2014年4月28日月曜日

私の還暦過去帳(513)

        
越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録(1)

ベトナム・ラーメン(ホー)食べ歩き
アメリカに住み着き38年も経ちました。
キチ!とまでは行かないけれど、だいぶ、はまって
居ますので、食べ歩きは楽しみとなっています。
そこでです・・・、
ちょいー!書き残した味見録を皆様にお見せしたく残しています。 
 
アメリカに住んでいるとやたらラーメンが食べたくなる事が 
有ります。そこで現在は日本でも有名となった 
ベトナム・ラーメンの食べ歩きの味見録を書いてみます。 
 
越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録を少し書いてみますが! 
先ず題の解説から・・・、解り易く現代日本語で書きますと! 
 
越南米粉麺=ベトナム・ラーメン(ホー) 
加州桑港湾東沿岸地帯=カリフォルニア州サンフランシスコ湾東沿岸地帯。 
美食探求味見録=美味しい物の食べ歩き録。 
 
先ずこのような感じでありますが、若い人は漢字では苦手と思います。 
サンフランシスコ沿岸では現在ではSanJoseなどはベトナム人が全米でも 
一番の数と言われる様になりました。 
 
ベトナム町と言うショッピングセンターも出来ましたので、ますます繁栄して 
また、ベトナム人が集中して来ていると感じます。 
1976年頃は、かなりのベトナム戦争で難民となったベトナム人がアメリカ 
に移住して来ていました。 
 
組織的、かつ集団的にアメリカ政府の援助ももとに入国していましたので、 
アメリカ各州でベトナム移民との摩擦がかなり出て来た時期でした。 
その様にベトナム人が持ち込む習慣、彼らの日常食生活、食文化など、 
 
かなりアメリカからベトナム戦争に従軍したアメリカ人が沢山居ましたし、そ 
こで食べたベトナム料理と、食習慣がアメリカ本土に上陸して、違和感が 
なく、ベトナム料理という味が急激に浸透して迎えられたと感じます。 
 
ベトナムは以前、フランスの植民地でしたので、かなりフランス的なベトナム 
料理が有ります。驚くなかれ、ベトナム風フランス料理も有るそうです。 
私が思うに、きっと美味しい味の料理にまとめてあると感じます。 
次回に続く。 

  

2014年4月26日土曜日

私の還暦過去帳(512)

第4話、南米移民過去帳物語、(17)

南米の「フーテンの寅」さん(5)

私の友人達も随分と亡くなり、音信不明の友も沢山います。
時代は変化して、過去に消えて行き、昔の事が全て消え去って行きます。
誰も興味も無い出来事など、語る事もなく、年月の狭間に直ぐに隠れて
顧みることも無い出来事として、忘却の彼方に人知れずに消えていく事
は世の常です。

私の南米時代の友人であった伸ちゃんも同じ様に、ふれ合いの楽しい
時期を過ごして、別れ、記憶の襞に隠れて、私の記憶から忘れされよう
としています。後僅かな時間に文字で書き残さないと、全てが私の記憶
からも消え、そして永遠の無の世界になってしまうと考えています。

アルゼンチン・サルタ州の遠い昔の若い頃の思い出に、ふと思いを巡ら
すと、伸ちゃんの顔が浮かび、ベルメッホ河で魚釣りした楽しい思い出や、
パン焼き釜で、見よう見まねでパンを焼いたことなどが浮かんで来ます。

彼がブエノスから二度目の手術が成功して、サルタ州に帰って来たのは、
かなり日時が経ってからでした。少し痩せて、顔の日焼けも無くなり、でも
いつもの、ヒヨィー!とした感じで、笑顔で汽車から降りて来ました。

彼からの電報が私書箱に入っていたので、皆と迎えに出ていました。
荷物も一個増えて、両手にカバンを下げてホームに降り立つと、彼はこ
こは暑いなー!という最初の言葉でした。
彼がブエノスに出る前に居た小屋がそのままで残されていたので、彼は
またそこに住んでいました。

ブエノスの洗濯機械修理会社で少し働いていたので、蓄えは少し持って
いた様で、彼は体調管理をしながら、食べるくらいの野菜類を作り、良く魚
釣りをしていました。時間が在るときは溶接の腕を生かして、リヤカーなど
を作り、それを売って稼いでいました。この日本式リヤカーは便利で重宝
して使っていました。
収穫時期に狭い畑の道から、トラックターなどが通る道までトマトを運び出
す事などに使いましたが、便利な物でした。

伸ちゃんが良く魚釣りで近所に来て、私の農場に泊まっていましたが、あ
る日、野菜の仲買のイタリア人の息子が、ブエノスから来てブラブラして、
町で遊んでいて、そのチンピラも魚釣りに来る様になり、伸ちゃんが釣る
場所を占拠して、時には網でごっそりと魚を獲っていましたので、インジオ
達もチンピラの若者に反感を持っていました。

ある日、伸ちゃんが中心となり、仲間で相談してインジオの若者と話して、
イタリア人のチンピラが魚釣りしている川原の曲がり角に居るのを確認し
て、小口径ライフルで威嚇射撃をすることにしました。
広い川原の中で、土手までは100mも離れて、川原の曲がりは河も流れ
が急で、泳いで渡る事など不可能な場所で、伸ちゃんの良い釣り場でした
が、そこがチンピラに取られてしまったので、話し合いなど無用ですから、

脅かしに一つ威嚇射撃をすることにして用意していたら、ノコノコとチンピ
ラが朝早く来ましたので、インジオの若者にライフルと弾を持たせて日が
出てから、対岸の茂みから狙って威嚇射撃をしましたが、最初の一発で、
岩にへばりついて、隠れていたようで、一度土手まで逃げ様としたのです
が、逃げる前の石を撃たれて、また岩陰に隠れて魚釣りの道具など放り
出して、カンカン照りつける太陽に照らされて、隠れて居た様でした。

後からですが夕方、町の病院に日焼けで爛れた腕や背中を治療に来て
いたという話を伸ちゃんから聞きましたが、それっきりチンピラは魚釣りに
は来る事はありませんでした。
その後、町から警察が来て調査していたが、皆が知らない事だと言って
相手にせず、警察もわざわざ11km近い距離を運転してくる事など、面
倒の様で、1度だけで、その話しは終わりでした。

