からパラグワイにあり、すでによい事例があるではないかー!』と反
論すると、こそこそと用事があると消えて、二度と出て来ませんでした。 

私は何時もベルトに隠して所持していた拳銃を、ホテルに置いて来て
いなければ、間違いなくその場で、その男の頭を撃ち抜いていたと思
います。
血気盛んで正義感が溢れていましたので、激情に駆られてその大使館
の役人を撃っていたと思います。

翌日、近くに日本人レストランで彼等が話す会話を盗み聞きしたら、 

『幾らドルが貯まったか、早く本省に帰りたい、何処何処はもっと大使
館で使える金がある』などと言う話でした。 

役人官僚等は百姓の農民などは数に数えてはいなく、移民事業など
は自分達の仕事の種としか考えては居ないと感じました。
中にはボリビアの移住地で担当係官の銅像まで作って移住者に感謝
されている人も居ます。
しかしながら、日本国も悪いが、それを牛耳っていた官僚がもっとワル
でした。

そんな移住政策も1974年頃には組織的、計画的な移住は終わりま
した。

2013年7月10日水曜日

私の還暦過去帳(389)


石は口より言葉を言い・・、

1964年の8月4日に日本の横浜港から移民船アフリカ丸で片道パ
スポートで移民してはや・・、幾く歳月、月日の流れは「光陰矢の如し・・」
と感じます。

私の今まで歩いた人生の道筋から思うとーー!

時間とは二度と戻っては来ない人生の大切な時、
時間とは自分に神から与えられた、未来の空間、
時間とは己が安住の地を探す大切な夢の空間、
時間とは金でも買えない、新しく作る事が出来ない空間、
時間とは己が産まれて死ぬまでの一瞬の宇宙の空間、
時間とは自分から追いかけて夢にして手にする空間、
時間とは日本になく異国の灼熱の砂漠にあるかも知れない空間、
時間とは異国に夢として転がっているかもしれない空間、

とか・・、いつも感じています・・、

今まで沢山の方々の生き様を見て来ましたが、それぞれ、己の人生の時
間を燃焼して人生の幕引きをして行かれたと感じます。

移民船アフリカ丸は私が移民する前に、ドミニカ移住者を乗船させた縁で、
ドミニカ移民の悲惨さの、その非を正す為に日本政府に義憤を向けた事も
あります。
これまで遠い異国の草葉の陰で墓石となって埋もれて行った方々も沢山今
まで見て来ました。

私の様に平穏で平凡な人生を自然を相手に農業と言う自然の恵みを神から
おすそ分けして頂く仕事に掛けていました。
自然が一度怒り狂うと人間の力など無力に近いと感じます。

また、人間の力の偉大さもマチュピユの遺跡を見て感じました。
鉄器の道具を持たなかったインカの人が、どうやってあんな山の上に巨石
のインカ文明を築いたか?
3千メーター近い山中のインカ街道の石畳道を歩いて、車という運搬手段
が無いところでどうしてこの石を運んできたか?

クスコの街でカミソリの刃一枚も通らない隙間の石組みを見て、遠くの昔に
この石の前で黙々と仕事をしていたインカの人々を見た気が致しました。

クスコの裏山の近くの遺跡で、50トンもある巨石が平然と並んでいた様
子は驚きと同時に、彼等の知恵の素晴らしさを心感じましたが、また当時
の文明人と言われたスペイン人の野蛮さも感じていました。

ペルーで、アルキパからチバイ峡谷に行く途中に立ち寄った教会の在る小
さな町で朝日に輝く教会の尖塔の高さと、教会の巨大さがインカ侵略者達
が宗教と言う武器でインカの住民達を平定したと感じました。

寒々とした白い教会の冷え切った建物がむなしい虚無の姿に見えました。

ガイドが話していたスペイン人の侵略当時は、キリスト教を否定して反抗す
る住人達を宗教裁判に掛け、肢体を馬に四方に引かせて八つ裂きの刑に
したと聞いた時は、インカの民族が従順で教会を焼き討ちにする事も無く、
その侵略者の教えを受け入れたと事の寛容さを感じました。

私が45年前にボリビア国境のアルゼンチン、サルタ州で農業をしていた
時代、当時ボリビアから来たスペイン人の血を引く人間が町の中央でインジ
オ相手に大きな店を開いていました。

ある日、町にトマトをトラックで長距離トラックに積み替えする為に来て、遅
くなり夕食をバーで食べていたら、その男がこれ見よがしに私を見て、酔っ
た勢いか、卑下した言葉で何か言っていましたが、私も空きっ腹で飲んだ
食事のワインで酔って、少し離れた所のテーブルに座っていた男に近寄り、
眉間に拳銃の銃口を突き付けて、

「お前は酔ってインジオと日本人の違いも分からないようだが、そんな口を
日本人に効くとどうなるか教えてやろうかー!」と脅しました。

子供の頃から私の目が鋭くて怖いと言われたことがある目です、相手の目
を狙う様ににらむと同時に拳銃の撃鉄を起こしました。

10歳以上も年上の男ですが、一瞬凍った様な姿になり、小声で「わるか
った・・、謝る」と答えました。
時間にしたら15秒ほどです、当時の私は心の中に
「なめるんじゃーねー!」という対抗意識がありました。
若い頃の遠い時間を振り返って思い浮かべると、今から思うと多くのところ
で喧嘩を売ったことになると思います。

しかし多くの白人種が私を含めて日本人という人種を見直したと感じます、
戦前に移住した日本人が「真面目で正直で働き物で」と言う印象が、か
なり変化したと思っています。それと・・、

当時の南米では第二次大戦の記録映画などを良くテレビで放映していまし
たが、彼等が目にしたテレビの画面で、アメリカ海軍の空母に突入する神
風特攻隊の凄まじい戦闘機の様子を覚えていたと感じます。

私の容貌は日焼けして、現地の服装でインジオと間違われる事がありまし
たが、彼等が日本人も中国人も韓国人も見分けがつかない事であっても、
日本人と分かるといきなり態度が変わったことが何度もありました。

しかし、49年前のアルゼンチンと去年訪れたアルゼンチンではかなり様子
が変化していたと感じます。それは現在、中国人がアルゼンチン国内に
8万人近くも居住して、韓国人もこの49年間に日本人移住者の総数の何
倍もの数が住み着き、過去の第二次大戦から年月を経て、日本人の価値
観が変化したと感じました。

