2013年7月21日日曜日

私の還暦過去帳(394)


 秋深し隣は何を喰う人ぞ・・、

とか、何とか言いますが、世界中で収穫の秋とか、食欲の秋とか言って
何かと美味しい物を口にしたいと考えている人が多いと感じます。

私などサンフランシスコ郊外に住んでいると、日本食品などは何でも買え
て、お金さえ出せばなんでも御座れの様に感じます。

先日も最近開店したばかりの香港系の東洋食品スーパーで、大きな生ウ
ニが売っていました。お寿司にしたら、と考えるだけでヨダレが出て来ま
した。
先週も日本町に行くと、日本から空輸されて来たサンマがありました。
冷凍ものではなく、まだウロコがキラキラと光っているような新鮮な物でし
たので、値段は少し張るのですが塩焼きにと買い、ついでに大根も買って
その夜はサンマの塩焼きに、大根おろしを沢山つけ合せして食べました。

食生活は生まれてから食べて来た、母親から食べさせられた料理に大き
な影響があると感じます。何処に住んでも、何処に移住しても、何とかし
て食材を手に入れて、懐かしい味を楽しみたいと考えている人が多いと
思います。
今ではアメリカなどに住んでいると、何でも日本食が食べられ、日本の
寿司や料理なども大抵の地域に開店している日本食レストランで食べら
れます。
私が住んでいる町にも寿司屋が数軒開店いたしましたが、余りにも増え
すぎてつい最近2軒も閉店してしまいました。

それも中華料理店の片隅で寿司コーナーとかを開いて、寿司が食べられ、
注文が出来れば、わざわざアメリカ人など、家族で寿司屋だけに行くより、
中華料理が食べられ、寿司もつまめればと言う店が流行っていると思い
ます。
日本人からしたら、なんだー!とか言う人もいますが、ここはアメリカで
すからアメリカ人相手でないと生き残れないと思います。

49年前、私が移住した頃のアルゼンチンでは、日本人会館の食堂だ
けが、寿司や刺身が美味しく食べられた所でした。

その後に、当時のブエノス・アイレス市内に太洋漁業が開いた
『マグロの家』で本格的な寿司や刺身と、日本料理が食べられるように
なりましたが、我々、貧乏百姓ではなかなか食べに行く事が出来ない店
でした。
でもボリビア国境から片道1658kmを、長距離トラックで走ってブエノ
スに野菜などを出荷する楽しみの一つは、やはり日本人会館に行って、
ラーメンやウドン、寿司などの日本食を食べるのが楽しみでした。

戦前の一昔前では、米でさえ手に入れる事が難しくて苦労したと聞いた
事がありま
した。その方のファミリーは、ブラジル最初の移住船、笠戸丸でサントス
港に上陸した家族でしたが、後にアルゼンチンに再移住してブエノス・アイ
レスに住み着き、現地アルゼンチンで生産されたイタリア米を、少し稼ぎが
あって買って来て食べた時の嬉しさを忘れられないと聞いた時に、先人達
の苦労を肌で感じました。

今では日本米は世界中で手に入れる事が出来ます、大抵は寿司米として、
メキシコの田舎のスーパーでも買うことが出来ました。

去年、南米各地を旅して歩いた時に、ペルーの首都、リマのペンションで
自炊をしていた時に、近所の店でも短粒米を買うことが出来て、持参して
いた電気釜で炊いて食べていました。

パラグワイでもアルゼンチンの田舎でも日本米を口に出来た事は世界が
狭くなったと感じます。
アルゼンチンのブエノスでも、泊まったペンションの近所で、小さな店でし
たが1kgの箱で日本米を販売していたのには驚きました。

戦前の移住者が日本から米を1升ビンに密閉して、故郷の日本米を何本
か持ち込んで正月とかお祝い事に少しばかり炊いて、先ず仏前に供えて皆
が口にしたと聞いた事があります、中にはその米で死の瀬戸際に、重湯を
作り口に入れてもらい、口に含ませてもらって、『この世の別れに、こん
な美味しいものを口に出来た』と言い残して亡くなられた方もいます。

たかが日本米、されど故郷の大地で育ち、大切に育まれて収穫された米、
死に際に口にする思いは、いかほどかと今でも感じます。

今年も新米の季節となりましたが、私が口にする米の思いは大切な思い
出です。

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