2023年6月23日金曜日

私の還暦過去帳(780)

 移住の昔話(4)

私がタイのチエンマイを訪れて滞在していた時に見聞
きしたことです。
他国に移住する事は今では容易に実現する事も、その
チャンスも多くあります。
私の滞在していたホテルは最上階から2階は長期滞在者
のアパートでした。そこにはヨーロッパからの身体障碍
者が居ましたが、自国では社会保障金も僅かで、生活が
苦しいので、タイの物価からしたら、チエンマイのここ
気候的に、物価的に暮らしやすいと話していました。

そこでは朝食と一日1回は本格的なコーヒーをロビーで
出してくれるというサービスもあり、そこで知り合った
ニュージーランドから来ていた引退した夫婦が居ました
が、ここでは自国の年金がタイのチエンマイでは十分賄
えて豊かな生活が出来ると話していました。

ホテルでは禁煙で、外のテラスに喫煙所のテーブルが用
意してあり、私もそこに来るチエンマイに5年も居る引
退した日本人の話が面白く良く話を聞きに行きました。

私が泊まっていた3階の窓から近所のアパートの出入り
口が見えていましたが、初老の男性が若いワイフと可愛
い子供を挟んで幼稚園でも連れて行く感じで決まった時
に出て来るので、チエンマイに5年も居る引退した日
本人に聞くと彼は、中学を卒業すると、農家の3男で、
大工の親方の家に住み込みで弟子入りして大工の仕事を
覚えて、長くその親方の工務店で働いて居たと言う事で

すが、中学卒で大工の仕事で、親方の知り合いの口利き
で、見合い結婚をしたようですが、しばらくしてワイフ
が男を作り、逃げて行き離婚をして独り者で、大工の腕
が良いので、独立して自分でボロのアパートを購入して
働きながら自分で改修工事をしてそれを貸して、財政的
にも豊かになり、仲良くなった不動産周旋屋と組んで、
幾つもアパートや貸家を持つ身分になり、良く飲みに行
バーでタイから出稼ぎの若い女性と知り合い、その女
がビザの関係で帰国すると、その女性を追ってタイの
チエンマイまで来ていた男性だと聞きました。

自分のアパートや貸家の不動産の財産は仲良くなった
不動産周旋屋が管理していると言う事で、年に数回は
日本にも家族で帰国していると言う事でした。
今では結婚して子供もでき、可愛い女の子で、着飾りさ
せて、夫婦で子供の両手を握りアパートの出口から出て
来る、幸せそうな家族に、どこを見ても感じる雰囲気で
した。
人間一人の人生など、この地球がある間は、幾多の物語
が国境を越えてあると感じます。

2023年6月12日月曜日

私の還暦過去帳(779)

 移住の昔話(3)

移住の昔話(3)
海外に出て日本の法律が適用されない場所での生活で、
無駄に若い人生と貴重な時間を失う人もいます。
それはドラッグにはまり、中毒になって半ば廃人とな
り、希望も、一度しかない人生まで捨てている人を見
たことがあります。
それは一人でなく、私が世界を歩いて見て、日本人と
して誇りも捨て、酒とドラッグに溺れて、助けようと
している日本人の同胞も裏切り、騙してせっかくの
チャンスをドブに捨てて、最後は野垂れ死に同然に亡
くなり、知り合いがその最後を哀れて、大使館に遺骨
を預けられ帰国した者も居ます。
それは日本人だけではなく、チャイニーズの若い人も
居ました。
チャイニーズの若い学生でしたが、父親が香港出身で、
財力もあり、その子を甘やかせて育てた様で、アメリ
カのロスアンゼルスの大学に来て、直ぐにその子は
ドラッグを覚えて大学も中途退学して、働き始めて
も直ぐに辞めてドラッグのリハビリセンターに入所し
て、若くしてドラッグの過剰摂取で亡くなりましたが、

その様な事は60年昔でも、単身移住者ではありまし
た。ブラジルでもアルゼンチンでも見ましたが、私が
農場で支配人の仕事をしている時代に酒も飲み、コカ
中毒になり、気力と希望を捨て、川原に掘っ建て小屋
を作りインジオの女性と住んでいた日本人が居ました。