イタリア人野菜の仲買も、息子が皆に反感を持たれ、悪い事をしていたの
で、それとインジオの若い女に手を出して、町で男に追われて殺されそう
になり、ブエノスに父親が連れて逃げ帰りました。

伸ちゃんも町では皆に知られ、針金で作った玩具などを子供達に与えて
いたので子供達にも人気がありました。
イタリア人のチンピラが居なくなって、伸ちゃん達とも魚釣り、飲み会、狩
猟なども邪魔されずに皆で仲良く、楽しい時間を作っていました。
はやり同じ言葉を話して、日本食を作り、皆で食べて楽しい時間を共有し
ていた事は、今でも楽しい思い出として残っています。

私もエンバルカションの町に住んでいた時代、伸ちゃんとの思い出が一
番楽しい思い出として残っています。私が農場の仕事を辞めて、ブエノス
に戻る時に彼がいつも旅で持ち歩いていたジュラルミンのトランクを餞別
に持たせてくれました。今でも私の思い出として、アメリカまで持って来て
記念に保存してあります。

先日、納屋からトランクを持ち出して来て、被せていたプラスチックを外し
て、久しぶりに眺めていました。心に何か甘酸っぱい様な感傷が湧いて、
若かりし時代の思い出が一杯詰まったトランクだとしみじみと見ていました。

次回はまた違った話題を書いてみます。

2014年4月23日水曜日

私の還暦過去帳(511)

 第4話、南米移民過去帳物語、(16)

南米の「フーテンの寅」さん(4)

1965年当時のアルゼンチン北部はまだまだ、かなり遅れていて、首都
のブエノスと比較すると格段の文化的、文明的にも差がありました。
ブエノスの首都では、ヨーロッパから来たオペラが公演され、世界の有名
なオーケストラや歌手などが、オペラ座で同じく公演がされていました。

レチィーロの終着駅に到着するボリビア国境から来た長距離列車から降り
て来る人達の服装まで違っていました。
女性はスカートの下に、薄いズボンをはいていました。それはブヨなどに
咬まれない様にアルゼンチン北部では見慣れた女性の服装でした。

ボリビア人の女性は、脚の足首までの長いスカートをはいているのが普
通で、出身地や、種族によって着ている服の色が変化して、被っている
帽子も特徴がありました。

私の友人を伸ちゃんと呼んでいましたが、彼の野生味がある生き方には
いつも感心していました。金が無くなると、機用にペンチの工具一つで針
金などを加工して、飾り物の自転車や、車など、各種の動物の形を作っ
ていました。
これはブラジルを放浪していた時もこれで食べていたと聞きました。
町にある朝市に行くとそれを売り、また食べ物と交換して独り者の気楽さ
で、食べるぐらいは稼いでいました。

野菜類は皆が大抵自宅の裏で栽培しているので、彼が遊びに来ると、沢
山持たせていました。彼は罠掛けが上手で、魚も前日の夕方から、河の
流れが緩い所に、金網で直径1mばかりの長い筒を作り、それを2本ば
かり、河の中に沈めて、石で押さえて流れないようにして、水面から見え
ないぐらいの深さに罠を仕掛けていました。

翌日、早朝に罠を上げに彼は出ていましたが、ナマズや鯉に似たスル
ビーなどの魚が獲れていました。彼は魚が獲れると日本人の農場に配り、
またその魚を餌に、日本食にありついていました。

川魚は生で刺身などは食べられないので、殆どは魚の身を、自家製の
味噌で鍋物にしたり、から揚げにしていました。
時にはナマズが沢山獲れた時は、蒲鉾などに加工していました。

彼は日本の造船時代に働いていた時に、溶接検査のレントゲン検査室で誤
って、かなりのXレイを浴びて、リンパ球の異常があり、彼が緊急に耳の下
の首に出来た腫瘍を切除するので、ブエノスに出るので、彼も医療費が無い
と皆に、正直に告白して援助を請っていました。

皆は直ぐに話し合いして、余分の旅費と滞在費用まで彼に援助していまし
た。彼の朗らかで、誰にも好かれる人柄から来る人徳だと感じます。

ブエノスに出る時に、ささやかな宴を開き駅まで見送りに行きましたが、彼
がしんみりと、『もしも他の場所にも癌の様に、腫瘍が移転していたら、もう
一度ここに帰って来ることが出来ないかもしれないので、その時はジュラル
ミンの大型トランクは、お前にあげるから・・』と言って、僅かな着替えを
カバンに入れて旅立ちました。

『何かの時は親兄弟に知らせてくれ・・』と言って発車間際に、紙切れを私
に手渡すと、汽車は汽笛を大きく鳴らすと発車して行きました。

6年前にそのエンバルカション駅を訪ねて駅舎を歩き、ふと雑草に荒れた
線路を見ていたら、彼方に小さく消えて行った列車の情景が私の脳裏に
鮮明に思い出していました。

かれこれ50年近く前の、駅での情景を今でも鮮明に覚えています。
すでに旅客列車は運行していなく、貨物専用となっていましたが、それか
ら高速バスの時代になり、国道も舗装され様変わりした時代に駅前は寂れ
て、静かな忘れられた場所になっていました。

彼はブエノスに出て、1回目の手術が成功したのですが、もう一つ腫瘍が
あるという事で、昔働いていた洗濯機の修理会社で働きながら、次の手
術を待っていると手紙が来ていました。
次回に続く、

2014年4月21日月曜日

私の還暦過去帳(510)

 第4話、南米移民過去帳物語、(15) ‏

南米の「フーテンの寅」さん(3)

この話は過去に『私の還暦過去帳』に書いたものですが、この物語は彼
の話でした。是非とも彼の生き様を知る上で、もう一度ここに書いておき
ます。その当時・・、

彼は私より5~6歳は年上でした。現在生きていたら78歳は過ぎてい
ると思います、1965年当時、彼はアルゼンチンのボリビア国境近く
の町に住んでいました。

小さな地域社会です、彼がその町に流れて来たのはボリビアから降りて
来て、無銭乗車していたトラックが町で停車して、そこの町に僅かな
日本人が農業で住んでいたからでした。

国道沿いに農場を開いていた日本人の家を、ふらりと訪ねた事がその町
に居付く事になったのでした。彼は誰にでも好かれる人柄で、当時小さ
な土地を借りてトマトを作り、現金を握ろうとしていました。

