2014年8月29日金曜日

私の還暦過去帳(555)

 
ヒスパニックと新車購入、

アメリカでは地域により、かなりのヒスパニック系が住んでい
ますが、彼等も同じスペイン語を話すのですが、人種的には
かなり差があります。
メキシコ人でも純粋のスペイン系の祖先を引いている家族は、
白人と同じ感じですが、昔に原住民と混血したメキシコ人など
はかなり性格的にも差があり、ユカタン半島辺りから来た人は、
マヤ、アスティカの現地語を話す人も多くいます。

彼等に共通する事は、アメリカに移住して来て、アメリカーン
ドリームを追って居ることは間違いありません。
グアテマラや、ホンジュラス、エルサルバドルなどの中米から
来た人達も、母国ではまず買う事が無理な、アメ車の大型車を
少し懐が豊かになると購入しています。
 
それが中古車から、段々と登って行き、アパートなどに住んで
いる時は中古車でも、自宅などを手に入れて、家族で働き、余
裕が出来れば、そのステイタスシンボルとして、新車の大型車
を購入して、その家の前に飾っていると言う感じです。
 
私もアメリカに住んでかれこれ40年近く見ていますので、何人
かのヒスパニック系が、豊かになり家を買い、家族を増やして
新車を購入して、それを自慢して見せてくれた事があります。
 
私の住んでいる地域から車で30分程度の所にオークランドと
言う場所がありますが、そこの地域で、ヒスパニック系と黒人系
が多く住んでいる地域がありますが、黒人系が多く住む地域は
彼等が使用する車の特徴がある車が見られます。
 
古いアメ車を改造して、ごく細のタイヤを取り付け、バンパー
などはピカピカのクロームメッキの輝く物と取り替えて、派手な
真紅のメタリックカラーなどに塗装して走っているのが見られ
ますが、ドンドンと、凄いビートのある低音のリズムで、ラップ
ミユージックなどを響かせているのを聞くと、アメリカは自由の
国だと感じます。
日本ではその様にド派手に改装した車は公道は走れませんが、
高速道路などで、そんな車が追い越して行くと、ドキリと致し
ます。
彼等が好む車も特徴があり、ベンツやBMW、少し前はアメ車の
高級車で、キャデラックの大型車などに乗車するのを多く見ま
したが、時代が代われば、車も代わり変化して来たと思います。
 
私のワイフは仕事をしていたので、通勤にも使い、家族にも使用
していたので、トヨタやホンダの新車を今まで乗車していますが、
それからすると、私などは昔からトラックばかりで、未だに小型の
トヨタ・トラックを使用していますが、そろそろ14年過ぎて、
16万kmは走っていますが、私が運転できない年齢までは、この
まま使えて、元気に走ってくれると思います

2014年8月24日日曜日

私の還暦過去帳(554)


シニアと性

昔から還暦過ぎても、腰から下は別物とか申します。
女性などは灰になるまでは現役とか言われますが、これも昔か
らの言い伝えですから、確かにその様な事は事実関係がある
と感じます。
特に現在のご時勢では、バイアグラ離婚などと言う事例も多く
出て来たと新聞に出ていましたが、60歳過ぎてバイアグラの
薬瓶とカバンだけ持って若い女に走るシニア層が出現した事は
やはりED治療薬として今では世間一般に3種類の代表的な薬が
製造され、またバイアグラなどは特許期間が切れて、コピー製
品が自由に製造販売される様になり、出始めの価格からしたら
10分の1程度に値下がりして、大衆化もここまで来ると、1錠
150円もしない値段となれば、これは世界に普及するのはあた
り前だと感じます。
時代が変われば品変わるとか言いますが、まことに本当の話だと
感じます。子供の頃に、田舎では焼酎の瓶にマムシがとぐろを巻
て浮かんでいた様な事を見ましたが、近所の爺様が、『あれは
強精剤だ・・』とか話していましたが、それからしたら随分と
変化したと感じます。
ブラジルに行った時に、アマゾン原産のガラナとか言う飲み物を
飲んだ事がありますが、これも強壮剤だとかで、常用していた人
を見ました。
日本でも昔から本当に色々な物が、あれに効くとかで、利用されて
いますが、それにしてもご苦労なお話だと思います。
徳川家康などは回春剤として、側女に15歳前後の若い女性をは
べらせて側女を楽しんでいたとか・・、それにしてもそんな事を
出来るのは限られた者の特権だったかも知れません。
江戸時代から小金があり隠居爺さん辺りが若い妾と住んでいたな
どと言うお話は落語にまでなっていますが、時代変われば、話まで
ガラリと変化する事は時代の流れだと思います。

