2014年4月3日木曜日

私の還暦過去帳(504)

南米移民過去帳物語、(9)

葉隠れ移民の物語、

現在、メキシコのカボ、サンルーカスに滞在して、のんびりと魚釣りをして
いますが、この地にも戦前の昔に、日本からの漁師として住んで、メキシ
コ人と結婚して、その名前だけ日本語の三世などの日系人が居ます。
顔かたちはまったく現地人のメキシコ人ですが、名前だけが過去の歴史
を残して居ると感じます。

私が南米の奥地で住んでいた時代は、まだかなり遅れた所がありました。
当時のサルタ州もフォルモッサ州もアルゼンチンの首都、ブエノスアイレス
から、かなり離れて1700km近くは距離がありましたので、情報も流行も、
かなりのんびりした状態で奥地に到着していたと感じます。

当時のアルゼンチン国鉄の汽車も古いイギリス製の客車が沢山使用され
ていた時代でした。汽車ですと2日半ばかり時間が掛かる距離でした。
それと走るスピードも遅く、線路の路盤が酷いので、スピードが出るとか
なり車両が揺れていました。

雨など降る時は線路の路盤からバシャー!と水を跳ねて走っていた事を
見たことがあります。悠長で、南米らしい鉄道でした。

その鉄道も1991年 頃からの民営化により多くの長距離路線・地方路線
は廃止となる一方採算が取れる線路だけが買い取られ民営化されました。

今では見る影も無く落ちぶれた僻地の線路は、草むらに隠れて、過去に
そこに線路が通っていたと言う痕跡が見られました。
私が5年ほど前にアルゼンチン北部を旅した時に、バス路線と平行して、
昔の線路が見える所がありましたが、廃駅となった所では、朽ち果てた貨
車や列車の残骸が哀れに並んでいました。

それと同時に、遠い昔の古き良き時代に、列車に乗車した思い出が湧い
てきた覚えがあります。駅には沢山の物売りが並び、その掛け声や、乗客
の賑やかな動き、手荷物を運ぶ駅員が押す台車のきしみ音、その当時は
鉄道が斜陽と言うけれど、かなりの利用者があった時代でした。

私が当時住んでいたエンバルカションの町にはかなり大きな駅がありまし
た。そこから支線が一本出ていたからかも知れません。薪で走る蒸気機
関車でした。私が駅まブエノスから送られて来た駅留めの荷物を引き取
りに行った時でした。

駅前でトラックを駐車させて、荷物を引き取りに窓口に行き、少し重いの
で、トラックに居た若いインジオの労務者を訛りのあるスペイン語で二度
『こっちに来て手助けしてくれ・・』と呼びかけたら、側に居た中年の男性
が、『佐藤さんの農場で働いている支配人の方ですか』
と聞いてきましたので、お互いに自己紹介して話をするようになりました。

丁度お昼のランチ時間で、『お昼は済みましたか?』と聞くと、『まだです・』
と言う事で支線の発車まで2時間以上もあるという話で、駅前のレストラン
に同席して食事を共にする事になりましたが、ワインのグラスでも傾けな
がら、話を交わしていたのですが、その彼の話に凄く引かれてしまいました。
余りエンバルカション周辺の日本人同士とは交際が無く、ブエノス近郊に
は遠い親戚が居ると話していました。

牧畜と綿の栽培、現金作物として蔬菜栽培も少ししていると話していました。
何か興味があり、その話しぶりもどこと無く落ち着いて、物静かな百姓と
いう感じが滲み出ていました。
その方も私の様に若い日本人が辺鄙な農場で支配人家業を始めた若者
と言う事で少し興味があったと思います。

その夜、農場に帰ってからボスに話すと、珍しい人に会ったものだと言って、
その本田さんと言う方の話をしてくれました。
話を聞くとその方の生き方が、我が城を築き、周囲にはわれ関せずと言う、
まったく農場がその方の領地の様になっていると教えてくれました。
当時のサルタ州の法律で、農場の柵を鉄条網で5段に引いて囲って居る
私有地領土に侵入した人間や、家畜は警告の後、射殺してもお構いなし
と言う法律がありました。

彼の家の周りはとげのあるカラタチの木が植えられ、家を囲み、家はアド
ベの日干し煉瓦で積み上げられ、要塞の様に、まるで日本の土蔵造りの
様にがっしりとした自分の城だという事です。家畜の囲いもカラタチの生垣
の塀で囲まれて、その外には鉄条網の柵が見事に並んで囲んでいると言
うので、誰が見ても、昔の小さな荘園地主の城と感じると話していました。

彼の領地の中には小川も流れ、その川の近くには、かなりの蔬菜栽培地
も作られていると言う事でしたが、その中には使用人達の売店もあり、近
所に住む住民も利用できる店であった様です。
私はその詳しい話を聞くと、一度訪ねてみたいと言う欲望が出て来ました。

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム