私の還暦過去帳(498)
南米移民過去帳物語、(3)
琉球泡盛女の物語、
私が南米各地で出会った方々の中で、女性がその度胸と忍耐と生きる
という本能の様なものを持っている方々に会いましたが、それは当時の
日本の世相がその様な女性を作り上げたと感じます。
ある女性は戦時中に空襲に家を焼き出され、幼い乳飲み子を抱えて両
親もいなく,親戚も受け入れてくれなく状態で、親切な人に田舎に疎開し
て来た小さな軍需工場の賄い婦として、寮の台所を任されていた様でした。
終戦になり、そこの工場が閉鎖された時に、ご主人は出征した南太平洋
の島で戦死していて、工場の幹部だった人が、アルゼンチンに居る兄弟
の後添えとして紹介して、言葉も分からず、誰も知り合いも、血の繋がる
人も居ないブエノスに嫁いで来ていた様な人でした。
その方が、私の人生はどうであれ、この娘には豊かな人生を歩かせたい
と願って来たと話していた方がいました。
人生の生き道には沢山のそれぞれの話がありますが、沖縄から数奇な
運命を受け入れてブエノスに来て、そこで酒場を開いていた彼女にも私
は男として敬意を持っていました。
彼女の生き方は時代に流されず、今という現実の生活を見詰めて、それ
を受け入れて将来の道筋を探して決めていたと感じます。
沖縄でも朝鮮戦争の影響は大きく、本土が特需ブームとして戦災復興か
らの急激なブームの中にあるときに、沖縄の基地周辺には米兵相手の
歓楽街が出来、彼女もそこに小さなバーを開いて稼ぎまくった様でした。
彼女の才覚と若さと男を引き寄せる魅力は、英語を話せる事にも大きな
力があった様でした。
親戚や身内の若い女性達を集め、下働きに身内の若い男をバーテンダ
ーとして、用心棒として置いていた様でしたが、かなりの実入りでその当
時の稼ぎとすれば、かなりの金額を毎月彼女は懐に入れていた様でした。
その頃、ハワイから422部隊で欧州戦線に出征して戦死していた婚約者
の家族が沖縄を訪問して、彼女を訪ねて来て、前に彼女が婚約者の墓
前にお花と香典を送っていたので、そのお礼と、戦死した婚約者が結婚
資金として貯めていた預金があり、遺言で彼女にそれが渡されて、婚約
者の詳しいイタリア戦線で戦死した状況も分かったようでした。
彼女は今まで儲けた資金とその婚約者が遺言で残した金を足して、アパ
ートを自宅近くの畑を潰して建設して両親と家族が生活に困らない様な
基礎を作り上げていた様でした。
彼女の才覚で終戦から余りしない間に生活の基礎を作ってしまった様で
した。
その頃、戦前の南米アルゼンチンに移住していた親戚や家族の呼び寄
せで、ブエノスに移住した家族や独り者がいた様でしたが、その様な一人
の独身男と隣町の親戚の仲介で見合いをして、その男性が滞在中に意
気投合して夢中になったと彼女が話していました。
当時の彼女はアメリカのファッションで飾り、英語も話してアメリカ人の恋
人のような男も居たようですが、アルゼンチンから来ていた独身男は教
養もあり、女性に対してのマナーも何か洗練されたヨーロッパ的な感じが
あった様でした。
酒もワインを食事に少したしなむ程度のもので、当時の沖縄の土臭い、
特需景気に流されたキザな格好の沖縄男性とはまったく違ったタイプだ
ったようでした。
まじめな男性で、ブエノスでは沖縄人達が多く営業していた洗濯屋を親
から独立して開く様に準備していた様で、そのビジネスを開くにあたり、
働き者の沖縄女性を嫁にと探しに来ていた様でした。同郷の親戚を介し
て知り合い、彼女の運命の歯車が南米へと動き出した様でした。
彼女はその金城マリオという男性から正式に求婚された時に、過去の経
歴をすべて男性経歴も含めて洗いざらい話したという事でしたが、その男
は動じる事無く、私にも同じ様な過去があるからと、直ぐに親戚を介して
結納を持って来ると、彼女の指に婚約指輪も飾ってくれた様でした。
両親もそれには安心して、他の子供も大きくなり、アパートも作ってバー
も持ち生活にも困ると言う事もない状態で、皆に見守られて結婚式を挙げ、
船で鹿児島に上陸して日本本土を二人で新婚旅行して大阪、京都や奈良
までも歩き、横浜から二人でアルゼンチンに旅立って行ったと言う事でした。
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