2014年4月13日日曜日

私の還暦過去帳(507)


第4話、南米移民過去帳物語、(12)
 
葉隠れ移民の物語、

50年近く前のその当時、アルゼンチンはペロン大統領が勢力を維持す
るために、労働組合を甘やかして、ストが連発され、アルゼンチン国鉄
などが急激に衰退している時でした。

そしてイギリス資本がアメリカ資本に負けて、南米各地でアメリカの資
本が勢力を伸ばし、活動していた時代でしたが、それも労働組合のスト
や、政府の政策でかなり資本の投資が停滞し始めていました。
それはペロン大統領が国有化したり、支配権の制限などを始めていた
ので、企業や工場はかなりアルゼンチンから逃避を始めていました。

土曜や日曜日など、それに祭日が多くて国民が余り働かない傾向があ
り、それも生活で食べられる余裕があったからだと思います。

当時の首都ブエノスアイレスなどでは、日曜日に商店を開いて営業し
ていると、ぺロ二スタといわれる労働組合員たちが来て、商店を破壊し
たり、ピケを張って営業できなくしたりしていたので、その様なことがある
ので、日曜日などは街は静かなシャッター通りになっていました。

私が南米に移住して、その当時、日本などは土曜日も仕事を平常に働
き、学校も同じでした。それとアルゼンチンでは昼寝習慣もあり、私もま
ず現地の日本人から、昼寝の時間に訪ねたりするのは失礼に当ると釘
を挿されていました。

その習慣は田舎に行っても同じでしたが、アルゼンチン北部に行くと、
暑いので昼寝の時間も長く、それに連れて夕食など9時頃から始まり、
夜が遅い感じでした。

首都から遠く離れてボリビア国境近くまで行くと、まるでアルゼンチン
国内でも、まったく人種まで違うかと思うほどでした。田舎で豪壮な邸宅
を構え、広大な敷地に自家用機の滑走路まである農場など見ると、そ
の貧困の差が良く分かりました。

本田氏の邸宅は田舎でもかなり奥地で、近くでもユーカリの林の中に
あり、真近い所で見てもやっと分かるという感じで、本田氏の奥さんの
実家も側で、英国人時代から、農場の監督や支配人を任されていた家
族ですので、本田氏が居なくても全ての管理が何も問題なく動いていた
と思います。

今では本田氏の奥さんが自分の娘で、その孫も居て家族として側に居
るので、周りの地主達がうらやむほど管理が行き届いていた農場だっ
たと思います。
それと、私も訪ねて改めて本田氏が日本人として信用されているかを
見た感じでした。

測量技師として経験と信用があり、ブエノスの一流大学を出て、言葉も
幼少時代に母親と移住して来たので、スペイン語の訛りも無く、アルゼ
ンチンで育ち体格も、肉とミルクにサラダで生活したのか、日本人離れ
の体格とハンサムな容姿でした。

私がブエノスで彼の幼少時代に同じ学校に通った人から聞いた話でし
たが、母親が戦争で子供一人抱えて未亡人となり、戦後の日本が困窮
時代に生活に困り、アルゼンチンに永住していた兄の勧めもあり、親子
でアルゼンチンに呼び寄せ移住して来たと聞きました。

母親は兄の貿易会社を手伝い、そこで働いていた日本人と再婚して、
本田氏を育てていた様でしたが、本田氏は若い頃から学校の寮生活を
して、家を出ていた様で独立心の強い、スポーツマンだったようです。

英国にも2ヵ年ほど留学したのでキングスイングリッシュを話し、大学時
代から、英国系アルゼンチン人達に知り合いが居て、かなり地方の英国
系地主達の知り合いもあったようでした。
測量技師として、政府の仕事も請け負い働いていたので、その経験と信
用も大きかったと感じます。私も本田氏と知り合ってから、彼の経歴に興
味があったので、ブエノスに仕事で出た時に、知り合いに聞いて彼の経
歴を知る事が出来ました。

それにしても彼が若いながら、この様な農場を持ち、結婚して生活してい
ると考えていました。それは直ぐに本田氏の妻が美人で、子供の時から
英国人農園主の家庭教師に付いて勉強して、農園主の子供達と同じ様
に育てられ、教育され、躾とマナーを学んでいた彼女は、やはり大きな魅
力があったと思います。

本田氏が英国留学で学んだキングス・イングリッシュを話し、英国人家族
とも知縁があった事がワイフとなった彼女と結びつける何かがあったと思
います。
ゴウメの妹とは少し年齢的には上でしたが、同じ年頃の若い女性が少な
い場所では、皆が知り合いであったようでした。

ゴウメの妹の紹介で本田氏の妻と面会する事が出来ましたが、釣りと狩
猟で遊びに来たので、挨拶に寄ったと言って、ブエノスで買い求めた日本
食品などを渡しました。
彼女は丁重に我々を案内してテラスの日陰で、風通しの良いテーブルに
案内すると、紅茶かコーヒーか、マテ茶がいいか聞いて来ました。

彼女の母親が使用人の女性と出てくると挨拶して、焼いたばかりと言う
ケーキを皿に載せてテーブルに飾り、勧めてくれました。
ケーキでしたので紅茶を頼んで、その間に皆で話していましたが、とても
しとやかな彼女でその美貌とマッチした教養を感じていました。

私には何か分かる様な感じがしました。ひっそりとした、こんな田舎の農
場で本田氏が仕事に来てしばらく滞在して測量仕事をしていたならば、
直ぐに彼女に気付き、興味もあったと感じます。
当時の田舎の女性の結婚年齢は16歳過ぎれば成人として、社交界にデ
ビューするお祝いをするので、18歳程度でも幾らでも結婚するカップルを
見ました。
日系の家庭で23歳過ぎても結婚しない女性には、親が走り回って縁談を
捜していたのを覚えています。そして私にも誘いがありましたが、当時の
私はまだまだやりたいことが多くて、とても家庭を持つ事など余裕があり
ませんでした。

本田氏の奥さんとは子供が昼寝から目が覚めたという使用人からの知ら
せまで、弾んでいましたが、奥さんの『また当地に遊びにきたら是非とも主
人が居る時にもう一度訪れて下さい』と言う言葉で別れましたが、帰りに
私にお土産として自家製のワインとチーズを持たせてくれました。
それにしても、本田氏宅を訪ねた事は私が知りたいことを満足させ、納得
したと感じていました。私がサルタ州に居た間にゴウメに誘われてもう一度
訪ねましたが、その時には奥さんが2度目の妊娠をしてお腹が大きく、直
ぐに生まれると話していました。

私と本田氏が馬でゴウメの案内で遠乗りして、当時奥地から牛の群れを
家畜集積所まで追って来るガウチョーのキャンプを見に行きました。
その中には本田氏の牛も100頭ばかり居ると話していましたが、牧童達の
キャンプ生活も見る事が出来ました。

その時訪ねた時が、私がサルタ州からブエノスに引っ越したので、本田氏
との最後でした。その時は本田氏のゲストハウスに1泊いたしましたが、
泊まったその夜に、外のテラスで二人で話した事が今でも思い出されます。

彼は私には兄弟が居ない一人っ子だったので、子供を沢山持って、賑や
かな大きな家庭を築き、この自然に囲まれた平和な里に骨を埋めたいと
言っていました。
私がブエノスに出てからしばらくして、彼が飛行機操縦のライセンスを取り、
川岸の近くに簡易飛行場も建設して、セスナの飛行機をビジネスにも使い、
もっと便利な環境を作って住んでいると聞いた事があります。

次回はサルタ州にいた時代に北米から旅をして流れて来た若者の話を
致します。

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