それにしても日本人の寿命が延びて、男80歳、女性は86歳近い
年齢まで長生きするのですから、先日もインターネットで読んだ、
老人ホームの青春花盛りとか言う話では、70歳過ぎても彼女の
取り合いとか、30代に戻って凄い話などがあるという事ですが、
これもバイアグラ余談として、今では驚きも無く聞かれる話しだと
感じます。
でも最近ですが私の近くの病院で、55歳の女性が高齢出産した
とか新聞で出ていました。これを聞いた時は口をあんぐりと開け
て、びっくり状態で聞いていました。
私が子供の頃、かれこれ60年近く前ですが、その頃では60歳ぐ
らいでポロポロと亡くなる方がいましたが、それは終戦直後の食
料や物資が無い時代です、特効薬の抗生物質なども無かった
時代ですから,大きな病気などでは殆どが亡くなるケースでした。
それにしても時代は遠くなり、性談議も大きく変化したと実感いた
します。

2014年8月21日木曜日

私の還暦過去帳(553)

 
後に続くを信ず
 
先の大戦で多くの先人が「後に続くを信ず」と言い遺して死んでいってか
ら70年が経とうとしています。英霊の方々は現在の日本を見て、どう思わ
れるのでしょうか。

数年前、90歳の戦争未亡人が歌を詠みました。

「かくまでに 醜き国に なりたれば 捧げし人の ただに惜しまる」。
これは英霊の方々の想いにも通じるものではないでしょうか。このままの
日本では申し訳がありません。
8月15日が今年も過ぎていきます、英霊の存在と向き合うことで、わが国
の在り方、私たち一人一人の日本人としての生き方を見つめ直そうではあ
りませんか?
今の日本では祖国の為に戦場で散り、また負傷して多くの苦しみを味わった
方々を尊敬するのではなく、戦争協力者などと卑下する様な発言をして、
隣国の反日暴言に同調し、日本の史観も捻じ曲げ、歴史観の自虐的な解釈
でのみ日本を見ると言う人達が居ます。
 
国歌、国旗に対しても尊厳も敬意もなく、日本国に対し自虐史観で見た解釈
の見方で物言う方が、日本は・・!と言う決め付けの、限られた思考の範囲
での価値観と感じます。
他国で生活して住むという事は、日本をじっくりと見直す事にもなります。
私も50年前に海の無いパラグワイ国に移住して、そこを振り出しにして、
アルゼンチン、アメリカと住み、価値観の比較対象とした目を持つ事が出来
ましたが、アルゼンチンに住んでいた時代に、アルゼンチンを食い物にした
人達が住んでいたのも知りました。
 
国家感の偏屈な移住者達です、住む土地を与えられ、生活の糧を得て、家
族を養い、豊かな人生を営みながら、心は全く移民してきた国に向いて、そ
の代弁と行動をしている様な人を見ました。
 
アルゼンチンの昔の豊かさは、その様な国家感に無い人達に食い物にされ
たと感じることもありました。英国から戦前の昔に大きな資本を持って移住
して来た者は大牧場を開き、広大な小麦畑を作り、鉄道を敷設して、銀行を
設立し、国家の富をすくい取り、家族とロンドンの高級邸宅に住み、大きな
資金は全てロンドンの金融機関で活用され、アルゼンチンの豊かな国家と
言う土台を食い潰されていったと感じます。
 
50年前のブエノスで、背広を着ていなければ入れないカフェーもありました。
支配人が、『この店は紳士が来る店ですから・・』と断られた事もありました。
今では隣国から流入した難民的な人達が多く目に付く町に変化しています。
大きく様変わりした要因は、アルゼンチン国家と言う精神的骨格にある、
愛国的な要因が余りなかったからだと感じます。移民国家では無い日本で
は、祖国日本を大和民族と言う民族で強くまとまり、国を守り、盛り立てて
行く気概がもっと必要だと感じます。
誰かが日本がアルゼンチン的変革に陥る事がない様に注意しなければな
らないと話していた事が気になります。
 
 

2014年8月18日月曜日

私の還暦過去帳(552)

 
 
戦争花嫁とか言う言葉があります。

この戦後に新しく作られた言葉ですが、終戦と同時に連合国の
将兵達が日本に進駐して来ました。
そこで各地の駐留軍キャンプの基地や、周辺の歓楽街などの、
施設に来ていた連合国将兵達と出会い、恋愛して、アメリカや
カナダ、オーストラリアなど、遠くは英国まで結婚して行った
方々が居ます。
その後、朝鮮戦争や、ベトナム戦争などでも、連合国兵士とし
て、アメリカ兵士として日本に滞在して、または任務で駐留し
ていた兵士達と知り合い、恋が芽生えて結婚して、兵士達の母
国に同伴されて行きました。
私が最初にお会いして話した事は、1964年の横浜から出航
して、ロサンゼルス経由で南米にパナマ運河を通過して行く移
民船に同乗されていた人でした。
そのご婦人は日本に居る両親の健康問題で、見舞いに日本に
帰国していた様でした。
その方と船上の娯楽室でお茶でも飲みながら話したのですが、
カリフォルニア州でも多くのGIと結婚した女性が軍港のサンデ
イエゴなどやロサンゼルスにも居ると話していました。
彼女が教えてくれた事で、一番気になって居た事が分りました。
中学生ぐらいの男の子供が、かなりガキ大将で移住者達の子供
などデッキゴルフなどの遊び場で、いじめていたのを見ていたから
でした。
彼女が教えてくれた事は、両親が離婚して母親は日本に帰国して
父親がその後再婚した後妻とで住んでいたようですが、夏休みの
2ヶ月は日本に居る母親を訪ねて行くと聞きました。
情緒が不安定で、なんとなく粗暴な感じを受けたのですが、その
話してくれた女性も、自分の子供を一人連れていましたが、その女
の子はおとなしく、いつも涼しい子供達が居る遊戯室で同じ年齢の
子供達と遊んでいました。

彼女が話していた事は、離婚が多くて、かなり可愛そうな子供達が
居ると言っていました。あの子も親の犠牲者だと話していました
が、今でもその中学生ぐらいで、体格の良い混血の男の子を思い
出します。
ロサンゼルスに船が到着してアメリカで下船する方々が別れて、
タラップを降りて行く時に、迎えに来ている人と抱き合いハグを
して喜んでいる姿を見ると何かホッとした心になりました。

私もアメリカに移住して来て、40年近い歳月を過ごしましたが、
これまでに幾多のその様な方々に出会いましたが、一番に驚いた
のは、戦前の日本にロシア革命の時に家族で亡命して来て、横浜
に住んでいたと言う白系ロシア人でしたが、サンフランシスコで
会った人ですが、日本語はペラペラで、読み書きも出来る人でし
たが、戦後、横浜に駐留して来たGIの兵士と結婚して、移住して
来た方でした。
中年近い年齢でしたが、さらりと私も戦争花嫁よ・・、と話して、
笑っていました。
私もその方と話して、その方の運命の変遷に驚いていました。

アメリカでは結婚した男女の5人の3人までは年齢的に55歳まで
離婚すると言われていますが、不動産管理で訪れたレントハウスの
テナントが日本人の母親と娘三人の母子家庭でした。
父親がベトナム戦争当時、フイリッピンに駐留していた時に現地の
女性と出来てしまい、離婚したと話していました。

男手が無いので、修理が出来ないと言う事で、簡単な大工仕事をし
て帰りましたが、娘達3人がしっかりして手助けしてくれるので、心配
はないと話していました。帰りに『貴方の奥さんは日本人?』と
聞かれたので、『美味しい味噌汁を作る日本人です』と言うと、
ニッコリ笑って『それは良かったですね・・、』と言ってくれました。

アメリカ人の白人の奥さんと結婚して、苦労している男性も見ましたが、
しかし、結婚までの物語や経歴があるのかも知りませんが、語学が達
者な男性でしたが、奥さんは納豆もサンマの塩焼きも食べる、日本食
大好きな女性だと言う事でしたが、体格が良くて、ご主人の倍はある
女性で日本で言う通称、ノミの夫婦でした。
こんなカップルは戦争花嫁とは言いませんが、私が勝手に付けた名前
ですが、『戦争花婿』と言う名前でした。
 
アメリカに住んでいると色々な方々にお会いしますが、近頃は白人の
ご主人に先立たれて、一人でシニア・アパートに住んでいる人や、帰国
して余生は日本に居る兄弟達の近くに住むという方々もいますが、そん
な方は子供が居ない人が多いと感じます。
 
戦後60年も経て、永い月日に流されてたどり着いた行き先が、生まれ育
った故郷である人も少なくはありません。

2014年8月15日金曜日

私の還暦過去帳(551)

 
日本がアメリカ政府に出した69年前の抗議文、
 
1945年8月6日、広島に原爆が投下されて、4日後に
時の日本政府(鈴木貫太郎内閣)がアメリカ政府に対して、
中立国、スイス政府経由で広島原爆に対して抗議文を発信
した事が記録されている。

これに対してアメリカ政府は全く日本政府の抗議文を黙殺した。

この抗議文は歴史的な文章として、日本国民と世界中に知ら
されて良いと感じる抗議電文である。
(抗議電文はカタカナ書きで、句読点が無い)
抗議電文は長文なので、以下は肝心な要点を記する。

(前略)
そもそも交戦者は害敵手段に無制限の権利を有するものではないこと、
および、不必要な苦痛を与えるような兵器、投射物その他の物質を使用
するべかざることは、戦時国際法の根本原理であって、それぞれ陸戦の
法規慣例に関する条約付属書、陸戦の法規慣例に関する規則第22条、
および第23条(ホ)号に明定されているところである。

米国政府は今次世界の戦乱勃発以来、再三にわたり毒ガスないし、
その他の非人道的な戦争方法の使用は文明社会の興論によって不法とされ
て居るとして、相手国がこれを使用せざる限り使用することはなかるべき
旨、声明しているが、米国が今回使用した本件爆弾は、その性能の無差別
かつ残虐性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁止されて
いる毒ガスその他の兵器をはるかに凌駕している。
(中略)
『帝国政府は厳に自らの名において且つまた、全人類および文明のの名に
おいて、米国政府を糾弾すると共に、即時掛かる非人道的兵器の使用を
放棄すべきことを厳重に要求する。』
アメリカ政府に対しての抗議電文はこう結んでる。

私は考えるが、戦争と言う戦い、紛争と言う戦いは敵も味方も無い・・・、
『この世に憎い物を殺せ、抹殺せよ、皆殺しにする、』という観念しか持
たない人間性欠如の人間、同じ地球の共同体の仲間達は何と言う愚かな
動物かと言う事を反省しなければ、人種、宗教、国家感、資源、領土とい
う些細な事で戦いという犠牲の生贄を求める。何と言う人類か!