私は町に出るとよく訪ねて行きました。話しが合い、年齢的にも考えが
合っていたと思います。当時近所の農家が日本種のサツマイモを作りま
して、少しずつ配ってくれました。

私達が栗イモと言う、ホクホクの甘いサツマイモでしたので、有り難く
食べていました。彼にも食べさせたくて、イモを蒸かすと熱々の美味し
そうなイモを持って訪ねて行きました。

夕方の涼しくなった時間だったと思います、彼も農作業が終りまして
井戸ばたで夕食の支度の準備を始めていました。
私が持参したイモを見ると、急に戸惑った感じで、私が差し出すイモ
を見て、私が『美味しいから~!熱い内に食べたらーー!』と勧める
と、急に涙声で

『俺は食べられないーー!食べてはいけないーー!
 仏のバチが当るーー』と言って、涙をポロポロと落として唇を噛ん
でいました。
私は彼の態度に驚いて、彼が少し落ちついた頃に聞きました。

彼はその理由をゆっくりと話してくれましたので、全てを理解する事
が出来ました。彼はカンニヤーの焼酎を素焼きの水瓶から冷えた水で
割ると、飲みながら話してくれ、彼が南太平洋のサイパン島で育った
事を初めて知りました。

戦争が始まりサイパン島にも米軍が上陸して来て、疎開をしていなかっ
た彼の家族は戦火に巻き込まれ、逃げ惑う事になった様です。
なぜ日本本土に疎開しなかったかは知りませんが、当時父親は出征して
おり南方戦線に居た様でした。母親と子供三人が島を逃げ惑い、隠れて

居た様です、砲撃と艦載機の襲撃で最後は、海岸の絶壁に近い洞窟に
家族と隠れて居たと話していました。家族が持っていたのは大きな水入
れのヤカンと飯盒、各自が水筒を提げ、僅かな医薬品と包帯代わりの
真っ白なエプロンを持っていたと言っていました。

砲撃が激しくて外には一歩も出られなくて、僅かな食料も残りの固パン
を食べ尽くすと、しばらくは水だけで飢えをしのいでいた様でした。
彼は一番下のまだ小さな頃で、母親に『おイモでも食べたいね~!』
と母親にねだって、シクシクと『お腹が空いたーー!』と泣いていた
様です。

母親は上の兄に下の妹と弟を面倒を見る様に言って、もし帰ってこな
い時は、包帯代わりに取ってある木綿の真っ白のエプロンを持って、
米軍に投降する様に言い含めて、一人一人、子供達を抱きしめると、
暗くなった暗夜にまぎれて食料のイモを探しに出かけて行ったと話し
ていました。

地下足袋を履いて、モンペ姿で消えた母親が忘れられないと言って、
目頭を押さえ涙をこらえていました。

翌朝になって、日が昇り、太陽が真上に来ても母親は帰っては来ませ
んでした。一番上の兄が洞窟の入り口から出て探しに行ったけれど、
どこにも居なく、ついに兄は母親が言い残した様に、真っ白な母親の
エプロンを広げ、木にかざして、妹に持たせ、自分は片手に水の入っ
たヤカンを持ち、弟の手を引いてスピーカーで投降を呼びかける場所
に出て行った様です。

直ぐに米軍に発見され、通訳の日系2世の案内で収容所まで送られて、
手厚い保護を受けて、先に占領されていたフィリピンに送られて終戦
後に日本に兄弟妹三名で帰国したと話してくれました。収容所では、
いくら母親の事を聞いても、誰もその消息を知る人は居なかったと言
っていました。

田舎では先に復員して帰っていた父親が迎えてくれ、母親の遺骨代わ
りにエプロンの四分の一が壷に入れられて埋葬され、あとはの3つは
三人の子供達に母親の形見として、分けられたと言っていました。

彼はそこまで話すと、暗くなった畑に出ると、星空に向かって吼える様に、

『おかあさん~! おか~あさんーーーー!』
『お母さん、ごめんなさいーー!僕がイモを食べたいといったばか
りにーー!』
『ゆるして下さいーー!僕をゆるしてーーー!』

薄ぐらい夕闇の中で、彼の手に握りしめられている白いハンカチ状の
物を固く夜空に突き上げて、怒泣するがごとく両膝を土に付けて泣き
崩れている姿を見て、涙が止まらなかった思いが有ります。

戦争は人間同士の殺し合いだけではなく、多くの人々の心まで殺し、
傷付いて、いつまでもそれを引きずって、歩かなければならないのです。

2014年4月19日土曜日

私の還暦過去帳(509)

第4話、南米移民過去帳物語、(14) ‏

 
南米の「フーテンの寅」さん(2)

彼と知り合ってからは、田舎町でも楽しいことが沢山出来ました。
お互いに独身で、気ままな生活を出来る立場でしたので、遊びに狩猟、
魚釣り、ダンスパーテイなども知り合いが増えて、ますます賑やかに
なり、楽しさも増していました。

彼は天性の朗らかな性格と、くよくよしない性分で、どこでも生きて行
ける生活力がありました。
訪ねると彼が料理してランチや、時には夕食も作って食べさせてくれ
ましたが、彼が住んでいた農場の周りにはビスカッチャと言う、兎と
タヌキの中間と感じる獲物を罠で捕まえて、それを食料にしていました。

週に3匹も罠に掛かるとそれで肉は十分に間に合うと話していましたが、
よく台所の流し場の上に、皮を剥いでぶら下げてありました。
彼が得意だったのは肉うどんで、少し感じが煮込みうどんと言う感じで
した。ネギを刻んで沢山入れてあり、その上に必ず卵を一個載せてあり
ました。
乾麺が無い時は、自分で機用に手打ちうどんを作り、それで作っていまし
たが、私も今でも思い出す味です。彼がビスカッチャの肉をそぎ落とした
骨でスープの出汁を作っていましたが、彼は昔、田舎の食堂で手伝いを
していたので、ラーメンもチヤーシユーなど作った時に、味噌がある時は
味噌ラーメンも作ってくれた事を覚えています。