それは同じボリビア国境のアルゼンチン、サルタ州を去年旅をして大きく
変化した様子を見たからでした。なぜならその地域の日本人の数が昔より
減っていたからでした。
2世、3世も都会に出て居なくなり、また日本に出稼ぎに出て帰ってこな
くなったからでした。
全て月日の流れです、時間は止まることなく過ぎて行きます、価値観も人
種的な対立も変化して、それに宗教的な価値観と国家觀を交えて過去の
出来事も消えていったのです。
今では人種的な数の量で、勢力が測られ、それで伸びて行きます。

経済的な力だけでは日本の国力が海外での存在感は増えないと思います。
口で叩かれ、さげすまれても確実に人口的に中華民族の増殖は確実に繁
栄という道を歩いていると感じます。

その様子は異国の墓地の石碑に刻まれた名前が象徴として幾百年と石に
残ると感じます。
サンフランシスコ郊外のコルマの墓地群を見ると、中国人達の墓石の列に
歴史と時間と、彼等の逞しい繁栄のシンボルを感じます。

2013年7月9日火曜日

私の還暦過去帳(388)

 
 

別れ様々、人の命も様々。

人は年々歳々同じからずと言う事ですが、生まれて来て命ある限り、い
つかこの世にお別れをしなくてはなりません。

人生の旅路でそれが早く到達するか、遅いかの差と思います。

先日、日本人の平均寿命が報道されていましたが、私が子供の頃の平
均寿命は、今の世からしたらかなりの開きがあると思います。

60年近くも前の話ですから、それはあたり前と思いますが、医療や社
会的な条件、食生活などの変化が近年著しい進歩があります。

それに支えられて人の寿命はこれからも延び続けていくと思いますが、
タバコや酒で生活習慣病に侵されて日本の平均寿命にも到達しない前
に死んでいく人も多く居ます。
私の同級生も同じです、酒とタバコに溺れて2年前に食道ガンで一命を
助かったのですが、またもや不摂生な生活を送るようになり、また元に
戻ったと奥さんが嘆いていました。

本人の言い訳は『どうせ死ぬのであれば、無理して節制する事は無い!』
という理論です。最初はお酒を飲み始めて、次はタバコとなった様です。

それにしても何処に住んでも、何処に行こうが、生活環境に関係なく習
慣病は再発致します。南米のアマゾン流域に入植した移住者の男性は
その生活習慣病で亡くなる率が高く、一昔前は日本人でも平均が50台
であったと聞きました。

私がアルゼンチンの奥地で農業をしていた時代に、インジオのマタッコ
族が農場で働いていました。彼等の朝食はバターの代わりに豚のラード
を混ぜたパンを焼いていました。それとマテコシードと言うお茶でした。
沢山の砂糖が入った甘いお茶です、パンは一度に沢山焼いていました。

それを焚き火で暖めてからお茶と食べていましたが、偏った食生活で健
康に問題がある労務者が沢山居ました。それも仕事が終わって飲む安
酒も影響していたと思います。

パラグワイでもエンカナシオン郊外、ロシア人の入植者達がお茶の時間
にパンにバターを塗って食べていると思い、私もパンに塗って食べたら
自家製の豚のラードでした。

味は微かな塩味で舌触りも良いのですが、こんな物を食べたら早死に
すると感じていました。
49年も前のパラグワイです、各国の移住者が沢山居ましたが、一番健
康的な食べ物を食していたのは日本人ではなかったかと感じます。
ラードを食べていた農家のロシア人のご主人は、50歳前で狭心症で亡
くなったと聞きました。
時代が代わり、私が住むサンフランシスコ郊外のベッドタウンでは多くの
有機栽培の食品が販売される様になり、またその普及率も毎年凄い勢
いで伸びています。
ちなみに私の朝食ですが、有機の豆乳とこれも有機のノーファットのヨー
グルトに有機栽培バナナを一本を入れ、それに同じく有機栽培のブルー
べリーを混ぜて、上に有機栽培のアーモンドとウォーナツを振り掛けて食
べるのが毎日の日課です。

それに季節のフルーツを食べていますが、有機栽培リンゴは毎日欠か
さずに食べています。この様な食生活が出来る世になったのですから、
まさに変化したと感じます。
ブルーベリーもアメリカ産でも季節により、カリフォルニア州からオレゴン
州と北に上がり、カナダまで行って、それから南米のチリ産となります。

全部有機栽培のブルーベリーです、時にはメキシコ産のブルーベリー
が店頭に並んでいる事もあります。毎日食べていると季節で生産地が
変化していく様は、時代の変化も感じます。それだけ交通手段と輸送手
段が発達したと思います。

食生活が改善され医療の進歩と環境問題の取り組みでこの地球に住む
多くの人がその恩恵を受けていますが、またそれに背を向けて狭い自己
偏屈の中で、自分の命を粗末にしている人が沢山居ると思います。

今でも残念に思う方が居ます、それは2年前にすい臓がんで亡くなられ
た日本人ですが、時々会ってその人の様子を見ていましたので、3年前
から皮膚の色から張りなども無くなり、やつれた感じがしていたので、検
診を勧めていましたが、その当時はタバコを一日、2箱近く吸っていた人
でした。
その様な事があり、しかし、ある日激痛で緊急に入院してから、正確に
3ヶ月後にガンで亡くなられました。
肉が大好きで、果物や野菜は余り好きではなかったようでしたが、生活
信条を変える人ではなかった人でした。

『ガンが怖くて、タバコなんか止められるか・・、人間いつか死ぬのだか
らー!』という言葉を忘れる事は出来ません。

この世には、持って生まれた命を粗末に捨てている人が沢山居ると感じ
ます。
貴方も酒・タバコや運動不足の肥満体質で命を粗末にしていませんか?

