2014年3月25日火曜日

私の還暦過去帳(502)

南米移民過去帳物語、(7)
 
琉球泡盛女の物語、


戦前の昔ですが、ブエノス周囲でバーやカフェー屋を開いた日本人達が
居ましたが、彼等がまずその下地に、その様な所で働いていて、資金を
貯めて店を開いた人が多かったと聞きましたが、やはり使用人と、その
店のオーナーとしては大きな差があったと思います。

私もカフェー屋を開いていた人に聞きましたが、一番は長時間立ちずくめ
の労働は、かなり体力的にも必要だったと感じます。

野菜市場に近い所で24時間の開店で、朝の3時にはかなりの人が押し
寄せて来るので、殆ど市場が引けて、暇になる9時過ぎまで、座る事も出
来ない仕事だった様でした。

夕方には近郊の農家が野菜類をトラックで持ち込んで、遅い夕食などを
出すので、殆ど寝るのは2時間から3時間程度の仮眠だった様でした。
昼間にランチ時間が過ぎて、少し昼寝をしても、体力的には直ぐに限界に
来て、11時過ぎからの営業はイタリア人に請負で任せたと話していました。

二人の若いイタリア人兄弟が5時までの営業を請負い、レジも分けて任
せて居たようでしたが、しばらくしてその二人が何処かのイタリア人金持ち
のパトロンを捜して来て、資金を出して貰い、その店をかなり良い金額で
買いたいと来たので、売り渡したと言う事でした。

その資金を元に、郊外で親類が開いていた切花の温室業を学んで、自
分も始めたと話していました。

その人が話していたのですが、戦前の昔はタクシーの運転手、大きな屋
敷の使用人なども多かったと聞きました。でも戦前のカフェー屋は酒も売
れば食事も出し、ビリヤードなどのゲームも置いていたので、長時間経営
は白人の様に体力的な差もあり、殆どは幾らか儲かると、使用人や買い
たいと言う人にビジネスを譲っていたと感じます。

殆どが現金で代金を受け取るカフェー屋は魅力的なビジネスだったと感
じます。
当時の彼女の酒場も賑やかな営業でしたが、午前2時には遅くとも閉め
て営業を終っていました。アルゼンチン時間でしたらまだ早い時間だった
と思いますが、我々日本人には丁度切りの良い時間だと思います。

私がアルゼンチン生活を始めた時に一番大きな違和感は昼寝の習慣で
した。夏の暑い時期には昼寝も良いのですが、平均して一年中のランチ
後の昼寝です。2時間程度の昼寝ですから、夜の時間が大きくずれて
夕食などは9時頃と言う感じでした。

当時の彼女に聞いたのですが、『私の昼寝は本当の睡眠時間です』とか
話していました。当時の彼女の生活は、仕事が終わりバーを閉めて帰宅
する時は、同じ店で働いている女性達とタクシーに相乗りして帰宅してい
た様でした。
帰宅してシャワーを浴びて軽く夜食を食べてから、朝の10時頃までは寝
ていたと言うことでした。近所の街角で開かれる朝市の時は早起きして
朝市が閉まる前に行き、そこで新鮮な日常生活品を買い込んでいたと
話していました。
当時のブエノスでは曜日ごとに、決まった通りの道を時間で閉鎖して朝市
を開いていました。どことなく私が感じたのはヨーロッパの習慣が持ち込
まれていたと感じます。

アルゼンチンに住むと直ぐにアルゼンチン時間で動くようになります。
私も周りの人に言われた事は、昼寝時間の訪問や、予約を取る事は失礼
に当たると聞かされていました。

私が一度だけ朝市で彼女と会った事がありますが、私の知り合いの友人
が、彼女の家に近い所で下宿していたので、その友人を訪ねて行き、遅く
なり友人宅のソファーで泊まり、朝起きて帰る途中でしたが、珍しいので
朝市を歩いて見ていました。

そこに彼女が一人で買い物袋を提げて品定めをしているのに偶然に出
会い、少し買い物に付き合い、近くのカフェー屋で、カフェー・コン・レイッ
チエを注文して、焼きたてのクロワッサンを食べた思い出があります。

その当時は、彼女もアルゼンチン生活に首まで浸っていると話していまし
たが、私もサルタ州の農場支配人の仕事が忙しくて、ブエノスに出て来て
も短い滞在で終わる事が多く、ブエノスに出たら、忙しい時でも夜遅く、
ふらりと飲みに出ていました。

これまで多くの人々とすれ違って人生を歩いて来たのですが、ふと・・、
過去を振り返ると全てが遠い昔に消えて行った事だと実感いたします。

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