彼は時々、我々が農場を開いていたインべルナーダという所に遊びに来て
釣りをしていましたが、彼が泊まっているのは、前に世話になっていた
夫婦の農場に居たので、仕事を終ってからワインのボトルでも持って、遊
びに行っていました。
その時に彼から聞いたのですが、農場に住み込みで働いている若い夫婦が
お互いに現在の言葉で言えば『援助交際』と言う様な感じの事をしていた
様でした。
それは旦那がワイフと話し合って、他の男に時間でワイフを貸し出すという
事で、殆どが一日単位での貸し借りだったようでした。

それはワイフが同意する相手で無いと契約が成立しないと言う事でしたが、
それにしても、自分のワイフを他の男に貸し出すと言う事は、その間に
セックスでも洗濯でも何でも構わないと言う事には私も聞いた時は、驚いて
いました。
一日、人のワイフを借りる金額は、若い奇麗なワイフなど,かなり高額だと
聞いた事がありますが、彼が狙っていたのは子供が居ない、若くてまだ20
歳前後の女性だった様でした。

それが運よく彼の希望どうりに当り、ワイフも同意し、交渉も成立して、一日
旦那が町に遊びに泊りがけで出かけた時に、彼がその小屋に泊まって居たと
言う事です。彼が払う金額は殆どその夫婦達が折半していた様で、その日は
ランチを作って貰い、一緒に若いワイフとワインでも飲んで、セックスもした
と話していましたが、もしも何も話し合いも無く、合意も無く、ワイフに手を
出していたら、間違いなく殺されると彼が言っていました。

それにしても何んとも大らかな感じが致しましたが、何も無いジャングルでは、
そんな遊びも有ったと感じます。その当時の結婚は平均が20歳前で、25歳
ほどになれば、どこか悪いのかと言われていました。農場使用人の若いワイ
フから、旦那がOKと言っているので、週末に私を借りて町まで遊びに連れて
行ってくれと誘われましたが、残念ながら忙し過ぎて無理でした。

私の友人はそんな事などしなくても、沢山の若い女の子達から誘われて遊ん
でいましたが、チヤワンコ族のインジオ達は、黒髪のどこと無く日本人に似た
顔立ちで、私の中学時代の同級生と同じ顔付きの女の子も居ました。

私がエンバルカションの町にいる間は、彼の彼女はアマンダと言う名前の
インジオの血を引く現地人でした。
次回に続く、

 
                                                                                            

                       
                             


          



















 

2014年4月16日水曜日

私の還暦過去帳(508)

第4話、南米移民過去帳物語、(13)

南米の「フーテンの寅」さん、

彼と出会ったのは、かれこれ50年近く前です。
彼とアルゼンチンのサルタ州、エンバルカションの町で出会った事が最初
でした。彼は自由奔放に生きて、若い時からオートバイの暴走族、フーテ
ン家業などをしていた様でしたが、南米に来るので、横須賀造船所で溶
接工をして資金を貯めたと聞きました。

彼はその溶接の腕で、かなり良い仕事も簡単に見つかり、またその腕で
稼いで南米各地を歩いていた様でした。
横須賀造船所で溶接工をしていた時代に、溶接部分のレントゲン検査室
に検査中とは知らず入り、かなりの危険な容量を浴びて、それで甲状腺の
異常がありました。
その異常は南米に来て、サルタ州で農業の手伝いをしていた時代に、
一度発病して、手術を受けていました。

サルタ州に来たのはボリビアからアルゼンチン北部に入り、トラックに乗り
継いで、幾度か無銭乗車を頼んで、たまたまトラックがエンバルカションの
町まで来て、そこに日本人が僅かながら住んでいた事で、国道沿いにあ
る子供が居ない夫婦者の農場に訪ねて来たのが始まりでした。
首都ブエノスの専門病院でリンパ腺の切除手術を受けて、生活費と医療
費を稼ぐ為に、洗濯機械の修理専門の日系の会社に働いていた事もあ
る様でした。
サルタ州では、エンバルカションの郊外で農場を開いていた夫婦に子供が
居なかったので、そこの夫婦に可愛がられて、そこの家に世話になって住
んでいた時代もありました。

私が知り合った時はその時代で、その夫婦が農場の地力が落ちて、生産
物が少なくなると、もっと条件が良い私が働いていた農場の直ぐ側に引っ
越して行ったので、彼はその古い農場に留守番代わりに住んでいました。

彼が栽培できる範囲の植え付けをして、その収穫物は懇意にしている夫
婦に買い取って貰っているようでした。彼一人しか居ない農場は、若い現
地人の友人や、ガールフレンドも来て泊まって居るようでした。いつ行って
も賑やかな感じで、私も町に出たら、必ず寄って話し込んだり、食事したり、
週末は泊まりがてらに行き、酒などを皆で飲んでいました。

彼のガールフレンドはインジオの血を引く現地人でしたが、明るくて気さく
な感じの女性で少しグラマーな感じの身体をしていました。
週末など遊びに行くと、アサードの焼肉などして、ワインなど飲みながら、
ラジオの音楽に合わせてダンスなどもして騒いでいました。必ず2~3名
の女友達を引き連れて来ているので、若い者同士で気軽に肩の荷を降
ろして騒げる場所でした。

私も農場に帰れば支配人家業で、気軽に飲んで騒ぐ事も出来なく、まし
て農場で働く女性と飲んだりダンスも立場上出来ないので、本当に気を
抜いて日本語を話して遊べる友達でした。
ある日、私が町に待機する長距離トラックにトマトを運んで来て、ランチ
を一緒に食べ様と訪ねると、何か様子がおかしく、彼のシャツに血痕が
飛び散り、泥で隠した両手は鮮血の血糊が付いているようでした。
私は一瞬ドキリとして、彼が人殺しでもしたのかと疑いました。

隠す様にして小屋の陰に立て掛けてあるマチーテという山刀も、握りも
べっとりと鮮血がまだ付着していました。鋭い刃がある木の伐採用斧も
同じ様に鮮血に汚れていました。彼はやつれた様に目も少し落ち窪ん
で、かなり疲れているようでした。

私が『喧嘩でもして相手を殺したのか?』と聞くと、『いや・・そんな事で
はない』と否定しましたが、私が町からお土産に持って来た美味しい
生ハムのサンドイッチとエンパナーダを見せて食べるかと誘うと、『昨夜
から何も食べていない・・』と言うと私が手渡したランチを木陰に座り込
むと、ガツガツと食べていました。

