2011年11月30日水曜日

私の還暦過去帳(103)

インドに到着して飛行場での入国審査を待っていた時です、
近くのトイレに行きました。かなりくたびれた施設で、でも綺麗
に掃除はされていました。しかし私の目的とする場所は日本人
の胴長短足のサイズでは、かなり高い位置に有りまして、少し

驚きました。アメリカでは子供サイズが有りまして、余り苦労は
ないのですがインドでは全部大人用ばかり、誰が設計したかは
知りませんが、不公平です。しかしインドであちこちと利用して
近代的な近年に建てられたビルやホテルは全部私がアメリカで

お目に掛かるタイプのトイレです、終ると自動で水が出て来て、
洗浄しています、アメリカや日本と何の違和感も有りませんでした。
しかし、田舎に行くとドライブ.インのレストランはかなり旧式な
設備でしたが男女別、2名もトイレ係がいまして、終って手を洗

うと、直ぐにペーパータオルを出してくれました。5ルピーぐらい
のチップをあげていましたが、何か長閑な感じがして手洗いの水
が流れる近くに、季節のお花が綺麗に咲いていたのに感心しました。
私が旅行して歩いた場所では、どこも綺麗なトイレが

有り、困る事は有りませんでしたが、わが息子、次男のアパート
ではトイレに入ると紙が有りません、ギョ~!として聞くと、トイ
レの便座の横に小さなパイプが来て、終ると水で洗う様になって
いました。次男が言うには、『紙資源がもったいないーー、流せば

下水パイプが詰まるーー、この方が慣れると気持ちがいいーー』
と言って用が済んで、横の蛇口をひねるとシャーと水が出て来て、
日本の今ではどこの家庭も有る、温風まで出てくる様な高価な
物では有りません、単にお水が出るだけです、『フムフムーー!』

お鼻の先で聞いていました。いざ実行すると、冷たい水が心地よく
後はタオルでふいていました。ワイフは終って意気良いよく水を出し
て『びしゃーー!』とおつりを貰って、濡れてしまい、ぶつくさ言
っていました。ジャイプルの町で泊まったホテルはかなり高い建物

で、下を朝早く見ていたら、近所の工事現場の草原で、幾人かの人
がしゃがんでいます、『ハハーン~!』とピンと感じましたので
参考の為に見ていましたら、やはりそう~で、朝の用たしでした。
インドの田舎の工事現場では、日本やアメリカの様に簡易トイレが

設置されていなくて草原での用たしとなっていたと感じます、でも
朝早くホテルの窓から見下ろしていたなんぞーー、チョイと笑いが
こみ上げて来ました。何せインドは人口が多いと感じます、デリー
市内で次男も話していたのですが、公衆トイレが少なくて、歩道の

人目が少ない所は注意してと教えてくれました。やはりそのとうり
でした。それと沢山ブラブラ歩いている、お牛様が排泄される物で、
グチャーとやりかねないので、いくら神聖な牛でも用心していました。
やはりインドです、絶対に東京では体験することが出来ない事です。
 次回はデリーの清掃とゴミに付いて書きます。

2011年11月28日月曜日

私の還暦過去帳(102)

デリーの首都から270km南西に行った所の、ジャイプルの町に行
きました。 『プル』とは城壁に囲まれた町の意味です。ですから
インドでも他に同じ名前 が有ります、ジャイプルは7つの門に囲ま
れた旧市街が有ります、そこは砂漠 の入り口の乾燥地帯で、空気が
乾いていました。

そこから11kmの、アンベール城に見学に行きました。前から聞い
ていたのです が、 象のタクシーがあるとの事、一度乗ってみたいと
思っていました。象は触った事は 有りますが、乗象した事は有りま
せん、ガイドさんに『象さんに乗った事は有りま すか?』と聞かれ
て、ワクワクしていました。

城の下に到着して、直ぐに『プーン~!』と家畜のおしっこの匂いが
しました。 どでかいウンチも『ぼたり~!』とこんもりと盛り上が
り、道に落ちています。 ガイドにせかされて、並んでいましたが、
30分も乗象するとの事、道路を隔てた 有料トイレに駆け込みまし
たが、ワイフと二人で10ルピーとの事、何と~!

床に丸い穴がぽっかり開いたトイレでした。ドアは有りましたが、
多分ワイフは 飛び上がって驚いていると想像していました。男はか
まいませんが多分ワイフは コンクリートの床にポッカリと開いた穴
めがけては、難しいと想像していましたが、 案の定ーー!出てくる
なり目を丸くしてご報告でした。『ご苦労さまーー!』

どこから象乗するかと言うと、かなり高い塀の上からでした。四名乗
れますーー!、 御者は首の所に乗って上手く象を操り、出発しまし
た。次男も同行して旅に来ていましたので、丁度良い人数でした。
ガイドが一緒に乗りまして、説明してくれましたが、私は前に乗り、
前方を見ていました。坂をゆったりと登って行きます、

象もこれまで何度も朝から登り降りしている様で、しきりと鼻から
水滴を流していました。
ガイドさんがいわく、少し暑いからだとーー!、象を観察していると、
坂道の石畳の所どころにいる、物売りを見ている様でした。
小さなお目がキラリと光った感じを受けました。若い男が手に何か
持って『これ買ってー!』と差し出した瞬間~!『パー ン』

と象の耳は大きく動き、『お見事ーー!』吹き飛ばしてしまいました。
通行人や、女性の物売りは何もしませんが、だいぶ登った所に居た、
若い男がまた何か差し出そうとすると、驚く無かれーー!象は身体
をその男の方にちかずけて、こすらんばかりに胴を寄せました。
男は坂道の石壁に『ぺたり』とへばり付き、商売どころでは無く、
青い顔をしていました。

御者は慌てて象を動かしましたが、1トン以上も有る、象からこす
られたら、『はいーーそれまで~!』となると感じました。
ハハーン~!象さん退屈にイタズラしていると感じ、前を歩いてい
る象と連携して歩調 も同じ感じで、『ちんたら~!ちんたら~!』
と言う感じがしました。

小さなお目ですが、あれでも中々鋭い感じです、30分ぐらい象に
乗った時間ですが、 城内に入り昔、王様が象に乗降した場所で降り
ました。片側の2名を降ろすと、くるりと廻り、反対側の2名を降ろ
す動作は慣れたもので、『やれやれ~!一丁上がりーー!』
と言う感じがしました。象のタクシー乗車賃は、ガイドが話してくれ
ましたが、お一人様、 50ルピーとの事、アンベール城の見学は
親子3人で歩き、ガイドさんが無駄なく説明してくれ、楽しいひと
時でした。
次回はインドのトイレ話しを書きます。

2011年11月27日日曜日

私の還暦過去帳(101)

私がインドの気候を書くと、何か巨大なインド象の尻尾の先を握って、
これがインドの気候ですと話している様なもので、チョイと、様に成り
ませんが、全体を概略で書いて置きます。

それからデリーの地下鉄は全然動いていないわけでは無く、一部 分が
やっと開通して、試験的と言う感じで動いています、全線開通は あと
2年以上はかかると聞きました。

人口900万人以上の大都会で は、残された空間は地下だけですから、
デリー市内を見物中はあちこ ちで地下鉄工事の現場に行き合わせまし
た。デリー市民も早く開通 して欲しいと話していましたが、それだけ
首都交通が混雑しているからと感じます。

特に北部インドは、3月末から6月頃の雨季に入るまでが一年で一番
気温が上がり、暑くなると聞きました。
その頃はデリ ーでも40℃台は珍しくは無いとの事、何せ暑い感じで
す。北西部の砂漠地帯では50℃も上がる気温が珍しくはないとー!
恐れ入ります~!

インドでは11月から2月までが乾季で、快晴が続き旅行には快適と
感じます、雨季は6月から10月頃までが雨降りに時期で、時には
モンスーンの影響で大雨が降るようです、大英帝国植民地時代の
イギリス人達は暑さに弱く、避暑地として開発した東インドのダージ
リン や、北インドの山岳部、南インドではウーチィなどが有名です。

しかし昔のイギリス植民地のインドに派遣された英国官使も熱帯医学
など、それから予防医学などが無かった時代、灼熱のインドの気候で
多くのイギリス人達がインドの土に成っています。

ムンバイ(ボンベイ)の町の片隅 の墓で、イギリス人達が寄り添う様に
並んでいる写真を見ました。 沢山の子供の墓が有り、幼い子供が犠牲
になったと感じます。

この事はアメリカでも、ボストンの町外れのボストン河口の港町で見
ました。 私は昔、『バンカー.ヒルの戦いー!』と良く形容された
事の意味が分りませんでした。

ボストン河口の港を見下ろす墓地の丘が『バンカー.ヒル』と言う名前
の丘でした。私の娘が案内して くれたのですが、夕方の小雨が降りそ
うな時間で静かな墓地に、簡単な名前と年月日を鉄平石に刻んだ墓 石
が寒々と並んで、1750年台の昔のイギリス人達が故郷から到着した
港を見下ろす丘に眠っているのを見て、インドでも同じく故郷から到着
した 港の近くに眠っていると感じました。

ボストンの墓場でも子供達、幼児の墓 が多かったのを覚えています。
インドでは暑さと、慣れない気候で疫病に掛り、話ではマラリアや赤痢
など日常で、コレラなども時には大発生したと聞きました。  

次回は象のタクシーに付いて書きます、乗車した事が有りますか?

2011年11月26日土曜日

私の還暦過去帳(100)


これを書いている横で、ワイフがのたまわくーー!、良くかけるね~!
と言っています、前は2階の娘の部屋にパソコンを置いていましたが、
ワイアレス接続で電波の状況が悪くて時々切れますので、下の私の
書斎に引っ越して来ました。

前は2階のワイフに『お腹が空いた~!』
とE-Mailを出していましたが、今では側の手が届く所にパソコ
ンが有り、 何か分らない時は、『チョイト~!』と来ます。
ボケかかった頭でも、日記を30年も付けている根気と、昔、学生
時代に熱帯作物研究室で栽培記録を丹念に記録した経験が有りますか
ら、そこはそれ!まだ現役です!

インドの気候を考えると、住む場所で決まると感じます。
デリーの夏は暑いそうですーー、しかし湿気が少なくカラリとして
日本の夏の様に、ベトベトした暑さではないから、耐えられると話
していました。 デリーの首都はかなり密集地域でレンガ作りの2階

から4階ぐらいの建物が立ち並んで居ますから、それが真夏にヒート
したらかなりの暑さに感じると思います、それと地下鉄も電車も無い
都市構造です、車が密集して走行するほかに、交通手段が無い都市で
は吐き出される炭酸ガスの層が都市を覆い、熱気として傘となると

感じます、東京も同じで真夏のヒートは熱帯夜となり、大都会の宿命
です。去年アルゼンチンのブエノスで2月の初めでしたが、飛行機か
ら着陸する時見たブエノスの街がスッポリとスモグに覆われて居たの
には驚きました。まったく76年にカリフォルニアのLAで見たのと
同じです、飛行場に着陸する時に見た其のままの感じでした。

大都市の過密は気象にも影響を与えると感じました。デリーではだい
ぶ前にデリー市内を走り回るバスは全部、ジーゼルエンジンで、凄い
スモッグだったと話してくれました。現在はLPガスの燃料で、エンジ
ンを切り替えて走っているのでだいぶ綺麗になったと教えてくれまし

たが、夏同じ40℃では比較しても、都会と田舎では体感する気温が
違うと感じます、デリー市内の勤務でオフイスビルの中で、一日冷房
が効いた中で仕事をして、たまに外に出ると それこそーー!、
『ぎゃ~!』の暑さの感じとなると思います。私が住んで居ますSF
郊外でも時々、夏に40℃になりますが、そんなに感じる事は有りま
せん。

そんな事で、インドに住む人達はそこに何千年前から住んで居るので
すから、 暑いと言って、逃げ出す人も居ない様です。次男が南部イン
ドを900kmもサイクリングして、体感として2月の気候を話して
くれたのでしたが、バナナやパパイヤも成っている場所で、スイカも

買って食べたと話していますから、同じインドの春と言っても、気候
はどえらい違いと感じます。北部インドから来た日本人そっくりさん
が話してくれたのでしたが、『インドは広いよ~!私が住んでいた
北部インドでは山に雪も積もるとーー!』そんな事でインドの気候は
我々の想像する以上の幅が有ると思います。

次回もインドの気候に付いて書きます。

2011年11月25日金曜日

私の還暦過去帳(99)

インドの交通ルールや、政府の規制などは有って無い様な印象です、
驚きの一言です。次男が話してくれたのでしたが、インドでは弱肉強食
の交通ルールと言う感じで、一番は大型トラック、その次はバスなどの
大型車、次ぎがバンなどの比較的大型車、それから一般の乗用車など、

次ぎがバイクなどが来て、それから自転車などで、最低は人間様が除け
て道を通らせてもらう感じです、車が『そこのけーー!そこのけーー
!』で 人間様を蹴散らして走って行くと言う感じがします。
その様に仕付けられて経験して、自分の身にいやと言う感じで焼きつい
ていますから、いざ自分が運転する様になったら、そこはそれ!

『どけ~! 車が通るーー!』の感じとなる様です。それにしても
デリーの首都の交通 機関は自動車だけで、公共交通は地下鉄も電車も
無くて、バスだけです人口900万人以上の大都会で、バスだけでし
たらそれは交通戦場と言う感じで、『ヒ~!』と言う悲鳴になると思
います、現在地下鉄工事中で、あと2年ぐらいは掛ると言っていまし

た。誰か冗談ですが『インド人が車を買って運転し出すと、人が変わ
るとーー!』それも道理と感じます、インド では車は高価で車庫に車
を入れると、何か階級のシンボルとしての象徴と感じます。しかし
インドです、一度郊外の道を走ると、ラクダや、ラバに引かれた荷車
が、ゴロゴロとのんびりと走っています、日本ではだいぶ昔に終り

となった光景です。田舎の国道をサリーを着た婦人達が列を作って頭
に 何か載せて歩いているのを見ると、廻りは人家もまばらな所、どこ
までテク テク歩くのか、こちらが心配するくらいでした。しかし歩い
ている人が沢山居ます、自転車も見るのですが、旧式の40年前の日
本で良く走っていた感じの、ゴツイ感じがするタイプが殆どでした。

私も注意して見ていたのでしたが、サイクリングの、ドロップハンド
ルが付いた自転車は一度だけでしたが、毎朝物売りに来る人達が乗っ
ていた自転車は全員同じ感じのゴツイ自転車でした。私が一番感心し
て、驚いたのは、自転車の荷台に箱を取り付けて、カギを陳列して、
ハンドルの前には工具など一式入れた物をぶら下げて、『カギ屋~!
ご用は御座いませんか~!』と怒鳴って走っていたのには感心しまし