2013年7月8日月曜日

第3話、伝説の黄金物語、(94)最終回


幕引きの輝き・・、

富蔵はワイフの雪子が近頃、そわそわしている事が多いので気になっ
ていた。
ある日、富蔵に雪子が神妙な顔で次男のアルベルトが、私の妹の長
女を見初めて結婚したいと、妹が居る前で告白したと言った。

富蔵もしばらく驚いていたが、薄々気が付いていたが、まさかそこまで
進んでいたとは考えもしなかった。雪子の妹と長女が泊りがけでサン
パウロに遊びに来た時に、アルベルトが車で、リオまで遠出して案内
していた事があった。
それがきっかけで急に深まった仲のようであった。

雪子は大変に乗り気で、アルベルトも富蔵に神妙な顔で結婚承諾の
許しを聞いて来た。結婚には何も問題も無く、その後の話はあっという
間に決まってしまった。

その前にリカの娘とモレーノの長男の結婚式が予定どうりに行われ、
リオベールデの牧場で盛大に開かれた。大きな結婚式のパーティで、
アマンダ兄弟達や親戚兄弟達が集まり町で話題になるような式であ
った。
その結婚式が終わり、しばらくして富蔵の次男と雪子の妹の長女との
結婚式が、サムの主催で飛行場近くの、サム御殿の公園の様な広い
庭を借りて開かれた。池もあり、隣には小さな放牧場もあった。

富蔵は上原氏の家族も雪子の移住地の家族達も全員揃うこの結婚式
に満足していた。盛大で賑やかな式が終わると、二人の出会いのリオ
に、新婚旅行に飛行機で飛び立つ若い二人の姿を雪子と涙顔で見送
っていた。

雪子としばらくは静かになった自宅でのんびりしていたが、長年の夢
であった日本の郷里訪問を考えて、サムの勧めでニューヨーク経由の
飛行機で日本を訪問する事が決まった。

雪子と二人で富蔵の若い時代のニューヨークを見て歩き、郷愁の思
いを心に秘めて感慨に浸っていた。アラスカのアンカレッジ経由で羽田
に到着して、夢に見た祖国に降り立つと、それまでの人生の緊張が全
部消えた様な感じがした。

郷里での時間は今浦島の感じで、兄弟達と温泉旅行などをしていると
アッと言う間に時間が経ってしまった。上原と名前が代わった事はブラ
ジルで養子に行ったと言い訳をして、皆が納得してくれた。
雪子の郷里の本家にも挨拶して、ブラジルに居る親兄弟の顔を立て
ていた。
両親の墓参りなどすべてを済ませると、夢にまで見た祖国にあっさりと
別れる事が出来た。

ブラジルに帰るとしばらくはのんびりしていたが、マリーの出産が近い
という知らせがリカから来ていた。直ぐにマリーが妊娠したので、皆か
らお前は直ぐにおじいちゃんになると冷やかされていた。
それは同じくモレーノも同じで、富蔵と二人してウキウキした気分で居た。

医者の診立てでは双子だという事で、モレーノと富蔵は生まれてくる孫
にやきもきしていたが、案ずるより安しという事で、無事に双子が生ま
れて来た。
モレーノの屋敷で富蔵とシャンペンを開けて孫の誕生を祝い、雪子は
リカと双子の初孫の世話をしていた。
日を置いて、双子の洗礼式を終わり、友人や家族達とささやかな宴を
開いた席上で、神妙な顔でモレーノが乾杯を終ると皆を静めて、
『孫も生まれたので、私はこれで区切りとして引退する』と皆に宣言した。

皆がどよめいて、『まだ早い・・、これからが腕の見せ所だ・・』と声が掛
かったが、モレーノは富蔵にグラスをさし上げて、『じいちゃんになった
のだから富蔵、お前も一緒に引退しないか?』と聞いてきた。

富蔵はモレーノの気持ちは薄々分かっていたので、一人で考えていた
が、これまで幾多の危険な場面を切り抜けて、ここまで生きながらえ、
孫を抱く喜びを感じて決心が出来ていた。皆にグラスを差し上げると
『私もモレーノと同じく引退する事を宣言する』と厳かに言った。

またもや、どよめきがテーブルから起きて、皆がグラスを持って二人を
取り囲んだ。後は賑やかな盛大な宴となり、したたかに飲んでモレーノ
と二人、皆に背負われてベッドまで連れて行かれた。

それからサンパウロに戻り残務整理をして、次男に仕事の引継ぎをす
ると自宅も次男に明け渡してリオベールデにモレーノの牧場の中にあ
る、河に近い見晴らしの良い高台に家を新築して、そこを引退場所と
決めて引っ越しを決めていた。

その頃、雪子が日本から帰国してから体調を崩していたが、洗礼式が
終ると寝込むようになり、精密検査の結果、サンパウロ大学病院の結
果が富蔵に知らされて来た。
検査結果は末期のすい臓がんと言う事で、3ヶ月は持たないと言う事
であった。日に日に衰弱する雪子に、富蔵は悲嘆にくれたが、次男と
出来る限りの手を尽くして看病した。

雪子は次男も結婚して、マリーも双子の子供を産み、日本にも里帰り
した事を感謝の言葉で富蔵に話していた。雪子は後、数日となった時
にリカを側に呼び子供の事や、孫の世話を頼み、富蔵を自分の代わり
に支えてくれるように頼んでいた。

雪子はその後、急激に体力を無くすと皆に囲まれて、眠るように亡く
なった。

しばらく富蔵はサンパウロで次男と雪子の整理をしていたが、それが
終るとリオベールデの新しく建てた家に引っ越した。
モレーノが親身に世話をして側の住民となった富蔵を見ていたが、
リカも富蔵が新しい家に来ると自宅を引き払い、富蔵の引退する新居
に来た。

毎日のように訪ねてくる双子の孫達をモレーノと富蔵がお互いに抱き
あげて世話をしていた。2kmばかり離れた所にはアマンダ兄弟の長
男が引退して家を構えたので、賑やかな集会所の様子を見せていた。

リカと穏やかな生活をするようになり、人生の残りも計算できる心の余
裕が出来たのか、富蔵はリカと夕食の後にコーヒーでも飲みながら、
何気なく『お前とも結婚式を挙げなければ・・!』とつぶやいていた。

モレーノに相談すると、直ぐにアマンダ兄弟達も協力して、リカとのささ
やかな結婚式を挙げた。
リカはその日は感激の涙で泣いてばかりいた。富蔵からダイヤの結
婚指輪が贈られ、それを指に富蔵が飾ると、その腕を天にかざして、
感謝の言葉を涙声で神につぶやいていた。

