私の還暦過去帳(501)
南米移民過去帳物語、(6)
琉球泡盛女の物語、
私が彼女と知り合ったのは友人に誘われて、彼女が開いたバーに行って
知り合いました。
そこの雰囲気は日本的で女性の接待などが、日本と同じく心休まる所で
したが、何よりも日本語で駄洒落を言って笑いこけているのが楽しい場所
でした。
当時の安酒場などは注文した酒と現金がカウンターの上で交換でグラス
が出てくるものでした。それと当時にしては殆どアルゼンチン中を捜しても
同じ様な日本式バーは無かったと思います。
我々とそこを知っていた友人達の若い男には興味がある酒場でした。
直ぐにわずかな間に、付き合いの友人仲間では皆が知って、誘って飲み
に出かけていました。時々、日本の貨物船が入港すると何処から聞きつ
けたか、日本船から船員達が飲みに来ていました。
当時の船員達は女性と遊ぶ時はブラジルのサントスやリオなど、時には
レシーフエなどに停泊する時に遊んでいたと話していました。
当時のレシーフェの港には日本の大洋魚業などのマグロ漁船の基地があ
りましたので、1年に一回の乗船交代で日本に帰国する船員の中には現
地妻もいた人が居ました。
昔の事です、航空機の運賃など田舎で小さな家を買える値段だったと聞
いていました。
当時はサンパウロからべレム経由でフロリダに飛び、ニユーヨークから、
アラスカのアンカレッジで給油して羽田まで飛んでいた悠長な時代でした。
船員交代はその当時は船旅で日本まで帰国していました。
遠く離れた地球の裏側までの距離は船旅で計算すると平均、40日から
45日は掛ってブエノスまで貨物船が日本から来ていましたが、あちこち
に寄港するからです。
私達も何度も船員さん達と同席して飲んだことがありましたが、当時の
日本食や雑貨などの小物は全部貨物船の船員達のこずかい稼ぎで、荷
下しされて買うことが出来ていました。
彼女は良く日本船の入港を調べていましたので、それと船員達が次は
何月にブエノスに来るかと言う予定を残していたので、私も貨物船まで
食料品や雑貨の小物などを買いに出かけていました。
当時、タバコ缶のピースなどは貴重なギフトでした。
私もボリビア国境、サルタ州の農場にお土産で日本酒や日本の缶詰な
ど、タバコ缶のピースなども買って持って帰り、大変喜ばれた思い出が
あります。特に佃煮や樽から出したばかりの沢庵などは特に喜ばれた
思い出があります。
彼女の酒場が繁盛していたのはその様な中継地点の役割もしていたと
思います。彼女が港近くに開いたバーは、直ぐに多くの人から知られて、
飲みに立ち寄る人も出て来ました。
彼女の才覚で気軽に話が出来て飲めるという、肩の力を抜いて来れる
酒場として人気がありました。
当時は三人の日本人女性がいましたが、それぞれ個性があり、話も面
白くて、田舎暮らしで日本語も滅多に話せない環境から出てくるので、
息抜きとしては最高だったと思います。
当時の移住事業団の世話でアルゼンチンに滞在していた花卉実習生
なども来ていました。彼等も仕事をしていたのは、ブエノス郊外の田舎で
すから、店がブエノスの港近い繁華街の外れでしたので、買い物などの
ついでに立ち寄り、飲みに来ていたと思います。
特に週末などは混んでいて、カウンターの横で立って話しながらグラス
に酒を注いで貰っていました。
知り合いなどと久しぶりに出会うと、飲んだ後に遅い食事にレストランな
どに皆で出かけていました。
しかし、不思議な事に何度も訪れていた酒場ですが、45年ほど経て、5
年ほど前にブエノスを訪ねた時に側を通ったのですが、そこに確かに有
ったと言う場所は見つかりませんでした。
通りの模様も替わり、店も整理され、大きなショーウインドーに変化して
いる店は、小奇麗な事務所の感じでしたが、自分でここだー!と言う場
所は探すのには無理でした。
年月を経て、過ぎた月日の速さと、昔の友や知り合いなど、全てが時代
を走り抜けて行ったと思います。何処からか聞こえて来たバンドネオン
のタンゴの曲は同じメロデーに聞こえていました。
その時、南半球の8月の冬空に港から船の汽笛が遠くで聞こえたのは
郷愁を感じました。
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