2013年7月13日土曜日

私の還暦過去帳(390)

初孫誕生、

4年ほど前に我が娘に初孫が誕生いたしました。
70歳近い年齢での初孫ですからそれは嬉しい事でしたが、その時の話
です。

先週娘の家に行きまして、初孫を抱く事が出来て感激に浸っています。
可愛い女の子で3カ国の血が混じる事になります、早速におじいちゃん
バカぶりを発揮して美人などと廻りに話しています。

でも見ただけで生まれて直ぐですが、鼻が高く、まつげが長いので、今
から美人となるなど想像いたしております。

娘の家に着いたのが丁度退院する日で、その記念を撮影をすることが
出来ました。早速家に帰り、それからが大変です、あちこちとミルクを飲
ます場所まで選定するのに時間が掛かります。

でも何とか娘も頑張って2時間おきに母乳を与えていますので安心です。
 幸せに両親とおじいちゃんとおばあちゃんに囲まれて、母乳も沢山飲み、
着せ替え人形の様にして、お腹一杯にミルクを飲むと、すやすやと何時
までも寝ています。

娘夫妻が子供の誕生で、2ベッドの大きなアパートに引っ越す事になり
手伝いにその前に来ていました。

それが済んで未だ時間があると、メキシコのカボにバケーションを予定
して全て手配を済ませたら、いきなり2週間も早く出産となり、 それも超
特急で朝の5時頃に陣痛が来て、まだまだと9時に受付に行きましたら、
そのまま分娩台に直行で、45分後に自然分娩で生まれていたと言うほ
どの安産でした。

慌てたのが私達夫婦です、なにあともあれ、お手伝いに行く事になりま
した。メキシコの一週間の休暇はキャンセルになり、全部おじゃんとなり
ましたが、そんな事より、初孫が安産で生まれたという事が頭に一杯で
す。
そこでメキシコのカボにあるコンドの一週間の宿泊を
『誰か居ませんか・・!』と出したのですが、何方も居なくて捨ててしまい
ました。もったいない・・・、と感じましたがキャンセルが出来ないので残
念でした。

ワイフと車に荷物を押し込んで、520kmのドライブです、沢山のお土
産や、持って行く物で車のトランクには入りきれず、後部座席にまで乗
せていました。距離にして530kmですが、6時間も掛からずに到着い
たしました。

アメリカでは出産2日目に、異常がなければ退院です、娘も安産で2日
間病院滞在で帰る事になり、その光景に立ち会ったのですが、先ず病
院の受付けが厳しく、厳重にチエックされ、胸には訪問者の名前を書
いたカードまでつけて入ります。

娘のルームはトイレからシャワーまである大きな部屋で、そこで退院前
の書類手続きを済ませて最後に看護婦が両親立会いのもとに、子供
の手と足に付けられたプラスチックの認識リングを切って取り外します。
名前を確認してサインして全て終わりになりました。

しかし・・・、我が初孫を見ていると49年の昔のことが思い出されます。

49年ほど前にパラグワイに移住した時、ある農家を訪ねたら、生まれ
て間もない男の赤子がいました。  痩せて肥立ちも悪く、粉ミルクを与
えているようでした。
その粉ミルクを溶かす水も井戸水で、沸かしても居ない水でした。

パラグワイ入植者達が困窮して、作物を作っても売り先も無いような時
期でした。
奥さんが、『子供が出来ても降ろす金もなく、10ヶ月お腹に入れて過
酷な労働をして生んでも育てる事もでき無い・・』
と嘆いた言葉を今でも忘れる事は出来ません。 

棄民の如く扱う、日本政府の移民政策を肌で感じました。
当時の移住事業団は警察官僚の天下りの場所でした。 

ドミニカ移民も同じ、乳飲み子を抱えて売れる物はすべて売り払い、豚
の餌にする様な青バナナを塩煮て食べるまで落とされた移住者達の子
育てに怨念を感じます。

ある程度の年齢の子供達は、生活苦から学業も満足に出来ずに、 途
中で学業を放棄して労働力として働いたと聞きました。

パラグワイで私が訪ねて会ったその子供は数ヶ月後に、栄養不良で
死亡したと聞きました。 当時、移住地の墓地に行くと、死亡時、当年1
歳とか2歳とかの墓が多数ありました。 

49年も昔ですが、パラグワイの首都、アスンションの日本大使館 に出
向き、子供達の悲惨な現状を訴えました。

すると  『開拓初期だから仕方が無いー!』と係官が反論しました。 

私が激怒して『ラ・コルメナ日本人移住地は戦前の移住地で、28年 も
前からパラグワイにあり、すでによい事例があるではないかー!』と反
論すると、こそこそと用事があると消えて、二度と出て来ませんでした。 

私は何時もベルトに隠して所持していた拳銃を、ホテルに置いて来て
いなければ、間違いなくその場で、その男の頭を撃ち抜いていたと思
います。
血気盛んで正義感が溢れていましたので、激情に駆られてその大使館
の役人を撃っていたと思います。

翌日、近くに日本人レストランで彼等が話す会話を盗み聞きしたら、 

『幾らドルが貯まったか、早く本省に帰りたい、何処何処はもっと大使
館で使える金がある』などと言う話でした。 

役人官僚等は百姓の農民などは数に数えてはいなく、移民事業など
は自分達の仕事の種としか考えては居ないと感じました。
中にはボリビアの移住地で担当係官の銅像まで作って移住者に感謝
されている人も居ます。
しかしながら、日本国も悪いが、それを牛耳っていた官僚がもっとワル
でした。

そんな移住政策も1974年頃には組織的、計画的な移住は終わりま
した。

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