2014年8月18日月曜日

私の還暦過去帳(552)

 
 
戦争花嫁とか言う言葉があります。

この戦後に新しく作られた言葉ですが、終戦と同時に連合国の
将兵達が日本に進駐して来ました。
そこで各地の駐留軍キャンプの基地や、周辺の歓楽街などの、
施設に来ていた連合国将兵達と出会い、恋愛して、アメリカや
カナダ、オーストラリアなど、遠くは英国まで結婚して行った
方々が居ます。
その後、朝鮮戦争や、ベトナム戦争などでも、連合国兵士とし
て、アメリカ兵士として日本に滞在して、または任務で駐留し
ていた兵士達と知り合い、恋が芽生えて結婚して、兵士達の母
国に同伴されて行きました。
私が最初にお会いして話した事は、1964年の横浜から出航
して、ロサンゼルス経由で南米にパナマ運河を通過して行く移
民船に同乗されていた人でした。
そのご婦人は日本に居る両親の健康問題で、見舞いに日本に
帰国していた様でした。
その方と船上の娯楽室でお茶でも飲みながら話したのですが、
カリフォルニア州でも多くのGIと結婚した女性が軍港のサンデ
イエゴなどやロサンゼルスにも居ると話していました。
彼女が教えてくれた事で、一番気になって居た事が分りました。
中学生ぐらいの男の子供が、かなりガキ大将で移住者達の子供
などデッキゴルフなどの遊び場で、いじめていたのを見ていたから
でした。
彼女が教えてくれた事は、両親が離婚して母親は日本に帰国して
父親がその後再婚した後妻とで住んでいたようですが、夏休みの
2ヶ月は日本に居る母親を訪ねて行くと聞きました。
情緒が不安定で、なんとなく粗暴な感じを受けたのですが、その
話してくれた女性も、自分の子供を一人連れていましたが、その女
の子はおとなしく、いつも涼しい子供達が居る遊戯室で同じ年齢の
子供達と遊んでいました。

彼女が話していた事は、離婚が多くて、かなり可愛そうな子供達が
居ると言っていました。あの子も親の犠牲者だと話していました
が、今でもその中学生ぐらいで、体格の良い混血の男の子を思い
出します。
ロサンゼルスに船が到着してアメリカで下船する方々が別れて、
タラップを降りて行く時に、迎えに来ている人と抱き合いハグを
して喜んでいる姿を見ると何かホッとした心になりました。

私もアメリカに移住して来て、40年近い歳月を過ごしましたが、
これまでに幾多のその様な方々に出会いましたが、一番に驚いた
のは、戦前の日本にロシア革命の時に家族で亡命して来て、横浜
に住んでいたと言う白系ロシア人でしたが、サンフランシスコで
会った人ですが、日本語はペラペラで、読み書きも出来る人でし
たが、戦後、横浜に駐留して来たGIの兵士と結婚して、移住して
来た方でした。
中年近い年齢でしたが、さらりと私も戦争花嫁よ・・、と話して、
笑っていました。
私もその方と話して、その方の運命の変遷に驚いていました。

アメリカでは結婚した男女の5人の3人までは年齢的に55歳まで
離婚すると言われていますが、不動産管理で訪れたレントハウスの
テナントが日本人の母親と娘三人の母子家庭でした。
父親がベトナム戦争当時、フイリッピンに駐留していた時に現地の
女性と出来てしまい、離婚したと話していました。

男手が無いので、修理が出来ないと言う事で、簡単な大工仕事をし
て帰りましたが、娘達3人がしっかりして手助けしてくれるので、心配
はないと話していました。帰りに『貴方の奥さんは日本人?』と
聞かれたので、『美味しい味噌汁を作る日本人です』と言うと、
ニッコリ笑って『それは良かったですね・・、』と言ってくれました。

アメリカ人の白人の奥さんと結婚して、苦労している男性も見ましたが、
しかし、結婚までの物語や経歴があるのかも知りませんが、語学が達
者な男性でしたが、奥さんは納豆もサンマの塩焼きも食べる、日本食
大好きな女性だと言う事でしたが、体格が良くて、ご主人の倍はある
女性で日本で言う通称、ノミの夫婦でした。
こんなカップルは戦争花嫁とは言いませんが、私が勝手に付けた名前
ですが、『戦争花婿』と言う名前でした。
 
アメリカに住んでいると色々な方々にお会いしますが、近頃は白人の
ご主人に先立たれて、一人でシニア・アパートに住んでいる人や、帰国
して余生は日本に居る兄弟達の近くに住むという方々もいますが、そん
な方は子供が居ない人が多いと感じます。
 
戦後60年も経て、永い月日に流されてたどり着いた行き先が、生まれ育
った故郷である人も少なくはありません。

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