た。話しによると合い鍵などは直ぐに作ってくれると言っていました
私達、夫婦がデリー滞在中はオート力車を良く利用しました。近所に
行く時はこれが一番手軽で便利でした。パタパタと小回りが効き、狭
い所でもスイスイです、人力のリキシャーはのろくて、どうも運転

している人が貧弱であれば、何か安心して乗ってはいられない感じで
した。それにしてもタクシーを一日8時間借り切っても600ルピー
でした。 チップを入れて15ドルぐらいです、出かける時は借り切り
で出かけましたが便利で店やレストランの前まで行け、ちゃんと待っ
てくれるので良く使いました。 でもシートベルトなどは一切無くて驚

きました。そんなインドの交通戦場で 一度も救急車がサイレンを鳴ら
して、飛んで行くのを見なかったのは不思議でした。しかしどこか軽
くぶつけて、喧嘩している現場な何度も見ました。 私がインドで一番
感心したのは、インド国民車と言われるアンベスターの車種を役所と
官庁は殆ど全部ぐらい使っていた事です、きちんとワックスで磨かれた

カローラぐらいの大きさの車ですが、背広をきちんと着た人が後ろの
座席に座り2~3台列を作って走っているのを見て、先日TVで中国
政府の役人がベンツ の高級車でふんぞり返って北京市内を走る情景
写しているのを見て、何と 差が有るのかと感じました。
 
次回は気候に付いて書きます、インドは暑いか?

2011年11月24日木曜日

私の還暦過去帳(98)

インドは面白い国です、都会は現代社会が溢れて、田舎では
私が子供の頃の50年以上の前の景色と、思い出が一致しました。
デリーの首都の国際飛行場に到着して、一番初めの遭遇は両替
でした。税関を出て直ぐに左側に有った店に行きました。

とりあえずは少し両替していないと困りますので、交換する事にし
て店に寄りました。ワイフは先に出迎えの人を探しに行きました。
次男が両替は自分の知った所でするからと、余り交換しない様に
話していましたので、とりあえず50ドルばかり頼む事にして、
両替を始めました。

次男の注意も有りましたので、少し用心していました。
案の定ー!両替と言っても2%も取り、そしてインドでは破れたお札
は使えないので、100ルピーの中に2枚も2センチぐらい穴が開い
たお札を混ぜていましたので早速に文句を付け、『交換しろ~!』

と怒鳴りました。マーー!英語でしたので『ドスーー!』も効いて、
直ぐに交換してくれると思っていたのですが相手は、『両替はお前
とは止めたー』と来ました。『ソーーかい!』で終り、お札を投げ
返して、ドルを取り返しました。

『ぎろり~!』と睨み、振り向くと、後ろに若い日本人の学生風が
2名も青い顔をして、見ていました。『ここはインドだから、注意
しな~!』 と言い残して、スタスタと別れましたが、そこからは私
が毒気を抜かれた、 帰りの飛行機に乗るまで、インド交通戦争に投
げ出されました。

今までに経験した一番の凄さです、デリーの首都はその当時、地下鉄
が有りませんので、バスとタクシー、オート力車が一般市民が乗る
バイクやスクーターなど ゴチャー混ぜの交通規則など、どこえやら
警笛鳴らし放題、割り込みOK, 2車線に並んで3台走るなど、仰天
の別世界ーー!、アルゼンチンの首都 ブエノスなどはインドから見た
ら、紳士の国の運転と感じます。

混雑絶頂の時間帯に、物乞いが走行車線でお仕事中ーー!『あー!』
これどうなっているのーー、と言いたくなる光景、信号で停車
すると、一斉に 両側から、窓を『コンコンーー』短い停車時間
新聞売り、雑誌売り、菓子売り、合わせて、物乞い達もこれ負けず

に、窓が開いていたら、『スーッ』と手が差しこまれ、『チョイとー
ーだんな!』と来ます。インド到着8時間ぐらい前に、成田の 綺麗
な高速道路、ピカピカの高級車や、リムジンバスの豪華さーー!、
飛行場近くのホテルから成田出発ターミナルまでの、人気の無い
歩道、綺麗な街路樹。 しかし現実のインドは街灯も無い暗い道、

両側の道に立ち並ぶ屋台。けたたま しい警笛の交差。トラック轟音
と、ジーゼルの排気ガスの匂い、舞い上がる埃。 その中を結構遅い
時間にぞろぞろと歩道を歩く人、これは迎えのガイド兼通訳が 教え
てくれましたが、飛行場の裏側近く、何と~!モスラムの人達、
専用ゲートだそうで、ここからメッカ巡礼の旅に飛行機で出掛ける
所と教えてくれました。

いやはや、雑多でめちゃめちゃーーな交通マナー。バスの老巧化した
車が、警笛を鳴らして、ダンプカーみたいにツ込んで来たのには、
驚きの一言~!鈴なりの乗客を乗せてですよーー!インドに着いた
とたんに心臓が『ギュー』との感じで、 血圧が上がるのが自分でも
感じました。やれやれーー!と思って観念しました。

次回もインド交通事情を書きます。

2011年11月23日水曜日

私の還暦過去帳(97)


インドで私が見たクリニング屋はだいたい2種類に分れると感じま
した。 一つは、普通の日本で見られるドライクリニングタイプです、
これは ちゃんとした店構えで、機械も最新式を備えた店です。
中には服を自動で動かして取り出す機械を設備した店も見ました。

その一方で、住宅街の道路の片隅で、街路樹と塀の間に日除けの
テントを張り、塀の下の方には上手くロッカー形式の収納庫を作って
有り、そこで長年に、アイロンをかけて仕事をしていると感じました。
最初、私は朝の散歩で見つけました。かなりの老人で、沢山のお得意

を持っている感じでした。助手も一人居まして、側で手伝っていまし
たが、 アイロン掛けが済んだら配達して居る様でした。
まず、朝早く来てアイロンに炭火を入れなくてはなりません、アイロ
ンは 約2キロは有る大型です、一度に200グラムの炭を入れる事が
出来ると話していました。

それで約半日の仕事が出来るそうです、シャツでしたら60枚はアイ
ロンをかけられると教えてくれました。中々上手い手付きで仕事をし
ていました。私は興味が有りましたので翌日、朝早く出かけて見る事
にしました。まず塀際のロッカーから炭を出して、細かく砕きそれ

から、ぼろぎれを適当な大きさに切って、それにガソリンを染み込ま
せて、 その上に炭を載せて火を付けます、適当に火が付いたらその
上に大きな 炭を載せて火を付けます、それが出来たらアイロンに上手
く並べて置き、 炭を均一にして火が平均に行く様にして、フタ被せて

いよいよ仕事に掛る 様でした。近所から洗濯籠に入れた洗濯物が届け
られ、アイロン台がおかれて、霧吹きも大型の真鍮製のかなり年代物
が置かれて仕事が始まり、 サンダル足で、側にはアイロンに入れた残
りの炭火で、小さなコンロでインドチャイを入れるお茶が沸いていま
した。彼にはそこが仕事場で、生活にも繋がった場所と感じました。

畳1枚ぐらいの場所です、並木の下で小さな テントを被せて有り、休
み時間には寛ぐための、折りたたみのイスが置いて有り、全てが彼の
大切な世界と思いました。アイロンは温度調節も出来ないのでどうす
るか見ていましたら、何とシャツの上に、タオルを置いて、熱過ぎ

る時はそれで上手く調節している様でした。この様な仕事で生活が成
り立つのですから、やはりインドですーー!綺麗にアイロンをかけた
シャツ が積み上げられ、籠に入れて配達されて行きました。

通りを行く近所の奥さんと挨拶しながら悠然と、重い炭火のアイロン
をかけていた老人を今でも思い出します。

次回はインドの乗り物の話しです。

2011年11月21日月曜日

私の還暦過去帳(96)

今回のインド訪問で私が感じた事は、人口巨大国では
その人口比の10%でも、高学歴、教育程度の高い専門
職を維持し、発展させて、これからの人口増大を産業経済が
支えると言う、日本経営方式を取ると確信致しました。

専門家の意見を待たずとも、たとえ10%の人口とすれば、
1億1千万人と言う、日本の人口に匹敵する、最先端の技術
者の集団が化学IT産業教育、英語教育、デジタル専門教育
などの高度な教育を身につけた人間が動き出すのです、恐ろしい

感じがします。トヨタ自動車がそこを読んで、これからの投資先に
インドを据えた事は先見の目が有ると感じます。中国は所詮は
共産社会の社会主義政権です、中国政府が頭を抱えるほどの
上級共産党の幹部と政治責任者が腐敗と汚職と官僚主義に

汚染されている事を考えると、資本主義社会を進めるインドがまだ
これからの世界で、国民の10%がここ十年先に生活改善、所得
倍増したら、これは凄い国となると感じました。今の中国がとても
太刀打ちする事は出来ない事です、デリーの高級住宅地で毎朝の

出迎えの車を見ると、ホンダのアコード、トヨタのカローラ辺りが
普通でした。一般庶民は小型のスズキやTATA、フォード、韓国
現代、などの車が売れ筋と感じました。一応日本車は全部走ってい
る感じでしたが、日本で見られる高級車は有りませんでした。

私がインドを見て中国人を余り見かけない事に驚いたのは、利に敏い
中国人を打ち負かす、インド、ボンベイ商人達、特にシーク族はその
代表と言われる人々です、酒、タバコ、は一切ダメーー!、かなりの
シーク族の掟があり、連帯と結束が固い人達です。中国人が異国で

初めて移住して行く行程はクリーとして、昔は奴隷的な労働で出発
して居る事を見ると、インド洋の真中に浮かぶモリーシャス諸島で
砂糖キビ労働者として先祖が来て、そこで住み付いた中国人が殆ど
中国料理屋を開いて、商店なども合わせて持ち、地域社会で這い上

がった行程を見れ、インドを治めていた大英帝国がインドで生産した
阿片を持って中国の銀を持ち帰った事例を見ても、上には上が居るの
です。その中国人もアフリカのモザンビークで見た時も同じ感じで、
中国料理屋を経営して、商店を開き、貿易を起して、ここでも底辺

からの這い上がりの人種と感じました。しかしインド商人はその上
を行っている感じがして アフリカの有る国で、独裁大統領がインド
人を弾圧して押えたら、国家の金庫まで空っぽだった事が事実とし
て有ります。所詮、中国人は箸で食事をする人種、インド人は手で

食べる人種、中国人は全ての動物は象でもクマでも、トラでも、牛
でも豚でも食べてしまう民族です、インド人はその反対を行く人種
です、どちらが思考的に耐えられるかはインド人を見れば中国人など
問題ならないと感じます。昔、底辺に居たインド人は 中国人のクリー

より耐える力があったと聞いた事が有ります、それは初期のアメリカ
開拓でも有った様ですが、特に農業ではカリフォルニアで、日本人や
フイリッピン人などの労働者に圧されて居なくなりました。それと
生活条件がボーデングハウス(下宿屋)での集団生活で、食生活の格差
が大きかった様です。
豚肉のベーコンやソーセージ、牛肉のステーキなどを食べる事が 普通
の労働者でも有り、インド系がはみ出して行ったと感じます。
私が日本に帰国する時にアフリカ経由で帰ってくる船中で、学が有る
人が講義してくれましたが、インドを治めていた大英帝国の

イギリス人達が使用人として忠実なインド人召使を連れて、アフリカ
諸国に行き、その子孫が根を張り、また、インド駐留イギリス軍の
弾除けとしてインド人部隊を創設して、各地に駐屯して、そこから根
を広げて行ったと話していました。第一次大戦ではインドから出征し

た兵士が15000名?ぐらい、イギリス軍の弾除けとなって戦死し
たと聞きました。そんな経歴をたどって、アフリカなどに沢山のイン
ド人が根を張ったと感じます。特に軍隊の下士官はシーク族が多く
占めた様です、デリーに有るインド門を警備する、兵士はターバンを

巻いた体格の大きなシーク族の兵士が立っています。大英帝国時代に
イギリス政府は、南アフリカの植民地開発に沢山のインド人の労働者
を利用して鉄道敷設、道路建設、都市開発などをさせた様です、その
末裔が現在のインド人として、南アに住んで居ると感じます。


モリーシャス諸島で私が乗船していたオランダ船が2日半ほど停泊し
たおりに見たモリーシャスはフランス語を話して、又イギリスの占領
下でも有った事が有り、その当時の砂糖きび農園での労働者として南
部インド人が多数来た様です。

当時、日本のマグロ船が港に停泊していて、マグロの塊を差し入れて
くれた思い出が有ります。中国人が経営する中華レストランで食べた
料理は本格的で、たしか広東料理の味だったと思います。そこの港か
ら香港まで乗船した中国人は皆、1等か、2等船客で、感じが何か、
故郷に錦を飾る感じを受けました。
 
労働者として中国人がパナマ運河の建設で仕事をして、パナマに居つ
いた事は 事実ですし、アメリカ横断鉄道建設に中国人が労働者とし
て仕事をして、カリフォルニアのサンフランシスコにチャイナタウン
が出来るほど住み付いています。

ハワイの砂糖きび農場でも同じで、日本人が多数ハワイに住む原因と
なりました。 それにしてもインドの人達は世界の各地に、日本人以
上に移住した様ですーー!
 
次回はインドのクリニング屋に付いて書きます。

2011年11月20日日曜日

私の還暦過去帳(95)

インドの国道を走るトラックを見ると、『TATA』と英語でマーク
が入った、インド民族系の国産車トラックが殆どでした。日本で言え
ば 中型トラックです、後輪四輪で余り荷台は大きくは有りません、
アメリカなどで馬鹿でかいトラックを見なれているから、インドで走

って いるトラックなどは小型に感じます。アメリカでは州によっては
トレラーを 3台も連結して走っています、追越などはえらい事で、
良く長い、長い トレーラーを運転していると感じます。そんな事で、
インドで見たトラック は6輪で、8トンからせいぜい10トンぐらい
しか積めないと感じました。

しかし、そんなトラックが何台も隊列を組んで、荷物満載でせいぜい
40k か、50kmぐらいで走っていますから、これまた追い越しは
大変でした。

インドは世界でも有数の鉄道大国ですが、人口からしたら荷物の運送
量は膨大な数と感じます、TATAのトラックはタイヤのサイズが大
きくて かなりの積載は出来ると感じました。トラックは賑やかに飾り
たてて、色 鮮やかなカラーでペイントしてあります、インドの地図を
見ると分りますが 『V』の字型で左はアラビア海、右がベンガル湾に

面して中国などと比較したら、まだ地理的には良い条件が整っていま
す、沿岸部から内陸に 輸送が比較的容易だからで、沿岸部の鉄道から
の支線をトラックが 支えていると感じました。インドではだいぶ長
い間、国内産業保護の為にトラックなどは一部を除いて、輸入を禁止
していたからで、どこを向いてもTATAのトラックとなった様です。

