2014年4月23日水曜日

私の還暦過去帳(511)

 第4話、南米移民過去帳物語、(16)

南米の「フーテンの寅」さん(4)

1965年当時のアルゼンチン北部はまだまだ、かなり遅れていて、首都
のブエノスと比較すると格段の文化的、文明的にも差がありました。
ブエノスの首都では、ヨーロッパから来たオペラが公演され、世界の有名
なオーケストラや歌手などが、オペラ座で同じく公演がされていました。

レチィーロの終着駅に到着するボリビア国境から来た長距離列車から降り
て来る人達の服装まで違っていました。
女性はスカートの下に、薄いズボンをはいていました。それはブヨなどに
咬まれない様にアルゼンチン北部では見慣れた女性の服装でした。

ボリビア人の女性は、脚の足首までの長いスカートをはいているのが普
通で、出身地や、種族によって着ている服の色が変化して、被っている
帽子も特徴がありました。

私の友人を伸ちゃんと呼んでいましたが、彼の野生味がある生き方には
いつも感心していました。金が無くなると、機用にペンチの工具一つで針
金などを加工して、飾り物の自転車や、車など、各種の動物の形を作っ
ていました。
これはブラジルを放浪していた時もこれで食べていたと聞きました。
町にある朝市に行くとそれを売り、また食べ物と交換して独り者の気楽さ
で、食べるぐらいは稼いでいました。

野菜類は皆が大抵自宅の裏で栽培しているので、彼が遊びに来ると、沢
山持たせていました。彼は罠掛けが上手で、魚も前日の夕方から、河の
流れが緩い所に、金網で直径1mばかりの長い筒を作り、それを2本ば
かり、河の中に沈めて、石で押さえて流れないようにして、水面から見え
ないぐらいの深さに罠を仕掛けていました。

翌日、早朝に罠を上げに彼は出ていましたが、ナマズや鯉に似たスル
ビーなどの魚が獲れていました。彼は魚が獲れると日本人の農場に配り、
またその魚を餌に、日本食にありついていました。

川魚は生で刺身などは食べられないので、殆どは魚の身を、自家製の
味噌で鍋物にしたり、から揚げにしていました。
時にはナマズが沢山獲れた時は、蒲鉾などに加工していました。

彼は日本の造船時代に働いていた時に、溶接検査のレントゲン検査室で誤
って、かなりのXレイを浴びて、リンパ球の異常があり、彼が緊急に耳の下
の首に出来た腫瘍を切除するので、ブエノスに出るので、彼も医療費が無い
と皆に、正直に告白して援助を請っていました。

皆は直ぐに話し合いして、余分の旅費と滞在費用まで彼に援助していまし
た。彼の朗らかで、誰にも好かれる人柄から来る人徳だと感じます。

ブエノスに出る時に、ささやかな宴を開き駅まで見送りに行きましたが、彼
がしんみりと、『もしも他の場所にも癌の様に、腫瘍が移転していたら、もう
一度ここに帰って来ることが出来ないかもしれないので、その時はジュラル
ミンの大型トランクは、お前にあげるから・・』と言って、僅かな着替えを
カバンに入れて旅立ちました。

『何かの時は親兄弟に知らせてくれ・・』と言って発車間際に、紙切れを私
に手渡すと、汽車は汽笛を大きく鳴らすと発車して行きました。

6年前にそのエンバルカション駅を訪ねて駅舎を歩き、ふと雑草に荒れた
線路を見ていたら、彼方に小さく消えて行った列車の情景が私の脳裏に
鮮明に思い出していました。

かれこれ50年近く前の、駅での情景を今でも鮮明に覚えています。
すでに旅客列車は運行していなく、貨物専用となっていましたが、それか
ら高速バスの時代になり、国道も舗装され様変わりした時代に駅前は寂れ
て、静かな忘れられた場所になっていました。

彼はブエノスに出て、1回目の手術が成功したのですが、もう一つ腫瘍が
あるという事で、昔働いていた洗濯機の修理会社で働きながら、次の手
術を待っていると手紙が来ていました。
次回に続く、

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