2014年8月14日木曜日

私の還暦過去帳(550)


私がアメリカに移住して来たのには、二つ理由があります。

一つは子供の将来を考えて、40年ほど前、学校運営が当時、日教組
に乗っ取られていたのを見て決断したのと、それと私の夢でした。

ワイフと結婚前までは百姓で農業を生業と致しておりましたが、南米
から日本に一時帰国した時、次はアフリカのモロッコで茶の試験栽培
で海外青年開発隊から、2ヵ年契約で派遣される予定でした。
私の考えでは2ヵ年などではお茶の試験栽培など出来ないので、最低は
4年ばかり働いてから何か成果をだして、それからまた南米で農場で
も拓く考えでした。
その直ぐ直前に今のワイフと出会いましたが、ワイフは農業の農の字も
知らない、銀座4丁目でビジネススーツでハイヒールにタイトスカート
姿で、社長秘書の仕事をしていました。

英文タイプもパチパチと打てる、まったく私と正反対の仕事でした。
人曰く、『何であんな田吾作の、かっぺと出来たか・・』と言われ
ましたが、『たて喰う虫も好き好き・・』とかで、私などは帰国した
時は、お守りの5円玉1個で実家に戻り、文無しでした。

そんな私に人生を賭けてくれたワイフには、今でも感謝の気持ちを
持っています。
料理も上手で、綺麗好きの掃除好きで、私などもったいない感じで
した。そんなワイフに出会い、私の南米行きの夢と行動計画と天秤に
かけて見たら、私も常識が幾らかはありますので、自分の人生で、
このチャンスを逃がせば、二度と同じ様な女性に巡り会えることは無
いと考えて、心決まれば行動は早い私ですから、ワイフの前で、若い
頃の懺悔もして、悔いてお許しも頂きまして結婚の運びとなりました。

それからのスタートですが、ワイフが全部家財道具も持っていたので
私はトランク一つで生活を始めていましたが、新婚旅行に行く前に借
りていたアパートに戻り、ちゃぶ台の上に並べた有金が2万円もあり
ませんでした。
味噌醤油、米などは全部買い置きがありましたので、食べるのには不
自由は致しませんでした。
そんな事で今では、農業は裏庭百姓だけですが、この先こんな女性と
巡り合えるかと考えると、全てを捨てて結婚いたしましたが、移住す
る夢は捨てがたく、子供もハネムーンベービーで生まれて、その頃の
日本の教育環境は、日教組と言う政治団体が牛耳る学校教育でした。

私の同級生も、教職課程をとり、先生に就職していた仲間も、その事
に不安と疑問を感じていた様でした。

私は前の海外生活で体感していた教育情勢を考えて、再度移住を考え、
南北アメリカを視察して歩いて感じたことは、ワイフも納得が出来て、
移住先がアメリカでは心配ないと感じたことが、アメリカ移住の第一
の動機でした。

40年も前は投資家ビザは1万ドル投資すればビザが貰えた時代です。
アメリカでは最初はレストラン家業を仲間で始めたのですが、直ぐに
家族の生活を考えて独立して、好きな庭園業と不動産管理の仕事に変え
て仕事を始めました。これで余裕ある仕事と、家族団らんの規則正しい
生活をおくれる事になり、充実したアメリカ生活をこれまで過ごす事が
出来た要因です。

サンフランシスコの郊外に、かれこれ40年前は格安で住宅が購入でき
ましたので、私の心情として、寝に帰れる家と食料があれば生きて行ける
と考えていましたので、持ち金を失くさない前に、有り金をはたいて、
家族が住める家を購入いたしました。

郊外の古い家は土地も広く、250坪近い面積でしたので、早速、野菜類
などを子供達に安全に食べさせる為に栽培いたしました。

それも住宅はあれども持ち金は無いという出発でしたが、住み付いた場所
が、特に住んだ辺りが40年間に2度も全米1の発展する地域に指名される
ぐらいの土地ブームや住宅高騰を受けて、仕事も順調に伸びて、多くの
顧客も掴み、平凡ながらも満ち足りた生活を送る事が出来て、ここまで
ワイフや子供達と豊かな人生を歩む事が出来たと思います。