サンパウロから来たサムが杖をついて立ち上がると『神が人生の道
をいつも開いている、誰も悲しむ必要はない、苦難があっても、いつ
か喜びがあり、それがあれば喜びがもっと貴重で感謝の気持ちで迎
える事が出来る』と言うとリカを抱いて祝福した。

その夕方、皆がモレーノの広大な見晴らしの良いテラスに集まり、
酒のグラスを手に久しぶりの皆の集まりに、話が弾んでいた。

サムがしみじみと『パブロも亡くなり、すでに子供の時代になった様だ
が、スミス商会の社長も亡くなり、同じ様に子供の代に事業が変わっ
てしまった。ダイアモンド商会の社長も引退して、旅ばかりして近頃は

会った事も見た事もない・・』と言うと、これも全てが時代の変化と終わ
りになったと思う・・、と言うと、ペドロを呼んでシャンペングラスを用意
させると、リカが用意したシャンペンを三角に積み上げられたグラス
にモレーノの奥さんと注いでいった。

サムが皆を呼んでグラスを手渡しながら、
『我々の夢の成熟な終わりに・・!』と声を掛け、少し時間をかけて、
皆がグラスを合わせて鳴り響かせると、自然に皆が丸く輪になり中に
サムと富蔵、モレーノが入り、同時に乾杯ー!と掛け声が掛かると
一斉に飲み干した。

富蔵がが残りの入ったシャンペンの瓶を振ると、テラスの上から
『天と地の精霊に・!』と叫ぶとシュー!と暮れかかった空に振り撒
いた。
金色の夕日の輝きが皆を照らして、落日の黄金の様に煌く太陽を見
ていた。

終り、

私の還暦過去帳はこれから長く掲載いたしますが、この後は私が南米
で出会った歴史の彼方に消えて行った方々の物語を書いてみたいと
考えています。
今では50年前の方々のお話などは、誰も話す人も無く、このままでは
忘却の彼方に消えて行くのみですから、記録に残したいと考えています。

2013年7月6日土曜日

私の還暦過去帳(387)

アメリカの学校で『忠誠の誓い』の賛否。

先日のインターネットで日本語の新聞記事を読んでいて私は絶句した。
そして思想、心情、良心に国家の国旗と国歌に敬意を表す事さえ値しな
い考えの人が
居ると言う事に唖然としていた。

その様な人の国家感、国民としての自覚はいかなる基準でなっているか、
不安になっ て来た。全てが民主主義の個人の自由の権利から来るもの
と解釈されている。

新聞記事の内容は、

 入学・卒業式で国旗に向かって起立し国歌を斉唱するよう命じた神奈
 川県教育委員会 の通知を巡り、県立学校教職員135人が県を相手に
 起立斉唱の義務がないことの確認 を求めた訴訟で、横浜地裁は16日、
 請求を棄却した。争点だった通知の違憲性につい て吉田健司裁判長
 (転部のため深見敏正裁判長代読)は

「思想・良心の自由を侵害するとは言えない」と指摘した。教職員側は
 控訴する。

判決は、国歌ピアノ伴奏を拒否した音楽教諭への処分を「合憲」とした
最高裁判決 (07年2月)を踏襲。学校行事での起立斉唱は出席者にと
って「通常、想定・期待 される儀礼的行為」で、通知に基づき校長が出
す起立斉唱の職務命令は

「教職員の世界観・歴史観・信念を否定するとは言えない」と判断した。

問題とされた通知(04年11月30日付)は、教育長名で各校長にあてた
「国旗の 掲揚及び国歌の斉唱の指導の徹底について」。教職員側は
「起立斉唱は『敬意』とい う内心を表明する行為。それを命じるのは自
由を不当に制約する」と主張したが、判決 は「内心に影響を与え得る
ことは否定できないとしても、公務員として適法な職務 命令に従う義務
がある」などと退けた。

会見した大川隆司・弁護団長は「最高裁判決をなぞった月並みの猿ま
ね判決。国民の 常識と正反対だ」と批判した。』

これに反論するようにして伊勢雅臣先生が書かれた論文を読むと、

伊勢雅臣氏の『国際派日本人養成講座』から引用。

http://archive.mag2.com/0000000699/20090719063000001.html

「教育の政治的中立はありえない」とする、

「政治を抜きに教育はない」とは、民主党の代表代行かつ参院
幹事長を務める輿石東(こしいしあずま)議員が、その支持基
盤である日本教職員組合(日教組)の第97回定期大会で語っ
た言葉である。

 輿石議員自身、日教組傘下の山梨県教組(山教組)の元委員
長で、今年1月に都内で開かれた日教組の会合でも、「教育の
政治的中立はありえない」「日教組とともに戦っていく」と述
べている。[1]

 よくも言ったり。「(教員は)特定の政党を支持し、又はこ
れに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならな
い」と定めた教育基本法、および教育公務員の政治的活動を制
限した教育公務員特例法を完全に無視した発言である。

 輿石氏がその選挙活動において、山教組の教員たちを使って
きた実態を見れば、これが言葉の上でのことだけではないこと
が、よく分かる。
以下略、

これ等の記事を読んでいく内に心に感じることは、日本国民としての誇りと
自尊心はいかような基準で、教育で学び育てるのか疑問が湧いて来た。

一握りの現政府に対抗する教育指導者に牛耳られた教育現場が崩壊の
道に進んで いると感じます。私の同級生も教員早期退職をしたのも、学
級崩壊が一因として あったと語っていた。
日教員組合の横槍と彼等が一部支配する教育現場での教育の混迷を語
ってくれた 友人の言葉を今でも感じます。

38年前にアメリカに移住して来て、自分の子供達も含めて、子供達が学校
で クラス全員で「忠誠の誓い」を唱える事は公立、私立とも普通の光景で
ある。
アメリカ各州の公立小学校や幼稚園では、毎朝クラスが始まる前に星条
旗を前に して、右手を左胸にあてて「忠誠の誓い(the Pledge of Allegiance)」
を 一斉に唱えるのが19世紀末からの伝統である、誓いの言葉はこんな
一文です。

『 I pledge allegiance to the flag of the United States of America and
to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible,
with liberty and justice for all.』

