2014年3月18日火曜日

私の還暦過去帳(499)

南米移民過去帳物語、(4)
 
琉球泡盛女の物語、

横浜から船出して、2等船客の個室での船旅は二人には楽しい新婚旅行
の続きだったと感じられます。多くの南米移住者も乗船して居た当時の船
旅は甲板で運動会もあり、ゲーム大会なども開催されてブエノスまで当時
の長い航海を過ごしていた様でした。

ブラジルで下船する移住者達がサントス港で下船して、僅かな数のブエノ
スまでの乗客と共にブエノスの港に到着すると、ハズバンドの家族達が皆
で港まで出迎えてくれたようでした。

マリオと言う名前の彼女の夫は、自宅で歓迎会と結婚披露宴を兼ねたお
祝いをすると、自分が開業予定のブエノス市内にある洗濯屋に、彼女と
住まいを構えて開店の準備を始めていました。

彼女は直ぐにスペイン語を習い始めて、家事の合間には洗濯屋のビジ
ネスを親元の店で学んでいた様でした。親達が考えていた様に、そこの
洗濯屋は大型のクリニング機械は設置しなくて親元のドライクリニング
機械で洗い、彼女達の店ではアイロンとプレスだけ行い、お客の希望で
ボタン修理や繕い物などで稼いでいたと話していました。

若い利発な彼女は短期間にビジネス会話程度のスペイン語をマスター
して、その愛想と誰にでも好かれる対応で直ぐに新規開店ながら固定
客が付いて順調な滑り出しが出来た様でした。

その店の営業時間もアルゼンチン風に週末はきちんと店を閉め、夕方
には予約客以外は店を閉店して生活も楽しめる時間もあり、彼女がそ
の様なアルゼンチン式の生活にも慣れる事も早かった様でした。

ブエノス市内は沖縄県人の方々が洗濯屋組合を作り、親戚兄弟も多く
て県人会も盛んで、彼女には何も寂しさなど無かったと話していました。

しかし、彼女のハズバンドが体調を崩して病院で診察を受けるとガンが
発見され、それから彼女の人生が大きく変化して行った様でした。
その時はアルゼンチンに来て3年目だったと言う事で、そろそろビジネ
スも完全に軌道に乗り、お手伝いも雇える余裕も出来たので、子供を
産むという話をしていた矢先だったと言っていました。

人生が狂い始めると次々に不幸が重なり、彼女の夫のガンが移転して
膵臓にも広がりあと3ヶ月と言う時に彼女は夫のマリオの子を妊娠して、
彼の子供を残そうとしたようでした。

彼女の主人が倒れてから、実家から手助けの人が通って来ていたが、
どうしても時間的な無理と家事も重なり、夫が入院している病院通いも
彼女には大きな負担だった様でした。彼女はその当時、妊娠してその
喜びもつかの間、家事と仕事と夫の看護で疲れていたのか、流産して、
寝込んでしまったと話していました。

店は実家から親戚の人が通い、一人雇用して店は開いていた様でし
た。しかし運命の日が来ると彼女の夫のマリオは、彼女が嘆き悲しむ
のを感じながら妻に手をとられて、家族達の見守る中で息を引き取っ
たと言う事です。

その葬儀も終わり、家族会議が開かれて、その後の彼女の生きて行
く身の振り方を話し合った様ですが、彼女には亡くなった夫が居ない
店など、とても続けて行く気力もなく、しばらくは放心状態でいた様で
した。
店を開いてビジネスをしていたので、子供も生まれてくる事を予想し
て、かなりの生命保険が掛けられていたので、その保険金を手にす
ると、全ての借財を払い、両親にも葬式など世話になった物も払い、
しばらくは一度もアルゼンチン国内など旅行して歩いた事もないの
で、僅かな荷物を手に旅に出たと話していました。

異国に移住して来て、一番の悲劇は、愛する生活の支えとなるご主
人を亡くす事は、それは気が狂うほど、人生の悲劇だと思います。
私も同じ様なケースを、パラグワイとブラジルで知っていますが、そ
の二人の女性は帰国して日本に帰って行きました。

しかし旅に出た事は彼女の運命の歯車が狂い始めた日でもあります。

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