運転席の後ろにベッドが付いた余り大きなトラックでは有りませんが、
長距離トラックと感じます、荷物満載でシートを被せて隊列を組んで
走っていく様は、インドの経済を支える足と感じました。国道の片隅
に駐車して、インドチャイを飲んでいる運転手や、見るとサンダル
履きで丸いアルミの弁当から手で何か食べているのを見ると、トラッ
ク.ストップが極端に少ないインドでは、道端の光景でした。

それと田舎の町を通過する時に、修理しているトラックは道端の空き
地で 道路にはみ出して修理していましたが、どこにも修理工場など
は無かった のは驚きでした。たまに粗末な椰子の葉をかけた小屋が
目に付きました。

田舎の道で単機筒のジーゼルエンジンを載せた耕運機より一回り大き
な 簡易トラックを沢山見ました、剥き出しの運転席で、ポンポンと
エンジンを 響かせて走る様は、昔、終戦後、一時日本でも見た風景
と思い出しました。

次回も同じく、インドの車事情に付いて書きます。

2011年11月19日土曜日

私の還暦過去帳(94)

インドに滞在して、カースト制度の影響を垣間見る事が有りました。
デリーでインド人達が、自分達が住んで居る階層の地域により、店
の構えから、売っている品物まで変わってしまうと話していました。
次男が住んで居た地域はかなり上流と言う感じの所でしたが、

歩いて行ける商店街は垢抜けて、ワイフも洗髪をするのに美容院に
2回ほど行きましたが、アメリカよりサービスが良くて、上手だった
と話して居ました。店の前には必ず、ガードが立って居ます、そし
て停電用に、自家発電機が据え付けて有りました。チョッと財布が

軽いと 見ただけで足が遠のくと感じました。そんな中の商店街に
ケーキ屋が有りました。コーヒーショップも兼ねていました。
ケーキはヨーロッパ的な味で、作りも上手な飾りで、沢山の若い人
達がそこでお茶を楽しんで居ました。インド.チャイとコーヒーの香
りが漂い、インド的な飲み物とアメリカでも飲める感じの飲み物が
メニューに有り、にぎわっていました。

廻りの商店を見ると、間口は余り広くは有りませんが、かなり専門的
な感じの店が並んでいました。並んでいる商品もバザールで陳列され
て居る商品とは少し違う感じでした。各店舗の前には必ずガードが居
て、特に本屋ではまったく『ここはインドーー!』と疑るほどに陳列

から 並べて有る本までアメリカと感じが同じでした。歩いている
サリーを着 飾った婦人達もどこか余裕の有る感じで、買い物して居
ました。 パーキングにはインドでは珍しいベンツも有り、デリーで
は所により沢山に見かける、貧しい物乞いの人も見られず、どこと
無く区切りが出来て、仕切られている印象を受けました。食材も

丁寧に包装した物で、バザールで山と積み上げて売るものとは違い
ました。 イチゴのパックもアメリカと同じ、プラスチックのパック
に詰めてあり、売り子も制服を着て、清潔な感じを受けました。
誰かが教えてくれたのでしたが、インドでは『場所が変われば、
品物から値段まで変わるーー!』と話してくれました。

そこでは、インドで初めて野菜屋を見ましてた。 活気があり、大抵
の物がそろっていました。そこでも綺麗な大根には感心しました。
しかし少し場所を変えると、同じデリー市内でも、道端に屋台と店
が立ち並び、物乞いが並び、力車が客待ちして喧騒と、屋台の料理の

匂いと雑踏の人込みに揉まれ、炭火のアイロンを手に、道端で仕事を
するクリニング屋。次男が言った、『ここはまだ機械を使うより、
人に仕事を与える為に、また、安く仕事をしてくれるから人を雇う』
とーー!

ちなみに、次男が雇っている人は部屋の掃除と台所のかたずけ、風呂場
に脱ぎ捨てて置くとそれも洗濯してくれてーー、週に四回で月10ドル
とはー! アーー!これインド~! アメリカで、コインランドリー
では一回3.50セントです。
洗い、乾燥でーー!大型でしたら5ドルもします。

次回はインドで目に付いた、車などの事を雑多に書きます、

2011年11月17日木曜日

私の還暦過去帳(93)

インドの食文化はペルシャ時代からまた、アフガニスタンからの進攻
が有って、一部北部インドが支配下に納められた時代や、大陸の
地続きの世界で、アレキサンダー大王のインド進攻までさかのぼると
インド人の中で、肌の白いギリシャ系の顔立ちの人も見られます、

タージ.マハルを建造したムガル帝国第5代皇帝の時代もペルシャ
の影響は大きく、ペルシャ語で書かれたコーランの経典の一節が
タージ.マハルの寺院の壁画に刻まれて残っているのを見ると、当時
の食文化の交流がいかで有ったか、同じ小麦粉で作るナンとジパチィ

に別れる様に、首都デリーのインド料理レストランでの食べ物にも変
化が有ります、私が想像するには、全ての近隣諸国の食べ物と、また、
食文化が混ざり合ったのが、現代インドの今の食文化として、形成さ
れたと感じます。それにしても毎日良くもカレー、カレー、カレーと

食べられるものと感心したものです、いくら若いと言っても私の次男
を見ても分る様に『日本食飢餓症候群』のストレスを抱えてしまう
様になると、インド料理も厭きてしまうのではないかと思いました。
私もデリーでケンタッキー.フライドチキンなら食べられると思って

いましたが、残念ながらチャンスは有りませんでした。私がデリー
でがっかりした食べ物は、韓国料理でした。かなり有名なホテルに
有りましたが、サンフランシスコの韓国人街に有る店と比べても、
その味付けも、皿数の少なさ、量は半分ぐらいと感じました。当地

で営業したら1ヶ月で潰れると感じました。私が通う当地の韓国レス
トランは、当地の韓国人がソウルで食べるより、美味しいか同じくら
いだと教えてくれた店です、 いつも満員で、週末は並んで待ってい
ます、石焼ビビンパなどは本格的で、焼肉も直火の炭火で焼いて食

べます、もうもうと焼肉の煙りが店内に立ち込めて、換気扇がフル
に回転しても間に合わないと感じるほど沢山テーブルで焼いて食べて
います、デリーで外れた食べ物でした。

しかし沢山食べ歩きした中で、一番高い値段であとでカードの請求が
来て、『ぎょ~!』とした値段でした。それと今まで食べた冷麺の
中で 一番まずい麺でした。ワイフいわく、『損した感じーー!』
私も同感ー!
 
次回は食材と調理に付いて書きます。

2011年11月16日水曜日

私の還暦過去帳(92)

インド料理を食べに行くと、必ず聞かれる事はーーー!、
『ベジタリアンかーー?』
と言う確認です、菜食主義者の厳格な事は驚きでした。

それから肉を食べるのにしても、豚や牛などは全部ダメと言う感じで、
食の分類とその宗教的厳格さは、日本人には少し厳しい感じでした。

モスラムの人達は宗教的にも食べ物を厳格に決めていますので、やはり
中華料理などと言う、四足で動くものであれば、自動車以外は何でも
料理して食べてしまうと言う冗談も言われるくらいーー!、食に貪欲な
中国人には、まったく適わないと思います、インドは長い間大英帝国の

支配化におかれ、一部高級支配階級では西洋文化として、ヨーロッパの
食文化が取り入れられ、一般庶民とは区切りが出来て居た様です。
それは、一般にはインドの食文化は手で食べると言うのが原則です。
しかし ヨーロッパの食事は、ナイフ、フォークとスプーン、これだけ
はテーブルに無いと