「私はアメリカ合衆国の国旗と、その国旗が象徴する共和国、神のもとに統一
さ れ全ての人々に自由と正義が約束された不可分の国に忠誠を誓います」

と言う言葉ですが、何も子供達を洗脳するような言葉ではありません、自分
が住む 多民族国家のアメリカに学ぶ幼い一市民として、この言葉の下に集
まり、集約され アメリカ市民としての自覚を学ぶ言葉と思います。

しかし、アメリカでも『神のもとに・・、』と言う言葉は、2002年、そして再び
2005年に一言が政教分離を定めた憲法第一条に違反しているという判決
がサンフ ランシスコの連邦高裁で下され、以降『忠誠の誓い』からは
『神のもとに・・』は 削除された。

この「神のもとunder God」 という言葉はもともと無かったのですが、冷戦ま
った だ中の1954年に無神論者の共産主義者、ソ連とアメリカを区別するた
めに付加され たのだそうです。

アメリカでは宗教感の区別ははっきりと憲法でされて、純粋に国歌、国旗
 に対し ての学童教育は愛国の前提としての教えであると感じます。
アメリカの『忠誠の誓い』は国民の90%からはアメリカに住む市民としての
言葉と して認められているのです。

アメリカが民主主義国家として、愛国教育を認定して多くの人が認めて居
るのです、 もしも、アメリカの学校で教員が率先して、反国歌、反国旗の
態度と行動をしたら、 確実にその教職を失う事と思います。
アメリカの学校で毎朝唱えられる『忠誠の誓い』 は、それは父兄達の教育
参加がある学校現場では、それに反対する教員は教育委員 会選挙で教
員を追放されると思います。

貴方は日本的教育自由主義とアメリカ的教育自由主義のどちらを好み
ますか?

2013年7月5日金曜日

第3話、伝説の黄金物語、(93)


平穏な時代の幕開け・・、

しばらくは周りの静寂の中で銃撃戦の様子を伺っていた。
まず若い警官がライフルを構えると脇の茂みを伝って停まっている車に
近ずいて行ったが、もう一人の警官は車の陰から近寄って行く若い警官
を援護して見ていた。

富蔵も横でシュマイザーを構えて見ていたが、若い警官が道路脇の停車
した車を覗き込み、手招きしてこちらに来る様に合図を送って来た。

富蔵はトラック運転手を警官が手錠を掛けて動けないようにして、トラック
のバンパーに逃げない様に縛り付けた。
車を運転して100mばかり移動して路肩に停止している車の横に停めた。

車の横には胸から血を流した男が息絶えていたが、車の中の男は微か
にあえいでいたが、かなりの出血で車の床が血で濡れていた。車のボ
デーを貫いた弾が男の腹部も貫通したと感じた。
警官二人も車の中の男を見ると首を振り、助からないと話していた。

その時先に走っていた車が様子を見に戻り、侘しい田舎道の埃っぽい中
に停止していた。こちらに来る様に合図すると、かなりのスピードでこちら
に戻って来た。側に停車すると直ぐに襲撃者達の様子を見て、彼等の襲
撃の失敗を見ていた。

警官二人は車内の男の脈を診ていたが、言葉短く『死んだ・・』と言って
シートに横たえた。警官は横に停まっている車に,『町まで行き、署長と
鑑識を連れて来てくれ・・』と頼んでいた。
戻って来た車は猛スピードで町に走り去って行った。

富蔵は現場を離れて一度農場に戻り、オーナーに事の次第を話して、全
て解決したと報告すると、オナーと家族は事が全部解決したと言う事を聞
いて安堵していた。

襲撃者達が警官の反撃で二人も死亡して、運転手は逮捕されたと聞いて、
勝ち組の一番危険な首謀者が二名も居なくなったと再度安堵の言葉を出
していた。

農場主の奥さんが報告して戻る富蔵に、軽食と飲み物、フルーツなどを
籠に持たせてくれた。富蔵が現場に戻ると、すでに町から署長と鑑識がき
て、現場を検証して調書を作っていた。
現場は直ぐに検証が終わり、遺体は襲撃者のトラックに乗せられ、町に
運ばれて行った。
何かあっけない結末に富蔵もホッとしていた。

翌日、町の新聞には簡単な見出し記事が掲載されていた。
『農場主を金銭的に脅迫し、町に行く途中を襲った強盗団が、警護の警官
 に二名射殺され、事件はその場で解決した』と短く出ていた。
警官の写真と道路脇に停止した車の横の死体写真が出ていた。
何処にも勝ち組とかの言葉も無く、ただ強盗団の襲撃と書かれていただけ
であった。

リオ・ベールデの町に滞在していたと富蔵を、農場主の夫婦が訪ねて来て、
アマンダ兄弟の事務所を訪れて、今回世話になった若い衆や警官達に感
謝の言葉を掛け、お礼の金の包みを渡していた。

アマンダ兄弟達も全てが解決した事を喜んでくれ、直ぐにこの事件も世間
の流れに消えて、誰も思い出す事もなくなると話していた。
ブラジルの戦後の動きは早く、サンパウロに戻った富蔵も戦後の日本から、
またブラジル移住が再開されると言う話も聞いて来た。

その後の日本人会の動きも穏やかになり、過激な勝ち組とか言う様な話も
消えていた。

富蔵の家庭も穏やかな幸せを楽しみ、富蔵が産ませたリカの子供マリーも
サンパウロの大学に入学して、富蔵の家に下宿していた。雪子は我が子の
ように可愛がり、時々訪ねて来るリカとまるで姉妹のようにしていた。

富蔵がリオ・ベールデに仕事に出ると日帰りは大変ですからと、リカの存在
を認めて泊まって来るように暗黙に勧めていた。雪子は富蔵の子を産む事
は無かったが、富蔵の次男をわが子として可愛がりよき家庭を営んでくれ
ていた。富蔵は運命の絡み合いのリカと雪子に感謝して、ブラジルでの生
活をしていた。

リオ・ベールデに住み着いているリカも、今では重要な会社の運営に参加し
て少しは衰えた美貌ながら多くの会社の経営を任され、会社の営業交渉に
大きな力を今でも発揮していた。
彼女が育てている可愛い女の子が富蔵の子供だと言う事を皆が知ってい
るので、誰も手を出す事も無く、彼女が結婚指輪をしているので、奥さんと
呼んで認めていた。