これも40年ほど前に思い切って自分が行動に移して、夢の成熟に賭けた
事が良かったと感じます。

2014年8月10日日曜日

私の還暦過去帳(549)

 
 
濃紺の空の色、
 
先週です、8月に雨が降りましたが、大した雨量ではありません
が、当地では8月に雨が降ることは、私の記憶ではアメリカに来
て初めてでした。
これまでに7月に、にわか雨が降った事は記憶にあります。
それは父親が27年前にアメリカに訪ねて来た時に、心筋梗塞で
亡くなり、その通夜の夜に降ったので良く覚えていますが、8月
は一度もありません。
それぐらい雨が降らないのですが、近頃の天気は異常気象の影響
か雨季の冬のシーズンには降らなくて、今頃に山沿いでは降って
いるようです。
カリフォルニアの天気もこれまで40年と言う期間に見て、体験
した気象現象も、今と比較すれば大きな違いが出てきています。
 
温度上昇がもたらす異常気象は世界規模だと感じます。
一日に世界で飛び回る飛行機の数も凄いものだと感じますが、排出
される排気ガスも温暖化の一因となっていると感じます。
 
最初にロサンゼルスに来たのが、1964年の夏でしたが、その当
時と40年前と今を比較すると良くアメリカ西海岸の変わり様が分
る気が致します。
1964年のロス近郊の海岸で見た青空と、ペルーのチバイ峡谷で、
4920mの標高の峠から見上げた濃紺の空の色と重なる気がいた
します。
天国に近いと感じさせる空の色は、青空と言うより、濃紺の何処ま
でも深い、深い、何処までも広がる無限を感じさせる色です。
 
アルゼンチンのサルタ州で南回帰線から100kmも中に入った場所
でしたが、インジオに連れられて、ぽっかりと開けた小高い丘の頂上
から眺めた雨上がりの空の濃紺の色が今でもこの目に浮かびます。
 
かれこれ50年近く昔ですが、その当時、アルゼンチンのサルタ州な
どはでは農業と僅かに産出される石油とサトウキビ畑の中に立つ製糖
工場ぐらいが目立つ産業でした。
 
そしてその時、私を案内してくれたインジオが話していた言葉を思い
出します。『今では雨上がりの晴れた空しか濃紺の輝く青空の色がな
いが、昔は毎日眺める事が出来た・・』と話していました。
 
そして地球の丸みさえ感じる地平線まで続くジャングルの緑と、濃紺
の青空が太古の昔から、その場所から眺められていたと言う感動が心
の奥から、その時湧いて来ました。
今では晴れた青空も白いもやの感じが漂う空ですが、私が生涯で最高
の濃紺の青空は、雨上がりのサルタ州で見た空と、チバイ峡谷の峠か
ら見上げた濃紺の空の色が、心に焼き付いた壁紙のように感じます。

2014年8月8日金曜日

私の還暦過去帳(548)



第2話、アメリカ歯医者のぼったくり、

私の歯が健康なので余り問題も無く過ごしていますが、ある日
ワイフが『せっかく歯の保険料を払っているのだから、どこか別
の歯医者を探して歯のクリニングだけでも行ったら・・』と
来ました。
そこで調べたら最近移転開業して、近所に歯科医を開業した日系
人が居る事が分りました。
私とワイフの固定観念で、『ホー!これは珍しい事だ、日系人の
新規開業は滅多にこの辺りでは無いから・・』と考えて、調べて
見ましたら、ほどほどのコメントが書いてあり、日系三世だと言う
事も分りました。
そこで試しに予約を入れると、予約が簡単に直ぐに取れました。
そこで近所ですから、ふと考えたのですが、昔にそこの辺りに1軒
歯科医が開業していたと思い、出かけると私の予想が当たりでした。

おそらく引退したか、亡くなったかで、少しばかり閉めていた歯科
医の病院でしたが改装工事で、中はかなり雑多に散らばっている感
じでしたが、中はかなり古色まみれの古い器具が並んで、半世紀も
昔の骨董的な歯科医の椅子も残っていました。