始まりません、そんな事で、インドの食文化は宗教と手で食べる基本
が大きく 西洋食文化を阻止していた感じです、南インドに行くと
いまだにバナナの葉 に御飯を載せて、カレーを横に置いて食べてい
ます、少し汁物はお鍋から家族 で仲良くすくって食べていますから、
それか、その汁に浸して手で食べています。

私が見たのは素焼きの小さな皿に、ヨーグルトで味付けした煮込みを
片手で 持ち、御飯を丸めてそれに浸して食べていたのを見ました。
それはパンに似た ナンも同じでした。私達が食べ歩いて、インド人
の家族や又は、仲間で食べに 行く所はどこかと言う事を考えていま
した。一般庶民が刺身や寿司を食べに 日本食レストランに行くのは

チョイと考えられません、彼等が良く行く所はどこかと言うと、今は
イタリアンでも、中華料理でも有りますが、味も共通点があり、
かなり激辛などの味付けが有る、タイ料理でした。カレーの種類もか
なり有り、 ココナツも使い、パパイヤのサラダなどはインド人好みと
感じました。

インドでは夕食の時間が遅く、レストランも同じで、私達がタイ料理
のレストラン に行った時間はまだ少し早目でしたが、直ぐにかなりの
人で席が埋まりました。 若い人達のグループも多くて、どことなく品
の良い家族連れも来ていました。

綺麗なサリーを着飾った年配のカップルが、ご主人と仲良くお皿から
次ぎ分けて 食べているのを見て、やはりタイ料理などがインド人の
方達の口に合うと感じました。

デリー、日航ホテルの日本レストランは、かなり白人が来ていました
が、インドの方 は見ませんでした。そんな事でアレキサンダー大王が
インドを攻略した時代から、 インドの食事は余り大きな変化はなか
たのではないかと勘ぐりますーー!。
 
次回もデリーの食べ歩きから書きます。

2011年11月14日月曜日

私の還暦過去帳(91)

次男の言葉に乗せられてデリー市内を食べ歩きしました。
ホテル内に有る高級和食レストランには、毎回食べに行く事は
出来ませんので、市内でも商社員などがランチを食べに来る様
なレストランに行きました。

従業員は北部インドからの日本人そっくり さんで、
『へ~!沢山日本人が働いているわーー!』などと感じて レス
トラン入った時に次男に話すと、理由を教えてくれました。

インドでも北部インドからの出身者はデリーなどでは、レスト
ランなどの下働きが多いと話していました。
賃金も北部インドは首都か らしたら かなり低い感じだと言っ
ていましたので、同じインドでもかなりインド国内格差が有る
と感じました。
デリーの日航ホテルの和食レストランでも和服 の小柄な日本人
そっくりさんは、やはり北部インド出身で綺麗な髪型で和服が
似合う女性の従業員でした。

かなり上手な英語を話していました。
そんな事で、食べるレストランの雰囲気も、中のレストラン造作
の作りも、 『これインドーー!』感じました。

そこではドンブリ物を取り、カツ丼、うな丼 味噌汁はお代りし
て食べていました。ビールのつまみは天ぷらが食べたい と次男
が言いまして、友達も2名同伴してご馳走して、ワイワイと賑
やかな 会食でした。

廻りで食べている人達も会社帰りの人も居る感じで、市内で居住
している人達が、『チョイー!』食べに来ていると言う感じでし
た。 値段が手頃で、日本の味が楽しめると言うレストランで、
デリー市内で食べ歩きした中で、一番の庶民的な感じの店でした。

ワイフは天ぷらドンブリでしたが、大きなエビに驚いていました。
成田飛行場 で食べたエビなどと比べたら倍の大きさだと、感心し
て食べて居た様です。

ビールはインド国産で試しに2種類とり、飲み比べしましたが、
味は両方とも いまいちで、日本のビールの味に慣れているのか、
まだまだーーの味でした。

カリフォルニアに住んで居ても、日本のビールは沖縄産のビール
から、日本の 有名ブランドは全て飲めますので、その点は有り
がたい感じです。

たらふく食べて、外に出て群がるオート力車(パタパタの三輪車)
や小型タクシー を見て、雑踏の人込みのすさまじさで、インドの
現実の世界に戻りました。

次回は食べ歩きで、インド人が良く行くレストランを書きます。

2011年11月13日日曜日

私の還暦過去帳(90)

インドに居ます次男はアメリカから行ってまだ一度も寿司を
インドで食べた事が無いと話していました。

そろそろ37歳の私の子供ですが、幾つに成っても子供は
子供ですーー! 未熟児で生まれて、保育器でピーピーと泣
いていた次男ですが、風呂に入る時、私の両手の上で気持ち
良く寝ていました。

そんな子供が大きく育ち、今は次男の肩までした 有りませ
ん、そんなに育って、やはり親がインドまで尋ねて行けば、
やはり財布は親の財布を狙っていますから、何とか言って
デリー市内の美味しい所を案内するとか言って、食べ歩き
をしました。

日本食が2ヶ所、タイ料理と韓国料理が各1ヶ所 それから、
5星ホテルのイングリッシュ.テイーも飲みにも行きました。

それから近頃一番美味しいと評判のケーキ屋にも行きました。
日航ホテルは綺麗な日本食レストランでした。
インド、首都のデリーの日航ホテルでは安心して寿司が食べ
られると言う事で、次男が待ち焦がれていた所です。

軽い財布 では、とても寿司などつまむ事は出来ませんから、
この時と日頃の日本食から離れたストレスを発散して食べて
いました。
ワイフと ついついーー、『ドンドンー!食べな~!』などと
言ってしまいました。
揚げだし豆腐、肉じゃが、枝豆、お漬物、などなどーー!
ぺロリでした。

ポンポンに膨れたお腹を抱えて緑茶を飲んで幸せそうな 顔に、
親も満足して見ていました。

これで『日本食飢餓症候群』から のストレスを少しでも解消
した感じを受けて、親もやれやれーー! の印象を持ち、日頃
はインドのカレーを主体にした食事ではいかに 若いと言って
も、日本食で育てた『本能的御飯好き症候群』を無くす こと
は無理と感じます。

漬物をパリパリとワイフの白御飯を貰って食べる姿は、やはり
我が子と感じました。
これも親馬鹿の一つかー!
アメリカで35年近く育っても『三つ子の魂、百までもー!』
の感じです。
次回も食べ歩きのことを書きます。

2011年11月12日土曜日

私の還暦過去帳(89)

私がデリーに泊まっていた時、次男のアパートの直ぐ近くでした。
近くにホテルが見つからず、友達の少し大き目なアパートに泊ま
っていました。
毎朝必ず朝早くに、物売りが来ました。 それで目が覚めていま
したが、毎朝私も外に出て、何を売りに 来たか見ていました。

一番多かったのは野菜と、フルーツ売りでした。
中にはリヤカーを引いて売るに来るのは、野菜とフルーツ混載で
した。 自転車に乗せて来るのはバナナとオレンジや、パパイヤ
を載せてい ましたが、バナナはモンキー.バナナの小ぶりの
バナナでしたが、甘くて 香りも良くて、毎日買って食べていま
した。
リンゴも大きくて型も良く カリフォルニアでガラと言う感じの
リンゴでした。 それとブドウのマスカットをたくさん積んでい
ました。実は小ぶりでしたがかなり糖度は高い様でした。

