2016年9月22日木曜日

私の還暦過去帳(587)

人生の自己反省、

52年前に南米に移住する前に、トラクターのジーゼルエンジンを勉強する
ので、その当時の立川のヤンマージーゼルの研修所に行き、夏休みの間、
缶詰め教習を受けました。
午前中が座学で午後からはエンジン分解、組み立ての講習を致しましたが、
小型エンジンを完全分解(燃料噴射ノズルは分解無し)でしたが、これを
毎日続けていたので、分解、組み立てが最初の半分程度で出来る様になり
ました。最後は分解と組み立ての実習ばかりで、教官がこのエンジンは
分解、組み立てを千回以上も実行して、まだエンジンが稼働すると言われて
驚いていました。
これで大豆食用油、天ぷら使用済油などでエンジン稼働させて実験も致
しましたので、本当に南米で百姓をすれば、小型ジーゼルエンジンがあれ
ば発電、農耕にも大豆栽培で大豆油を絞り、生活できると感じていました。
その様な経験から、アルゼンチンのペロン党の支持者のゼネストライキに
燃料が枯渇して、トラックにドラム缶を積んで探し廻った経験がありますが、
その時に立川の研修所で学んだ事を活かして、ドラム缶から絞った軽油に
灯油を混ぜて、スピンドル機械油を混ぜて、ジーゼルエンジンを稼働させて
何とか持ちこたえた事も思い出します。

原始林を伐採し、使える硬木は切り出して斧で四角に削り、建築材として
ジャングルから牛に引かせて持ち出して来て家を建設いたしましたが、
鉄木はそのまま2mほど地中に埋めて支柱としていました。
屋根は椰子の木を半分に割り、中をえぐって竹の様にしてそれを交互に
被せて屋根にしていました。
壁は日干し煉瓦を作り、それを積み重ねて壁としましたが、地面から1mば
かりはセメントで固めて雨などの湿気の用心をしていました。
井戸を掘っても塩気が多いので飲み水には使えなく、屋根から大きなタン
クに雨水を貯めて飲料水にしていました。雑用水は河からドラム缶2本
毎日汲んで来ました。河の水は上流のボリビアの鉱山からの排水が混じ
るので、飲めませんでした。

良く農場で単気筒のジーゼルエンジンが、ポンポンと発電機を動かす音
を聞きながら、夕食後に、朝早くインジオが売りに来る、大ナマズの身で
揚げカマボコを作っていました。揚げると長持ちして酒の肴にもなり重宝
いたしていました。
肉は毎日の様に、夕方にビスカッチャというウサギとタノキの相の子の
様な動物に罠を仕掛けて、それを捕獲して肉にしていました。週に2匹で
もかかると、肉には困りませんでした。
そんな生活をしていたので、タフな生き方を学び、実践していましたの
で、どこでも、どこの国でも、他民族の中でも生き残る知恵は掴んでいた
と感じます。
トマトが売れないときはトラックの荷台に乗せて、引き売りで街中を歩き、
おかげで今でもスペイン語で上手にトマト売りの口上を言えます。

そんなことで言葉も生きるために必死で覚えて、今でもアメリカで役に
立っていますが、これまで自営で、全て自己判断での自己責任で家族を
養い、生きて来たので、今でもこれからもマイペースで生きて行くと感じ
ます。
ワイフの父親は短命で早く亡くなり、ワイフは苦労したので、東京の銀座
で社長秘書をしていた様な女性が、なんで百姓の様な、かっぺを選んだ
かと言う疑問が、近頃になり意味が分かり氷解しています。
近頃になり足が悪いワイフがしみじみと、メキシコ休暇に車椅子で半月も
連れて行く努力と根気があり、75歳でも、気軽に屋根の葺き替え仕事を
して、洗濯に食後の皿洗いまでするのを見て、有難うと言う感謝の言葉
をしみじみと言ってくれたからです。
答えは『タフで丈夫で長生きしそうで、食べる物も有機栽培に凝って、
自動車のエンジンも自分で交換するような器用さと、大工仕事も、昔に
家を2軒も建設したような腕があり、炊事洗濯も苦にせずに、母ちゃんの
為ならばと言う、奉仕の精神が旺盛で、これも南米での生活から学んだ
事ですが、経験と芸は身を助けるという事かもしれません。』
これで毎日、美味しい日本食を食べさせてくれるなら、苦労は厭わない
という気持ちです。