マスコカットの白ワインを開けてコップに注いでそれを飲みながら食べ
ていましたが、食べ終わって気が落ち着いたのか、ぽつぽつと話し始
めてくれました。

何んと・・、夜間彼が育てていた野菜畑に隣の農場のラバが入り込ん
で、石を投げても逃げないので、彼が持っていた22口径小型拳銃で
ラバの頭の上に威嚇射撃をしていたら、耳に掠った弾に驚いてラバが
飛び上がった瞬間、耳の中に命中して即死の状態でラバが死んだと
言う事です。
畑の真ん中です、夜が明ければ目立つ事は間違いなく、まして隣りの
ラバですから、これは困った事になり、ラバの死体を動かす事も、引
きずる事も出来ないので、それにトラクターも無く、困り果てて夜中に
ラバの死体を斧と山刀で解体して、バラバラにして、自分で引きずり
運べる大きさに切ると、柔らかい土の畑の中に真夜中に大きな穴を
掘り、夜が明けるまでにラバの死体を切り、分解して穴まで引きずり
投げ込んだと話していました。

その死体を投げ込んだ穴は完全に土も被せてあり、巧みに隠してあ
りました。それにしても驚いた話でした。彼はランチの食事が終わる
と安心したのか、それと私がいるので、ホッとして汚れた身体を洗い
たいと、井戸端の横にあるシャワーが浴びれる所に行き水浴びして
いました。
終るとシャツなど全部着替えて、日陰のテラスに座ると、彼が『人生
でこれほど泡くって一晩寝ないで仕事をした事は初めてだ・・・』と話
していました。

彼はお腹も満腹して、飲んだ白ワインが空きっ腹に効いたのか、う
とうと始めていました。
彼は昼寝をする前に、『お前の目でもう一度現場を見て、どこかラバ
を解体した跡があすか探して暮れ・・』と言うと寝てしまいました。

私は畑に出ると丹念に見ましたが、ラバの足跡が残っている所と、
血痕が飛び散っていた所を木の枝で消してしまいました。
シーンと人影も無い農場の境界線当りに陽炎がゆれていました。

数日して近所が、『ラバが一頭居なくなった、』と聞きに来たと彼が
話していましたが、その話はそれ切りで終ってしまったと聞きました。

次回に続く、

2014年4月13日日曜日

私の還暦過去帳(507)


第4話、南米移民過去帳物語、(12)
 
葉隠れ移民の物語、

50年近く前のその当時、アルゼンチンはペロン大統領が勢力を維持す
るために、労働組合を甘やかして、ストが連発され、アルゼンチン国鉄
などが急激に衰退している時でした。

そしてイギリス資本がアメリカ資本に負けて、南米各地でアメリカの資
本が勢力を伸ばし、活動していた時代でしたが、それも労働組合のスト
や、政府の政策でかなり資本の投資が停滞し始めていました。
それはペロン大統領が国有化したり、支配権の制限などを始めていた
ので、企業や工場はかなりアルゼンチンから逃避を始めていました。

土曜や日曜日など、それに祭日が多くて国民が余り働かない傾向があ
り、それも生活で食べられる余裕があったからだと思います。

当時の首都ブエノスアイレスなどでは、日曜日に商店を開いて営業し
ていると、ぺロ二スタといわれる労働組合員たちが来て、商店を破壊し
たり、ピケを張って営業できなくしたりしていたので、その様なことがある
ので、日曜日などは街は静かなシャッター通りになっていました。

私が南米に移住して、その当時、日本などは土曜日も仕事を平常に働
き、学校も同じでした。それとアルゼンチンでは昼寝習慣もあり、私もま
ず現地の日本人から、昼寝の時間に訪ねたりするのは失礼に当ると釘
を挿されていました。

その習慣は田舎に行っても同じでしたが、アルゼンチン北部に行くと、
暑いので昼寝の時間も長く、それに連れて夕食など9時頃から始まり、
夜が遅い感じでした。

首都から遠く離れてボリビア国境近くまで行くと、まるでアルゼンチン
国内でも、まったく人種まで違うかと思うほどでした。田舎で豪壮な邸宅
を構え、広大な敷地に自家用機の滑走路まである農場など見ると、そ
の貧困の差が良く分かりました。

本田氏の邸宅は田舎でもかなり奥地で、近くでもユーカリの林の中に
あり、真近い所で見てもやっと分かるという感じで、本田氏の奥さんの
実家も側で、英国人時代から、農場の監督や支配人を任されていた家
族ですので、本田氏が居なくても全ての管理が何も問題なく動いていた
と思います。

今では本田氏の奥さんが自分の娘で、その孫も居て家族として側に居
るので、周りの地主達がうらやむほど管理が行き届いていた農場だっ
たと思います。
それと、私も訪ねて改めて本田氏が日本人として信用されているかを
見た感じでした。

測量技師として経験と信用があり、ブエノスの一流大学を出て、言葉も
幼少時代に母親と移住して来たので、スペイン語の訛りも無く、アルゼ
ンチンで育ち体格も、肉とミルクにサラダで生活したのか、日本人離れ
の体格とハンサムな容姿でした。

私がブエノスで彼の幼少時代に同じ学校に通った人から聞いた話でし
たが、母親が戦争で子供一人抱えて未亡人となり、戦後の日本が困窮
時代に生活に困り、アルゼンチンに永住していた兄の勧めもあり、親子
でアルゼンチンに呼び寄せ移住して来たと聞きました。

母親は兄の貿易会社を手伝い、そこで働いていた日本人と再婚して、
本田氏を育てていた様でしたが、本田氏は若い頃から学校の寮生活を
して、家を出ていた様で独立心の強い、スポーツマンだったようです。

英国にも2ヵ年ほど留学したのでキングスイングリッシュを話し、大学時
代から、英国系アルゼンチン人達に知り合いが居て、かなり地方の英国
系地主達の知り合いもあったようでした。
測量技師として、政府の仕事も請け負い働いていたので、その経験と信
用も大きかったと感じます。私も本田氏と知り合ってから、彼の経歴に興
味があったので、ブエノスに仕事で出た時に、知り合いに聞いて彼の経
歴を知る事が出来ました。

それにしても彼が若いながら、この様な農場を持ち、結婚して生活してい
ると考えていました。それは直ぐに本田氏の妻が美人で、子供の時から
英国人農園主の家庭教師に付いて勉強して、農園主の子供達と同じ様
に育てられ、教育され、躾とマナーを学んでいた彼女は、やはり大きな魅
力があったと思います。