富蔵も長いブラジル生活で現地での信用も得て、多くの友人や仕事での
知人も出来たが、すでにスミス商会も親の代から子供の時代に移り、ダイ
アモンド商会も社長の下に子供達が成長して多くの仕事を支えていた。

金鉱のブームは突発的に起きる事はあっても、機械化された資本が動く
ようになり、個人が参加して金を大規模に掘るという事も無くなってきた。
それだけ時代が変化して世の中が新しく代って、平和な時代になったと
富蔵は感じていた。

若くしてニユーヨークで船を下りて働き、またブラジルに来てそこで船か
ら逃げ出して、居付いて家庭を持ち、子供を育てて、ビジネスを開いて会
社を経営するまでに歩んできた自分を見詰めなおす時期が来たと富蔵
は感じていた。

世代が代わり、時が流れ、人生時計の刻みがブラジルの歴史と共に流
れ、ここまで来たと思った。
ある日、リカがサンパウロに仕事で来て、わが子のマリーと会い、皆で
揃い食卓を囲んで団欒を楽しむ姿を富蔵は見て、雪子に次男と、五人
の家族が揃い楽しく話をして居る姿に、何か運命ながら、自分の人生が
どこかで神に守られていると感じていた。

次男も今では大学を出て富蔵達の仕事を助けていた。これも我が家の
世代交代と感じて、次男に仕事を教えて、組織の会社の中で成長して
いく様を富蔵は見守っていた。

長い人生と感じていた時間は、黄金の砂金やダイアモンドなどブラジル
の大地に眠る巨大な富に惑わされ、踊らされていたと感じる様になって
いた。今迄の人生で積み重なった仕事で手にした資産は富蔵も驚く程に
膨れていた。

富蔵は陰ながら移住者達の子弟に奨学金を創設して、サンパウロの大
学町にアパートと下宿を開き、田舎からの学生を管理人を雇い世話して
いた。
移住者達が開いた農業協同組合にも資金参加して助けて、援助して二
世や三世達がブラジルで伸びて行く手助けも陰ながらしていたが、富蔵
は戦後移住して来る日本人の移民の窓口を助け、受け入れ入植地の世
話もしていた。
すべてこれまで、ブラジルに居付いて根を張った人生の総決算と感じて
その事に時間を使っていた。
時々、妻の雪子を連れて旅に出ていた。隣国のアルゼンチンやペルー
などにも観光巡りをしていた。

リカにも仕事で遠出する時は同行して旅に誘っていたが、喜んでリカも
旅に付いて来ていた。リオの海岸をのんびりと手を繋いで歩く事など、
リカにも富蔵にも夢にも考えなかった事が、現実として手にしたことに
感慨に浸っていた。

その時、リカが娘のマリーが、同じリオ・ベールデの町に住んでいるモレ
ーノの長男と婚約したいと聞いて来た事に、富蔵も驚いたが、直ぐに大
賛成をしていた。お互いの人生の実りが、子供同士の結婚までに実った
事は、なんとも言えない感動すらあった。

後日、モレーノと富蔵は抱き合って喜び、同じ我が子同士が結婚して子
供を産む事など夢だと言って乾杯していた。直ぐに二人で資金を出し合
い、子供達の希望の間取りの新築をプレゼントしていた。
モレーノとしみじみと酒を酌み交わしながら、お互いが命を助け合い、
ここまで来た長い時間の無事を乾杯していた。

すでにサムの娘も結婚して孫が出来て良きお爺ちゃんとして、サムも穏
やかな生活をワイフと楽しんでいた。


次回を持ってこの話の結末を書いて『第3話、伝説の黄金物語』を終わ
りに致します。

2013年7月4日木曜日

私の還暦過去帳(386)

 
 アメリカの長距離ドライブ、

アメリカに住んでいると良く長距離を車で走る事が有ります。

現在、日本では週末高速利用が千円で走れるそうですが、アメリカの
フリーウエーは原則無料です。
先週は6月22日から走り出して、28日の午後に帰宅するまで2400km
は走っています。その燃料ガソリン代が何と・・、146ドル77セントでした。
アメリカはガソリンがまだ安いと感じます。
146ドルと言うとサンフランシスコからロサンゼルスの飛行機代片道より
まだ安いと思います。

ラスベガスからグランドキャニンまでバスを利用いたしましたので、予定の
3千kmは走りませんでした。ネバダ州の砂漠地帯では高速道路は法定
速度が70マイルで高速走行は問題ありません。

70マイルと言うと、だいたい私は、77マイルにクルーズコントロールを合わ
せています。まったくの砂漠地帯では85マイル(約140km/h)で走ってい
ます。85マイルで走っていても軽々と追い越して行く車があります。

85マイル高速走行では良いタイヤ、ハイオクガソリン、タイヤバランス
などに注意する事が肝心です。
70歳近い年齢と成りましたが、日頃の運転訓練と運転機能の維持が重要
と思います。今回の長距離ドライブで注意したのは、

1、夏場ですから出発は早朝涼しい内に出る。
2、必ず出発前に車両点検を忘れない、特にタイヤの目視検査は重要です。
3、満腹運転は居眠り運転の危険な要因です。
4、ガソリン満タンでの出発心構えが重要です、砂漠地帯ではガソリン給油所
  が余り在りません。

連日の高速ドライブは慣れてくると、車間距離を気にしなくなりますので要
注意です。高速走行では、一瞬のミスで命に関わる事故に繋がります。
トラックの18輪や3両連結のトレラー・トラックなどは法定トラックスピード
55マイルで走るトラックを追い越すのには一苦労でした。

大型トラックの風圧が被いかぶさる様な勢いです、対向してすれ違う時は、
一瞬車が止まる様なショックを受けます。

それと砂漠地帯に突風の様に吹き付ける風が真横で吹く時は、これも重要
な注意が必要です。横風に煽られて車線を吹き飛ばされる感じで、隣の車
線に飛ばされていたと言う様な事も在ります。