2016年9月12日月曜日

私の還暦過去帳(586)

近頃思う事は・・、

巡る歳月に、それに増して月日の流れが速き事を感じます。
すでに9月に入り、中頃となりましたが気が付けば、はっと感じる時間的な
流れの真っただ中に自分が孤立して居るかの様な感じを持ちます。

暑い日が続いて、昔の遠い時代の思い出の中に、本当に焼ける様な感じの
暑い日を思い出して居ました。
トラックも焼けたボンネットに卵を落として見たら、瞬時に卵焼きが出来た事
があります。素肌に焼けた鉄などに触ると、直ぐに火傷です。
その時の外気の温度が忘れもしない、43度近く上昇していました。
11時には仕事を止めて昼休みに入り、長い休憩時間の間に、ランチを食べ
て、昼寝していました。
日干し煉瓦を積み上げた土蔵の様な家で、窓も小さく、屋根には椰子の木を
半分に割って、それを交互に竹の様に組んでありました。
土間には打ち水をして、気化熱の作用でひんやりとした空気が感じられる室内
でしたが、西日のカンカン太陽が当たる窓は、外側の板戸を降ろして、閉めて
いました。
3時過ぎても暑い気温が人間達の働く意欲と気力を削いでいました。
暑い夏の飲み物、マテ茶のテレレを飲んで薄暗い室内で時間を潰していました
が、4時頃になるとインジオが灌漑用水ポンプの燃料補給に来て、ドアを叩いて
催促していました。
20リッタ入りの予備缶を渡していると、『今日は暑いので、皆が河で水浴びして
涼んでいる』と話していましたが、河の水は少しぬるま湯の様な感じだと言って
いました。
はるか昔の思い出ですが、夏の盛りの激しさをふと考えていると、今の自分が
置かれている環境の幸せを感じます。
農場の暑い時期、長い昼休みに大トカゲを農場に居た時に撃ちに行き、イン
ジオから教えられた場所で、トカゲが出て来るのをライフルを構えて待つ苦行
も、暑い日には、命中させると言う欲望と、願いだけで木陰にジッとうずくまる
様にして、暑さに耐え、ジッと構えているライフルの重さに手が痺れる感じを
持ちながらも、大トカゲを待っていました。
そろそろと用心しながら長い舌を出して穴から這い出して来たトカゲを、一瞬
のチャンスを狙って首周りの急所を狙い、吐く息を詰めて狙撃する瞬間的な
チャンスをもって撃つ緊張感が、全てを忘れさせていたと感じます。
撃った弾は外れて、トカゲの近くで土埃が舞い、それと同時に両膝を地面に
着いてびっしょりと汗で濡れたシャツの重さを感じ、のろのろと立ち上がり、灼
熱の太陽を恨む様に感じていました。
トカゲ撃ちの難しさは、当れば全てを忘れて、獲物を手に帰って来るのです
が、手ぶらで、トボトボと重いライフルを背中に汗で濡れたシャツの重さを感じ
ながら歩いて帰る惨めさで、夏の太陽が恨めしく感じたのでした。

何気なく夏も終わりの窓の外を見ながら、ぼんやりと昔の郷愁に浸って感慨
深く思い出した記憶のページをめくっていました。
過ぎた年月で色あせた記憶も、これからどれだけ覚えて居られるかと感じる
と、ふと・・、ひんやりとした二重窓の部屋で、冷えた飲み物を手に、窓の外
の景色に、過去が遠くに消えて行く感じがしていました。