本田氏が英国留学で学んだキングス・イングリッシュを話し、英国人家族
とも知縁があった事がワイフとなった彼女と結びつける何かがあったと思
います。
ゴウメの妹とは少し年齢的には上でしたが、同じ年頃の若い女性が少な
い場所では、皆が知り合いであったようでした。

ゴウメの妹の紹介で本田氏の妻と面会する事が出来ましたが、釣りと狩
猟で遊びに来たので、挨拶に寄ったと言って、ブエノスで買い求めた日本
食品などを渡しました。
彼女は丁重に我々を案内してテラスの日陰で、風通しの良いテーブルに
案内すると、紅茶かコーヒーか、マテ茶がいいか聞いて来ました。

彼女の母親が使用人の女性と出てくると挨拶して、焼いたばかりと言う
ケーキを皿に載せてテーブルに飾り、勧めてくれました。
ケーキでしたので紅茶を頼んで、その間に皆で話していましたが、とても
しとやかな彼女でその美貌とマッチした教養を感じていました。

私には何か分かる様な感じがしました。ひっそりとした、こんな田舎の農
場で本田氏が仕事に来てしばらく滞在して測量仕事をしていたならば、
直ぐに彼女に気付き、興味もあったと感じます。
当時の田舎の女性の結婚年齢は16歳過ぎれば成人として、社交界にデ
ビューするお祝いをするので、18歳程度でも幾らでも結婚するカップルを
見ました。
日系の家庭で23歳過ぎても結婚しない女性には、親が走り回って縁談を
捜していたのを覚えています。そして私にも誘いがありましたが、当時の
私はまだまだやりたいことが多くて、とても家庭を持つ事など余裕があり
ませんでした。

本田氏の奥さんとは子供が昼寝から目が覚めたという使用人からの知ら
せまで、弾んでいましたが、奥さんの『また当地に遊びにきたら是非とも主
人が居る時にもう一度訪れて下さい』と言う言葉で別れましたが、帰りに
私にお土産として自家製のワインとチーズを持たせてくれました。
それにしても、本田氏宅を訪ねた事は私が知りたいことを満足させ、納得
したと感じていました。私がサルタ州に居た間にゴウメに誘われてもう一度
訪ねましたが、その時には奥さんが2度目の妊娠をしてお腹が大きく、直
ぐに生まれると話していました。

私と本田氏が馬でゴウメの案内で遠乗りして、当時奥地から牛の群れを
家畜集積所まで追って来るガウチョーのキャンプを見に行きました。
その中には本田氏の牛も100頭ばかり居ると話していましたが、牧童達の
キャンプ生活も見る事が出来ました。

その時訪ねた時が、私がサルタ州からブエノスに引っ越したので、本田氏
との最後でした。その時は本田氏のゲストハウスに1泊いたしましたが、
泊まったその夜に、外のテラスで二人で話した事が今でも思い出されます。

彼は私には兄弟が居ない一人っ子だったので、子供を沢山持って、賑や
かな大きな家庭を築き、この自然に囲まれた平和な里に骨を埋めたいと
言っていました。
私がブエノスに出てからしばらくして、彼が飛行機操縦のライセンスを取り、
川岸の近くに簡易飛行場も建設して、セスナの飛行機をビジネスにも使い、
もっと便利な環境を作って住んでいると聞いた事があります。

次回はサルタ州にいた時代に北米から旅をして流れて来た若者の話を
致します。

2014年4月10日木曜日

私の還暦過去帳(506)



第4話、南米移民過去帳物語、(11)

葉隠れ移民の物語、

本田氏が測量事務所を開いていたので、それと過去にアルゼンチン政
府の測量事務所に仕事をしてその経験から土地の境界線の紛争や、
登記所に記載されている境界線の確認作業などを専門に仕事をしてい
た様で、その時もサルタ州都で開かれていた裁判の証人として出廷して、
サルタに滞在していたようでした。

彼は移動式の短波無線を所持していたので、辺鄙な田舎の自宅とも簡
単に連絡が出来る様にしてありました。よく自宅を不在にするので彼が
考え出した通信手段だったと思います。

彼の四輪駆動のジープ屋根付きの中に設置されていたようですが、自
宅の横にはかなり高い支柱の上に風車式の水揚げポンプが設置され、
そこにアンテナが張ってありました。

翌日、早朝に起きて魚釣りに行きましたが、ナマズ種類のスルビやドラド
という魚が5匹ほど獲れ大型の魚でかなり力が要る釣りで、日が登り夜
が明ける頃にはお腹も空いてゴウメの家に戻りました。
特に一匹の大型スルビ魚は15kg近くもあり、かなりの時間を掛けて釣
り上げていました。

その日のランチはドラドという魚をオーブンでトマトソースを使い、丸焼き
にしたものが出ていました。食後は朝早かったので少し昼寝をしてから、
涼しくなりゴウメの妹の案内で馬で本田氏の屋敷に持って来たお土産を
届けに馬で行きました。
本田氏のワイフとゴウメの妹は友達で仲がよく、丁度よい案内人となり
ました。

馬の早足で30分程度行くと、河の近くの見晴らしの良い高台の上に本
田氏の屋敷があるのが見えて来ました。アドベの大型日干しレンガを積
み上げて、まるで近くでは要塞か城に感じます。

家の外周りにはユーカリの大木が茂り、手入れされた敷地は車庫から
母屋までトゲのあるカラタチの潅木塀で広く囲まれ、母屋の周りは壁と
同じ色に塗られた塀が続き、どっしりとした構えになっていました。

遠くで家畜の鳴き声が聞こえ、母屋の前には、大きな門柱の横に馬を繋
ぐ青銅の飾りがある支柱も置いてあり、まるでどこか昔のスペイン人侵
略者が荘園として建設した屋敷の印象を受けました。
見ただけで、かなりの時間を費やして建設された屋敷だという事が分か
りました。
この農場を開いて建設した家族は、昔の初期アルゼンチン鉄道建設で英
国から来た技師で、北部の主要鉄道を設計施行した技術屋と言う話で
した。建設仕事が終了して、当時格安で購入できた土地を買い、住み着
いて広大な牧場と綿畑を開いた様でした。