一度などは前を走る小型車が横風で瞬時に隣の車線に吹き飛ばされるのを
見た事が有ります。今回はホンダの小型車に3人乗車していましたので、風
で飛ばされる事はありませんでしたが、いつもはワイフと2名で乗車していま
すので、後部座席に比較的体格の良い、重量のある女性が座っていたので
重石になったと感じます。
しかし、急カーブでは右に流される事があり、一瞬ドキリと致しましたが、そ
れは重力が後部右座席に鎮座致します親戚女性の重量が作用したと解釈
いたしております。
現在、ガソリンが高い価格と言うけれど飛行機運賃などと比較するとまだま
だ、車のドライブでの旅行は格安感があります。
ネバダ州の田舎モテルではシニア割引では35ドルで一晩泊まれるモテル
が有ります。朝食はコーヒーと自家製カップケーキなどが出ます。

ハイウエー95番などを単調な運転で走ると、時々無性に眠くなりますので、
ガムを噛み、お絞りの冷たいタオルで顔を拭いて眠気を覚まします。
陽炎の逃げ水を遠くに見ながら地平線から地平線まで走り抜けて行きます。

今回のネバダ州の走行が多かったのですが、一部アリゾナ州も走りました。
各地で高速道路のアスファルトが焼けて色が変わり、側に十字架が並んで
いるのを見ると何か哀れに感じます。

6月の終わりです、灼熱砂漠の気温はクーラーも余り効かなくなります。
陽炎に消える一直線の平坦な道路です、熱風が窓を開けると吹き込んで来
ます。デス・バレーの横を走る高速道路ではクーラー全開でも余り冷気が感
じない様でした。
途中、砂漠の幹線道路から外れた支線の対面交通、2車線の田舎道を走
ると、まるで貸切の道路の感じが致します。砂漠の真ん中で道路のセンター
ラインの上に寝転がて記念写真を写しました。

でもそんな道を一時間も同じ景色で走ると不安な気分となり、ガソリン・ゲー
ジを何度も見てしまいます。すれ違う車は15分か20分に一台ぐらいで、携
帯の電波もキャッチ接続する事が出来ません。それを知ると、もっと恐怖感
にさいなまれます。
時速140kmで走ると、地面の高低のままに道路建設がされていますので、
車がジャンプする様に道路の頂点から吹き飛ぶ様に道路の低い所までジャ
ンプして着地致します。微かにマフラーが、シュー!と道路をかする音がし
ました。

私も45年も前に、アフリカのヨハネスブルグに行く高速道路で大陸性波状
地形の頂点から新車のレンタカーで突撃する様に走り降りたら、時速160
kmのスピードが出ていました。それが生まれて初めて出した記録でした。

その時経験したスピードと、ネバダ州で体感したスピードはまったく異質の
スピードでしたが、恐怖感はネバダ州がグーンと上でした。

その支線を抜け出て、小さな町にたどり着き、コーヒー、ガソリン有りの標
識を見つけて直ぐにそこに飛び込みました。まるで西部劇に出て来る様な
小さな街です。
2分あれば通過してしまう様な僅かな家並みが砂漠の中に緑に囲まれて
有りました。

車にはガソリン、人間にはコーヒーを入れました。
そして勿論の事に、トイレにも行き肝心の出す物を出して来ました。

2杯のコーヒーに満足して、その夜の予定モテルまで走りましたが、アメリカ
の田舎町のモテルを泊まりながら車で旅をするのは、また旅の違う味が致
します。
その夜の夕食はハンバーグでした。

2013年7月3日水曜日

第3話、伝説の黄金物語、(92)


罠に掛かった勝ち組

罠に掛かった勝ち組の二人は用心深く連絡してきたが、富蔵はすぐさま
連絡人を追跡してその様子を探らせたが、これは上手く行った。
さりげなく追跡させた事で、その連絡人の居所とその身元が完全に判明
した。まずその線から大元にたどり着く事ができると考えていたが、それ
が正解であった。

サンパウロ郊外の農場に潜伏して、ノロエステ線の鉄道沿線の移住地
にも協賛者が居る事が分かった。それは簡単に連絡者がその日本人移
住地に出した手紙から、かなりの協賛者の身元がバレて、相手の用心し
た動きを簡単に見張る事ができるようになった。

電話も無い移住地の時代で、連絡は移住地の郵便局私書箱宛てに送
られていたので、簡単に連絡内容を知る事が出来たので、彼等の計画
の大体が分かって来た。
移住地の協賛者を集め、組織作りをして負け組みの知識人やその容認
派を封じ込めると同時にブラジル日本人社会を支配しようと考えている
と富蔵は思った。

それなら益々、トップの二人を何とか始末しなければならないと感じてい
た。おそらくその二人が居なくなれば、勝ち組が崩壊して、自然消滅する
道を歩むと感じていた。

日本人で、昔の砂金採掘現場で働いた事のある人が、知り合いを通じ
て相談に来た。彼の話を聞くと昔、一山当ててかなりの財産を残してい
た人であったが、その現在の農場に彼等が、しつこく勝ち組の勧誘に来
て、今では脅しに近い状態で寄付金を要求していると言う事であった。

彼はブラジルのインフレを考えて、今でも財産を金塊と砂金で隠して持
っていると話していた。何処から聞き付けて来たかは知らないが、富蔵
はすぐにこれは危ないと感じていた。
富蔵達はは自宅隣の自分の日本食レストランに案内して話し込んでい
た。おなじ年代の中年の男性は富蔵の勧めで、リオ・ベールデの仲間の
貸金庫と隣の銀行も共用する安全な場所を紹介していた。

彼はそこまで30分程度の距離の移住地に近い所で農業と牧畜を併せ
て広く営んでいたので、直ぐに紹介状とアマンダの兄弟に話をして、彼
の自宅から銀行まで護衛の3名を同行させるようにした。

富蔵はその話をした後に一策を考え付いた。それを餌に彼等をおびき
出す事は、もって来いと感じていた。皆と相談すると、勝ち組が興味を示
して彼の財産をまとめて狙って居るとすれば、これは意外と上手く行く方
法だと皆も思った。

まずその計画を始める前に全ての彼の家にある金塊と砂金が、貸し金
庫に移動されてしまった。
富蔵達のリオ・ベールデに居る配下の若者から選抜して、護衛を一人、
彼の家に住み込みで警備させていた。