オレンジと薩摩ミカンなど余り種類は有りませんでしたが、売れ
筋の物ばかり持っていた様です。
インドは広い国です、熱帯からヒマラヤの麓まで、季節にし た
ら夏から冬までの時期を収穫することが出来ます、 特にデリー
はインドでも首都の関係で、一番大きな青果市場が有ると聞き
ました。
またそこから近郊都市に輸送されて行くと話していましたので、
街道を走るトラックの隊列の凄いのに驚いていました。
デリーだけで 900万人以上が住んでいるし、その人口が消費
する毎日の量だけで 膨大な数になると感じました。

一度街道ですれ違ったトラックにジャガイモ が満載されて、そ
れが5~6台も連なり走っていく様を見て、こんな量で もデリ
ーの人口からしたら一日分の量にもまに合わない数と感じまし
た。
住宅街をリヤカーで売りに来る引き売は、お得意様が沢山居る
様で、 2階のベランダから奥さんが声を掛けると、カゴに野菜
を入れて配達しているのを見ました。

カリフラワーの真っ白な山が直ぐに減って行くのに驚いていま
したが、ニンジンも真紅の色の柔らかいニンジンでした。
種類はそれだけで、皆、沢山カゴに入れて買っていました。

ハーブ関係の葉物が、かなり種類が有るのに感心して見ていま
した。香辛料と会わせて カレーなどに使うのではないかと思
っていました。それと綺麗な大根が有り何に使うか聞いたら、
生で食べると言っていました。

青首大根の様には 大きくなく、早生のスラリとした 真っ白の
大根でした。それからオクラの揃って綺麗なグリーンの山を見
て、私も食べたくなった感じでした。
チョイとゆでて、おかかをまぶしてビールなどのお摘みに大好
きです。  
次回も食に付いて書きます。

2011年11月11日金曜日

私の還暦過去帳(88)

インドはヒマラヤの麓から、インド洋やアラビヤ海など、地域により
気候的、土壌的な変化の激しい所です。アラビヤ海に面した ムンバイ
(Mumbai)昔のボンベイが商業都市として賑やか で、それか
らコルカタ(Kolkata)日本式でカルカッタ、はベンガル

地方の言語でベンガル語を話す様です、北のネパール地方か
ら来た北部インド人はまったく日本人に似ていて、デリーで会っ
た女性はご本人が笑いながら『私は日本人と韓国人に良く間
違われるーー!』と言っていました。色の浅黒いインド人からした

ら、どこと無く日本人の肌の色です、同じインドでもかなりの人種
の差が有る様に、食べ物も所によってはお米を主食として、北部
では小麦からのパンに似た、ナンと言う小麦粉から作った物を主食
としていました。カレーを御飯に載せて手で混ぜ合わせて食べる

食事の仕方や、ナンをちぎってカレーに浸して食べるやり方も有り
ます。次男がオールド.デリーに連れて行ってくれましたが、近く
の大きなモスクの寺院の前から、迷路の様な200年も昔しから
の道路と、昔の建物が点在する場所を案内してくれたのですが、

少し緊張して歩いていました。その帰りにランチを四代も前から宮廷
料理を今に伝えるレストランに案内してくれました。モスクの寺院
に近い所でしたが、ナショナル.ジオグラフィックの雑誌や、ニュ
ヨーク タイムズでも紹介された店で、そこのナンが柔らかく、ふん
わりしていて

インド滞在中に初めて食べた経験でした。ヨーグルトを混ぜて少し
醗酵させて焼いていると聞きました。チキンをヨーグルトに浸してタ
レと焼いたバベキューは、中々の味でした。王様が食べた食事だそう
で、付け合わせに出ていた赤玉ねぎのスライスがピッタリでした。

食事の後、歩いて待たせていた車に戻るとき、沢山の商店が満載
した商品を前に、活気有る呼び声が飛び交い、バタバタとオート力車
が人を縫う様に走り、生きたニワトリが籠の中で暴れて声高く鳴き、
羊の頭だけが積み上げられ、側でぐつぐつと煮えたぎってその匂いと、

物乞いがさし出す手を払いのけて、後ろから車の警笛に驚かされて、
力車引きがヨタヨタとペダルを漕いで、安くするから乗ってくれと
叫び、 まさにこれが本物のインドだーー!と言う実感を味わいま
した。
見上げると200年も昔からの建物に、絡まる様に電話線などあらゆ
ケーブルや電線などが。クモの糸の様にまつわり付いている様は壮観
でした。
 次回も食について書きます。

2011年11月9日水曜日

私の還暦過去帳(87)

インドでは食に関しては、かなり地域差が有る様です。

ランチに次男が連れて行ってくれたのは、南部インドの専門
料理店でした。ランチでワイフと三名で少しずつの皿を取り、
味を見ながら食べました。私達がインドを訪問する前に南部

インドを900kmぐらいサイクリングして来たので、だいぶ詳し
い 話しをしてくれました。自転車で走っている時に一番困ったの
は、側をバイクや自転車で伴走して、必ず『どこから来たー?
どこの国から来たー?どこヘ行くー?』これを一日いやになる

ほど聞かれた様です、そして直ぐにお茶や、ランチに招待して
くれたそうです、インドの田舎を走った経験が有る人でしたら
良くわかると思いますが、余り良くない舗装の道を900km
も良く走ったと、『知らぬが仏ーで!』でワイフとあきれていま

した。インド突端の Kanyakumri などの町で食べた料
理などの話しをしてくれましたが、海鮮チャーハンは美味しかった
と言っていました。道端のインド.チャイ売りからお茶を買って
飲んで居たそうで、勿論行く前に、C型肝炎の予防注射を

していましたが、チャイの中にショウガや、シナモンを入れて砂糖
とミルクを入れて、少し煮立ててから飲むから安心だと、平気で
話していましたが、しかし水だけはボトルを買って飲んで居たと話
していました。道端の屋台で売っている果物はバナナと皮を剥い

て食べるフルーツにしていたと話していましたが、どこでも道端に
屋台などがあり、止まって何か話すと5分もしない内に十人ぐ
らいは直ぐにどこからか人が寄って来て、食べる物から、泊まる
ホテルまで世話をしてくれたと、インド人の親切さに感心していま

した。南部インド料理はお米を沢山使う様で、バナナの料理は
珍しかったそうです。次男も少し大きな町に泊まると、まずホテル
に着いたら、2リッタの水のボトルを買い、シャワーを浴びて、イン
ド風中華レストランに行って、自分に味の覚えが有る焼ソバや、
中国料理で元気を付けて居た様です。
次回もインドの食に付いて書きます

2011年11月8日火曜日

私の還暦過去帳(86)

インドで食事をして、お米を使う南部インド料理、北インドの何か
ソーメンに似たうどんで作ったカレーうどんは中々イケル食べ物でした。

次男が道端で簡単に食べさせる屋台の食べ物を、ちゃんとした
レストランで食べられる様にした所で、両親にも屋台のインドの庶
民が食べる食事を試食して、食べさせるのに選んでくれたレストラン
は、以外と美味しい味で、普通の屋台で食べるものが沢山メーニュー
に載っていました。

そこは外国人も食べに来る様で、小奇麗な所でした。
料理の味を試す前に、普通のインド庶民が買い物する、バザールを
見物に行きましたたが、次男が案内してくれた所で、一番先に思い出
した事は、45年前の上野駅近くのアメ横でした。懐かしく思い出し

て 狭い路地を次男に案内されて歩いていました。米だけ沢山の種類を
売っている店で、ワイルド.ライスに感じが似た米を見つけて驚いて
いましたが、インデイカ米も沢山の種類が有るのに驚いて関心して見
ていました。