首都のブエノスにも自宅があり、そこのオーナー夫妻は歳を取ってから
は、サルタ州の農場で過ごしていた様でした。

私が感じた事は、遠くから見たらまったく周りの木々の隠れて、どこにこ
んな屋敷があるか、皆目知る事は出来ないと思いましたが、誰かに案内
してもらうか、連れて来てもらうことが出来なければ探す事は難しいと感
じていました。

鉄道の支線が動いているので、駅からは馬でも馬車でも車でも簡単に
屋敷まで来れるのですが、鉄道が廃線などになれば、この地方は冬の
雨季は車の通行が困難で、雨が降れば交通途絶する事が多いので陸
の孤島となり、もともと辺地で過疎の場所ですから、幾ら家が豪華でも、
オーナーの子供達が住む事も、生活も嫌った事が分かりました。

まだまだ道路工事は北に登ったボリビア国境近くの石油採掘現場が優
先され、エンバルカションからの周辺道路などはまったく手付かずの様
子でした。
それにしてもこの屋敷を建設した英国人の考えた夢を思うと、大したも
のだと感じていました。
そして、この屋敷に惚れて購入して、住み着いた本田氏も大したもの
だと言う感じが致しましたが、それは本田氏の若いワイフを見たとたん
に、なるほどと心に感じました。

可愛いい、すらりとした美人で、スペイン人の血を引く黒髪の混血の現
地人でした。

2014年4月7日月曜日

私の還暦過去帳(505)

南米移民過去帳物語、(10)


葉隠れ移民の物語、

私が本田さんと言う方のお城見物を思いついたのは、偶然でした。
私の農場で働いていたインジオのゴウメという若者がスルビーと言う魚の
産卵期で、その魚釣りとビスカッチャというウサギと狸を併せた感じの動物
を狩猟する事に誘われて、付いて行く事にしました。

インジオ部落からさほど遠くないと言う事で、その若者と2泊することで狩
猟と魚釣りに行く事になりましたが、アルゼンチンの祭日で収穫時期も間
があり、本田氏と話もしたので、是非と考えて実行に移しました。

エンバルカションの駅から支線を薪で走る蒸気機関車が引く古い列車です。
僅かな荷物を持ち、夕方近く発車しましたが、客車はぼんやりと電灯が車
内に点る旧式な古い列車で、座る椅子は全部板張りの座席でした。
若い夫婦者が毛布を被ってベンチに寝ています、横揺れの酷い列車はゆ
っくりと潅木の中を
走って行きました。
その支線は昔、鉄道建設用の枕木に使う、硬木を切り出しと家畜運搬用と
して敷設された様です。

時々停まる駅と言っても、プラットホームも何も無い小さな駅舎があるだけ
の駅です。駅前に僅かな家があり、明かりが漏れて、ほのかな料理の香
りもしていました。

籠にサンドイッチや、トウモロコシの皮で包んだトウモロコシ・パンも入れて
売りに来ました。熱々のトウモロコシ・パンを買い食べていました。

機関車から出発の汽笛が鳴ると、ぱらぱらと乗客が乗り降りして、機関車
から蛍の様に火の粉を吐いて、ゆっくりと走り出しました。
悠長にジャングルの潅木の中を走る列車には、町で仕入れた果物や小麦
粉などの袋を座席の下に押し込んで、その上でマテ茶をのんびりと飲んで
いる様子の年寄りの老婆が二名、何か袋から取り出して、我々に食べるか
と聞いて来ました。
チーズをパンに入れて焼いたチーパーと言うパンでした。私がお返しに熱
糧食として持って来たチョコレートやクッキーなど少しあげると喜んでくれ、
どこに行くか聞いて来ました。
魚釣りと狩猟だと言うと、どこが釣れるかゴウメに教えていました。
私が『セニョール・本田を知っているか・・』と聞くと、詳しく教えてくれ、現地
では中々の有名人だと言う事を知りました。

現地ではまじめで、勤勉な日本人だと言う事が知れており、現地人の若い
女性を妻にして、その家族との繋がりで確固たる地盤を築き、その老婆も
本田氏の住居を『日本人の城』と言っていました。話の最後に、本田氏が
サルタの州都に出かけて居ないという事を教えてくれました。

私は少しお土産も持って来ていたので、がっかりしていましたが、ワイフは
子供が居るので留守番していると話していましたので、お土産だけでも届
ける様に考えていました。
のろのろと2時間ばかり走ると、機関車が停止するとゴウメがここだと言う
ので、その駅に降りました。
ガスランプの明るい光に照らされた駅舎の外に、迎えの馬が三頭繋がれ
て待っていました。
中の一頭はゴウメの妹で16歳ぐらいだと聞いていたのですが、上手に馬
を操り、我々を迎えに来ていました。それに犬が二頭横に座って居ました。

ゴウメを見ると喜んで尻尾を振り、大歓迎をしていました。
駅から200mも歩くと潅木の茂るジャングルで、その中の小道を犬を先頭
に馬が進みます。妹は16歳だという事ですが、現地ではそろそろ結婚適齢
期だという事をゴウメから聞きましたが、いまだに婚約者も居ないと話して
いました。
誰もすれ違うことも無い夜の田舎道です、薄い月明かりの光の下、砂地の
ぼくぼくと乾いた道をしばらく歩いて行くと、少しジャングルが開いた場所に
出て、数軒の家があるのが分かりました。

直ぐ近くにはベルメッホ河が微かに水面が光っているのが分かりました。
妹のマリアが馬から下りて、『貴方達は家に入りなさい、私が馬を連れて
行くから・・』と言うと、二頭の馬を引くと囲いに犬達を連れて移動して行った。

ゴウメの家はアドベの日干し煉瓦を積み上げた家でした。
明日の早朝に釣りをするという事で、焚き火の横でコニャック入りのマテコ
シードの茶を飲むと明日の釣りの話など聞いて話し込んでいました。

両親はチヤワンコ族と言うインジオで、川岸に住み漁業と農耕をする日本
人に似た種族でした。彼等にはアジア人のモンゴロイド特徴の蒙古斑点が
赤子にはある家族が居ると聞いていました。

混血していない種族は遠くアジアからのベーリング海が陸で繋がっていた
時代に南米大陸に流れて来た人種だと思います。性質は穏やかで、女性
の黒髪が綺麗でゴウメの妹のマリアも黒髪とアルゼンチンでは珍しい皮膚
の色で、どこと無く私が子供の頃に近所に居た、女の子に似ていました。
家族で話す言葉はチヤワンコ族の言葉でした。