受付に新規患者の登録もして受付けのおばさんと話すと、フイリッ
ピン系だと感じました。待合室に居た患者もその様な感じの人で、
受付のおばさんとタガログ語で話していました。
私は日系の医者だと言う事で、かなり頭から信用していたので、何か
不安な感じが湧いて来ました。

ひょっとすると、前の歯医者がフイリッピン系でその患者を引き継
いだかと感じていましたが、前にインターネットの書き込み欄では
間違いなく日系の名前で、経歴も少し書いてありましたので、日系人
と信じていました。
我々にはその程度の思いしかありませんが、昔の一世や二世達が教
えてくれた事がありますが、三世となり日本語も話せない世代は、
白人と同じ感覚しか無いからと注意を受けていました。

確かに診察が始まると、まるで前回の韓国系の歯医者とまったく変わ
りません、痩せて貧相でしたので、何か感じまで貧相な物言いでした。

その歯医者も、半分ずつ2回に分けてクリニングをするという事で、
何か歯にレントゲン撮影の結果が悪く出ていると言う事で、その注射
が2回、一回50ドルと言う事で、貴方の歯が少し汚れていると言う
事で、歯のクリニングが250ドルとか言います。
これには私も驚いてしまい、口をあんぐり開けてびっくりしていました。

診察室には助手もいなく、全部医者だけで診察をこなしているので、そ
の鈍い事にはうんざりでした。それにしてもまだ引越し中で、週に3回
しか開業出来ないという事でしたが、中の診察室はプラスチックの覆い
のカバーをして半分工事しながらの診察ですから、まったくこれが診察
室かと感じていました。

日系の名前に騙された感じの歯医者でしたが、昔の一世達の話していた
事が本当だったと感じていました。
一応診察が済むまでじっくりと観察していましたが、態度も貧相な感じ
で、それが直に感じるくらい、セコセコとした感じを受けていました。
昔の古い歯科医療器械が残り、改修工事を終わったら新品を入れると
話なしていましたが、それにしても期待外れでした。

良くこんな歯医者が開業できると感じていましたが、診察カルテの棚に
沢山、患者達のカルテが並んでいたのを見て、前の歯科医から引き継い
だ事が分りました。

帰りに次の予約カードを出すから少し待ってくれと言いますので、事務
のおばさんに、もう来ないから要らないと言うと、何かその顔には、
貴方も来ないのかー!と言う事が書いてある感じでした。

それにしてもアメリカでは歯医者選びは難しいと感じます。
でも会って、見て、話してみなければ分らないと思いますので、また暇が
あれば探して予約を入れて、私の医者選びの選考会を開くつもりでいます
が、先日、娘から子供の学校送り迎えで、愛犬のチワワの歯が老齢で悪く、
犬の歯医者で2本抜歯するので連れて行く様に頼まれましたが、その値段
が人間様と同じ、800ドルもするとか言うので、これまた驚いていま
した。お犬様ですが、家族同様に生活しているので致し方ありません。

アメリカも世知辛い世の中だと、つくずく感じました。

2014年8月4日月曜日

私の還暦過去帳(547)

 
アメリカ歯医者のぼったくり、

アメリカに住んで40年近い間に、何度か歯医者に世話になりま
したが、かれこれ35年近くは、台湾から移住してきた歯医者で
した。彼は長く私達家族の保険医者として。歯の手入れと治療を
してくれました。

周りの東洋系の知り合いも大勢の人が彼が開業していた歯科医院
に診察に来ていましたので、よく歯科医の話などがあれば、貴方
も通っているのかと言うぐらいでした。

それが残念な事に、65歳の政府老齢健康保険になると、歯医者
の保険系列が違い、そこの診察が出来なくなりました。
保険無しで勿論の事に予約して診察は幾らでも出来ますが、少し
重要な、治療となれば保険無しですと、倍の支払いになります。
 