ブラウン.ライスに近い色が付いた米は、どうやって料理するか知り
たいと思いました。野菜や果物、肉や魚を並べた店では郷里の小倉駅
に近い所に有る、タンカ市場を思い出して、日本のネギに似たもの、
白菜や、ボクチョイなども並んでいたのを見て、かなりの種類に驚
きました。

魚もエビも大小様々並んで、大きな車エビの型が揃った大型のサイズ
には『ウワ~!』と感じるほどでした。てんぷらにして、天丼など美
味しいだろうな~!と思うほどで、どこから運んで来たか知りたい
くらいでした。

バザールの近所で驚いた事に、日本からの中古衣料品が山と吊るして
売っていた事でした、インドやパキスタン、バングラデシューなど輸
出されていると読んだことが有りましたが、実際に見て、これも驚
いていました。
バザール場内のカレー粉など香辛料を専門で売っていた店に来た時、
昔、南アフリカの港町でインド人市場で匂っていた、同じ匂いを思い
出して、その陳列の香料の盛りつけ型も同じ様で、これも驚いてい
ました。
小汚いバザールと思っていましたが、いやいやー、驚きの体験でした。
このバザールでニューデリー首都の胃袋を賄うのであれば、なるほど
と 思ったしだいです。
 
次回もインドの食について書きます。

2011年11月5日土曜日

私の還暦過去帳(85)

現在のインド.ルピーの対米ドル換算は1ドル=42ルピーの相場が
普通でした。しかしインド社会の現実は10ルピーが=100円の感覚
でインド社会では使用されています、次男が借りていた部屋の家主の
家族は大きな四階建てのビルにそれぞれの階に分かれて長男、次男

と住んで居ましたが、家主は一階に住んで居ました、四階の屋上の
部屋は200ドルで私の次男が借りていました。掃除洗濯は1ヶ月が
10ドル程度でしてくれると話していました。総体的に貨幣価値が低い
のです、インドのデリーと同じぐらいの部屋をサンフランシスコで借り

ると すれば1000ドルは掛ります、ワンベッドですが私が住んで居
ます郊外 の市でも800ドルは普通です。デリーの首都で、普通のサ
ラリーマンが 稼ぐ給料はドル換算で400~450ドルぐらいと言っ
ていました。 技能職で500から600ドルぐらいで、管理職で80

0~1000ドルと 話していましたが、田舎ではこれよりもっと下で
2割は低い数字となると 言っていました。デリーの大手会社の上級管
理職で、1200~1500 ドルぐらいと話していましたが、次男の友
人で雑誌の編集長をしている 38歳の男性で、800ドル/月で車を会
社から支給されていると話して いました。

インドの相場とすれば1000ドルの給料と感じます、インドでは
車の価格が、生活水準からすればかなり高めとなりますので、独身男性
の給料からすれば良い給料をもらっていると感じました。

インドの農村部では現在でも家族で150ドルから200ドル程度で生
活し している家族が多く住んで居ると聞きましたが、インド農村部で
の自給 生活に近い、家畜を飼い、野菜を植えて、穀物は家族で食べる
だけを 蓄えて生活する農村部では、それで家族の生活を賄う事が出来
るので はないかと感じました。
 次回はインドの食事について・・、

2011年11月4日金曜日

私の還暦過去帳(84)

インドでの農村地帯を車で走って見ると、牛の糞を丸く固めて
乾してあるのを沢山目にする事が出来ました。
乾燥した牛糞はかなりのカロリーを出して1個の牛糞で小家族
の一回の炊飯をする事がが出来ると話してくれました。

それから沢山束ねてある枯れた物は、なたねの成熟して種を
取った茎を集めて、束ねてあつた物でした。家の脇に積み重ねて
有り、これも燃料にすると話していました。時々小さな町を車で
通過する時に、10kgのLPガスのタンクを配達する様に車に

載せているのを目にしました。農村と小都市では燃料も格差が
あると感じましたが、LPガスと兼用して石油コンロも普通広く
利用されていると聞きました。私が感じた事で余り植林された
場所を目にする事がなかった様に感じました。

アルゼンチンや、ブラジルなどは植林された場所を沢山目にす
ることが有りますが、インドでは小さなユーカリの林があつたの
を目にしました。田舎の国道沿いに植えて有る並木が、どこも
下枝が綺麗に切られていました。一度車から見たのは長い

竹の先にカマの刃を付けた道具で木の枝を切りとって、燃料と
して束ねていました。農家の主婦と言う感じの人が頭に束を乗せ
て歩いています、現実に目にして、インドと言う国がまだ木の枝
一本でも利用して燃料とする精神には頭が下がりました。

私も50年前田舎の近所に茂っていた土手の竹を切り取り風呂
の燃料とした覚えが有ります、根も掘り取り、乾燥すると良く油
が有って燃えたのを覚えています、まだ子供でしたが父親の仕事
を手伝った頃を思い出して、懐かしく見ていました。

インドの現状を見ていて、今昔が混同して居ますが、昨年一年間
で世界で新設された風力発電は大型原発7基分に匹敵する伸
びでしたが日本では、スペイン、ドイツなどが約200万キロワ
ットも増えたのに対して、その10分の1足らずの19万キロ
ワットで、インドや アメリカ、中国からも遅れを取っています、

全発電総数からして ドイツの20分の1と日本の地球温暖化の
対策が貧弱である事が世界に暴露されています、その事は政治
の政策が不充分である事を熱源からしての資源がない国で、あ
ぜんとさせられる事実ではないかと思います。せめてインドよ
りは風力発電を多く設置するくらい、日本でも出来ると感じます。

次回はインド庶民の懐のぐわいを書きます。

2011年11月2日水曜日

私の還暦過去帳(83)

現在のインドを語る時に引き合いで出される事の多くが、
世界のこれからのITビジネスの先端をどこの国が将来を
にない、また開発の主導権を握るかと言う事は、先日の
新聞での評論を見ても解る事ですが、インドと中国です、

技術の先端の開発を、ソフトと、ハードの技術の革新と
改善を設計して、推進する技術者の数を見ても、インド
です、シリコンバレーで働くITの技術者の数の多い事は
アメリカで911事件後のビザ制限などの障害が有っても

インド人技術者を抜いては話しにならないと新聞に出て
います、技術のレベルからしたら、本国でのサラリーから
比較しても、アメリカでの比較的安い給料でも、インド
国内と比較するとアメリカでの仕事がまだまだ各段もの差

が有り、アメリカを目指しているインド人技術者が沢山い
ます、行きの飛行機でも、帰りの成田行きの飛行機でも
廻りにITビジネスで働く若い男女のインド人と乗り合わ
せて話しをする事が出来ましたが、成田に向かう直行便の

飛行機の待合室で知り合った、インド人の若い技術者は
日本の大手の電気会社で仕事をしている人でした。
インドに拠点を置き、新しい開発技術者のスカウトが彼
の仕事でした。日本語は全然話せないと言っていました

が、英語で事足りると言っていました。インドの最高教育
は全部英語での教授となり、アメリカでも、イギリスでも、
オーストラリアでも直ぐに語学のハンデがなく仕事を始め
られ、インド人が思考する技術力を何の支障もなく伝え

仕事が出来ると話していました。インドが貧しいと言って
も 確かにその様な事が一部見られる事は間違いない事実
です、デリー市内などで目にする貧困層の数も驚きですが
インドの現実として目をそむけることは出来ません。

私がふと感じた事は、これからは内陸国での人口増加の
著しいパラグワイなどはITビジネスなどの、開発などを
中心 に発展することが将来の百年の生き方と感じました。
それには教育と言う一番の土台が必要と思います。

次回はインドの一般家庭の炊飯燃料に付いて書きます。