昔のアルゼンチン、ボリビア国境の北部州では、ア政
府の収入印紙を貼ってあるコカ葉はタバコの様に売っ
ていました。
私が仕事をしていた農場の労務者相手の売店でもコカ
葉を秤で売っていました。
労務者は毎朝、小さな袋に入れるだけ買い、噛みタバ
コの様に仕事中に噛んでいました。
これはインカ時代にスペインの侵略者達が、金や銀の
鉱山で働く労務者に支給して、労働苦役の期間に中毒
にして、またコカ葉を求めて鉱山に戻る様にした悪習
が今でも残っています。
私も収穫物を2日半もトラックで長距離運転するので、
ハンカチに少量コカ葉を持って行き、夜中の運転中に
口の中に入れておくと、眠気が吹き飛び、運転事故を
防いでくれましたが、これを酒を飲んで、コカ葉を噛
むとすぐにアルコールの作用も手伝い、中毒になりま
す。
川原の小屋を作り住んでいた日本人も前は、自分で借
地して農場も持っていた男でしたが、コカ中毒になり、
全てを無くして、男に捨てられたインジオの女性と住
んでいましたが、川原を耕してマンジョーカ芋や野菜
類を作り、その日暮らしで生きている様な感じでした。

その後、その男は亡くなり、日本人会の人が遺骨を大
使館に届けたという話を聞きましたが、その男が住ん
でいた川原も洪水で小屋も畑も全て押し流され何も無
く、がらーんとした草地が広がる空き地でした。
若い時に世界に旅をするのも有益ですが、悪魔の囁き
と、誘惑が有ることを心に留めておいてください。
インドのデリーでも、タイのチエンマイでも、オース
トラリアでワーホリで滞在中に農場で覚えたドラッグ
を日本に帰国して逮捕された若者が居ましたが、それ
異国で誘われた誘惑に敗けた、前途ある若者の結果
だと感じます。
世界の諸国はドラッグに関係する犯罪は死刑を持って
施行する法があることを認識して、心に刻んで下さい。
貴方も心強く持ち、誘惑に打ち勝って、自分の夢の実
現を実行して下さい。
貴方の貴重な人生は1回切です。
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2023年6月3日土曜日

私の還暦過去帳(778)

 移住の昔話(2)

サンフランシスコ市の日本町に魚喜と言う日本食料品店
が在った昔ですが、私達はそこでサンフランシスコに行
って、日本食品を買い、日本食レストランで食事をして
帰ることが娯楽の一つでした。
その頃は日本町にサンフランシスコ日本領事館もあり、
入居するビルの建物に日章旗が掲揚されているのを見る
のが楽しみでありました。
いつも週末に出かけていましたが、その日はサンフラン
シスコ・ジャイアンツの野球試合が開催される日で、橋
が混むので日曜日でも早めに日本町に行き、側のコーヒ
ーショップでコーヒでも買って、魚喜が開店するのを
待っていました。
日本町の祭り広場ベンチに座り、ハト達が遊んでいる
光景を見ていたら、若い青年が同じくコーヒー片手に
ベンチに座りましたので、話しかけて、側に旅行用の
バックがあり、「これから旅行に行くのですか?」と聞
くと、アメリカの永住権を貰ったので、これから
コロラド州に引っ越すところだと話してくれました。
午後のグレイハンドのバスでコロラド州デンバーの町に
開店したばかりのレストランの寿司の板前として行くと
話してくれましたが、これからが自分の人生船出だと
言って居ました。
アメリカに来て言葉を覚えて、習慣も馴染み、苦労し
てレストランのヘルパーでスタートして、労働ビザか
らサポートして貰い、永住権も得て、人生の第二のス
タート地点だと言っていましたが、ここサンフランシ
スコは何でも高く店を開く事も、住むアパートも高く、
今の自分ではここは高嶺の花だと言っていましたが、
去年、バケーションで行ったコロラド州のデンバーが
気に入り、そこの日本食レストランが、是非と来てく
れと頼まれて、自分の郷里に似ている場所で、暖簾分
けも、2店舗を開く予定でそこの店を任せたいと言っ
てくれているので、自分を試す時は今しかないと考え
るので、決断したと話していました。
淡々と話す彼のことばを聞きながら、自分のたどった
人生の道筋を思い返していました。
彼が魚喜が開店の時間になったので、バスの中で食べ
る物や、少しお土産も買いたいと腰を上げましたので、
一緒に魚喜に店まで行き、買い物をしていましたが、
彼は買い物袋を下げて「それではグレイハンドのバス
停に行きますから、お元気で・・!」と歩道で別れま
たが、旅行バックを引いて歩き去る背中を見て、彼
の将来が輝かしい道筋であることを祈って居ました。
今では魚喜の店も無くなり、サンフランシスコ日本領
事館も大勢の日本人達の反対を聞くことも無く、サン
フランシスコのビジネス高層ビルの駐車も困難な場所
の、上階に移転して日本町に用事で来る人も少なくな
り、今では日本町はコリアンタウンと蔑称があります。

日本人の動きもシリコンバレーが発展してサンノゼ辺
りに日本も大きなスーパーが出来て時代も代わりま
した。