と言う事が私の歯医者のトラブルの原点となりました。
まずは保険が利く歯医者の選定です。
保険会社からのガイドブックを見ながら、良さそうな、近くの歯
医者で、他の患者のコメントなどの書き込みなどを参考にして、
まずは電話して、新たに新規の保険適用の患者を取るか聞きます。
 
最初はアジア系で、経験が余り無いのですが、東洋系だったら、
まず大きく期待から外れると言う事は無いと考えて、診察に予約
を入れて行きましたが、中国系かと感じていましたが、診察に行
くと、私の期待に反して中国系ではなく、韓国系でした。
 
歯科医の受付は全部、ヒスパニックで、がらの悪い感じの若い女性
がいました。そして話し出すと生意気で、まずは最初はこのくらい
の初診料と診察代が必要と話して来ました。
まずは出鼻から、金・金と言う事で、保険など何も関係ない感じで
したが、二名ばかり居た助手の若い女性もヒスパニックで、見回す
と待合室に並んでいる患者の全部がヒスパニック系でした。
 
これは間違った歯医者を選択したと後悔いたしましたが、予約して
いたので、直ぐに呼ばれて椅子に座り、出て来た韓国系の歯医者に
今日は歯のクリニングに来たと言うと、訛りの酷い英語で、当院で
は初診の患者は、まずこれだけの診察をしなければクリニングは
出来ないという話でした。
それも片方ずつ、半分だけで、歯の保険がカバーする無料の診察と
クリニングは2回だけですから、私が長年通っていた歯医者の所と
まったく違う診察でした。1回の全部の歯のクリニングで保険対象
が全部消えて行きます。
歯は年に2回、6ヶ月おきにクリニングすれば歯石も溜まらず、健
康で丈夫な歯を保つ事が出来ると聞かされていましたので、後の
半分は一回125ドルとかで、2回も診察を受ければ250ドルも
余分な金を歯のクリニング出さなければなりません。
 
それではと椅子に座って待っていた私は、患者の診察も隣で、掛け持
ちで助手の女性2名と交互に別の患者を見ていたので、これはとー!
韓国系の医者に、これでは保険など何も意味が無いからと言うと、
立ち上がり、ひざ掛けやその他の物を退かして、貴方の診察は辞退
するからと言うと、さっさと受付に行くと『二度と来ないから私の
ファイルは破棄しておいて・・』と言うと出口に歩き出すと、受付
のヒスパニックの女性が追い駆けて来て、『あんたの歯は直ぐに
ボロボロに傷むから・・』とか言いますので、『そんなことは貴方
が心配する事では無いよ・・』と言うと、スタスタと出口を後にしま
したが、韓国系の医者が白衣のまま出て来たので、『昔からの歯医者
に保険無しで行っても、一回75ドルで、全部の歯のクリニングをし
てくれるから何も心配ない・・・』と言い捨てて出て来ました。
 
最後に振り返ってみると、マスクを外した医者が目を丸くして、私を
見詰めて居たのを覚えています。
それにしてもアメリカの歯医者は儲かるものだと思います。
私が引退前の不動産管理の仕事で、売り出された邸宅の管理を登記が
全部済むまで預かっていた事がありますが、そこのオーナーが話して
居た事を思い出します。
『この父が所有していた500坪も敷地がある邸宅の販売で、買い入れ
申し込みの三名が全部歯医者だった』と驚いていました。
その邸宅は場所もよく、高級住宅街で滅多に売りに出る物件が少ない所
で、内部の装飾には貴重なマホガニーの材木が使われ、全部住宅は今
では滅多に使われない、全部がレッドウッドの杉材で、特注文住宅で
した。
結局は三人の歯医者達の競争入札でしたが、売値より少しばかり高く、
現金でオファーした歯医者が落とした様でした。
オーナーの息子はこんな広い敷地と、邸宅は私には必要ないが、それに
してもアメリカの歯医者は何を考えて、ミリオンダラーもする邸宅に
固守するのか、金を儲けてそのシンボルとして、手に入れるのかも知れ
ないと話していたことを覚えています。