ゴウメの両親はスペイン語は余り得意ではないようで、私と話す事は問題
なく、本田氏がここの土地に住み着いた事を詳しく話してくれました。

やはり本田氏がこの土地に住み着いたのは、彼が見初めた可愛い彼女
が16歳で直ぐに妊娠して、彼女の家族が住む側の土地が遺産相続で売
りに出されて、売り急いでいた事もあり、家屋に家具、農機具や家畜、植え
付けられていた綿の収穫まで付いていたので、購入すれば直ぐに生活に
困る事も無く、地主として自分の城を持つ事が出来て、かなりの収入も見
込める事があったようです。

しかし遺産相続で売り出された農場は、亡くなった両親が築いた農場も、
子供達は田舎の辺鄙な土地に住む事を嫌い、その土地の価値も、良さも
すべて見捨てて、競売に近い価格で売り出して
しまった様でした。
本田氏は当時の状況から農場のオーナーの子供が、親が亡くなったら売
り出す為に、正式な農地の測量を頼まれ、そこの土地に滞在して測量して
いたと思います。

彼は滞在先で妻となる女性にめぐり合い、愛して、彼女が直ぐに妊娠し、
本田氏はそこの土地が気に入り、その農場が競売される前に、遺産相続
の弁護士と交渉して即金で買い取り、彼女と結婚式を挙げて住み始めた
という事でした。

2014年4月3日木曜日

私の還暦過去帳(504)

南米移民過去帳物語、(9)

葉隠れ移民の物語、

現在、メキシコのカボ、サンルーカスに滞在して、のんびりと魚釣りをして
いますが、この地にも戦前の昔に、日本からの漁師として住んで、メキシ
コ人と結婚して、その名前だけ日本語の三世などの日系人が居ます。
顔かたちはまったく現地人のメキシコ人ですが、名前だけが過去の歴史
を残して居ると感じます。

私が南米の奥地で住んでいた時代は、まだかなり遅れた所がありました。
当時のサルタ州もフォルモッサ州もアルゼンチンの首都、ブエノスアイレス
から、かなり離れて1700km近くは距離がありましたので、情報も流行も、
かなりのんびりした状態で奥地に到着していたと感じます。

当時のアルゼンチン国鉄の汽車も古いイギリス製の客車が沢山使用され
ていた時代でした。汽車ですと2日半ばかり時間が掛かる距離でした。
それと走るスピードも遅く、線路の路盤が酷いので、スピードが出るとか
なり車両が揺れていました。

雨など降る時は線路の路盤からバシャー!と水を跳ねて走っていた事を
見たことがあります。悠長で、南米らしい鉄道でした。

その鉄道も1991年 頃からの民営化により多くの長距離路線・地方路線
は廃止となる一方採算が取れる線路だけが買い取られ民営化されました。

今では見る影も無く落ちぶれた僻地の線路は、草むらに隠れて、過去に
そこに線路が通っていたと言う痕跡が見られました。
私が5年ほど前にアルゼンチン北部を旅した時に、バス路線と平行して、
昔の線路が見える所がありましたが、廃駅となった所では、朽ち果てた貨
車や列車の残骸が哀れに並んでいました。

それと同時に、遠い昔の古き良き時代に、列車に乗車した思い出が湧い
てきた覚えがあります。駅には沢山の物売りが並び、その掛け声や、乗客
の賑やかな動き、手荷物を運ぶ駅員が押す台車のきしみ音、その当時は
鉄道が斜陽と言うけれど、かなりの利用者があった時代でした。

私が当時住んでいたエンバルカションの町にはかなり大きな駅がありまし
た。そこから支線が一本出ていたからかも知れません。薪で走る蒸気機
関車でした。私が駅まブエノスから送られて来た駅留めの荷物を引き取
りに行った時でした。

駅前でトラックを駐車させて、荷物を引き取りに窓口に行き、少し重いの
で、トラックに居た若いインジオの労務者を訛りのあるスペイン語で二度
『こっちに来て手助けしてくれ・・』と呼びかけたら、側に居た中年の男性
が、『佐藤さんの農場で働いている支配人の方ですか』
と聞いてきましたので、お互いに自己紹介して話をするようになりました。

丁度お昼のランチ時間で、『お昼は済みましたか?』と聞くと、『まだです・』
と言う事で支線の発車まで2時間以上もあるという話で、駅前のレストラン
に同席して食事を共にする事になりましたが、ワインのグラスでも傾けな
がら、話を交わしていたのですが、その彼の話に凄く引かれてしまいました。
余りエンバルカション周辺の日本人同士とは交際が無く、ブエノス近郊に
は遠い親戚が居ると話していました。

牧畜と綿の栽培、現金作物として蔬菜栽培も少ししていると話していました。
何か興味があり、その話しぶりもどこと無く落ち着いて、物静かな百姓と
いう感じが滲み出ていました。
その方も私の様に若い日本人が辺鄙な農場で支配人家業を始めた若者
と言う事で少し興味があったと思います。

その夜、農場に帰ってからボスに話すと、珍しい人に会ったものだと言って、
その本田さんと言う方の話をしてくれました。
話を聞くとその方の生き方が、我が城を築き、周囲にはわれ関せずと言う、
まったく農場がその方の領地の様になっていると教えてくれました。
当時のサルタ州の法律で、農場の柵を鉄条網で5段に引いて囲って居る
私有地領土に侵入した人間や、家畜は警告の後、射殺してもお構いなし
と言う法律がありました。

彼の家の周りはとげのあるカラタチの木が植えられ、家を囲み、家はアド
ベの日干し煉瓦で積み上げられ、要塞の様に、まるで日本の土蔵造りの
様にがっしりとした自分の城だという事です。家畜の囲いもカラタチの生垣
の塀で囲まれて、その外には鉄条網の柵が見事に並んで囲んでいると言
うので、誰が見ても、昔の小さな荘園地主の城と感じると話していました。

彼の領地の中には小川も流れ、その川の近くには、かなりの蔬菜栽培地
も作られていると言う事でしたが、その中には使用人達の売店もあり、近
所に住む住民も利用できる店であった様です。
私はその詳しい話を聞くと、一度訪ねてみたいと言う欲望が出て来ました。