警護の若者は彼の近所に住んだ事もある地理も良くわかる若者で、モ
レーノ達に付いて仕事を何度もしているので、安心して任せられる男で
あった。護衛は彼の農場では馬で何処に行くのにも身軽に動いて農場
周りを用心していた。

用意ができると早速、連絡係の耳に入るように噂を流して、事を大きく
騒いで話を吹き込んでいた。見事にその罠に掛かって来た。

勝ち組が寄付を強要するのでリオ・ベールデに資産を移動して預けると
いう言う嘘の話であった。戦後の日本人には大金を持つ者は少なく、彼
の様に砂金掘りで一山当てたと言う様な人は、ごく僅かな人しか居なか
ったので、勝ち組の二人が異常な興味を示した事は間違いなかった。

直ぐに囮の用意が出来て、富蔵が手配した偽物のメッキした金塊、これ
も偽物の砂金袋、ガラスの貴金属などを用意して彼の資産を全部運び、
貸金庫と銀行に預けると言う事にした。

アマンダの兄弟から銀行までの護衛に、町で警察官をしている親戚を
二人付けると言う事を勧めて来たのでその者を使う事にした。
前もって事前にその通り道を走って、罠を掛ける場所的な所を下見して
いた。
それと同時に彼の農場に居る護衛の若者の配下が、農場から1kmも
行かない交差点の田舎道で不審な車が何度も来て下見している感じが
すると報告して来た。
富蔵は逃げ道からしたら、そこで勝ち組が襲うことは90%の確率で起
こり得ると考えていた。予定された囮の日が来た、前のフォードのセダン
に日本人の農場主に扮装した配下を後部座席に座らせらせ、ハンドル
は農場に居る護衛の若者が握り、その助手席には配下の男が乗り込ん
で座っていた。
後の車に警官二名が制服で手にはライフルを持って、ハンドルは配下
の若者が握り、横に富蔵が座った。富蔵は用心にシュマイザーのマシ
ンガンを持って来ていた。

いよいよ行動の日が来た、囮の餌は大きく話して吹聴していたので、
勝ち組の二人が喰いつくと感じていた。銀行に行く日も連絡係にさりげ
なく話が伝わる様にしていた。

餌には簡単に喰いついて来た、十字路を通過する瞬間、狭い田舎道
の横から中型トラックが突進して来ると、ぶつかりそうになりながら富蔵
達の囮の車二台を分断して、富蔵が乗る車をブロックした。
トラックの後から来たセダンが前の車を追い始めた。

富蔵は車から飛び出すとトラックの運転手にシュマイザーを構えて狙
いをつけ、両手を挙げさせて動きを封じていた。警官二人は手のライ
フルを構えると同時に、二人がライフルで狙って前の車を追跡始めた
セダンを狙い銃撃した。

瞬時に2丁の警官のライフルが発射され、2度目の銃撃にセダンの車
がぐらりと100mばかり先で、路肩に突っ込むのが見えた。
路肩で停止したセダンからドアが開き、一人がよろめいて出てくると、
ライフルで狙い警官に応戦して来た。

若い警官が銃を捨てろと大声で警告したが、その声を無視するかの
ように一発撃ったと同時に警官が慎重にトラックの陰から狙い狙撃した。

男が崩れるように田舎道の草むらに崩れ込んでいた。

2013年7月1日月曜日

私の還暦過去帳(385)


ハワイは遠くなりにけり

先週、ハワイで親戚を案内して旅をしていました。

私が最初にハワイを訪れたのは、かれこれ34年も前になります。
私が訪れた最初の頃のハワイは、まだ海外旅行が一般的に普及して
いる頃ではありませんでした。

ハワイの街中も高層ビルもまだ少なく、オアフ島の裏側に行くとひなび
た農村の様子がありました。
ドールのパイナップル畑も綺麗に植えつけられた広大な畑が連なり、
収穫されたパイナップルを引いたトレラーが道を行く様を見る事があり
ました。
畑の中では麦わら帽子を被り、一列に並んで収穫機の前で腰をかが
めてパイナップルを切り取る労務者達の姿が見られました。

今では草ぼうぼうに荒れた畑に、『この土地売りますー!』の看板が
出ていました。僅かに残されたパイナップル畑は車内から見ても僅かな
面積と思います。

砂糖キビ畑も同じです、今ではエビの養殖場に代わっていました。
その養殖場の前には獲りたてのエビを調理して食べさすレストランが並
び、様変わりをしていました。
昔の砂糖キビ労務者の住宅も一部はすっかり代わり新しい家が出来て
いました。

町の中を通過していた道路は町の外側を迂回するパイパス道路でコー
ヒー工場にも寄る事が出来なくなりました。
今回で8回目ですが、昔の街は旧カナや漢字で、日本語の看板が出
ていました。そして椰子の木の下のレストランでは、ほのかな白熱灯の
鈍い光に照らされて座るお客の姿を見る事が出来ました。

今ではその店もありません、綺麗なショッピングセンターの様子に変化
していました。店先でコーヒーをローストして、コーヒーの香りが漂って
いた店もありませんでした。

ランチを食べ、暑い日差しを避けて木陰でのんびりと新聞を読んでいた
場所も何処に在るのか分かりませんでした。
全てが時に流され、人々の生活の流れも変化していました。

その事は私が歳を取り、昔しを懐かしみ、思い出を探して、若い頃の
思い出に浸って居るからと思います。
昔ですが、島内を車で廻って歩いていた時に、道を尋ねて聞いた人が
一世の年寄りだった事もあります。
綺麗な花が咲いている生垣を挟んで『何処からきなさったか・・、』
と聞かれた事が有ります。

ワイキキ海岸も今では歩道も綺麗な芝生と石畳の模様の歩道になり、
何処を見ても日本人の家族や若いカップルを目にする事が出来ます。

今では有名なホテルの玄関口には結婚式を挙げた日本人のカップルがリ
ムジンから降りて来る姿を見る事が出来、その着飾ったウエディングドレ
スの豪華さに目を奪われる時があります。

ふと、真珠湾の海軍基地内にある、旧海軍攻撃機で最初に撃墜されて
戦死したパイロットのメモリアルの碑に50年を経てその日本軍パイロットの
婚約者が花束を添えに来たと言う話を思い出していました。

時代の変遷は時の老化現象と言った人が居ますが、何かその言葉が身
に染みます。